続・サンタロガ・バリア  (第102回)
津田文夫


 師走や年越しに大して感慨は湧かなくなってしまったが、確実に年寄りになってるなあというのが、この頃の気分。21世紀に入って10年経っても20世紀な感覚が自分の中で当たり前に居座っている所為もあるのかな。鏡さんの本のタイトルは、いま思えばとても的を射ているんだね。

 久しぶりに買ったDVDアニメ『四畳半神話体系』をまとめて見ていると、未来的というより世紀末的感覚が色濃く感じられるので、まだ20世紀末が続いていると思ってしまうのも無理はないか。アジカンのオープニングにやくしまるえつこのエンディング、押井守から70年代初期の毒気を抜いたような脚本は、アジカンのCDジャケットでおなじみのキャラクターデザインと相俟って、モリミーの体臭を漂白したような世界が現出している。エンターテインメントとしては十分なクオリティを持っているので、まったく退屈せずに見ていられるし、ポスターデザイン的な画面づくりが新鮮でもある。オマケを楽しむオタク心が自分にないのが残念だ。

 年末に出たBUMP OF CHICKENの「COSMONAUT」は、ようやくバンドとして機能して見せた1作。音録りの工夫ということが大きいのかもしれないが、これまで作詞作曲メインヴォーカルばかりに耳が向かっていたのが、ここに来てバンドの演奏そのものを耳が追いかけるようになった。最初の曲から広い音場に各楽器がそれぞれの響きを同位相で鳴らしているような録り方で、特にドラムとベースのフィルインに耳が惹きつけられる。14曲もあるので、さすがに後半は緊張感が薄れることもあるけれど、オープニングから真ん中に置かれたシングルチューンの「魔法の料理〜君から君へ〜」と「HAPPY」でつくる頂点へ向かう間はまったくダレない。曲の新鮮さではメジャーデビュー前後の楽曲ほどの魅力はないが、バンドのアルバムとして1段階レベルアップした印象をもたらしている。

 ついていくのが大変だと思わせるほど次々と出た大森望のアンソロジー群だけれど、それでも読まざるを得ないのはお約束だ。まず『ゼロ年代日本SFベスト集成〈S〉ぼくの、マシン』は、さすがに再読のものが多いけれど、ほとんどの作品はすでに詳細を忘れてしまっていたので、無問題。とはいえ田中啓文「嘔吐した宇宙飛行士」なんて再読したくはないよなあ。再読してびっくりしたのは小川一水「幸せになる箱庭」で、再読は間違いのないところだったのに、読んでて何も思い出せず、読後、これって70年代のF&SFに載ってそうな話だなあ、登場人物の名前をアメリカ風にすれば英訳が売れるんじゃないのとか思ってしまい、我ながら呆れた。再読の効用は飛浩隆「ラギッド・ガール」が一番あったかな。今回読んだ方が傑作の感慨が湧いてきたもの。円城塔「Yedo」も単品で読んだ方が安全な気がする。

 『ゼロ年代日本SFベスト集成〈F〉逃げゆく物語の話』の方は既読が少なくて得した?気分だけれど、〈S〉ほどのプロパー感が無いこともあって、やや散漫な印象のアンソロジー。というのも当方の理解力に難があるのは当然としても、前半に集められた初読の作品群が、どうにも思い出しにくいからだ。恩田陸はともかく三崎亜紀と乙一がなぜか似たような感触だし、古橋秀之と森岡浩之の全然違う造りなのにぼんやりと似た印象が残る。再読の石黒達昌「冬至草」は力作という印象が変わらないけれど、今回はSF色がここまで濃かったっけと驚いた。津原泰水はストレンジ・フィクション。関西マンガカルテットの3人はどれも面白い。

 数少ない大森望以外のアンソロジーのひとつ、SFマガジン創刊50周年記念アンソロジー第3弾山岸真編『ポストヒューマンSF傑作選 スティーヴ・フィーヴァー』はテーマが前の2編ほど限定的でないこともあって、作品選びに苦労した形跡が窺えるラインナップ。作品本意とも言えるけど。それもあってか各作品の印象はバラバラ。日本SFベスト集成の作品群を読んだ後だから余計そう感じたというのもあるかな。何しろ時代や国籍、人種、性別がずっと広範囲な上に、どう見たって日本人の発想で書かれていないからなあ。ちょっと気づいたことはロバート・チャールズ・ウィルソン「技術の結晶」とロバート・J・ソウヤー「脱ぎ捨てられた男」を読んで、ウィルソンのバカっぽさは好きだけど、ソウヤーのそれは嫌いだということ。どうもソウヤーの思考パターンには反発を覚えるようだ。カードに似ているのかな。ランディスとオールディスの照応はとても好き。キャスリン・アン・グーナン「ひまわり」、イーガンの表題作とマルセク「ウェディング・アルバム」で頂点を築いているのがよく分かる並べ方、オールディスのまえにブリンを入れたのは良かった。「有意水準の石」というタイトルはわかりにくいけど。

 またもや大森望編『NOVA3』、こんなペースでよく出せるなあ。小川一水「ろーどそうるず」は神林長平が書いたといわれても信じてしまいそうな一編だけれど、神林より若々しいな、やっぱり。森岡浩之「想い出の家」と長谷敏司「東山屋敷の人々」は全然違う作風と題材にもかかわらず似た感触がある。円城塔「犀が通る」はストレンジ・フィクションのようだけれど感触はSFで、実は喫茶店での妄想話。浅暮三文「ギリシャ小文字の誕生」も妄想の産物だけれど、具体的で分かりやすい。谷甲州には長らくご無沙汰してますが「メデューサ複合体」を読むと昔の感覚が戻ってくる。でも短すぎるうえに終わってない。オリジナル・アンソロジーで連載という、大丈夫なのかソレ的な連作を始めた東浩紀「火星のプリンセス」はますますオーソドックスな日本SFに成りつつある。問題は瀬名秀明「希望」。瀬名作品を読むといつも微妙な齟齬を感じるのだけれど、未だにその正体が分からない。一読して後、ところどころ読み返し、凄いことやってるなあとは思うものの、作品の雰囲気がどうしてもホラー/サスペンス寄りな感じがして、SFを読んでいる気がしないのだ。とはいえ、この中編がなんらかの連作になってくれると嬉しい。

オマケ ヘーゲル『歴史哲学講義』なんぞ読むことは無かろうと思っていたけれど、長谷川宏訳が話題になったこともあり、岩波文庫版を買ってそのまま長い間積ん読になっていた。トイレ本を探していたらコレが目に入り、そういや昔水鏡子がTHATTAでボロクソにいうてたなと思い、手を出してみた。まあ、水鏡子が怒るのも当然な内容だわね。プロイセンの御用哲学者と言われてもしようがない。この無根拠な、ゲルマン民族/キリスト教国家礼賛を目的とした、当時としてもいい加減な情報に基づく世界史解釈を今日読むことにどれだけの愉しみを見いだせるのか。まったく晩年の10年を費やしてヘーゲルは何を語っているんだろう。と、現代に読む読み物としての価値はそれほど低いんだけれど、視点を変えるとヘーゲルの考える歴史のとらえ方は、その後100年以上にわたり帝国の論理を保証してきたといえる。まず、出来て間もないプロイセン国家への応援歌は、晩年のヘーゲルの精神を若々しく見せている。びっくりするのは、この本を読んでいる内に、ヘーゲルの国家礼賛の熱意が、直接間接に明治期の日本の指導的立場にあった人々、帝国憲法を作った人々や不羈独立/脱亜入欧を唱えて近代日本を国民国家にしようと鼓吹した人々に影響していると思えてきたことだ。そしてヒットラーの出現さえヘーゲルの所為にすることも可能だということ。「国家が個人を自由にする」なんて、仮想されたある一時期実現していたかもしれない代物だ、そう思う現代日本人もヘーゲルとは違う色眼鏡を掛けているに過ぎないと思わせるところに「哲学」の功徳があったか。


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