内 輪   第214回

大野万紀


 野田昌宏さんが亡くなりました。トップにも書きましたが、初めてお宅を訪問したときも、SF大会などでお目にかかったときも、とても気さくにお話ししていただき、まさにSFファンの大先輩で、何というか、家族からはちょっと敬遠されているが子供に色々な夢を与えてくれる独り者の親戚のおじさん、といった、そんな風な方でした。
 自分自身もそんな存在になりたいと思ってはみても、なかなか思うようにはいかないものです。
 野田さんのことを強く意識したのは、その昔SFマガジンに連載されていたコラムで、正直いって古いスペースオペラにはあまり興味はなかったのですが、その楽しそうな語り口にはたっぷりと魅了されました。今資料が手元にないので記憶はあやふやなのですが、ある時のコラムで、1通の分厚い封書から、遙か太陽系辺境の宇宙航路に思いをよせ、場末の宇宙港をたどる人間ドラマを描いた1編があったことを思い出します。SFのもつ「大きな物語」だけでなく、そのような人間的、日常的な「小さな物語」も、大きなSF的舞台に置くことによってまた別の輝きを放つ――そういう、SFのロマンティシズムを強く印象づけられた話でした。野田さんといえば「SFは絵だ」という言葉が有名ですが、それと同時に、このようなロマンの心を常に持ち続けた方でした。
 今月は東北で大きな地震があったり、秋葉原で胸の痛い事件があったりと、暗いニュースが心に残っていますが、一方で国際宇宙ステーションにきぼうが設置されたり(これでもうほとんど日本の宇宙ステーションになったのでは)、火星で水の氷の存在が確実になったりといった、楽しいニュースもありました。野田さんならどんなコメントを残したでしょうか。

 それではこの一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『深海のYrr(イール)』 フランク・シェッツィング ハヤカワ文庫
 上中下分厚い文庫三巻のドイツ製超大作エンターテインメント。何だかよく売れているようで、ちょっと目を離すと売り切れていた(すぐに増版されたようだが)。まあ、何というか大変りっぱな娯楽大作で、しかもスカスカじゃなくてみっちりと情報が詰まっている。科学的な面も、SF的な側面もしっかり書き込まれていると同時に、人間ドラマの方も良くできていて、それはとてもパニック小説のおまけのレベルではない。イヌイットの血を引く主要人物の(ストーリーと直接の関係はないのだが)帰郷の物語など、それだけで独立した小説といえるくらいの読み応えがある。ただし、やっぱり長い。最初の大災害が起こるのがやっと中巻のはじめ(でもこの迫力は凄い)。面白く筆力もあるのでぐいぐいと読ませるのだが、やっぱり長い。長い上にちょっと息切れするところもあるし。半ば以降、Yrrの正体が明らかになり、科学者たち、主要人物たちが一カ所に集まって対策を講じるあたりから、それまでの何が起こっているのかわからない緊張感が薄れて、やや単調な感じがする。後半でCIAやアメリカ政府がいくぶんマンガ的な悪役となって前に出てきてしまい、人類とYrrとの正面からの対峙が霞んでしまう。中盤までの密度の濃い描き方から比較すると、後半、そして結末のYrrの扱いはあんまり納得できない気がする。せっかくSF的に興味深い、ソラリス的な存在を科学的にきちんと描こうとする方向性、そして人類との困難なコンタクトの方法論も現れてきたところで、別の要素がしゃしゃり出て、それがあいまいにされてしまうのだ。SF者としてはちょっと残念。まあ面白いから、別にそれでもいいのだけれど。

『限りなき夏』 クリストファー・プリースト 国書刊行会
 古沢嘉通の編・訳によるプリーストの日本オリジナル短編集。本邦初訳を4編含む8編が収録されている。内4編は〈夢幻群島(ドリーム・アーキペラゴ)〉の連作シリーズに属する。しかしまあ、比較的新しい作品も含まれているとはいえ、何だかすごく懐かしい気がする短編集だ。訳者あとがきで、古沢氏は「安田均チルドレン」と語っているが、確かにそういうことだ。ここでちょっと昔話を語ってしまう。その昔、70年代後半、安田さんやぼくら、KSFAのメンバーは、海外SFの翻訳や紹介のファンジンを次々に作り出していた。その中に「現代SF全集」と題した翻訳シリーズがあり、77年に出したのがプリースト編だった。本書に訳された「逃走」や「リアルタイム・ワールド」も収録されている(ちなみに「逃走」は乗越和義訳、「リアルタイム・ワールド」は米村秀雄訳。他に乗越訳「裸にされた女」A Woman Naked、大野万紀訳「頭と手足」The Head and the Handも収録されている。解説とガリを切ったのも私だ)。それが30年たって、ついに完成しました、って感じ。いやあ懐かしいなあ。何てことはまあどうでもよいのだけれど、処女作から2002年の作品までバラエティ豊かな作品が収録されているのに、なぜか読後感は共通しているように感じる。それは現実と幻想の混交といってもよいし、時間、つまり記憶というものの不確かさといってもいい。どの作品にも大なり小なりその要素は含まれている。長編も含めて、それがプリーストの取り憑かれている重要なテーマなのだろう。夢幻群島の連作ではSF的な要素は抑えられているが、それでもこの過去の(記憶の)改変というテーマは共通しており、中でも「奇跡の石塚(ケルン)」は衝撃的だ。いずれもエロティックな要素が、苦い、もどかしい感情的な横糸となって通奏している。もう一つは家族や血のつながりといった縦糸の要素だ。こちらは「青ざめた逍遥」のようなSFにも見られ、いかにもイギリス的な歴史や時間の連続性を印象づける。未来の話であっても、まるでビクトリア風だったりするのも、そういうところから来ているのかも知れない。

『黎明の星』 ジェイムズ・P・ホーガン 創元SF文庫
 『揺籃の星』の続編。ベリコフスキーのトンデモ宇宙論をベースにしたトンデモSFではあるが、大破壊後の世界での文明の復興と野蛮との決別を描いた冒険SFとしては、普通に面白い。ホーガンはやっぱり読ませる力のある作家だなあ。とはいえ、単に冒険SFのベースとして奇想天外な宇宙論を使ってみました、というのではなく、ちょっと悲しいことに、ホーガンはどうやら本当にそっちの世界へ行ってしまったようにも思える。あからさまに宗教というかある種のカルトのプロパガンダにしか見えないところが多く、微妙にバランスを取ろうと、懐疑的な描写をして見せるところもあるのだが、やはりここまで書けるのは「信者」になってしまったからなのだろうと思う。権威主義的な科学を批判するのはいいけれど、太古の惑星の軌道を知るのに、力学よりも神話や伝説の方を重視するというのは、普通のバランス感覚ではない。そのカルトを体現している「善い人々」であるクロニア人の社会にしても、ぱっと見は現実のオープンソース運動とか、林譲治の描くプロジェクト型組織のようにも見えるが、よく見ると恐ろしくエリート主義的で、とても普通の庶民や、ましてハンディのある人たちが暮らせる、多様性のある世界とはほど遠い、カルト集団そのものである。対立する地球人の方がこれまた典型的な軍事優先の悪者たちなので、相対的には良い方に見えるのだが。まあでも物語は面白く読めるのだから、もうちょっと抑え気味に書いてくれればなあと思った。ただし、結末の唐突さにはやれやれ感が漂う。


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