続・サンタロガ・バリア  (第110回)
津田文夫


 随分久しぶりに恒例の海水浴へ行ったら、参加者が少なくてびっくり。ま、四捨五入すれば還暦という人も多いんだからいつまでも海水浴とはいかないか。竹野浜も客が少なくなってたし。これが高齢化社会ということかなあ。

 しばらく買っていなかったケンペの掘り起こしCDの中から、48年録音のライプツィヒ放送交響楽団相手のマーラーの5番(!)と60年のバイエルンを振ったプロコフィエフ7番に「ボレロ」、グリュミオーをソロに迎えたモーツァルトのヴァイオリン協奏曲5番を組み合わせた2枚を入手。最近のケンペのアーカイヴものは本当にケンペの振ったものか怪しいのがあるので、購買意欲が失せているのだけれど、Archipelというレーベルは安価かつかなり信用できる感じがしてるので、買ってみた次第。それにしてもケンペでマーラーの5番とは驚くね。演奏ぶりにマーラーらしさはないけれど、きっちりとしたテンポで進むし、楽器の出入りがよく分かるので、たぶんケンペだろうな。戦後すぐの頃のマーラー解釈には60年代以降のスタンダード化の影響がない分、いろんなスタイルが行われていたのかもしれない。もう1枚も眉につばを付けながら聴き始めたのだけど、「ボレロ」の演奏がこれはケンペに間違いないと思わせるぐらいまったくケレンのない見事なテンポの演奏で、途中で笑ってしまった。何の盛り上がりもなくあっさりとコーダが来てしまうのもケンペらしい。モーツァルトの方はグリュミオーのヴァイオリンが素晴らしく、しなやかかつ明晰という特徴を持つ。強靱なテクニックや強力な弱音を持つヴァイオリニストは今頃そこら中にいるけれど、それが音楽として曲の魅力を引き出しているかどうかはまた別の話。ここでのグリュミオーはケンペのサポートもあって魅力的だ。プロコフィエフの7番はこの頃はまだ現代音楽状態でよく分からない。

 もしコミケに行ったらメタル姫のCDを買ってくれと息子に頼んで置いたら、本当に買ってきてくれたので、早速聴いてみた。自作ヘヴィメタ風インスト曲は期待に違わぬ演奏だったけれど、オルガンでバロック風な味付けをした曲はやや散漫な印象。そのほか曲の出来はともかくボカロの歌わせ方が不気味なのものもあってヴァラエティは十分、クラシック音楽の素養がそこここに感じられ、7曲30分足らずを愉しませてもらいました。録音の所為か音がいまひとつ鮮明でないのは残念。DVDも付いていたのでパソコンで見たけれど、最近ふくよかになったメタル姫が縦方向に引き延ばされている映像には笑った。6曲の内CDと2曲しか被っていないのは姫のサービス精神の賜物でしょうか。

 ディレーニイの次はやはり70年代のジョージ・R・R・マーティン『星の光、いまは遠く』を読んで、改めてデビュー当時のマーティンが如何に魅力的だったかに思いをいたした。いまやエンターテインメント小説の大家として揺るぎない地位を確立したマーティンだが、60年代後半に20歳を迎えたマーティンが、その時代のナイーブさを抱えたまま30歳を間近にしていた時期に完成させた処女長編は、初期マーティンの魅力の集大成になっている。振られた女の尻を追いかけるだけの主人公のダメ男ぶりばかりが目立つ前半だけれど、銀河辺境を星のない空間に向かって去りつつある「祭りが終わった後の」放浪惑星とその黄昏れた文明の消え残りという舞台そのものが、一種甘やかされたロマンティックな孤独感を醸しだしている。これこそ当時のマーティンの魅力なのだ。そこへ乗っかっているのが、主人公がわざわざ巻き込まれに行った、これまた滅び行く中世ヨーロッパ風武士団の残党の私闘だ。マーティンのロマンティックは、この一族の出自をその起源から説き起こして、彼等の野蛮な慣習の成り立ちを数々の造語を織り交ぜながら語り尽くして、読み手を惹きつける。
 マンハントが興味の中心になる後半は、世評と違ってあまり面白くないけれど、それでも鉄壁の慣習を破らざるを得なくなったの武士団の男たちには哀愁が漂い、滅びの詩はますますロマンティックに流れる。ラストの決闘シーンは、その後のマーティンの作品を思えば、ナイーブさとの別れの歌とも取れる書きっぷりで、ちょっとした感動が味わえる。

 ディレーニイやマーティンで70年代SFの味わいに感傷的になったところで読んだのが田中啓文『罪火大戦ジャン・ゴーレ』。いやあ、現代日本語はすごいなあ、というのがこれを読みながらの感想。個々のエピソードをつなぐ基幹の物語がいい加減の極みなので、話がどう転んでも驚けないけれど、これどっかで読んだ話だよなと思いつつ、たまにグッ(またはゲッ)とくるシーンがあってあなどれない。

 たまにぽつりぽつりと読んでいたのが最近になって読み終わってしまった川崎賢子編『久生十蘭短編選』。奥付を見ると2009年5月になっている。名前だけは昔から知っていたし、まあ石川淳と同時代人でもあったわけだけれど、当然ヨーロッパ生活などしたこともない石川淳とは全然違う人生と作風の持ち主である。14編中、戦前の作品は雑誌『新青年』に載った「黒い手帳」1作のみ。昭和12年発表というこれは異色作家短編集のどこかに載っていてもおかしくないコント。残りは11編が戦後占領期、その他の2編は無くなる直前の昭和30年代初期に発表されたものである。基本は戦後有閑階級の登場人物が織りなすハイカラなコントで、何の湿り気もなく時代の暗さを映し出している。編者の周到な解説にもあるとおり使用される日本語のヴァラエティは印象的で、話の造りのハイカラさと相俟って一種日本人離れを感じさせる。編者は「珠玉のような作品」と形容していて、それはたしかにそうなんだけれど、その一方でいまや美しい骨董品になりつつあるという感想も湧く。もしかしたら久生十蘭の戦後空間は京極堂シリーズへ流れ込んでいるかもしれない。

 『本の雑誌』上半期1位まで取ったというので、やっぱり読んでみようかと手を出した高野和明『ジェノサイド』。ディテールの深化を別にすれば昔懐かしい新人類SFで、いまでも使える話なんだなあと感心した。主要キャラクター2人の造形は現代的といえば現代的だけれど、ちょっと眉につばを付けたくなる安易さも抱えている。それがカリカチュアされた合衆国大統領官邸の面々とバランスしているのか、アドヴェンチャーがやや軽い。日本からの援助の黒幕がアレでは、合衆国側の頭脳もやる気をなくすよね。などと貶しながらも文明批評的な面では半世紀以上前の超能力ものSFを彷彿とさせて嬉しい上に、どうしようもない現代の地獄を被せてそれなりの説得力が出ているところもポイントが高い。

 早4年目に突入の大森望・日下三蔵編『年刊日本SF傑作選 結晶銀河』は編者の云うとおり、SFプロパーな作品ばかりのアンソロジーになっている。その所為でついこないだ読んだ気がする作品がいくつも入っていて、話自体はいつものように忘れていたけれど、それでもお得感が少ない。集中で新鮮だったのは、白井弓子のコミック「成人式」と新人伴名練「ゼロ年代の臨界点」。省略の技法が効果的に使えるのはコミックが一番だし、ライトノベル的技法も使いようによっては感心させられる。一番の問題作は酉島伝法の新人賞受賞作「皆勤の徒」で、その文章には筒井風北野風牧野風といろいろ感じるが、読み手に要求する集中力をキープできているかは微妙なところ。見事なイラストをそれぞれ1ページずつ使って文中に入れた方がよかったかも。

 初めての短編集がハヤカワ文庫というのが驚きの瀬名秀明『希望』。これもついこないだどころか、ついさっき読んだ作品が入っていてあまり嬉しくないけれど、再読してより分かりやすくなったこともあるので、問題なし。全体的に質の高い短編集だが、知的な意匠のあれこれを除いてみると意外とシンプルで上品な物語が多い。ただ表題作だけが不気味なホラーを孕んでいて、やはりこれが瀬名秀明の真骨頂かと思わせる。瀬名秀明の作品を読んでいつも感じるのは、瀬名秀明は間違いなくSFを書いているのだけれど、効果としてのホラーがSFの印象を薄めてしまうように思える点だ。もちろんそれはSFとしての作品のすごさを否定するものではないんだが。
 


THATTA 280号へ戻る

トップページへ戻る