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2011 Best SF Winner 奇跡なす者たち
ヴァンスの魅力を十全に伝えてくれるコレクションだ。印象に残るのはやはりカラフルな「フィルスクの陶匠」や「月の蛾」だけれど、その他の小品も愉しく読める。「保護色」なんて単純なエスカレーションしかないけれど、主人公の選びつづける選択枝が普通じゃない、最後にスパイの女を選ぶなんて今の作家だって滅多にしない選択だろう。そして表題作と有名な「最後の城」はとてもノヴェラとは思えない豊かな世界を現出させて読み手を堪能させる。大枠は平凡なのに話の造りと描写が非凡なのだ(津田)
合戦ものも、殺伐としてはおらず、何しろ爛熟した文化の末裔たちと、人間ではない大軍団との戦いで、明らかに人間側が分が悪いにもかかわらず、のんびり〈古代衣装披露会〉を楽しんだりしているのだ。デカダンな雰囲気に満ちているが、その中に未来を、変化を望む若者や探求者がいて、ほっとさせられる。ジョージ・R・R・マーティンにしろ、ダン・シモンズにしろ、ヴァンスに傾倒する作家たちが多いのも頷かされる、傑作短編集である(大野)
これらは50年から60年代初め(優に半世紀前)に書かれた作品である。そのため、SF的な仕掛け自体は古めかしいものが多い。しかし、ヴァンスが描くのはアイデアだけではないのである。煌びやかな情景や、細部の肌理細かさこそがポイントだ。今読んでも、その点の新鮮さは少しも損なわれていない。例えば、「フィルスク…」の陶器の描写や、「月の蛾」の楽器に対する薀蓄は、他の作家に見られない特徴だろう。「奇跡なす者たち」と「最後の城」などは、同じアイデアで書かれているのに、ずいぶん印象が違う。小道具や人物描写を変え、前者はユーモラスに、後者は華麗にと、力技で描き分けた結果である(岡本) |
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第2位(同率) エステルハージ博士の事件簿
ほとんど悶絶ものの代物。『どんがらがん』も凄かったけれど、これはそれに勝るとも劣らない。どこまで行っていたのか、デイヴィッドスンは。短編一つ一つがどんどん深化していくように見えるのに、書かれた時期は皆同じらしい。なんか魔法みたい(津田)
奇想小説と呼ぶに相応しい作品だが、異国情緒とノスタルジアと、微妙なユーモア感覚が相まって、読み出したら止まらない。ほんのりと温かい、幸福な読後感を味わうことが出来た。(中略)登場人物たちも、いかにも帝国の庶民たちという愉快な人物が多くて、喜劇としても楽しい。偉大な国王もちょっとボケているし。彼の登場する最後のエピソードなど、哀愁があって、何とも言えない味わいがある。堪能した(大野)
まさに「異文化」との遭遇に近い体験だ。本書はそういう意味で、いわゆるミステリでもなく、多くのファンタジイとも違う。トールキンでも、その物語の中に現実とのアナロジイは残していたのだが、本書に中欧オーストリア・ハンガリー二重帝国との類似点があるかといえば、おそらくほとんどないだろう。ストレンジ・フィクションとか、奇想コレクションとかの名称は、まさにデイヴィッドスンにこそ相応しい(岡本) |
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第2位(同率) スティーヴ・フィーヴァー
テーマが前の2編ほど限定的でないこともあって、作品選びに苦労した形跡が窺えるラインナップ。作品本意とも言えるけど。それもあってか各作品の印象はバラバラ。日本SFベスト集成の作品群を読んだ後だから余計そう感じたというのもあるかな。何しろ時代や国籍、人種、性別がずっと広範囲な上に、どう見たって日本人の発想で書かれていないからなあ(津田)
やっぱりこの手のSFが好みだな。SFマガジン創刊50周年アンソロジーの第三弾は〈人類の未来、変容する未来〉というテーマのポストヒューマンSF傑作選。グレッグ・イーガンの表題作やブリン、オールディス、ソウヤーなど12編が収録されている。(中略)巻末のオールディス「見せかけの生命」はちょっと雰囲気が違うのだけれど、いかにもオールディスの遠未来SFだ。正直、ぐっとくる。浅倉訳のオールディスというだけで、もうそれだけでオーケーだ。ちょっと古めかしいところもあるのだが、オーケーです(大野)
本書は問題意識の連続で成り立っている。ポストヒューマンに至る過程で、人類は外見以上に精神の奥底が変わってしまう=それは、肉体の変貌と同時に作用する。イーガンに指摘されるまでもなく、過去から多くのSFが語ってきたこのテーマを俯瞰する意味で、本書には重要な価値があるだろう(岡本) |
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第2位(同率) 星の光、いまは遠く
いまやエンターテインメント小説の大家として揺るぎない地位を確立したマーティンだが、60年代後半に20歳を迎えたマーティンが、その時代のナイーブさを抱えたまま30歳を間近にしていた時期に完成させた処女長編は、初期マーティンの魅力の集大成になっている。振られた女の尻を追いかけるだけの主人公のダメ男ぶりばかりが目立つ前半だけれど、銀河辺境を星のない空間に向かって去りつつある「祭りが終わった後の」放浪惑星とその黄昏れた文明の消え残りという舞台そのものが、一種甘やかされたロマンティックな孤独感を醸しだしている。これこそ当時のマーティンの魅力なのだ(津田)
とにかく主人公のダークがいかにも70年代風なダメ男で、痛いやつなのである。ハイ・カヴァラーン人たちも、決闘ばかりしているステレオタイプなマッチョ男ばかりなのだが、それでもこっちは《氷と炎の歌シリーズ》にも通じる封建時代の男たちを思わせるところもあり、悪役としては悪くない。主人公たちはハイ・カヴァラーン人の中でもとりわけ保守的で異星人を人間扱いせず狩りの対象とするような連中に追われるはめになる。このデス・ゲームの描写には迫力あり、滅びゆく惑星の風物とマッチして、独特なロマンチックな雰囲気がある(大野)
主人公は優柔不断な文明人、対するは、決闘や人間を狩る伝統を有するハンターの一族。描かれる“宴の後”の世界は、冬の訪れ=滅びの色を湛えながら、華麗にしてエキゾチックである。一族の法に苦しむ豪胆な男たち、次第に彼らの考えに惹かれていく主人公、行動派で妥協しない女性と、登場人物は4半世紀後に書かれる《氷と炎の歌》を思わせる。ベストセラー作家となった作者の、その後を知っているから楽しめるとも言えるが、そういった余分な情報抜きでも面白い。特に中盤を過ぎ、後半に向かってのドライブ感、終盤に至っての意外な収束が読みどころ(岡本) |
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第2位(同率) 希望
全体的に質の高い短編集だが、知的な意匠のあれこれを除いてみると意外とシンプルで上品な物語が多い。ただ表題作だけが不気味なホラーを孕んでいて、やはりこれが瀬名秀明の真骨頂かと思わせる。瀬名秀明の作品を読んでいつも感じるのは、瀬名秀明は間違いなくSFを書いているのだけれど、効果としてのホラーがSFの印象を薄めてしまうように思える点だ。もちろんそれはSFとしての作品のすごさを否定するものではないんだが(津田)
人間はなぜ科学の方法論で世界を見ようとするのだろう。それもオッカムの剃刀を使って、なるべく単純に、すっきりと、エレガントに美しく表そうとするのだろう。現実は複雑で対称性は崩れ、カオスの中にあるというのに。その苛立ちが「希望」に爆発している。だが、作者は反科学を主張しているのか。そうではない。(中略)それは「物語」であり「哲学」なのかも知れない。風野春樹が指摘しているように、それは小松左京のビジョンに通じる、SFの王道でもあるのだ。もっとも、そういう小松左京的ビジョンへのアンビバレンツな反発もここには確かに描かれている(大野)
著者は物語の中で、グレアム・グリーンの著作を引いて、エンタテインメントでは常道のドラマツルギー(作り物めいた盛り上げ)を否定する。そのため、お話の展開は論理的であっても感覚的理解が難しい。例えば、本編の語り手は少女ともう一人なのだが、その行動の意味/破局に至る結末などは、単純に納得できないだろう。しかし、21世紀の今を考えてみたとき、世界と我々との関わりは、唐突で不連続に変化するものと分かってきている。瀬名秀明が描く科学者たちの物語は、現代の延長を超えた見知らぬ明日を予見しているのである(岡本) |
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第2位(同率) これはペンです
作家が言葉を使う以上言葉が文学として機能すると云うことを考察した小説はいくつも書かれてきたことだろう。これもその流れの中にあって仕組みが真新しい、もしくは今のところ円城塔にしか出来ない書き方がしてあるため、評価が分かれたと思う。「良い夜を持っている」の方はより普通の小説らしく見えるし、最後の叙情的な描写がどのような運命に有ろうともヒトには希望があることを語っていて、表題作冒頭の一文「叔父は文字だ。文字通り。」という不逞な宣言をキャッチしている(津田)
どちらもこれまでの円城塔に比べてかなり読みやすい小説である。とはいえ、テーマ的には言語(というか、記号、暗号、エンコード、アルゴリズム、数学)と世界(意識、知性、認識)の関係をほとんどそのまんま描いた、円城塔らしい、SFといってもかまわない作品である。「これはペンです」が世界を書く物語であり、「良い夜を持っている」は世界を読む物語といえるかも知れない。前者がイーガンだとすれば、後者はテッド・チャンだ。いずれも紛れもない傑作である(大野)
著者の6冊目の単行本となる本書は、これまでの諸作の中でもっとも分かりやすい部類に入る。理由は、それが良く知られた先端的なSFのテーマに近いからである。(中略)本書の2作は、どちらも抽象的ではあるものの、現代SFの主要テーマ(仮想現実と仮想記憶)を扱っている。こういった概念に興味のない人には難解だろうが、イマジネーションを刺激する優れた作品だ(岡本) |
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第7位(同率) NOVA3
こんなペースでよく出せるなあ。小川一水「ろーどそうるず」は神林長平が書いたといわれても信じてしまいそうな一編だけれど、神林より若々しいな、やっぱり。(中略)問題は瀬名秀明「希望」。瀬名作品を読むといつも微妙な齟齬を感じるのだけれど、未だにその正体が分からない。一読して後、ところどころ読み返し、凄いことやってるなあとは思うものの、作品の雰囲気がどうしてもホラー/サスペンス寄りな感じがして、SFを読んでいる気がしないのだ。とはいえ、この中編がなんらかの連作になってくれると嬉しい(津田)
一番の問題作は瀬名秀明「希望」だろう。これは質量と慣性をテーマとして描いた(特に慣性が重要)作品だ。前半は質量と慣性を象徴的に描く本格SFとして読めるのだが、やがて人の内部と外部のインタフェース(コミュニケーション・ダイナミクス)に主題が移り、宇宙はエレガントではないという、反・万物理論へ、そして反・物理学へとテーマが展開していく。ここに至ると、複雑な気分になる。実在の人物や事象を思わせる内容もあり、どう捉えれば良いか悩む部分もあるのだが、とても衝撃的な作品だといえる。(中略)しかし、本書で一番好きな作品は何だかんだいっても小川一水「ろーどそうるず」だ。バイクのAIと研究開発用AIとの対話だけで成り立っている作品で、笑いあり涙あり、ポストヒューマンの、でも人間をサポートするけなげな連中のお話で、思いっきりSFである。小品ではあるが、傑作です(大野)
30歳代の作家が増え、より「現在」に近づいたということだろう。このうち、東浩紀のみ長編の一部(連載第2回)、とりみきは『SF本の雑誌』掲載作に結末を追加したものである。「ろーどそうるず」の主人公はバイク。バイクは国内の生産数量がピークの4分の1に減るなど、もはや斜陽産業なのである。未来はますますそうだろう。そういう事実と重ね合わせて読むと、印象も少し変わってくる。「希望」は現代のさまざまな問題意識を凝集させた、非常に中身の濃い作品。著者はこういった課題を易しく書いてはくれないので、じっくり読むことをお勧めする。時事ネタとまでは言わないが、本書は全般的に「今」を感じさせる内容だ(岡本) |
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第7位(同率)
ダイナミック・フイギュア
ほぼ評判通りの1作。人間が操縦するタイプのロボットものとしては数多くの名作アニメと肩を並べる出来だろう。『シオンシステム』の伝書鳩レースのような意表を突く設定はなく、ひたすらオーソドックスに構成された力作。メインの舞台が香川県というのが面白い。これだけの長さをちゃんと読めるものにしたのは立派。ただ不満も多く、異星人テクノロジーの取り込みと2種類の異星人の存在は、東宝怪獣映画のオマージュなんだろうけど、十分な展開を見せていないし、多数の登場人物を描き分けることが出来ていない。特に主人公扱いの青年とその恋人役の書き込みが弱い。贅沢な不満だけれど、次回作への期待は高い(津田)
上下巻の大作。究極のリアル・ロボットSFと帯にあるが、まさに表紙に描かれているとおりの人型ロボット=ダイナミックフィギュアに搭乗した若者たちが異星の怪物と戦う、「エヴァンゲリオン」を強く想起させるSFである。(中略)この戦いは人間相手の戦争とは違い、敵の襲撃に予測可能な波があったり、あまり戦略的な知性を感じさせない、むしろゲーム的といっていいものだ。だから四国では激しい戦闘が続いていても、国内は比較的安定しており、変わらない日常が続いている。しかし、物語は当初のエヴァ的な、どこかゲーム的でありながらリアルな戦闘ものから、しだいに宇宙的な倫理のテーマへと比重が移っていく。力作である。ただし、SF的には興味深いテーマではあるけれど、小説としては前半の緊迫感が薄れ、後半はやや息切れしたように思う(大野)
数年にわたる構想と、ほぼ1年がかりの執筆で書かれた大作。ロボット兵器登場の背景は、これまでの著者の作品のような唐突さはなく、非常によく練られている。巨大ロボット戦闘もの/ハイティーンの若者がパイロットなど、アニメの類作を踏襲しているのに、ありふれた印象を残さないのは、独特の用語による異化作用もあるだろう。究極的忌避感、孤介時間、ボルヴェルク、フタナワーフ、ソリッドコクーン、ハノプティコン、STPF、ワン・サード等、それぞれに意味づけがある。登場人物も多様で複雑だ。“母子”ではなく、“父子”関係が一つの特徴となる。ただし、後半に進むほど顕著になる大仰なセリフ回しは、逆に物語のリアリティを損なうので抑えた方が良かった(岡本) |
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第7位(同率) 翼の贈りもの
井上さんの村上春樹を持ってきた解説と相俟って、浅倉ラファティとはだいぶ毛色の違う井上ラファティ像が感じられる短編集。一つひとつの話の内容は例の通り早くも忘れかけているが、表題作からも感じられるように基本的なトーンは「哀しみ」のような気がする。ラファティらしい「ホラ話」も多いけれど、ホラ話を読む楽しさとは何か別のものが感触として残る。それは「語られない名前/イエス・キリスト」から来るものなのかもしれない(津田)
ラファティの魅力といえば、アメリカほら話の伝統に連なる、その人を食ったようなとんでもない、とてつもなく大きな、まさにSFほら話といえる奇想とユーモア感覚だが、もちろんそれだけがラファティではない。神話的、神学的、哲学的なテーマを不思議な登場人物たちの会話や追想で描く物語群があり、むしろそちらの方がラファティの本質ではないかと思われる(中略)選ばれた11編はいずれも短く、凝縮された作品であり、それだけに一読しただけではわかりにくい、とっつきにくさもある。難しい言葉で書かれているわけではないのに、すんなりと理解できない場合が多い。それは登場人物や舞台が実は普通の人間や町ではないからだ。ここはゴーストや巨人や聖人やネアンデルタールたちの闊歩する、この世界から一皮離れた抽象的な世界なのだ(大野)
200頁余りに厳選された11編が収められている。全部で原稿用紙400枚程度の分量しかないため、どの作品もごく短い。それだけに、ラファティのエッセンスが込められている。翻訳者(浅倉訳、柳下訳と本書)の違いもあってか、本書からはより抽象度の高い、哲学者めいたラファティが読み取れる。ホラ噺の彼方に広がる、例えば表題作「…翼の贈りもの」の抒情性や、巻末「ユニークで…」の論理性など、これまでになかった新鮮なラファティが感じられるのである(岡本) |
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第7位(同率) クロノリス
なんといっても未来から現在に次々と出現する独裁者(?)の銅像(銅じゃないけど)とタウ・タービュランス理論がバカSFの楽しさを作りだしてくれている。でも、主人公の人生のグタグタは(たとえ現実では誰もこんな家族問題を経験しないとしても)ありがちで、そちらは興を殺ぐ方向に作用している(そんな感想はいくらなんでも作者がかわいそうか?)。それにしても銅像を(おそらく巨費をかけて)過去に向けて送り出すって、笑えてゾっとするアイデアは素敵(津田)
普通ならうんざりしそうな話だが、ウィルスンはうまい。読ませる力がある。とはいえ、SF的なアイデアについてはこの長さでまとめるには無理があったようで、どうにも煙に巻かれた感じが残る。偶然と必然の境をなくしてしまうこのメイン・アイデアは、何でもありになってしまいかねず、そこをあいまいにすることで、逆に小説としての魅力を増しているともいえるだろう。まあ、このくらいの長さで収めたのが良かったのだろう(大野)
設定が実にミステリアスである。何者が作ったのかも、どのように作られたかも分からない石碑が、わずか20年の未来からやってくる。しかも、碑文に書かれた人物を誰も知らない。主人公はたまたま出現に立ち会うのだが、実はそれは偶然ではない。さまざまな“運命”が絡み合い、謎めいた暗合が彼の生きざまを捻じ曲げていく。著者の他の作品にも見られるこの曖昧さは、奥行きとなる場合と、単なる韜晦としか感じられない場合があるが、本書では前者と見なせるだろう。「1つではない」時間線と、「1つに収斂してしまう」人生を、(時間+乱流から作られた)タウ・タービュランスというSF的な造語に結びつけた結末が鮮やかだ(岡本) |
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第7位(同率) ねじまき少女
21世紀のSFとしては、かなりいいところまで行っている。何で、タイでゼンマイなのという疑問をうっちゃっておけば、物語の大枠や複数の主要登場人物の設定は十分面白い。ウィリアム・ギブスンの発明したSF電脳活劇からも魔法のような万能ナノマシンからも少し距離を取りながら(でもゼンマイ!)、環境(生物)汚染が最大の破滅要因となった世界を舞台に持ってくる斬新さ。(中略) とはいえ、これが今後書かれるSFに衝撃をもたらしたとか、ひとつの文化装置になりうるとかのレベルではなさそうだ。最近のSFの収穫としてはピカイチだと思うけどね(津田)
別に目新しい未来像ではない。特別科学的に厳密なわけでもハードSF的に面白いアイデアがあるわけでもない。どちらかというと(チャイナ・ミエヴィルなどもそうだが)サイエンス・ファンタジー的な世界(遺伝子操作された巨大な象やゼンマイが動力となったり、足踏みコンピュータがあったり)なのだが、ここには圧倒的な臨場感がある(リアリティというのともちょっと違う。説得力のあるファンタジー)。(中略)SFでしか味わえないビジョンと余韻を残す。いやあ堪能しました(大野)
本書のストーリーは、政治的な抗争というより、端的に書いてしまえば“仁義なき戦い”を描いたヤクザ映画である。それぞれ暗い過去を背負った登場人物たち(主人に盲従するねじまき少女、中国人虐殺を生き抜いた老人、国民的英雄だったが故に疎まれる環境省部隊の隊長、遺伝子企業の先兵として活動する白人など)が、お互いの生命を賭けて暗闘を繰り広げる。その動機や経緯も非常に良く書けていて、読者を飽きさせない(岡本) |
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第7位(同率) 3・11の未来 日本・SF・想像力
全体を通じて感じるのはSFに関わる多くの書き手がSFは3・11の現実を「冷たく」とらえることができるのではないかと考えていることである。それは個々の書き手の被災者や犠牲者への人間的な思いの深さとは別の次元にある、もうひとつの現実のとらえ方といっていいだろう。この「もうひとつの現実のとらえ方」は何もSFだけがやれることではなく、政治家や経済人をはじめとする多くの日本人がある意味3・11の現実にたいするもうひとつの「現実的打算」ともいうべき形で、被災者や犠牲者へ思いをはせつつもその利害を考えていることだろう(津田)
一番心に残ったのは野尻抱介のエッセイだった。現地を実際に自分の目で見て、SF作家の想像力でもって未来を見つめている。その感覚にとても共感できた。瀬名秀明の論文もうなずけるところが多かった。「SFの無責任さについて」という刺激的なタイトルだが、読めばそれがむしろSFの本来の有り様としてこの災害に際しても肯定的に捉えられていることがわかる。(中略)その他、印象に残ったことをメモとして。本書で笠井潔らが言っていること。日本人の、わが身にリスクを引き受けない、何もしないことを選択する事なかれ主義。「情報によって日本中が被災した」という言葉、SFの無責任さは神の絶対性に等しいという言葉もメモしておこう(大野)
2011年3月11日に発生した東日本大震災、及び福島原発のメルトダウンによる放射線災害は、ネットワーク時代という、これまでにない時代背景の下で、例を見ない影響を日本全土に与えてきた。本書はその意味(あるいは無意味)を、SF、とりわけ、日本/世界を巡る大災害を重要なモチーフとしてきた小松左京の著作を引いて問い直すものである。編集の過程で、小松左京の死(7月26日)があったため、追悼という意味合いも出てきた(岡本) |
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第7位(同率) きつねのつき
表題からも窺えるように一種怪談(ホラーとは違うよなあ)がかった、それでもじんわりと利く北野版未来史の世界が広がっている(いや、舞台は狭いんだが)。ここでは娘の存在が非常に大きく、作者が自分の娘と接した日常の言葉がこの作品世界を向こう側(それがホラーだ)に落ちることから救っている。ためにするホラーに対しては不感症に近いのであまりその手の作品は読まないんだけど、北野勇作が時々見せる生っぽい恐怖感はイヤである。それは作為的なものというより、北野勇作の気質的なものだからだろう(津田)
本書全体は、月のきつねに化かされて見ている夢に過ぎないのかも知れない。バイオハザード的なSF的モチーフは一貫しているのだが、前半の保育所のエピソードや、後半の電車のエピソードなどには、とても幻想的で、諸星大二郎の短篇マンガや、ちょっと暗めの吾妻ひでおを思わせる雰囲気がある。基本的には淡々と進む物語であるが、ふいに激しい情念が露わになるところがあり、親子の切ない愛情物語としても読めるが、はっとするほど恐ろしい、美しい幻想小説となっている(大野)
「きつねのつき」は娘が歌う童謡。保育園の先生たちも、真夜中にその唄を唱和する。この町は、過去に巨人が斃れた後に作られたところであるらしい。巨人の存在は町に害毒をもたらし、無数のオバケ/ロボットの存在を招き、死者の再生さえも許してしまう。曖昧で正体がはっきりせず、本能の奥底のような闇が見え隠れする。著者特有の得体のしれない“不気味なもの”たちは、昔から我々の住む街角に潜んでいた。『どろんころんど』では、その正体が一段階明らかになった。3.11後の本書は、それをより明瞭な“悪しきもの”として描いている。著者の筆致が、闇の一端を具体的に示してくれるのである(岡本)
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