続・サンタロガ・バリア  (第79回)
津田文夫


 10月もあっという間に過ぎて、11月になってしまった。ちょっと息抜きに、チェロを弾く友人の先生が中心となったチェンバー・ソロイストのコンサートに行ってきた。曲はハイドンのピアノ三重奏曲第43番とモーツァルトの21番のカルテット「プロシア王その1」それにシューベルトの「鱒」。ハイドンの室内楽を聴くことはCDでも滅多にないので、シンプルといえばシンプルな響きが清々しい。モーツァルトの21番はチェロの奏でる音型が印象的な1曲。曲がシューベルトになると、ピアノ五重奏ということもあって、それまでのシンプルな感じの曲と打って変わり、非常に派手に聞こえる。音楽の時間で習ったあのテーマもさることながら、コントラバスの響きとテクニック、ピアノの出入りの印象深さなど久しぶりに生で聴いた「鱒」は大振りな曲だった。コントラバスは吉田秀という人でかなりのテクニシャン。アンコールはコントラバスとピアノが各1曲それに「鱒」の終楽章というもの。

 池上永一『テンペスト』は評判に違わず、素晴らしい疾走感で話が進む。百枚ずつの連載ということもあってか、章ごとにジェットコースターみたいな仕掛けになっていて、やや疲れるが、字で書いたアニメーションとしては、やはり抜群の出来だ。それにしても池上永一はヒロインたちを描くのが大好きすぎて、それなりに個性的な男の脇キャラ陣がほとんどくすんでしまう。ちょっともったいない。魅力的な女性陣の中では、多くの評者がいうとおり聞得大君の真牛がピカ一。沖縄を抱き入れた日本には沖縄を幸せにする義務があるという言葉は、沖縄の歴史をどう考えるかという思考を要求するが、これだけハイテンションで読者を振り回しておいて、それは無かろうという気もする。頻出する近世日本の候文と沖縄短詩の意訳が気になる。沖縄テーマの企画展をやりたくなってきた。

 古川日出男『聖家族』も長い長い物語で、こちらは東北6県がターゲット・エリア。青森から福島まで狗(いぬ)が人として歴史を超えて動き回る。縦糸は女系のように見えるが、読後感は兄弟の物語だ。『テンペスト』の沖縄詞と同様またはそれ以上に東北弁が強力な文体を形造っている。各章は様々な媒体に分かれて掲載されたこともあって、所々感触の違うエピソードが入っているように思えるのも作者のねらいか。瀬戸内に住んでいる人間には東北のことはサッパリわからないことがよくわかる。この2作を続けて読むと、沖縄といい東北といい、昔読んだ山口昌男の「中心と周縁」論が小説の中で外縁側から強力に肉付けされる時代がやってきたような錯覚に陥る。

 毎度読むのは楽しいが、好きな作家とは言い難いコニー・ウィリス『マーブル・アーチの風』は、表題作があまりにも身につまされる話でイヤですね。詩人のブラウニングに「我と共に老いよ」というフレーズがあるらしいが、SFにしろポップミュージックにしろ、自分が熱中した時期の作品がいつまでも基軸になってしまう世界に浸っている人間には、「我と共に老いよ」という感覚でジャンルを眺めつつ老いていくわけだが、それを客観視しても幸せにはなれません。他の4編は底意地の悪いコメディで相変わらず旨い。
 


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