内 輪   第254回

大野万紀


 小松さんの死、終わりの見えない原発事故とその影響の広がり、超光速ニュートリノ騒動、世界経済の混迷、まるで『ねじまき少女』の一場面のようなタイの大洪水。マヤ歴ではそろそろ世界が終末を迎えるとか迎えないとか。
 この夏から秋にかけて、今から続く未来を(それがどのようなものであれ)じっくりと考えざるを得ない状況が立て続けに起こっているような気がします。年金支給時期とか増税とかそういうごく身近な問題も含め、さて一体どうしたものか。まあ、まずはSFをたっぷり読むことですね。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『3・11の未来 日本・SF・創造力』 海老原豊・藤田直哉編 作品社
 小松左京のメッセージに始まり、小松左京追悼に終わる、東日本大震災と原発事故に触発されて、SF作家や評論家22人が日本とSFと未来について語った論集。
 一番心に残ったのは野尻抱介のエッセイだった。現地を実際に自分の目で見て、SF作家の想像力でもって未来を見つめている。その感覚にとても共感できた。瀬名秀明の論文もうなずけるところが多かった。「SFの無責任さについて」という刺激的なタイトルだが、読めばそれがむしろSFの本来の有り様としてこの災害に際しても肯定的に捉えられていることがわかる。
 全体に何で小松左京の話ばっかり、と思ったが、監修の巽孝之の方針だったのかな。ふたつの座談会は、興味深いところもあったけれど、正直いって、あまり心に響かなかった。
 豊田有恒の文章を読むと、こういう物言いをする人って、親戚のおじさんにも会社の上司にも飲み屋にもよくいますね、と思う。しかし、これも貴重な過去の証言としてあるわけで、傾聴に値する発言だ。実際うなずける意見もある。お題目さえ唱えていれば平和が守れるというような人たちとか、日本だけ原発をなくすといって、それでいいのか、とか。でもそれと現状の肯定とは結びつかないし、彼の議論そのものも混乱し揺れ動いているように見える。
 その他、印象に残ったことをメモとして。本書で笠井潔らが言っていること。日本人の、わが身にリスクを引き受けない、何もしないことを選択する事なかれ主義。「情報によって日本中が被災した」という言葉、SFの無責任さは神の絶対性に等しいという言葉もメモしておこう。
 それから笠井潔の語る『果しなき流れの果に』の二重性について。それを日本的アニミズムと一神教的絶対と捉えるのもなるほどとは思うけれど、ぼくはずっとそれを日常と非日常との関係として捉えてきた。ここで日常とは今のリアルな日常だけでなく、どこであっても人間の生活の場というようなイメージ。未来の宇宙の惑星で人間と異星人が学校に通っていてもそれは日常。日常ということの基線は動かすことができるイメージだ。そして非日常とは……。
 アニミズムは素敵だな。「かみちゅ」の神様なら信仰してもいいかも。

『失われた都』 ケン・スコールズ ハヤカワ文庫
 〈イサークの図書館〉シリーズ(5部作になる予定とか)の第1巻。SF的な設定を持つ大河ファンタジー(というか大破壊後の世界を舞台にしたSFでしょう、これは)のプロローグである。
 科学文明が滅んだ後、生き延びた人々が、アンドロフランキン教団(アンドロイドにフランケンシュタイン?)の指示の下、科学や魔法などの知識を〈大いなる図書館〉に集めてきたのが、宗教都市ウィンドウィアである。ところがある日、都は突然炎につつまれて壊滅する。この事態に、〈名づけられし土地〉と呼ばれるこの世界の権力者たち――エントロルシア都市国家のセスバート、〈九重の森の館〉の領主にして〈流浪の王〉ルドルフォ、沼地人たちとその王、エメラルド海岸の支配者にして銀行家のリー・タム家――がそれぞれの思惑の下に動き始める。そこにウィンドウィアの破滅に関わる機械人〈鋼人(メタルマン)〉イサークや、セスバートの愛妾だったが、ルドルフォの下に走る美女ジン・リー=タム、アンドロフランキン教団の孤児ネブ、そして謎の老人ペトロヌスなどがからみあう。
 主な主人公はルドルフォだが、視点人物が細かく切り替わり、多角的に描かれているので、全体の見通しがつけやすい。前半は、善悪がはっきりしており、いかにもわかりやすいエンターテインメントとして話が進むので、まあ良くある予定調和な話だなと、安心して読んでいられるのだが、後半になって巨大な陰謀が明らかになってくると、それまでのあっけらかんとした雰囲気がなくなって、重苦しい調子になってくる。
 こんな他愛のない〈大破壊後の世界〉の物語も、3・11の後では、つい違った目で読んでしまうものだなあ。
 ストーリーは一段落ついていて、これで完結でもかまわないが、大きな謎はいくつも残ったままで、続編が訳されないと中途半端だ。みんなで面白かったから続編を出せと、お便りを書こう。ネブと沼地人の少女のほのかなラブストーリーがもっと読みたい。

『スワロウテイル/幼形成熟の終わり』 籐真千歳 ハヤカワ文庫
 『スワロウテイル人工少女販売処』の続編。
 あの話に続編が、と思うのだが、東京自治区にまた新たな危機が迫り、それって色んな勢力がそれぞれの陰謀を進めた結果だったりして、その中で人工妖精の少女が戦う話。ちゃんと続編になっています。
 ということは、前作を読まないと、肝心の所がわかりにくいというわけ。ル=グィンの「オメラスから歩み去る人々」を思わせるとても重い話になっているが、その一方でキャラクターの性格付けやマンガ的ギャグ感覚はお約束っぽく、それが息抜きとなっている。とはいえ、紹介しにくい話だなあ。ストーリーは一本線なのだが、その設定がややこしい。途中で何度か見失いそうになりました。
 で、そんな世界設定とはあまり関係なく、本書のテーマは自分の生き方は自分で決めます、ということだ。このボリュームのほとんどがそのための議論や状況説明から成り立っている。アニメ的なアクションはスカっとしてかっこいいんだけどね。正直、この議論にはかなり疲れる。それからぼくには人工知能と人工妖精、そして人間の立ち位置の違いがよく理解できなかった。神と人と精霊または天使ということなのか。

『奇跡なす者たち』 ジャック・ヴァンス 国書刊行会
 ヴァンスの日本オリジナル短編集。亡き浅倉久志編で、本邦初訳2編を含む8編が収録されている。
 発表年代順に並べられているが、50年の「フィルスクの陶匠」から57年の「無因果世界」までの5編は、いかにもヴァンスらしい色彩感覚豊かな作品ではあるものの、基本はアイデアストーリーで、美しい小品といっていい。中ではとても五〇年代SF的で、パラノイアックなスパイものの逆手を取った生態学的SF「保護色」、幻想的で美しい「音」が印象に残る。
 ここまででおよそ三分の一。残り三分の二は、「奇跡なす者たち」「月の蛾」「最後の城」の3中編が占める。「奇跡なす者たち」と「最後の城」はどちらもサイエンス・ファンタジーな世界での異種族との攻城戦を描いた合戦もの。「月の蛾」は音楽と仮面をベースとする異星の文化を描いたSFミステリだ。どれも大傑作。とても豊かな読書体験が得られる。ゆったりとした気持ちで、余裕をもって読みたい。
 合戦ものも、殺伐としてはおらず、何しろ爛熟した文化の末裔たちと、人間ではない大軍団との戦いで、明らかに人間側が分が悪いにもかかわらず、のんびり〈古代衣装披露会〉を楽しんだりしているのだ。デカダンな雰囲気に満ちているが、その中に未来を、変化を望む若者や探求者がいて、ほっとさせられる。ジョージ・R・R・マーティンにしろ、ダン・シモンズにしろ、ヴァンスに傾倒する作家たちが多いのも頷かされる、傑作短編集である。

『これはペンです』 円城塔 新潮社
 芥川賞候補になった「これはペンです」と「良い夜を持っている」の2編を収録した中編集。
 どちらもこれまでの円城塔に比べてかなり読みやすい小説である。とはいえ、テーマ的には言語(というか、記号、暗号、エンコード、アルゴリズム、数学)と世界(意識、知性、認識)の関係をほとんどそのまんま描いた、円城塔らしい、SFといってもかまわない作品である。
 「これはペンです」が世界を書く物語であり、「良い夜を持っている」は世界を読む物語といえるかも知れない。前者がイーガンだとすれば、後者はテッド・チャンだ。いずれも紛れもない傑作である。
 「これはペンです」は、変な手紙を書いてコミュニケートしてくる「叔父」を「姪」が解読しようとする話、といっていいだろう。手紙はいわば暗号であり、自動生成された「意味」であり、ランダムな記号が作り出す、現代アートみたいなハプニングである。叔父はコンピュータプログラムかも知れないし、複数の人間集団かも知れないし、本当の叔父かも知れない。それをいうなら、教授の研究室に入り浸って叔父の手紙を、いや叔父そのものを解読しようとする姪だって……。別のレイヤーではこの小説を書いた円城塔はどこにいるのか、ということになる。
 コピペによって作られる文章のもっともらしさ。意味をもたない文章にも読者は意味を見いだすことができてしまう。表紙の写真にあるIBMのタイプボールが勝手に作り出す文字列にさえも。アルファベットを刻印された小さな磁石を送ってくる叔父。それを台所の中華鍋で炒る姪(磁力を弱めてくっついた砂鉄を分離するため)。DNAで書かれた手紙。そういった断片はひたすら面白く、ハードSFのセンス・オブ・ワンダーすらある。
 そして叔父の姉である母の存在。まるで日常的なこの母と姪との関係がユーモラスで、このハードなロジックに満ちた小説を読み応えのあるものにしている。
 もう少しテーマについて語ると、ここには人工知能研究や認知科学から派生したテーマがあり、数学的アルゴリズムがどのように世界を記述し、記号化し、語ることができるかというテーマがある。知性と意識の違い。知性は他者との相互作用で定義される(会話、テスト)から、わかりやすい。意識は自己のみの問題だから難しい。入出力が一切なくても意識はありえるのだから。そういったことも書かれている。「叔父は文字だ。文字通り」ということだ。意識が存在するかどうかはともかく、少なくともそこに知的存在を見て取ることができるのだ。
 「良い夜を持っている」はこれと対をなすような小説である。こちらは超記憶という症状を持ち、現実と夢と記憶の中を時系列ではなく表引きによってアクセスする「父」と、その息子の物語である。世界というデータベースの読み方が違うのだ。まさにテッド・チャンの「あなたの人生の物語」と呼応するような小説であり、「これはペンです」が世界を書く小説なら、こちらは世界を読む小説だという所以である。様々な現実の事象を覚えるのに街とそこに住む人々を当てはめていくといったような、記憶術の記述がある。それは情報の圧縮であり、特殊な言語による符号化である。それが現実と対応しているなら、その世界もまた現実である。
 そういったテーマと同時に、この小説では父の頭の中で変換された世界、街や人々の生活が描かれ、そこでのボーイ・ミーツ・ガールや家族のふれあいが描かれる。それは夢の中の世界のようで、切なく、美しい。小説は「父」の「息子」の視点から描かれていて、息子には姉がおり、姉には娘がいる。そこでこの小説は「これはペンです」ともつながっていくように見える。そうだ、と断定するわけではないが、そうやって世界が緩やかに接続され、意味の領域が広がっていくのだろう。


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