放蕩娘の帰還

第1回

福本直美


『ヘルマフロディテの体温』小島てるみ/ランダムハウス講談社
 これは謎解きの物語だ。母の謎を解く息子が解いたのはじつは自分の謎だったという話である。といっても、実の母だと思っていた人が本当は継母だったとか、僕こと本書の主人公シルビオが浮気で生まれた子どもであるといった類いのエピソードが出てくるわけではない。ただ、ここに登場する母とは「男」に変身した母なのである。
 これは、困る。主人公が子供の頃、仕事でナポリに行った母が失踪、三年後に戻ってきた時には男に姿を変えていたのだから。息子も困ったがもっと大変だったのは父で、母を叩き出した。
 で、シルビオ青年は現在はナポリ大学医学部の2年生なのだが、親の因果が子に報いとでもいうのであろうか、母の変容以来、人さまにはちょっと言えないような悪癖をもつようになっている。そしてその癖に耽る自身が理解できない。そんな彼の前に憎みつつも惹かれる真性半陰陽のゼータ教授という、いわば導師のような不思議な存在が出現する。先生の研究室の膨大な蔵書の中には「闇の左手」やタニス・リーの「死の王」から日本の少女漫画まで取りそろえてあるというから興味深い。その教授にシルビオ君は、当初二重に怒っていた。なぜなら、ひとつは彼の講義中にとんでもない発見をしてしまったこと、もうひとつは自分のヤバイ趣味を知られてしまい、それをネタに、バラされたくなくば助手になれとおどかされてしまったからだ。
 かくして悪人教授(とシルビオには思える)が要求したのは一年以内に三つの課題を解くことだった。その課題をこなすためにシルビオは女装者たちにインタビューしたりカストラート歌手について調べたりとなかなかに妙な経験を重ねるのだが、本書の凄いところはキワモノ探しの度合いが深まるほどに、それが魂の浄化へと主人公をいざなうところだ。なんとこの小説は異形のビルドゥイングス・ロマンなのであった。おお!
 教授が「裏切り者は存在しない」と言い、「きみを裏切ることができるのは、きみだけだ」と語りかけるとき、それは限りなく優しく、そしてすばらしく道徳的(!)なのである。これはわたしがわたしに帰ってゆく話であり、わたしがわたしを好きになるまでの物語だ。十年に一度はこのような書物に出会いたい。そうか、文学って人間いかに生きるべきかという問題をあつかうものだったんだなとまじめに感激してしまったのである。本書における「からだ」には特別の意味というか重さがあり、教授や教授の亡き父はそれについての名文句をいくつも吐くが、それをここに書いてしまうとミもフタもなくなりそうなので、書けない。ともかく読んでみて、傑作だからと人にお勧めしたくなる一冊だ。

『ハローサマー、グッドバイ』マイクル・コーニイ/山岸真訳/河出文庫
 以前サンリオSF文庫でこの作品が刊行されたのは1980年だから、今回の新訳刊行まで三十年近い月日が流れたわけだ。なつかしい作品である。そしてかつて新鮮であったように今読んでもその印象は変わらない。格別に優れた通俗性(←褒めことば)にあらためて惹かれる。エリート家庭に育った少年が休暇で別荘へ向かう。そこで家業が宿屋をやっているつまり庶民的な育ちの娘さんと一夏の激烈な恋に陥るすばらしい青春小説である……かのように見える。しかし登場人物は地球人ではないし舞台はこの世にある星ではない。本書は普通小説を装ったSFのもっとも美しい擬態のひとつである。 しかし、なぜこんなにまで登場人物(というのも妙な言い方になるが)に関して、人外の生き物たちがまるで人間のような誇りや愚かさ、狡さといった感性をもって描かれるのか。他の作家がやったら失敗作だ。この人SFがわかってないんじゃないの、になる。だがコーニイの場合だと、異星人の"地球人らしさ"が素晴らしい長所になってしまうのだ。ふむむ、この方は実はとても特異な作家であったのだなということに今さらのように気付く。何せあの頃はサンリオSF文庫が毎月のようにキテレツな本を出してくださり、SFは若く私も若かったので、彼のヘンさ加減にちゃんと気付いてはいなかった。これは、いかにもイギリス作家らしく小説がうまいからキャラクターが生き生きしてるんだよ、では片付かない独自の個性に思える。それが何んなのかどうしてか、あらためて考えたくなる機会を与えてくれたという点で、この作品の再登場はとてもうれしい。

『非正規レジスタンス』石田衣良/文藝春秋
<池袋ウエストパーク>シリーズの八冊目だ。出るとつい買ってしまう。文庫化まで待てないのだ。なぜに私はこんなにこのシリーズが好きなのだろうか。やはり主人公にして語り手のマコトが家業の果物屋で生計を立てているぱっとしない(失礼!)セミプロのコラムニストであることや、富裕ではないところに、どうも惹かれてしまうのだ。シリーズ四冊目に収録されている「黒いフードの夜」で馴染みの刑事が、マコトみたいな貧乏でだらしない大人になるなよ、と某少年を諭す場面があるが、そんなあたりもとても他人事とは思えない。マコトは二十代の青年男子であり、読者のわたしはマコトのご母堂(いくつか知らないけど)よりなお年嵩だろうと思うが、それでも貧乏なコラム書きというだけで彼が自分に思えて読んでしまったりするのだ。
 だが、主人公にとっても作品にとっても、もっとも肝心の部分、池袋きってのトラブルシューターであるという面はむろん読み手である自分からは、はるか離れた大他人事だ。この小説のうまさはそういったところにあるのではないか。主人公あるいはその周りに出没する底辺に近い暮らしや不遇な立場にある人々の誰かに共感し感情移入できる。そしてその世間的には負け犬のように見える誰かさんが思いがけない活躍をしたとき勇気をふりしぼった際、自分もまた背丈が高くなったように感じるのである。本シリーズは現在わたしが知るうちではもっとも良質の願望充足小説だ。毎回それなりのハッピイ・エンドへと収束していくが、それは許せる甘さ、そうあって欲しい甘美さに満ちている。本書に収録された四編の結末も、もしかしたら本当に次はうまくいくかもしれない変わるかもしれないと可能性を感じさせてくれるが、それは舞台が流動性の高い都市だからこそで、こういった作品が本当の都会的な小説というものたろう。

『フリーランチの時代』小川一水/ハヤカワ文庫JA
 小川一水はいい作家だ。心の曲がったわたしとしては素直に認めたくないが、やっぱり感動してしまうのだ。特に短編がいいと思う。こんな小さな入れ物にこんな大きな世界が入るなんてすばらしいと思うし、この世とは違う世界についてこれほど分かりやすく書ける人はめったにいまい。名文の定義とは誰でも知っている言葉を使って誰も使わなかった表現をすることだとどこかで読んだ記憶があるが、ここに収められた五つの短編は誰にも分かりやすい文章で誰も考えなかったようなアイデアが描かれているのだから、これらは名文というよりは名作だろう。本書を読めばSFファンであることの幸せに浸れるので、受福小説とでも呼びたくなる。

『追憶のハルマゲドン』カート・ヴォネガット/浅倉久志訳/早川書房
 なんだかずいぶんと印象的なタイトルではないか。エレガントですらある、いいなあと思いながら手に取った。訳者あとがきによれば、ヴォネガット没後一周年を記念して出版された作品集とのことだが、十一編の作品のほかに、著者の息子による序文があり、また若き日のヴォネガットが家族にあてた手紙や、死ぬ直前に書きあげられていたというスピーチの原稿も収録されている。ご子息の文章を読めば、お父上は決して陰鬱なばかりの人ではなかったという印象を受けるので、読む者をほっとさせる。家族ならではの愛情が感じられ、とてもよい序文−−わたしにはお父さんへの手紙でありまたヴォネガットの読者への手紙でもあるように感じられる−−だと思う。
 で、肝心の作品のほうだが本書を読んでいて、どうもヴォネガットの作風が分からなくなってしまった。いずれも巧みなので読むのがいやということはない。ただ、第二次大戦を初め戦争を題材としたものが多く、透明な時には濁った悲しみの塊が氷のようにこちらの心に重く沈んでくるのだ。あれっヴォネガットってこんな作家だったっけ、と何やら不安になって『スローターハウス5』(伊藤典夫訳)を読み直してみれば、そこには例の「そういうものだ」というフレーズがくり返されている。そのよく知られたフレーズの多くは悲惨あるいは過酷なシーンのあとに出てくるので、それが昔読んだときはカッコよく淡々としていると思えたのだが、「そういうものだ」と書くとき、実はいつも作者の心のなかには、それとは正反対の気持ちがこだましていたのではないか。
 本書中の戦争をあつかったどれもが、「そういうものじゃない」と作品自体が喋っているのが聞こえてくるような気がする。もちろんそんな言葉は実際には出てこないのだが。どうもわたしは幸せ探し能力が低いのか、本書中では「ハッピー・バースデイ、一九五一年」などを読むとしみじみと暗い小説としての上手さしか感じられない。ああ、こんなことではヴォネガットのよき読者とはいえまい。やはりSFっぽい「審判の日(グレート・デイとルビが振られている)」やブラック・ユーモアの奇談とでもいえそうな表題作に救われ、楽しめる。『スローターハウス5』もそうだがSF的手法とユーモアが「悲しみを描きながら読者を不幸に陥れない装置」として役立っていたということだろうか。ヴォネガットがSF好きであろうがなかろうが、その効用はあなどれない、と思うばかりだ。


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