岡本家記録とは別の話(Kyofes2003篇)

岡本家記録(Web版)(読書日記)もご参照ください。11月は『記憶汚染』、『乙女軍曹ピュセル・アン・フラジャーイル』、『零戦の勇士 新たなる大戦』、『星の綿毛』、『イリヤの空 UFOの夏』、『神は沈黙せず』などを収録。

 ということで、ここでは上記に書かれていない記録を書くことになります。本編は読書日記なので、それ以外の雑記関係をこちらにまわしてみることにしました。

京都SFフェスティバル2003

 

 プログラムの詳細はこちらをご覧ください。今年は静止画のみを掲載。世界唯一を謳い動画レポートを上げてはや3年だったか、MPEG4もようやくブロードバンドの普及とともに一般化しつつありますが、まだ見るに耐える画像とはいえず、筆者のカメラも老朽化したため今年は動かない絵です。写真屋(カメラメーカ)さんは、MPEG4の絵などビデオ/フォトの絵じゃないと相手にしてこなかったこともあり、カメラでまともにMPEG4を追求しているメーカは非常に少ないのが現状です。ただ、モバイル地上波デジタル系はH.264(MPEG4の画質向上版)になりそうなので、これからはこのフォーマットのカメラも増えるでしょう。うーんといっても、携帯端末向けのデジタル放送開始はまだ2年後ですね。来年はまだ静止画か。

テッド・チャンその他の世界

 上記京都SFフェスティバルでは、テッド・チャンの部屋でさまざまな意見が戦わされていたようです。筆者はその終わりぐらいをちょっと聞いただけなので、ちょっとだけの言及をします。
 まず、「テッド・チャン『あなたの人生の物語』は一般小説/ミステリとして売れるか」では、小林泰三が自身の『家に棲むもの』と、『目を擦る女』を引き合いに出して、ほとんど同じ内容の作品集の一方をホラー、一方をSFで売ると、はるかに前者のほうが売れ行きが良いから、テッド・チャンも同じではないかと問題定義。しかし、大野万紀説、チャンの魅力は作品中の数式や物理法則という、SFでしか書けない(書かせてもらえない)部分に負っている、そもそもSF以外では出版不可能との指摘も頷けます。一方、古沢嘉通は逆に、メインアイデアの傍流にある人間心理の巧みさは万人に理解できる(アイデアは符牒だと思えば気にならない)、チャンの魅力はそこにあるという主張(たぶん)。
 ふーむ。確かに晶文社ミステリ河出の奇想コレクションが出て、マイナーなジェラルド・カーシュが受け入れられている現状を見ると、小説としての完成度が高いチャンも受けるように思えます。ただ、チャンの書き方は幅広い読者を想定した大衆小説的なものではありません。誰が読んでも楽しめるかといえば、そうではないでしょうし、そもそも作者自身そのような売り方は望んでいないような気がします。やはり、作者が読者を意識して、しかも(同じアイデアでも)長編を書くべきでしょう。短編のSF的なアイデアを(理屈ぬきで)直感的に理解できるのは、どうしてもマニアックな読者に限られるように思います。

 先々回に、「ここにきてアウタースペース派(野尻抱介や小川一水)と、インナースペース派(イーガン、チャン)の並立という、60年代の再来が起こっている」という記載をしたことについて、いくつかの誤解があるようなので補足すると、
 まず、バラードが「内宇宙への道はどちらか」(1962)で、文学やシュールレアリズム、純文学的心理描写への志向を宣言したと思っている人が多いのですが、これは解釈の誤りで、そんなことはどこにも書かれていません。バラードのいう「内宇宙」というのは、「メタ生物学/メタ化学/タイムゾーン/ディープタイム/アーキサイキック(原始精神)・タイム/人工的時空間」(同エッセイより)を目指しているので、これってまさしく人間の精神や電脳空間を描くイーガン/チャン的小説に近いわけですね。一方のアウタースペースについては、大衆の飽きっぽさからいって、月着陸以降の宇宙熱は直ぐに冷めてしまうから、SFはそこから離れなければ旧弊化すると説いているだけです。そもそも宇宙もの自体を断罪しているわけではありません。
 バラードが予言者めいているのは、宇宙開発に対する大衆の反応が、まさに予測通りだった点でしょう。また、真のインナースペース派が姿を見せた点も、40年前の予言どおり。まあしかし、バラードの言葉も預言(神託)ではないのですから、これを超えるためには、やはり新しいアウタースペースものを開拓していく必要があるでしょう。それが野尻/小川といった新しいSFの書き手の役割であるわけで、まだ誰も見たことがない宇宙(現実だけに依存しない宇宙)を感じさせてくれるSFが、新しい宇宙作家への期待ではないかと思われます。

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