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2008 THATTA Award Winner(上半期1位) 夏の涯ての島
表題作は当然として、平行世界と循環する時間の中で、というパターンをきちんと使いこなした「帰還」から、やや冗長に感じられるけれどもオーソドックスなSFになっている「息吹き苔」まで、どれも忘れがたい風景を作り出していて、キース・ロバーツやクリストファー・プリーストを生んだイギリスSFの一方の真骨頂といっていい(津田)
異世界の風景と社会風俗の細やかな描写が素晴らしく、決してはっきりと説明されるわけではないが、しっかりと構築された背景世界は本格SFといって間違いない。一方、表題作は第一次大戦で英国が敗北した改変歴史ものだが、こちらも改変歴史そのものより、その世界に生きる登場人物たちの日常生活に重点を置いて描かれている(大野)
英国作家イアン・マクラウドの作品は、これまで散発的に紹介されてきた。という段階では、分かりにくかった作者の全体像が、本書でようやく見えるようになったわけだ。特に類作ではあまり書かれることのない、家族や男女関係が際立つ。多彩だが割り切れないストイックな関係という共通項がある(岡本) |
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第2位 20世紀の幽霊たち
傑作短編集である。ホラーがベースだが、ダーク・ファンタジーというか、幻想小説の風味が強い。”奇妙な味”の普通小説も含まれている。「謝辞(この中にもおまけ小説が含まれている)」や「収録作品についてのノート」、それに収録された短篇の削除部分まで含めて、19編が収録されている。作者はスティーヴン・キングの次男。とはいえ、それは重要なことではない。何より本書の短篇はいずれも個性的で、深いところで心を揺さぶり、不安を呼び起こす、そんな物語ばかりなのだ(大野)
著者はスティーヴン・キングの次男(長男も作家)。デビュー後定評を得るまで、その事実は隠されていた。今ではオープンになっている。とはいえ、巨匠の息子という範疇を超えた活躍をしているので、あまり意識する必要もない。下品なユーモアのセンスが似ていなくもないが、全般的に全く異なる作品集といえる。第一、親父キングは短編の名手とはいえなかった。
特に日常と交錯するファンタジーの要素(風船でできた友人、空中を飛ぶマント、迷宮を作るダンボール)には、誰にも書けなかった新鮮さがある(岡本) |
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第3位 限りなき夏
表題作及び「青ざめた逍遥」はきれいにピントがあった感じの訳で、あのころのプリーストに対する印象がそのままよみがえる。SFであることが当たり前な書き方をしていたころのプリーストは愛おしい。後半を占めるドリーム・アーキペラゴ・シリーズの諸作は作家の技量を見せるものになっていて、「奇跡の石塚」はその最たるものだろうが、これらのシリーズ作品から連想が向かうところはバラードのヴァーミリオン・サンズだ(津田)
処女作から2002年の作品までバラエティ豊かな作品が収録されているのに、なぜか読後感は共通しているように感じる。それは現実と幻想の混交といってもよいし、時間、つまり記憶というものの不確かさといってもいい。どの作品にも大なり小なりその要素は含まれている。長編も含めて、それがプリーストの取り憑かれている重要なテーマなのだろう。夢幻群島の連作ではSF的な要素は抑えられているが、それでもこの過去の(記憶の)改変というテーマは共通しており、中でも「奇跡の石塚(ケルン)」は衝撃的だ。いずれもエロティックな要素が、苦い、もどかしい感情的な横糸となって通奏している(大野)
プリーストの日本での紹介は『スペース・マシン』(1976)→78年翻訳、『ドリーム・マシン』(1977)→79年、『伝授者』(1970)→80年、『逆転世界』(1974)→83年という順番だった。当時は、『逆転世界』の設定(巨大都市が“最適線”に沿って移動する)が強烈で、ハードSF/数学SFの一種と思われていた。しかし、実際のプリーストの関心は、むしろ「リアルタイム・ワールド」に見られる“現実と幻想の相関関係”を描くことにある。改めて本書を読むことで、作者の意図が分かるようになる(岡本) |
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第3位(同率) テンペスト(上下)
評判に違わず、素晴らしい疾走感で話が進む。百枚ずつの連載ということもあってか、章ごとにジェットコースターみたいな仕掛けになっていて、やや疲れるが、字で書いたアニメーションとしては、やはり抜群の出来だ。それにしても池上永一はヒロインたちを描くのが大好きすぎて、それなりに個性的な男の脇キャラ陣がほとんどくすんでしまう。ちょっともったいない。魅力的な女性陣の中では、多くの評者がいうとおり聞得大君の真牛がピカ一(津田)
分厚いが、とにかく面白いので、ぐんぐん読める。とはいえ、さすがに上がったり下がったりの繰り返しで、後半はちょっと読むのに疲れてくる。登場人物たちのテンションが高くて、読む方のテンションが続かない感じだ。しかし、彼らがどんなにがんばったとしても、現実に琉球王朝は滅びるのであり、物語の最後は、悲しい歴史の流れに彼ら彼女らがどう立ち向かったかを描いて、しみじみとした感動がある(大野)
上巻で天才官僚として活躍、失脚後、下巻では側室兼復活官僚としてペリー総督と渡り合う。相変わらずの過剰な人物とエピソードの集積で眩暈がする。そもそも男装の麗人(しかも絶世の美女)が、琉球の宮廷で働けるわけがないのであるが、そんなことは本書のリアリティ上重要ではないのだろう。清と薩摩、女の後宮(御内原)と男の宮廷、主人公自身の中の男と女、薩摩と宮廷の恋人、伝統と改革、さまざまな二律背反(このあたりが『テンペスト』風)が、絶えず衝突して物語をドライブしていくのが面白い。さんざんな目にあうライバルの王族神(宮廷の巫女)がちょっと可哀相(岡本) |
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第5位(上半期2位) 太陽の盾
人間的な知性(ヒト以外も含めた人間的な知性)への信頼や、等身大の人々に対する暖かな視線が強まっている。また宇宙の広がりや知性の未来に対する詩的な感覚(クラークのいかにもクラークらしさを感じるところだ)もしっかりと残されている。とりわけ、最後の一章は、クラークの茶目っ気をバクスターがとてもうまく取り込んだ、思わず微笑ましくなるような嬉しい一節だ。バクスターは完璧にクラークの後継者となったといえるだろう(大野)
クラークを好むSFファンの多くは技術者である。社会的にマイナーな技術者とマイナーなSFファンの立場には、苦労の割りに報われない階層という共通点があり、爵位まで得たマイナーチャンピオン=クラークの存在は特別に映る。だからこそ、クラークの死は、20世紀の工学が生み出してきたさまざまな派生物(SFもそうだ)にとって、終焉/新たなる始まりを意味するように感じられる。まさに、死と誕生を象徴する『2001年宇宙の旅』のスターチャイルドなのである(岡本) |
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第5位(同率) ザ・ロード
評判の方が先に目に入ってしまったので、できるだけ予想と違うことを願って読んだのだけれども、ほぼ予想通りの話だった。「核の冬」だかなんだかよくわからないまま舞台設定に言及せず、追いかけてくる寒さから逃れて坦々と道を行く父子の話はほとんどなんの目新しさもないんだが、独特な親子の会話と荒涼としたアメリカ/セカイの描写が、うまい小説を読んだ気にさせる(津田)
マッカーシー特有の文体である、地の文とシームレスにつながる会話、心理描写のない三人称が閉塞的な設定を描く中で際立つ。句読点がほとんどなく、リズムだけで読ませる文章(これは訳者のセンスもある)も印象的。一般的な小説とは違うので、読みにくく感じるかもしれない。とはいえ、生き抜くことだけを目的に、ひたすら南を目指す父と、人間的な交わりを求める少年との葛藤には、このリズムが良く似合う。特に子供がいる人は、父親に感情移入して読めば、十分納得できる展開だろう(岡本) |
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第5位(同率) ハローサマー、グッドバイ(新訳版)
なつかしい作品である。そしてかつて新鮮であったように今読んでもその印象は変わらない。格別に優れた通俗性(←褒めことば)にあらためて惹かれる。エリート家庭に育った少年が休暇で別荘へ向かう。そこで家業が宿屋をやっているつまり庶民的な育ちの娘さんと一夏の激烈な恋に陥るすばらしい青春小説である……かのように見える。しかし登場人物は地球人ではないし舞台はこの世にある星ではない。本書は普通小説を装ったSFのもっとも美しい擬態のひとつである。しかし、なぜこんなにまで登場人物(というのも妙な言い方になるが)に関して、人外の生き物たちがまるで人間のような誇りや愚かさ、狡さといった感性をもって描かれるのか。他の作家がやったら失敗作だ。この人SFがわかってないんじゃないの、になる。だがコーニイの場合だと、異星人の"地球人らしさ"が素晴らしい長所になってしまうのだ(福本)
山岸真の名調子の訳のおかげもあって大変楽しく読めた。この内容にこのタイトルは本当に素晴らしい。今回ビックリしたのは、主人公の反抗期のバカっぷりが見事に表現されていること。コーニイがこの主人公にどれだけ自分の少年時代を反映させているかわからないけれど、オヤジ目線でこの主人公を追いかけていくと面白いのだ。結末の大仕掛けには疑問な点もあるけれど、あれがあってこその夏の輝きだからなあ(津田)
タイトルの夏っぽい、避暑地の恋っぽいイメージと作品内容は少しずれていて、暑いのか寒いのか季節感がわれわれの世界とは違っており、またリゾート気分はほとんど味わえず、むしろ蟹工船。もちろん、いい作品には違いないのだけれど、何よりも恋愛小説部分がひたすら可愛らしくラブラブすぎて、あんまり歳を取ってから読み直すものじゃないな、という感想です。しかし、どういうわけかすごくアニメっぽく読めてしまったのは何故だろう(大野)
(旧版から)ほぼ30年を経た本書は、SFを取り巻く情勢の変化(奇異なもの→普遍的なものへと変化)もあり、一般読者でもごく自然に読めるようになった。本書程度の異世界描写ならば、ファンタジイと思って読んでも違和感がないだろう。かつての熱心なファン(訳者)により訳文も一新、経年変化による古めかしさも一切感じられない。そういう意味で、2008年に本書を読む意義はより増したといえる(岡本) |
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第5位(同率) 神獣聖戦(上下)
現在では使われなくなってしまった精神分裂症という用語(キング・クリムゾンの名曲のタイトルも原曲名カタカナ書きが普通だもんなあ)がこれだけロマンチックに響くのは驚きだ。残念ながら現人類滅亡後の大スケールの戦いはあまりピンとこないのだが、鏡人/狂人と悪魔憑きの対決という具体的にはなんなのかよくわからないアイデアが、それでもここに収録されている中短編群のバックボーンとして機能しているように見えるところにこの作品のすばらしさがある。また語り役をヒーローに振らず、ヒロインをメインに据えたことも効果を上げている原因だろう(津田)
およそ25年前の作品、当時の精神医学や認知論がそのまま現代に敷衍されている。これには、ちょっと不思議な印象を受ける。しかし、本書のベース(鏡人=狂人、非対称航法、背面世界、悪魔憑き、聖崩壊病)はもっと古いところ(コードウェイナー・スミス、ニーチェ、バラード)にあって、そういった根源的な異世界の概念と80年代の社会(チェルノブイリ原発事故、スペースシャトル爆発、ソビエト崩壊前夜)とが混交して出来上がったのが本書なのである。新作なのに“再発見”のように感じるのは、そういう理由があるのだろう(岡本) |
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第9位(上半期3位) Boy's Surface
表題作のエピグラフに表題の意味の重層性を示すことで読者に注意を促し、「Goldberg Invariant」はバッハの「ゴルトベルク(非)変奏曲」というパロディでエピグラフの「可数見計理/かす(ず)みけり」は字面と音の遊びがそのままタイトルにかえるというパターンを作る。こんな頭の中のアクロバットで埋め尽くされているように見える(津田)
小説を読むこと自体が頭の処理系を通って認識・変換されることにより何かのダイナミクスを生み出す。それがまた入力されて、というと、表題作の語り直しのようにも思える。いずれも何度か読み返し、出てくる言葉を検索してみたりすれば、また別の理解が得られるように思うが、さすがにそこまでする元気はありませんでした(大野)
数学用語はそれだけで、エキゾチックな雰囲気を孕んでいるので、読み手にSF的な期待感を抱かせる。ずいぶん過去にも、ノーマン・ケイガン「数理飛行士」(1964)といった作品があった。著者の場合、そういったSF+数学の言葉的な面白さだけでなく、物語構造自体や文体までも一体化させた試みをまず注目すべきだろう(岡本) |