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第1位 乱視読者のSF講義
ほとんどの文章が再読だけれど、十分に面白い。きちんと作品を読めるというのは凄いことだなあとあらためて感心する。ここで採りあげられた作品は未訳のもの以外はほとんど読んだことのあるものばかりなのに、どれもディテールは勿論あらすじさえ忘れてしまっているんだから、よけい新鮮に感じる。そのうえここに収録された文章自体、そのほとんどを数年前に読んでいるにもかかわらず、またもや感心するに至っては驚くのも情けない。ますます老人力が増してるなあ(津田)
ぼくも書評を書いたり解説を書いたりしているが、あくまで一人のSFファンとして、SFとしての面白さを基準に書いている。ところが本書では「SFというジャンルの中だけにしか通用しない議論にはさほど興味はない」として、対象を単なる小説、単なる文学として、それをひたすら丁寧に読み込むという態度で分析していく(でもそれはSFらしさを無視するということではない)。ところがそれが、決してアカデミックで無味乾燥な授業のようではなく、知的で意外性に満ち、とても面白いのだ(大野)
最初は毎回1つの短編小説を取り上げ、その内容を精査する「SF短編講義」で、主人公/個人を排し、初めて人類の視点から小説を書いたウェルズの意義からスタートする。各短篇の見どころを実に詳細に解読する(長編ではとても1回の講義に収まらない)。読書の深みを理解/再確認するには最適な講義といえるだろう。第3部は、ウラジミール・ナボコフと比肩しうるジーン・ウルフだけを論じた6編である(著者はナボコフを20世紀最大の作家と称賛する)。ややマイナーかも知れないが、本書で言及された作品は、何度でも読み返せるだけの奥行きを備えている。アカデミックな研究や斜め読みの時間潰しから離れ、本来の読書の楽しみに立ち還る意味でも、本書の内容は参考になるだろう。(岡本) |
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第2位 南極点のピアピア動画
これは紛れもなく傑作である。ニコニコ動画や初音ミク、Twitterなどに興味がない、あるいはオタクっぽいものは無条件にイヤという人、表紙のせいで読む気がしないという人も、まあとりあえずは読んでみて欲しい。ある意味、徹底的に調子のいい、ご都合主義で無理やりな技術オタクのユートピア小説に見えるかも知れない(いや、そういう側面があることは否定できないが)。だが本書は『沈黙のフライバイ』につながる、著者のSF作家としての個性と信念が見事に結晶した、本格SFの傑作である(大野)
本書に書かれている日常/情報インフラ自体は、ほとんどが既にあるものだ。「ここにある未来」とは、そういう意味である。加えて、宇宙耐性を持った蜘蛛、ミクの姿をした宇宙人(表紙のイラスト)や、10年後にはニコニコ/初音ミク世代が要職に就いていて、ミクさえ掲げればどんなプロジェクトでも賛成などの、「周到なご都合主義/ギークのユートピア」が設けられている。すべてを個人の信頼ネットワークで繋ぐ考え方は、功利的な社会では決して明るい未来はこないという、作者の人生観を絡めた信念に基づいている。妄想(衆愚を増長させる危険思想)と見るか、理想(Web民主主義)と見るかは、読者の姿勢によって異なるだろう(岡本) |
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第2位(同率) 盤上の夜
いずれも異様な緊迫感をはらんだ対戦の描写が圧倒的で、魅了される作品だ。登場するのは異能のある人々ばかり。超天才の頭脳を描く作品としてはテッド・チャンが思い出されるが、囲碁や将棋の天才たちの頭脳はどうなっているのかと思ってしまう。ロジャー・ペンローズではないが、本当にこういう思考は多世界に広がって同時並列計算されているのではないか、とさえ思えてくる。人間量子コンピュータだ。本書では、そういう人々の人間ドラマも描かれるが、それ以上に、より抽象的なゲームの世界、ロジカルな世界と、その外部である日常の関係が、非常にSF的に、人工知能や認知科学的な視点でもって描かれている。壊れた日常、平凡な日常は、どのように抽象世界を支えるのか。ゲームの終焉とは何を意味するのか。しかし、こんな作品も書く一方で「スペース金融道」みたいな作品も書ける、この人は本当に才能があるよ(大野)
囲碁に始まり、囲碁に終わる構成。また、事実に基づいた作品(「人間の王」。書かれている不敗のチェッカーチャンピオン、マリオン・ティンズリーは実在の人物だが、著者による大胆な解釈が施されている)もあれば、自身の体験を色濃く出した作品(「清められた卓」)もある。そもそも、冒頭の(事故ではなく)四肢を無くした女性棋士の設定が異色だ。そういう、ほとんどありえない登場人物を、努めてノンフィクション/ドキュメンタリー風に描写している点が印象に残る特徴だろう。「象を飛ばした王子」はブッダに迫るテーマを、「千年の虚空」は政治テーマに挑むなど、SF的飛躍を含めたスケール感も面白い(岡本) |
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第3位 都市と都市
表向きのミステリがこの変な設定のおかげでそれなりのサスペンスを醸しているが、殺人事件の謎解きだけならこの設定でなくても似たような雰囲気の話は書けるのではないだろうか。しかしさすがはミエヴィルで、作者の興味は設定がもたらす効果に注がれている。そこがSFファンに強くアピールするところだろう。良くやるよと感心する。これまでの作品を読んで感じるのは、ミエヴィルは視覚的描写に長けているようで、読者に未知なものについて具体的なイメージを提出するのが意外と下手だということ。短編集でも見せたクトゥルー神話への強い志向はこの作品でも感じられるけれど、それが描写し得ないものを雰囲気で表して読む者を魅了するホラーという意味で、ミエヴィルの未知なるものの描写も読み手に不全感をもたらすのかもしれない。とはいえ、この作品の面白さは抜群だ(第3部は保留するけれど)。(津田)
作者自身、アレゴリーを否定しているとなると、本書はどう読めばいいのか。民族や宗教に関わる現実の差別を背景に置きつつも、この設定をそのままに受け入れて、犯罪捜査のミステリとして読むのが正解なのか。でも、例えばこんなルールを尊重するとしても、それに同調する必要のない外国人の立場というのがどうにも不明確で、その立場(つまり読者の立場だ)に立てば、本書で問題とされていることは何ら問題ではなくなるのである。主題が犯罪捜査から離れる第三部にしても、本格SFというのは苦しすぎて、裸の王様がずっと裸の王様でいられる理由がどうにも納得できない。何か読み落として、見逃しているのかしら。とはいえ、この二重都市、平行都市の雰囲気や空気は実に見事に描かれており、主人公たちの造形も良くて(特に前半で主人公の助手をする婦人警官が魅力的だ)、確かにとても読み応えがある作品である(大野)
ファンタジイとミステリ、SFとの境界にある作品。技量があるからこそ掴めた設定で、誰でもが書けるものではない、とマイケル・ムアコックは英国の新聞ガーディアン紙の書評で述べている。実際、カルヴィーノ風寓話とは対極にあるハードボイルドなミステリタッチにより、リアリティに乏しいファンタジックな2重都市を描き切るのは並大抵ではないだろう。主人公(警部補)は、旧ベルリンのような物理的な壁ではなく、心理的な壁=障壁に重圧を感じながら、境界線に隠れる殺人犯を追う。架空都市での犯罪捜査ものでは、シェイボン『ユダヤ警官同盟』などがあるが、それと比べても異色の設定である。犯人は2つの都市のどちら側に存在するのか、その確率は、シュレーディンガーの猫の量子論に似ている(岡本) |
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第3位(同率) 第六ポンプ
イーガンやチャンのような革新性はないけれど、レベルの高い短編集。デビュー作という「ポケットの中の法(ダルマ)」こそまるでサイバーパンク風の習作になってしまっているけれど、それでもストーリーテリング能力は十分発揮されている。収録作の中では『ねじまき少女』に繋がる世界を描いた作品がやはりよくできていて読ませる。その他の短編もバラエティに富むとはいえ、何らかの形で環境SFになっている。全体にバチガルピの世界認識は苦く倫理的で、それを読ませるストーリーに仕立て上げるところに作家としての力量を感じさせる(津田)
SF的設定が生かされている「砂と灰の人々」も好きだが、何といっても「第六ポンプ」が傑作だ。何十年もエラーを表示しながら、それでも動いているポンプたちの描写には涙が出そうになるし、このグロテスクな世界の中で、自分の仕事に責任感を持ち、きちんとやり遂げようとする主人公の、ごく当たり前で日常的な意識には、心から共感を覚える。日常を支えるのはこういう普通の人々の努力によるものだ。インフラをちゃんと動かす、保守するということの大事さ、しんどさ。その一方に、それを当たり前のこととして享受しながら、自分たちは何もせず、現場で働く人々に全ての責任を押しつけて、ただ非難するだけという連中がいるのだ(大野)
登場人物たちは、改革者や科学者といった、リーダー型人間ではない。大半は、状況に流されるままの小心な一般人だ。唯一「第六ポンプ」の主人公だけは、事態を食い止めようと苦闘するが、無力な一市民の域を出ることができない。バイオ化が暴走した未来は、大きな貧富の差と疫病の混乱に沈んでいる。そこには、今我々の知るような社会的秩序はない――という、デストピア的な世界観が著者の特徴だろう。ハッピーエンドのない、突き放された結末は読後に強い印象を残す。しかし、もう一ひねりが欲しい作品も多い。お話の展開が、あまりにストレートすぎるので、ちょっと食い足りないのだ(例えば、かつて衝撃的と話題を呼んだ1969年のハーラン・エリスン「少年と犬」と対比できる、「砂と灰の人々」の結末なのだが、あまりに淡泊すぎる)。(岡本) |
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第6位 ゆみに町ガイドブック
その散文的なタイトルから予想されるより、ややこしい物語だった。ファンタジー大賞作品ほどではないにしろ、互いにどう関係しているか定かではない3つの物語が進行する。表題通りヒロインがゆみに町での経験を語るストーリーをメインに、「雲マニア」と名付けられた雇われ限定世界創造者の話と「くまのプーさん」の世界(?)の住人(ヒトじゃないか)が語り手のファンタジー・ワールドの話が語られている。ゆみに町の話が普通の物語に見えるのは、そのように装われているだけのことで、もしかすると「雲マニア」の世界と「くまのプーさん」の世界と同じくらいファンタジックな世界になっているのかもしれない。ヒロインの夢の中で、きれいな顔した汚い服のヒトが彼女の家に如雨露で水を掛けているという最終ページの語りは、果たしてこの3つの世界をつないでいるのだろうか(津田)
ひとつ目の物語は、ゆみに町に住む主人公が、この街のカフェや、彼女と関わる男性たちとのエピソードを、すこし不思議な雰囲気で語る、タイトルから想像できるような物語だ。現代的で心地よい小説である。アルファ・ラルファ大通りへの言及もある。そこへ二つ目の、雲マニアと呼ばれる男の話が侵入する。コンピュータを駆使し、記憶子を操作して平準化するという謎めいた作業を孤独に(でも愛犬と散歩したりしながら)続ける彼は、どうやらこの現実を操作しているらしい。いきなりSFだ。さらに、主人公が幼い頃から作り上げた架空の世界、デスティニーランドの話がある。そこは片耳のプーさんがクリストファー・ロビンを待ちわびる世界であり、ワイルドハニーバニーや地樹といった奇怪な生き物たちが、恐怖と殺戮に満ちたおぞましい狩りを行っている世界である。これらの世界はゆみに町に侵入し、「いま怪物が町に来る」(帯の言葉)。すこし不思議なゆみに町のお話で全然かまわなかったのだが、その調和をあえてぶっ壊して、雲マニアやプーさんが、本書を居心地の悪い奇怪な世界に変容させた。それは本当に北野勇作のどろどろした世界とも地続きなものだ、とぼくには思えた。確かにこれは傑作である(大野)
(本書は3つの視点から書かれている)。第2の視点の主人公は、ディスティニーランドという架空の世界を夢想する。それは黒と白の2つの領域に分かれ、残酷で凄惨な戦いを孕んだ世界でもある。ここで、第1の視点と第2の視点は、ディスティニーランド=ディズニー/ミルン原作とは別の「くまのプーさん」で結びつく。さらにその2者は、第3の視点で改変される世界の中に包含される。ただし、物語がそのまま入れ子構造のように閉じるわけではなく、噛み合わないオープンエンドで終わるのだ。第2の視点が現実(リアル)、第1の視点はそこから派生するファンタジイ、第3の視点は全体を統べるSFといった見方ができるが、最終的にこれらはお互いの世界を侵食しあって境界が曖昧になる。著者はインタビューの中で、現実と非現実が混淆するのは、現代の翻訳小説では一般的な技法と述べている。何が世界を動かしているのか、そもそもこの世界は実在するのか、という根源的疑問で物語は終わる(岡本) |
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第6位(同率) 天冥の標 V 羊と猿と百掬の銀河
ついに物語の大枠が明かされる一作。とはいえ大げさなスケール感よりはやや軽めの始まりの物語という感じ。それがいきなり太陽系人類と絡んじゃうんで大風呂敷のあちらこちらはどうなるんだろうとワクワク/心配する。火星の農家の話も中つなぎ的な性格の物語になっており、第5巻を迎えてもまだまだたたむ方向が見えなくて次巻への期待が盛り上がる(津田)
本書の、そしてシリーズ全体を見てのメインは、何といってももう一つのストーリー、これまで断章として描かれてきた銀河の〈被展開体〉ダダー=ノルルスカインの物語である。(中略)SF読みとしてはこっちの話がとても楽しく読み応えがある。装いは新ただが、SFファンにはスペース・オペラの時代からおなじみ、人間たちの争いの裏にある超知性たちの戦いである。SFマガジンにも書いたが、ソラリス問題を放棄して、人間的に描かれた彼らは、しかしやっていることはとんでもないことなのだ。この中には長編SFとなってもおかしくないアイデアがいくつも含まれている。(中略)話はほとんど進んでいないのだが、とても重要な巻だったといえるだろう。ところでタイトルの「百掬」とは何なのか。「掬」は「すくう」の意味だから、手で水をすくうように、〈覇権戦略〉が銀河の多くの知性種族を掬っていくことを示しているのだろうか。あるいはその逆なのかな(大野) |
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第6位(同率) 道化師の蝶
読みやすさではこれまでの中でトップを争う出来。とはいえ何の仕掛けも読み解けないボケ頭では面白いやんか、という以外に大した感想もなく、作品を読んだ後、大森望をはじめ、いろいろなところで全5章の組立が論じられているのを知って、それらの解説から「へーっ、そうだったのか」と教えて貰ったことは秘密だ。ま、タイトルからして様々な軽さを目指して工夫された物語であることは間違いないので、「これはペンです」のような威嚇は感じないで済む。おそらくこれまでの円城塔作品のなかで一番まともな「小説」を擬態した作品だろう。併録の「松ノ枝の記」は物語を書くことの謎をめぐって、ちょっとした叙情性を醸した1作。なんとなく瀬名秀明を思わせる。このタイトルはかなり怪しい(津田)
二転三転する性別、時間軸も一直線ではなく、事実と嘘との境界も曖昧だ。10人中2人が絶賛し、3人は分からないと怒り、5人は寝てしまうという難解な小説としても知られている。ただし、著者自身がそういった詳細な読み解きを奨めるわけではない。最後に、もう1作収められた「松の枝の記」は、自分の小説を翻訳してからまた自国語に訳し直すという、まさにナボコフを思わせる作品だ。同じくナボコフの影響を隠さないジーン・ウルフの“島医者もの”を連想させるのは、偶然というより必然か(岡本) |
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第6位(同率) バナナ剥きには最適の日々
内容はともかく読みやすい字面であることは確かだ。ま、CDの歌詞カードと同じサイズで印刷された「equal」は別として。表題作が一番愉しく読めるのは当然だけれど、論理の使い回しと小説的アイデアと倫理が渾然となった感触がその他の作品からは窺える。それは「信じる」ことと「論理学」的な思考の両方にかかり、書くことが伝えることの前提であるという確信が倫理を形作る(それがどう受け取られるかは違う世界の問題か)。「equal」が目次の真ん中に置かれているのは明らかに意図的なんだろう(津田)
面白く読めたのは、やはりSF的な「バナナ剥きには最適の日々」だ。宇宙探査機の脳みそが語る物語だが、SFの定番である「探査機もの」とは違って、感動的な要素はかけらもなく、ユーモラスで、でも切なさは残る。またSFマガジンに載った「エデン逆行」はちょっと山尾悠子を思わせる幻想的な小説だが、数学的ロジックが中心にあり、これはいかにも円城塔らしい小説だ。好みです。「捧ぐ緑」はゾウリムシを使った進化の研究が描かれているが、研究そのものは主題でなく、科学の方法論みたいなものが興味の中心にある。ゾウリムシがコンピュータ・シミュレーションでもかまわないのだが、そこを生き物で描いたのは、もう一つの主題であるエロティシズムを際だたせるためかも知れない。この作品はとてもエロティックな雰囲気をもっている。「墓石に、と彼女は言う」にも、微妙にエロティックな雰囲気が漂っており、そこが面白いと思った(大野)
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第10位 マインド・イーター[完全版]
最初に明かされる設定はバカSFがつくられそうなシロモノだけれど、前の宇宙から漏れ出た「怒りと憎悪」はバーサーカー・シリーズよりもすっとシリアスで、かなりホラー寄り(クトゥルーも入ってるか)。文系ハードSFは言い得て妙。個々の短編は意外と古びてなくて、創元SF短編賞に応募したら通りそうだ。文系神林長平だったんだなとも言えそうだ。でもこのタイトルは、後付だけれどホール&オーツの「マン・イーター」がすぐに連想されちゃうところが難ですね(津田)
久しぶりに読み直してみると、傑作であることに変わりはないが、著者本人も本書の後書きで書いているとおり、小松左京作品との照応を強く感じた。それは意識とは――悪意も含めて――何なのか、生命とは何か、その宇宙における意味とは何かを、物語によって、コトバによって、メタファーによって描こうとすることである。もちろん、飛浩隆が指摘しているように、小松左京と水見稜ではその描き方は大きく異なる。小松はそのモチーフの「〜とは何か」という問いの方に視点を置いていたといっていいだろう。その一方、水見はむしろその後半、物語ること、コトバを語ること、メタファーを描写することの方に力点があったように思う。それが多用される「相」というコトバに現れているのではないだろうか。「相(フェーズ)」とは物理学的な意味――相転移というような――ではなく、むしろ「場(フィールド)」に近いものなのだろう。フィクションの「場」、世界を覆うメタファーの「場」、人が、生命が、そして鉱物までもが、その「場」の中で動くとき、「物語」が生まれる。フィクションは現実と別次元に存在するのではなく、この現実と互いに相互作用する。本書の中短篇は、そのような相互作用を様々な形で描いたものだといえよう。フィクションはコトバだけで表されるものではない。それは音楽によっても同様に表される。相互作用は――つまり、M・E、マインド・イーターは、人間だけでなく、植物にも、そしてさらさらと流れる砂のような鉱物にも影響しあい、全てを覆うフィクション場の中で、その物語を紡いでいくのである(大野)
当時大野万紀は、本書を「文化系のハードSF」と評したが、今日的な意味でハードSFとは言えないものだろう。小松左京『ゴルディアスの結び目』(1977)に着想を得たという言葉からは、小松流ハードコアとの関連性を感じさせるものの、本書を読み進めていくと、その方法論がまったく異なることに気付く。例えば「おまえのしるし」では、チョムスキーの“普遍文法”とマインド・イーター=M・Eの言葉をモチーフに物語が進むが、それはいつの間にか人に内在する心の問題へと深化する。「サック・フル…」以降の作品は、むしろ内宇宙の問題へと方向を変えていく。J・G・バラードに代表される1960年代ニューウェーヴの影響は、先月紹介した山野浩一のように直後に現れたものもあれば、飛浩隆《数値海岸シリーズ》のように30年を経て姿を見せるものもある。まるで本書で描かれたM・E症候群のようだ。実のところ、本書はその中間に現れた作品とみなせるのである(岡本) |
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第10位(同率) 原色の想像力2
どれも読ませるけれど、ちょっとだけエッジが足りない作品が多い。面白さではどれも十分面白いし、関西弁のネエチャン/オバハンが出てくる「What We
Want」なんかは好きかも。でもSFで何をしたいのかというところがまだ物足りない。その点、酉島伝法「洞(うつお)の街」は抜群のイメージ構築力で世界を作り上げていて圧巻。ストーリーはイメージほど斬新ではないけれど、それでもここしばらく読んだ短編ではベストに入る出来だろう(津田)
ある年齢以上の読者にはぐっとくる懐かしさのある忍澤勉「ものみな憩える」(堀晃賞)、頭のてっぺんに花ができた少年がモンスターと闘う(いや、そんな話じゃないのだが)定型を外した超人もの、片瀬二郎「花と少年」(大森望賞)、(中略)佳作をとった空木春宵「繭の見る夢」は、平安時代の虫愛ずる姫君の話が陰陽師がらみのファンタジーとなり、最後は何と言語SFとなるというアクロバティックなストーリーで、前半の王朝ファンタジーはとてもいいのだが、後半の大森望がいうところの飛浩隆を踏まえた現代SFというところが、ぼくにはバランスが悪く思えた。また日下三蔵賞の志保龍彦「Kudanの瞳」は予知のために人工的にくだんを作り出す話だが、SFとしてもホラーとしてもちょっと中途半端で、あまりピンと来なかった。とはいえ、いずれもSF作家としては新人ばかりのアンソロジーで、これだけ読み応えのある作品が集まるのは凄いことだと思う(大野)
今回は、プロ作家や、受賞歴があったりフルタイムではないものの著作のある応募者が半分を占めた。また、亘星恵風のように、毎回応募する人もいて、このやり方は普通の新人賞なら敬遠されるケースだ(進歩がないと見られる)。手垢が付いていない、文字通りの新人を発掘するのが常識的だと思うのだが、この賞はそんなことに斟酌しない。選から漏れた増田俊也「土星人襲来」が『NOVA7』に掲載されるなど、出版社の境界を越えたクロスオーバーまである。それくらい、応募者にはSF賞に対するモチベーションがあり、選ぶ側にも利害を越えた機会均等を考慮する柔軟性があるといえる(岡本) |