続・サンタロガ・バリア  (第108回)
津田文夫


 6月から暑いのは判るけれども、ここまでとはねえ。今年は梅雨が短いらしい。それっていいことなのか?

 梅雨入りあたりからステレオの音が悪くなるし、クーラーのない部屋を締め切って聴くのも大変と言うことで、音楽を聴かなくなるのだけれど、なんとなくブラームスが聴きたくてフルトヴェングラー/ウィーン・フィルで3番の交響曲を聴いた。ケンペやバーンスタインで聞き慣れた曲も、フルヴェンで聴くとかなり印象が違う曲になる。前にも書いたけれど、フルトヴェングラーの創り出す音楽は常に先に向かって進んでいく。鳴った音は既に存在しないし、鳴っていない音はまだ存在しない。そして音楽は常に鳴り続けている。それは時間を意識させるのではなく時間を消していく。瞬間は存在しない一方で音は瞬間しか存在していないのだ。音楽は今にしか存在しないが、常に次の音を呼び込んでとどまることがない。フルトヴェングラーが崇拝される理由のひとつはその演奏を聴いているといわゆる哲学的感想が湧いてくる点にある。あのリズムや各パートの扱いや強烈なダイナミックスが好きかどうかは別として、のべつ幕無しに咳払いのする1948年のライヴ録音は聴衆の咳の嵐を蹴散らして音楽が進んでいくのである。疲れているときは聴きたくない類のものだけど。

 R・A・ラファティ『翼の贈りもの』は、井上さんの村上春樹を持ってきた解説と相俟って、浅倉ラファティとはだいぶ毛色の違う井上ラファティ像が感じられる短編集。一つひとつの話の内容は例の通り早くも忘れかけているが、表題作からも感じられるように基本的なトーンは「哀しみ」のような気がする。ラファティらしい「ホラ話」も多いけれど、ホラ話を読む楽しさとは何か別のものが感触として残る。それは「語られない名前/イエス・キリスト」から来るものなのかもしれない。たった200ページの短編集がえらく重い。

 「『ニューロマンサー』以来の衝撃!」とはまた大きく出たね、のパオロ・バチガルピ『ねじまき少女』上下は、それでも21世紀のSFとしては、かなりいいところまで行っている。何で、タイでゼンマイなのという疑問をうっちゃっておけば、物語の大枠や複数の主要登場人物の設定は十分面白い。ウィリアム・ギブスンの発明したSF電脳活劇からも魔法のような万能ナノマシンからも少し距離を取りながら(でもゼンマイ!)、環境(生物)汚染が最大の破滅要因となった世界を舞台に持ってくる斬新さ。それでいながら伝説の男ギ・ブ・センなどという笑かしてくれるネーミングで、これまでのSFに対して十分な意識を持って書いていることをアピールする狡さ。やりますなあ。キャラ萌え的には環境省白シャツ隊のカニヤ姐さんかなあ、なんとなくオバさんのような気もするんだけど。
 とはいえ、これが今後書かれるSFに衝撃をもたらしたとか、ひとつの文化装置になりうるとかのレベルではなさそうだ。最近のSFの収穫としてはピカイチだと思うけどね。

 1作目2作目の衝撃が凄かった小川一水『天冥の標W 機械じかけの子息たち』は第3作同様ややYA(ラノベ)的な書きっぷりで、安心して読める話になっている。そりゃ宇宙淫売宿(言い方が悪いか)の中でいろいろとSFでしか出来ない実験をやっているけれど、基本は清く正しい世界の物語として書かれている。それはヒーローとヒロインが常にそれを保証する書き方がされているからだ。セックスは何度でも描かれるが、セックスの本義が切り離すことであれば、ここでのエロスはよき神秘でしかない。コリン・ウィルソンもフロイトもお呼びでないのだ。人とは共生する意志であるということを肯定してしまえば、もはやおそれるものはない。でもそれってワクワクする一方で、退屈でもある。「メニー・メニー・シープ」の存在が次巻以降でどう現れてくるのか期待したい。

 短編をいっぱい書くようになった池上永一『統ばる島』は、八重山諸島の島々にそれぞれエピソードを振った1作。個々の短編の内容はバラエティに富んでいてまったく飽きさせない。最後の1編がタイトル通り「統ばる島」でベタなアイデアだけれど、読んでる方は嬉しい。ま、池上永一だからね。それでも分厚い長編のもたらす圧倒的な印象とは、だいぶ違ってやや薄味である。そういえば、『テンペスト』のスピンアウト短編集も第2集が出たんだっけ。短編作家池上永一の腕前は着々と上がっている・・・のかな。
  


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