続・サンタロガ・バリア  (第76回)
津田文夫


 暑くて暑くてついにステレオのある部屋に閉じこもることが出来なくなってしまった。ここまで暑くなる前に買ってみたのは、生産終了直前セールで安売りされていたTDKのFMクラシック番組の遺産CDシリーズから女流ヴァイオリニスト、ローラ・ボベスコの東京リサイタルと、たった1曲のために買い直すか躊躇したシルヴィ・バルタンの45年前のナッシュヴィル録音の本国オリジナルジャケット版、それにいままで買わずにすませてきたELPの廉価版紙ジャケWorks Vol.2 といったところ。ボベスコは20年くらい前に一度だけリサイタルを聴いたことがあって、そのときの柔らかい音とホンワカとしたステージマナーが記憶に残る人だった。このCDで当時の音がよみがえったかというとそうでもない。ただ、ライナーノーツが面白く、若いときに金髪のオネーサンというだけでマスコミ受けしないアーティストに惚れ込み、大人になってからも熱を上げ続け、最後には本人を来日させてしまうようなアホな日本人がいて嬉しい。バルタンのナッシュヴィル録音はボーナストラックとして入っている、シングルのみでの発売だったLa Vie Sans Toiが目玉。この曲は1970年頃発売の日本編集のベスト盤に入っていたもので、我がバルタン熱がピークだった16、7歳の頃、自作の木枠にバルタンのB2ポスターを貼って部屋に飾り、毎日聴いていたものだ。二十歳頃のシルヴィが歌う低音のワンフレーズは、いまだに魅惑そのものだ。これは無人島に持って行く曲のうちの1曲にしよう。

 ジョン・スコルジー『遠すぎた星ー老人と宇宙2』は老人成分がない分、ただのスペースオペラだ。読みやすいしそれなりに面白いが、どうも引っかかる。スペースオペラの宇宙人がホースオペラのインディアンだという公式は、いまだにスペースオペラの気恥ずかしさを支えているはずなのだが、それが怪しいと思わせるのが、第1部のエピローグで、敵宇宙種族の頭領である女司祭にいうことを聞かせるため、その後継者の幼い娘を誘拐して繁殖嚢を焼き、取引材料としての役割を終えたところでナイフで殺すというものだ(実行するのは表紙のヒロイン)。これは卑弥呼の娘を掠ってきて卵巣を焼いた後で首を刎ねるみたいな話だ。鬼畜は大好きなのでジャック・ケッチャムとか清水マリコの鬼畜エロゲー・ノヴェライズもよく読むが、そこには自分が何を書いているかを知っている視点の存在が感じられるのに、この作品のエピソードにはそれがない。天然や天才でもないかぎり、作者はファンタジーの気恥ずかしさを押さえておくのがよろしかろう。その点エドモンド・ハミルトンは立派?

 暑くて敵わんというときには、消夏の読書ということでまずはアンナ・カヴァン『氷』を読む。サンリオ時代に読んだかどうか怪しいのだけれど、雪と氷が押し寄せてくる世界の破滅と競争しながら、少女と長官に向けた主人公の想い(というよりは妄想?)がいたたまれない三角関係を強引に成り立たせるといった感じの物語は、どこかバラードの『結晶世界』を思わせる。翻訳はあいかわらず硬い言葉が多いけれど、この話には合っているかも。元祖ツンデレ・セカイ系というのとはちょっと違います。

 夏は怪談だというわけで、文庫になった京極夏彦『覘き小平次 』を読む。これは怪談じゃなくて、鬱談ですね。京極堂だからこのリーダビリティだけれど、話の方はイヤな汗ばかりが出てくるウダラウダラした連作短編集みたいな印象。ゾッとして涼しくなるというよりは、作者の手際の方に関心がいってしまうところが、今ひとつな読後感を残す理由のだろうな。オタクがまんま歳だけ重ねても悲惨な将来が待ってるだけ、でも悲惨なりに幸せもあるよって、そういう話にも読める。

 もひとつ寒い話を、とういうことで読んだのがコーマック・マッカーシー『ザ・ロード』。「オン」がないから『路上にて』じゃなくて『路にて』だね。評判の方が先に目に入ってしまったので、できるだけ予想と違うことを願って読んだのだけれども、ほぼ予想通りの話だった。「核の冬」だかなんだかよくわからないまま舞台設定に言及せず、追いかけてくる寒さから逃れて坦々と道を行く父子の話はほとんどなんの目新しさもないんだが、独特な親子の会話と荒涼としたアメリカ/セカイの描写が、うまい小説を読んだ気にさせる。
趣味的には特に読みたい話でもない。しばし暑気を払ってくれるという意味では文句なし。

 作者自ら売れそうもないと嘆いている北野勇作『レイコちゃんと蒲鉾工場』は、佐藤哲也の素晴らしい解説を読めばわかるとおり、これまで作者が延々と書き継いでいる(つながっているかどうかわからない)戦争を背景とした奇妙な日常の物語である。今回はじめてはっきりとするのは、このセカイは戦争に負けた方のものであることだ。けったいな蒲鉾工場に勤める主人公のけったいな体験を綴った連作短編の最後には、このセカイの登場人物はすべて死者であるように見えてくる芝居が用意されている。それは夏にふさわしい幽霊談なのかもしれない。作者のブログ?を読んでいると、その趣味のいくつかがこの短編集のいくつかの短編に反映されていることもわかる。
 


THATTA 243号へ戻る

トップページへ戻る