今年の京都SFフェスティバルは、10月6日(土)〜10月7日(日)、いつもと同様に本会は京都教育文化センター、合宿は旅館さわや本店で開催された。本会の午前の部には「SFファンのための実験映画in京都「狂った一頁」上映」があったが、ぼくはちょっとバタバタしていたので、午前の部は参加せず、午後からの参加となった。
このごろは会場の写真を撮ってサイトに掲載するというのも勝手にはできないので、受付で事前に申請し、「報道」用の名札をもらう。というわけで以下の写真は一応許可済みのものとなります。
午後の部、最初の企画は「キャラクターが導く未来社会」。ぼくが会場に着いたのは1時30分ごろで、すでに企画が始まって10分くらい過ぎていた。このパネルは新城カズマ、山本弘、榊一郎、長谷敏司という、ライトノベルも書いている作家さんたちによるパネルだが、ほとんど新城さんと山本さんがしゃべっていて、時々榊さんが語り、最後に長谷さんが一言二言で締めるという感じで進む(あくまで印象です)。
聞き始めた時の話題は初音ミク現象。ここには従来の「キャラクター」とは違ったものがあるという話。ミクはあらかじめ作り上げられた物語や属性の上に成り立つキャラクターではなく、それがミクと認識さえできれば見かけや姿は何でも良い、どんなものでもOKだという。オーディエンスによって共同作業として作り上げていく(しかも一つに固定されない)ものなのだ。ミクには実体が何もない。物語(ストーリー)はなく、各P(プロデューサー)がそれぞれ好き勝手に作り上げることができる。互いに矛盾していても問題ない。
他に仕事をもつアマチュアたちが無償のボランティアとして無数にネットにアップするミクたち。もはやそれで生活を立てるプロフェッショナルは必要ないのか。無数のミクたちの中には素晴らしいものもあれば大量の駄作もある。だがキャラクターのオーディションをしているのだと思えばそれで正解なのだ。いわゆる「評価社会」がそこにある。駄作の中から傑作を選ぶコストは(例えばニコ動のマイリスト数のように)、発表された後からみんなが負担している。事前にプロ同士で編集して完成品を提供するのではなく、評価・選択は発表された後で行われる。
そんなSNS的な世界が描写されたSFが過去にあったかという話で、山本さんがラインスターの「ジョーという名のロジック」を挙げる(このあたりは山本さんのお得意のところだなあ)。確かに今のネット社会を予言したような(1946年の作品だよ!)話だ。でもネットに個人が情報をアップロードするところまでは想像できなかった。
まあ『ニューロマンサー』でもEメールはせずみんな電話していたしね、と新城さん。その辺から自分の執筆中の作品にからんで、山本さんが10年後のような近未来の描写がとても難しいという話をする。果たしてそのころのPCはどうなっているのか。榊さんは昔アニメの脚本にiPhoneと同じようなものを書いたら没にされて、結局ガラケーに変更されたことがあるとのこと。
続いて10年後に人型ロボットがどうなっているかという話。ルンバのように人型じゃなくても感情移入はできる。人型は費用が無駄にかかるので、危険な事故現場や介護のような分野しか生き残らないのでは、と新城さん。会話・コミュニケーションが重要で、いわばエージェントのキャラクタ化が進む。実は『BEATLESS』も同じようなテーマを扱っていると長谷さん。榊さんはラノベでは中高生に好かれるキャラクターを作ることが大事なので、人間らしさを重視すると語る。
そこで人間らしさとは、とチューリングテストの話にうつる。コンピュータが変な人の真似をしたらどうなるか、逆に人間がどこまでコンピュータの真似をできるか。チェスのチャンピオンにディープ・ブルーが勝ったのは実はバグのせいだった。思いもかけない手が出てきたのでチャンピオンは同動揺して、ものすごい深い作戦があるのではと勘違いしたことが敗因だったという最近の話題から、それってシェクリイの「千日手」の逆であり、結局キャラクターへの感情移入というのは見ている側の問題である、と山本さん。哲学的ゾンビにも関わる話題だ。
新城さんは石原藤夫『SFロボット学入門』を読み返して色々と発見があったと話す。人は機械に知性を求めるが、逆に知性は低いがとてもいい奴、可愛い奴がいたらどうか。それってペットみたいなものか。山本さんは、人間は寂しいので共にいる者を作ろうとする。親を作ったら神になった。親離れし、また孤独になって友達が欲しくなった(それがロボットだ)という。
そこから今度は19世紀のSFではみんな人造美人を作ろうとしていたという話に。新城さんは、メイド萌えの元祖にして最強なのは、哲学者のキルケゴールだと話はじめる。キルケゴールはデンマークのメイドこそ最強で(会場ではスウェーデンといってたような気もするが、『誘惑者の日記』によればデンマークですね)、メイド服のメイドに武器を持たせて軍隊をつくるべきと主張したそうだ。この話に会場は大受け。
話はまたキャラクター論に戻って、未来のアイドルやコンパニオンはみんな非実在が主流になる。キャラクターさえあれば物語はいらず、物語はあくまでオプション扱いとなる、との話。榊さんは結局クリエータは(キャラクターの)プロデューサーとなるのかもという。キャラクターは聴衆の「好意」を求める。好意に向けて人々を誘導する。つまり、愛着による動員。
話題はあちこちに飛びまくったが、とても面白く、大盛況のパネルだった。
午後の部、二つ目の企画は「貴方の知らないR・A・ラファティの世界」。牧眞司が司会で、井上央、柳下毅一郎の出演だ。井上くんは神戸大学SF研の後輩。久しぶりに会ったが、ずいぶん髪の毛が後退していた(当たり前か)。
本来、今年の京フェスではラファティの翻訳が何冊も揃っているはずだったのだが、結局一冊も出なかった。ハヤカワのは最速で10月末とのことだがみな半信半疑。一番確実な青心社は来年の春。国書刊行会にいたってはいつになることやら誰にもわからない。
みんなのラファティとのなれそめから。井上くんは浪人時代にメリルの傑作選で「恐怖の七日間(七日間の恐怖)」を知ったことから。SF研では「ブリキ缶に乗って」を訳した。柳下さんも同じく「恐怖の七日間」が初めてのラファティで、BooksInprintでラファティの原書タイトルを探しては生協に注文したとのこと。
ラファティにはSFの枠組みから入ったが、読むうちにそこから外れていく。SFMのラファティ特集ではマッドSFと紹介され、そんな印象が流布したが、一見マッドに見えるが全然マッドじゃない。伊藤・浅倉の紹介では、ユーモア小説のくくりで語られつつも「わからない」とも書かれていた。そもそも発想がわからない。落ちていく先もわからない。小出版社から出る作品は本当にわからない。結局われわれはフレデリック・ポール、デーモン・ナイト、テリー・カー、そしてメリルや伊藤・浅倉の選んだフィルターを通してしかラファティを知らなかったのだろう。
牧眞司はボルヘス、カルビーノ、ラファティを挙げて、タイプは違うが知性の作家たちだという。ボルヘスは(レムもそうだが、と柳下)分類と整理の知性、カルビーノはエレガントさ、そしてラファティは土着的というが、むしろ百科全書的・系統的ではない、ラファティにだけアクセスできる別の分類システムを持つ、膨大な知識の持ち主だという。
「貴方の知らないラファティ」というが、知っているラファティのひとつのイメージとして、伊藤さんがアメリカへ行ってラファティと会った時のSFMに載った記事がある。ここでラファティは酔っぱらいで天然なおじさんというイメージが定着した。だが実際のラファティは膨大な知識のデータベースを頭に収めており、実際に会った印象はデリケートなインテリというものだ。
井上はラファティの作品にはSFと同じセンス・オブ・ワンダーがあるという。ラファティは基本的にSFが好きなのだが、実際に書かれたSFには幻滅しており、「SFの最良の部分は雑誌の表紙である(作品ではない)」とも言っている。ウエルズやベルヌのころが良かったとも。「新しいものには新しい発想で」という考えを否定しており、(牧眞司いわく、チェスタートンのように)進歩という思想を否定しているのだ。新しい発想(と称するもの)を作って粋がっている若者たち(=SFファン)を生暖かく見守る古い賢者といったところだ。またカトリック信者であることから(井上はプロテスタントに入信し、柳下は自身は信者ではないがプロテスタントの家庭に育った)、ラファティにはキリスト教の全体的な観点が含まれており、それは日本人がキリスト教といって連想するプロテスタント的なものとは違っている(人間中心的ではなく、秘教的側面がある)とのことだ。それは理性とは別の思考である。
最後に二人が訳した新刊予定の話。井上の『蛇の卵』は詩情に満ちた話で、スーパー・ガキ11人対カンガルーの物語。ラファティのテーマの集大成であり、終末論に関する話でもあるとのこと。柳下の『第四の館』はカトリック小説といってよく、柳下によれば、ほら吹きおじさんではないラファティの、『パーストマスター』と並ぶ最高傑作だそうだ。
最後の本会企画は『ゴースト・オブ・ユートピア』を上奏した「樺山三英インタビュー」。司会は大森望。いきなり『ジャン=ジャックの自意識の場合』はどこがSFなのかという話から始まる。樺山さんは円城塔、伊藤計劃と同じ2007年デビューで、その3人を全部原稿から読んでいるというのが大森さんの自慢とか。
円城塔との共通点として「よくわからない」!
雑誌ログアウトを読むゲーム好きの少年だったそうだ。18,19の頃は村上春樹を読み、海外文学を読む中でディックやバラード、ヴォネガットも読んだが、SFとは意識していなかった。東浩紀の事務所で働き、「君は文芸誌的な価値観に染まりすぎだ」といわれて、現代SFも読むようになった。エリクスンを読んで、歴史と思想の関わりを面白く読んだ。テクノロジーにはあまり興味はないが、科学思想的なものは面白い。とにかく制約がなく何でも自由に書けるのはSFだ。大森は、それが文系日本SFの流れだという。
ハヤカワが立ち上げた「想像力の文学」は、読者のいないところに立ち上がってしまったレーベルで、SF読者はついて来なかった。ところが文学の読者もやっぱり買わない。一方「Jコレクション」であれば、少々変な作品でもSF読者は買ってくれるという。
それからガガガ文庫の「挑訳」シリーズの話。この言葉は小学館の編集者が自信をもってつけたのだが、挑訳とつくと売れないので今では外しているそうだ。樺山さんは『ハムレット・シンドローム』で久生十蘭をリメーク。女性キャラを3人以上出すようにといった制約はあったが面白かったという。
『ゴースト・オブ・ユートピア』では『華氏451』が序文であったり、様々なスタイルで描かれているが、欧米ものが多いのは、ユートピアというものは欧米的なおかしな情念がないと作れないように思うからだとのこと。東洋的なユートピアは桃源郷だったり竹林の賢人だったり、何も考えないのが良いというイメージがある。そういうものと違う東洋のユートピア思想として石原完爾があったという。
書物への興味から歴史小説的なものへと発展し、今はSFマガジンへ大杉栄を書いている。また『屍者の帝国』の感想として、屍者のリソース化がどう現代へ続いていくかを期待していたという。フランケンシュタインのように、興味を持つ題材は自分と似ているが、関心の持ち方は違うとのことだった。
本会の後はいつものように大森さん中心に十両へ移動する。1階をほぼ占領。今日はカンパチのお造り。この前から少し量は減ったように思うがそれでもすごい量だ。
食後さわやへ移動すると、さわやが何とリフォームされている。大きく変わったわけではないがトイレや洗面所など水回りがとてもきれいになっていた。大広間も少し変わっている。オープニングは例年通り小浜による参加者紹介。『青い脂』の訳者の松下さんが、おかげさまで重版が決まったと挨拶。ぼくは発売直前の『パヴァーヌ』を宣伝。ディーラーズ(といっても大広間の片隅に机を並べただけだが)で「SFファンジン」やアレステア・レナルズ『武道館にて』、しずおかSFの評論集などを買う。
大広間でのサイン会 |
創元SF短篇賞の人々 |
合宿の部、最初は細井威男くんの「2012年翻訳SF総括」へ。今年9月までに出た新刊翻訳SFの個人的ベストと、無理に読まなくていい本などを総括し、SFベスト選びのガイドとして役立ててもらうという素晴らしく便利な企画だ。『都市と都市』がベスト1だったと思う。『第六ポンプ』、『青い脂』、『連環宇宙』、『極北』、『居心地の悪い部屋』、『ロスト・シング』、『サイバラバード・デイズ』、『シップブレイカー』、『ブラックアウト』、その他『乱視読者のSF講義』、『ニンジャスレイヤー』、『マイクロワールド』、『トータルリコール』など。
パラノーマルロマンスだが、『恋はタイムマシンに乗って』と『星のかけらを奏でて』が面白いそうな。ただし、面白かったがメモを取らなかったので内容は忘れてしまった。細井くん作成のパワーポイントがネットで公開されるとのこと。ところがそのパワポが一時間ほどで作ったそうで、ケアレスミスが多く、ニンジャスレイヤーがショー・タン作となっていたりして笑いを誘っていた。
『青い脂』漫画化なら榎本俊二というのが印象に残っている。納得する人多し。ミリタリーSFはジャック・キャンベルを読めとのこと。
次は「ラファティ部屋」へ。らっぱ亭さんと魚さんが主催で、昼の部の井上、柳下、牧がラファティについて語る部屋だ。水鏡子もいた。まずはネットで投票をもらったラファティの3冊アンケートについて集計結果。1位は「町かどの穴」、2位は「その町の名は?」、3位は「日の当たるジニー」という結果だった。ラファティはどの3冊をとっても傑作だというのが結論みたい。水鏡子が話だしたころで睡魔が襲って、半分寝ていた。ごめんなさい。
最後に大森望、小浜哲也が司会する「SFアンソロジーの部屋」へ。創元SF短篇賞の酉島伝法、オキシタケヒコ、理山貞二の3人は、かつての小林泰三、北野勇作、田中啓文、牧野修のまんがカルテットみたいな位置づけになってきた気がする。他に評論家チームもいる。京大SF研出身の伴名練も顔出しした。
しかし、若間夏樹さん(だと思う)がPCで並べた年刊日本SF傑作選の候補作リストがすごい。SF誌はもちろん文芸誌、マンガ、膨大な作品リストでしかも全部読んでいるという。面白そうな作品が多く、アンソロジーが出たらぜひ読みたい。
2時すぎに寝部屋へ行くがどこもいっぱい。でも空いている布団があったので、着替えずにそのままもぐりこむ。
朝はいつものように7時前に目が覚める。大広間でぐだぐだとクロージングを待ち、8時半くらいには外へ。みんなと鴨川ぞいに三条へと歩く。どうせからふね屋はいっぱいだろうから、去年と同じ市役所前のHolly's
Caffeへ。創元短篇賞の3人組ら、前に出た一団も同じ店にいた。店員は一人だけで、時間はかかるが、順次てきぱきと注文をさばいている。とても立派だ。
うだうだと話をして、10時ごろには解散。京都で新刊書を買って帰ろうかと思っていたのだが、河原町あたりにはまともな本屋がなくなってしまったので、梅田へ出た方がいいとのことだった。でも疲れたので梅田では降りずにそのまま12時前に帰宅。
今年もいつもながらの楽しい京フェスを堪能しました。実行委員長はじめ、スタッフのみんな、ありがとうございました。また来年もよろしくね。
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京都SFフェスティバル2011レポート (大野万紀)
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