内 輪 第258回
大野万紀
大学時代からの友人が、昨年秋に脳溢血で倒れ、現在リハビリ中だということを知った。神戸の山の中にあるリハビリ施設へ見舞いに行く。広々とした敷地で環境はいい。
彼は右半身にマヒが残り、車いすに乗っていたが、自力で動くことはできる。意識もはっきりしていて、体の方はけっこう元気そうだった。
でも、言語にも障害があり、言葉はちゃんといえない(何とか意思疎通はできる)。 左手が使えるとはいえ、字を書いたりキーボードを打ったりするのは、まだ難しいとのこと。
コミュニケーションが困難なのが、本人もとてももどかしそうだった。
こういうのって、本当に人ごとじゃない。年齢が同じだけに、いつ自分もそうなるかわからない。
ずっと先だと思っていた人生の終わりが、もう目に見えるところにまで来ていると気づく瞬間。
そろそろ先のことも考えなくちゃな、としみじみ思う今日この頃です。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『蕃東国年代記』 西崎憲 新潮社
積ん読解消シリーズ。2010年12月に出た長編というか、連作短編集である。
蕃東国(ばんどんこく)は日本海にあるという島国で、中国や朝鮮や日本の影響を強く受けた文化を持つ。様々な怪異や妖怪も跳梁する、その中世(日本でいえば平安時代くらいか)の幻異譚が5編収録されている。
普通にもうひとつの日本を舞台にしたファンタジーとして読めるのだが、面白いのは各編の末尾に現代、21世紀の蕃東国に関する断片的な記述が含まれていることだ。このため、がぜんSF的な、パラレルワールド的な色彩を帯びる。つまり、幻想ではなく、もうひとつのリアルに実在した国というわけだ。
とはいえ、5編の物語自体は、リアリズムではなく、中世の絵物語のように、雅な夢のように描かれる。雨の降る湖へ昇竜を見に行くという風流な「雨竜見物」、竹取物語を思わせる秘宝を巡る冒険譚「気獣と宝玉」の2編が特に気に入った。色彩感覚に溢れ、和風なアラビアンナイトのようにも読める。
装丁・挿絵が市川春子なのね。
『トワイライト・テールズ』 山本弘 角川書店
怪獣がいる世界〈MM9〉のスピンアウト作品。
『MM9』と同じ世界を舞台に、世界のあちこちで起こった怪獣にまつわる物語4編が収録されている。
「生と死のはざまで」は日本。怪獣に押しつぶされたショッピングセンターの地下に、オタクな高校生と、女性自衛官が閉じ込められた。高校生の少年は、その怪獣が彼がいつも夢見ているファンタジー世界のドラゴンだと夢想するのだが……。
「夏と少女と怪獣と」はアメリカ。湖の怪獣を呼び寄せようとする11歳の少年は、そこで泳いでいた美少女に恋をする。しかし、二人に恐ろしい事件が降りかかる……。
「怪獣神様」はタイ。宇宙から来た巨大な怪獣は、ある星で神様としてあがめられた存在だった。不幸な生い立ちの少女と、テレパシーで心を通じ合わせたのだが、軍隊が攻撃してくる……。
「怪獣無法地帯」はコンゴのジャングル。落ちた人工衛星の回収に来た白人たちは、そこで巨大類人猿と暮らす白人の美少女と出会う。彼らは少女の協力を得て、多くの怪獣が生息する危険地帯へと入り込む……。
作者は若い読者向けに、これらの作品を思い入れたっぷりに描いており、多少気恥ずかしい部分はあるが、いかにもロマンチックで楽しく読むことができる。第一話と第二話はかなり暗い話ではあるのだが(そういう意味では第三話、第四話も怪獣大活躍の話の裏で、暗くおぞましい事件が起こっている)、社会批判的な側面が突出することもなく、バランスが取れているといえるだろう。特に、〈女ターザン〉ものである第四話は楽しく読める。
『ゆみに町ガイドブック』 西崎憲 河出書房新社
『蕃東国年代記』に続いて読んでみる。こちらは11月に出た本だ。
作家で翻訳家という(でもこちらは女性だが)著者を思わせる主人公が住む、ゆみに町という大都市近郊にありそうな街を舞台にした、ちょっと幻想味のある日常エッセイ風な小説、と思いきや、平行して語られる二つの物語が互いに侵入し、まるで北野勇作の描く世界のような、超現実的な混沌へとなだれ込む。
いや、本当、もっと軽いエブリデイ・マジック風の小説を想像していたので、これはちょっとびっくりした。
ひとつ目の物語は、ゆみに町に住む主人公が、この街のカフェや、彼女と関わる男性たちとのエピソードを、すこし不思議な雰囲気で語る、タイトルから想像できるような物語だ。現代的で心地よい小説である。アルファ・ラルファ大通りへの言及もある。そこへ二つ目の、雲マニアと呼ばれる男の話が侵入する。コンピュータを駆使し、記憶子を操作して平準化するという謎めいた作業を孤独に(でも愛犬と散歩したりしながら)続ける彼は、どうやらこの現実を操作しているらしい。いきなりSFだ。さらに、主人公が幼い頃から作り上げた架空の世界、デスティニーランドの話がある。そこは片耳のプーさんがクリストファー・ロビンを待ちわびる世界であり、ワイルドハニーバニーや地樹といった奇怪な生き物たちが、恐怖と殺戮に満ちたおぞましい狩りを行っている世界である。これらの世界はゆみに町に侵入し、「いま怪物が町に来る」(帯の言葉)。
すこし不思議なゆみに町のお話で全然かまわなかったのだが、その調和をあえてぶっ壊して、雲マニアやプーさんが、本書を居心地の悪い奇怪な世界に変容させた。それは本当に北野勇作のどろどろした世界とも地続きなものだ、とぼくには思えた。確かにこれは傑作である。
『ラピスラズリ』 山尾悠子 ちくま文庫
2003年に国書刊行会から出たものを全面的に改稿し、文庫版で再刊された連作短編集である。
幻想小説というか、ある種のSFといってもいい、緩やかなつながりを持った5編が収録されている。
冬になると冬眠する人々がいる。中世ヨーロッパを思わせる森の中で、塔のある城館に住み、大勢の使用人たちに世話をされながら、古い人形と共に冬の間眠って過ごす人々。そこにはゴーストも現れて、予期せぬ目覚めを迎えた少女と出会う。季節は秋から冬へと巡り、やがて疫病と混乱が館を襲う。しかし、これは現実の出来事か。それともある画廊に並んだ銅版画に描かれた物語なのか。
そして滅びつつある未来の日本で、海を見下ろす高台の大きな屋敷に集まってきた人々。彼らも〈冬眠人〉なのか。物語は13世紀のヨーロッパ、アッシジの聖フランチェスコが出会った奇跡へとつながって行く。
しかし、このようにストーリーを追うことはあまり意味がないだろう。特に塔の館での物語は、時間と視点とが絶えず切り替わり、何がどのように進展しているのか、よほど注意深く読まなければわからなくなる。だが、ストーリーが頭に入らなくても、冬を迎える庭園と館、大台所の熱気と臭い、様々な物が溢れる部屋の中、差し込む冬の日の光といった情景や雰囲気は、ほとんど目の前にあるかのように伝わってくる。これが山尾悠子マジックだ。とりわけ「トビアス」の、いつか近い未来の瀬戸内と思われる、衰退した町の情景が好きだ。
『第六ポンプ』 パオロ・バチガルピ 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
新☆ハヤカワ・SF・シリーズの第二弾はバチガルピの短編集。SFマガジンに掲載されたもの5編と、初訳5編の10編が収録されている。これがデビューから『ねじまき少女』までの彼のほぼ全ての短篇にあたるという。
どれもエントロピーが増大し崩壊していく暗い悲惨な世界の中で、それを日常として生き続ける人々の姿を描いた作品である。環境破壊、グローバル企業による収奪、戦争、混乱、文明の衰退、人間性やモラルの崩壊といったものをごくストレートに描くその筆致には、共感する人もいるだろうし、反発する人もいるだろう。
たとえば、不死を達成したため、子供を産むことが犯罪となり、産まれた子供たちを処分するのが仕事となった「ポップ隊」など、あまりにあからさまな設定なので、ショックを受けるよりも白けてしまう。一方、もっとバランスの取れた「砂と灰の人々」、「カロリーマン」、「イエローカードマン」、「第六ポンプ」などは、変容した社会やモラルの中で、垣間見えるごく普通の人間性の表れが、悲痛であるだけにとても印象に残る。
SF的設定が生かされている「砂と灰の人々」も好きだが、何といっても「第六ポンプ」が傑作だ。何十年もエラーを表示しながら、それでも動いているポンプたちの描写には涙が出そうになるし、このグロテスクな世界の中で、自分の仕事に責任感を持ち、きちんとやり遂げようとする主人公の、ごく当たり前で日常的な意識には、心から共感を覚える。日常を支えるのはこういう普通の人々の努力によるものだ。インフラをちゃんと動かす、保守するということの大事さ、しんどさ。その一方に、それを当たり前のこととして享受しながら、自分たちは何もせず、現場で働く人々に全ての責任を押しつけて、ただ非難するだけという連中がいるのだ。
『乱視読者のSF講義』 若島正 国書刊行会
昨年11月に出た本。京大教授の若島さんは、古くからのSFファンで、京フェスやSFセミナーでも講演している。本書はSFマガジンに2006年から2009年まで連載されていた「乱視読者のSF短編講義」、様々な雑誌に掲載されたエッセイや文庫解説などを集めた「乱視読者のSF夜ばなし」、柳下毅一郎との対談やSFセミナーでの出張講義を含む、ジーン・ウルフに関するエッセイ集「ジーン・ウルフなんてこわくない」の3パートに分かれている。
どのパートも知的興味に満ちていて面白いのだが、SFファンとしての姿は後ろに隠れていて(でも紛れもなくそこにある)、対象をテキストとして精読するという、いかにも文学部の文学講義となっている。だがそれが実に明快で面白い。
ぼくも書評を書いたり解説を書いたりしているが、あくまで一人のSFファンとして、SFとしての面白さを基準に書いている。ところが本書では「SFというジャンルの中だけにしか通用しない議論にはさほど興味はない」として、対象を単なる小説、単なる文学として、それをひたすら丁寧に読み込むという態度で分析していく(でもそれはSFらしさを無視するということではない)。ところがそれが、決してアカデミックで無味乾燥な授業のようではなく、知的で意外性に満ち、とても面白いのだ。解読は実に論理的で(科学的といってもいい)、わずかな手がかりから、作品の読みどころを明らかにしていく。
どの文章も素晴らしいが、特に気に入った1編をあげるとすれば、ディレイニー「コロナ」を扱った回だ。「コロナ」という作品の素晴らしさを、詳細なテキストの分析を行いながらも、溢れ出る感動、良い小説を読んだ、良いSFを読んだという感動を再確認させてくれる、読書の喜びを再体験できる文章である。