内 輪 第260回
大野万紀
私事ですが(といって、ここに書くのはたいてい私事ですが)この4月で、35年勤めた会社を停年1年半前に退職し、子会社へ移りました。仕事の内容は変わらず、給料が下がるというやつですね。なかなかこの業界も厳しいです。まあ失業しないだけマシか。
ところで今住んでいるマンションももう30年近くたち、部屋の中もあちこち不都合が出てきたので、少しずつリフォームしています。今度いよいよリビングをリフォームするので、その前にぐちゃぐちゃになってきた室内ネットワークをすっきりさせようと、LANの張り直しを実施。何しろ電話でダイアルアップしていた時代から、ISDNを経て、ADSL、そして光へと替える度に、増設したり迂回させたり分岐させたりで、何がどうつながっているのやらわからない状態に。天井やドアのすき間を這わせていた基幹のLANケーブルは電話配管を通すようにし、いらない脇道は全部外して無線LANにするという方針で、ずいぶん見通しよくなりました。無線アクセスポイントも新しいのに変えたので、体感速度もアップ。もっと前にやっとけばよかった。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
『いま集合的無意識を、』 神林長平 ハヤカワ文庫
SFマガジンやSF Japanなどに掲載された6編を収録した短編集である。飛浩隆、福嶋亮大の解説付き。
「ぼくの、マシン」は2002年発表の《戦闘妖精・雪風》シリーズのスピンオフ短篇だが、本書の傾向を方向付ける重要な問題作である。その問題意識は、死せる伊藤計劃との架空議論の形をとった実験的な作品「いま集合的無意識を、」や、一見スペース・オペラのパロディのような「かくも無数の悲鳴」、物語ることと自我との不確定さを描く「自・我・像」にも共通している。
「ぼくの、マシン」と「いま集合的無意識を、」については飛浩隆と福嶋亮大の解説が両方とも要点をついているが、ここで主張されているのはネットワーク的な「集合的無意識」への批判であり、そこに「パーソナルな」ものを持ち込むことによってそれを乗り越えようとする意志である。「ぼくの、マシン」の、パソコン=パーソナルコンピュータが、自立した機械ではなく、ネットワークの端末となってしまうことへの怒りは、とても良くわかるように思う。もっともコンピュータ屋としてのぼく自身は、スタンドアロンなコンピュータより、クラウドの中の軽快な端末の方に魅力を感じてしまうのだけれど。
集合知についても「南極点のピアピア動画」のようなユートピア指向により惹かれるものがあるのだが、現実はそうはいかないのだろうな。
ともあれ、「集合的無意識」が、様々な個性を含む多様性を確保した存在となるか、画一的で機械的な、自立した個人にとっては抑圧的な存在となるのか、その危険性を考え、例えばフィクションの想像力によって対峙していこうとするのが、作者の主張であるように思える。個々の作品はどこか舌足らずで、わかりにくく感じるかも知れないが、こうしてまとめて読むと、実にまっすぐに描かれていることがわかる。
『The Indifference Engine』 伊藤計劃 ハヤカワ文庫JA
『伊藤計劃記録』、『伊藤計劃記録:第弐位相』の二冊から、マンガや未完作品も含む9編を収録した短編集である。うちの1編「解説」はギブスン&スターリング『ディファレンス・エンジン』の、円城塔と合作した解説(?)だ。
全作品を通じて作者の問題意識のあり方がわかる構成になっており、興味深く読めるのだが、いかんせん未完成だったりスタイルが先走ったりしている作品もあって、決して読みやすいとはいえない。やたらとルビを使ってペダンティックに走るところや、引用やディテールに凝ってストレートな表現を避けようとするところなど、カッコつけたあまり滑っているようにも思う。
ベースは007とメタルギア・ソリッドとサイバーパンク化したモンティ・パイソンか――なんてね、そんな悪口を書きたくなるほどカッコいいのだ。
中でも虐殺に荷担した少年兵の戦後を描いて「外部=他者から押しつけられた平安」への嫌悪とその粉砕を暴力的に描く「The Indifference
Engine」、007のパロディを装いながら哲学的ゾンビの問題を深く考察する(いや考えるのではなく、その問題を実存的に生きる)「From the
Nothing, With Love」がずば抜けた傑作だ。『虐殺器官』と『ハーモニー』にそのままつながっていくテーマでもある。この世界への苛立ち、悪意。確かにこんなテーマをストレートに表現したら、息苦しくて読んでいられないものとなるのかも知れない。
あー、でもね、もっと泥臭く、感情をぶちまけるように描いても良かったんじゃないのかなあ。カッコいいんだけれど、ちょっと白けるところがある。。ゲーム的ビジュアルのせいなのかしら。もっと生な「弱み」を見せてほしかった気もする。関西出身の作家ならこうは書かないだろうとも思う。
それにしても、かつて先端的なSFはアンチヒューマンな指向が強かったと思うのだが、今はその反動なのか、現実のインターネット環境の反映なのか、パーソナルでヒューマンな(ヒューマンというのには危険で暴力的なものも含めて)方向へと向かっているように思える。現実のコンピュータの集合と分散というもの、巨大セントラルコンピュータからクライアント・サーバへ、そしてまたクラウドへと向かう流れと、パラレルなものを感じる。
『原色の想像力2』 大森望・日下三蔵・堀晃編 創元SF文庫
第2回創元SF短篇賞の最終候補作7編と、受賞者による新作1編を収録したオリジナル・アンソロジー。
受賞作である酉島伝法「皆勤の徒」はすでに『年刊日本SF傑作選 結晶銀河』に収録されているので、本書の「洞の街」は受賞後第一作となる。何といってもこれが圧巻。前作と同様の世界観で、グロテスクに変貌した人間ならざる異形の者たちが独自の用語を多用した文体で描かれている。ところがこれが何と青春学園ものとしてスタートし、宇宙SF(ちょっとベイリーっぽい)となって終わる。異形の者たちが見る別世界に、こちらの世界と思われる風景が現れて、思わず泣きたくなるような切なさがある。前作よりずっと読みやすく、イメージもわかりやすい。
他の作品では、小品だが、ある年齢以上の読者にはぐっとくる懐かしさのある忍澤勉「ものみな憩える」(堀晃賞)、頭のてっぺんに花ができた少年がモンスターと闘う(いや、そんな話じゃないのだが)定型を外した超人もの、片瀬二郎「花と少年」(大森望賞)、えげつない宇宙商人たちを相手に関西弁で渡り合う女船長の活躍を描くスペース・オペラ、オキシタケヒコ「What
We Want」、それにボーイ・ミーツ・ガールを演出するホームネットワークという、軽いけれどほんわかと楽しい、わかつきひかる「ニートな彼とキュートな彼女」、不治の病に冒された大学生が、少女にしか見えない大学教授と研究を続ける亘星恵風「プラナリアン」が面白く読めた。
佳作をとった空木春宵「繭の見る夢」は、平安時代の虫愛ずる姫君の話が陰陽師がらみのファンタジーとなり、最後は何と言語SFとなるというアクロバティックなストーリーで、前半の王朝ファンタジーはとてもいいのだが、後半の大森望がいうところの飛浩隆を踏まえた現代SFというところが、ぼくにはバランスが悪く思えた。また日下三蔵賞の志保龍彦「Kudanの瞳」は予知のために人工的にくだんを作り出す話だが、SFとしてもホラーとしてもちょっと中途半端で、あまりピンと来なかった。とはいえ、いずれもSF作家としては新人ばかりのアンソロジーで、これだけ読み応えのある作品が集まるのは凄いことだと思う。
『ミラー衛星衝突』 ロイス・マクマスター・ビジョルド 創元SF文庫
マイルズ・シリーズの最新巻。しかし、前に読んだのは2006年の『メモリー』だから、6年ぶりか。これには出版社の事情というやつがあるようだ。
それはともかく、スペース・オペラというより、どこかほのぼのと家庭的な味わいのあるこのシリーズ、今度はさらにロマンスものの雰囲気が濃厚で、それも相手は人妻ですよ(すぐ未亡人になっちゃうけど)。
まあ、ストーリーの基本はミステリである。テラフォーミング中の惑星コマール。かつてバラヤー帝国による虐殺事件もあったこの惑星で、ミラー衛星の事故が発生する。コマール人テロリストによる破壊工作の疑いもあり、バラヤーから調査のため皇帝直属聴聞官として、マイルズと元工学教授のヴォルシスの二人がやってくる。ヴォルシスの姪であるバラヤー人のエカテリンは、二人を自宅に滞在させるが、彼女の夫、コマール地球化事業省の局長を務めるエティエンヌの様子が不審なことに気づく。どうやら地球化事業省を舞台に、陰謀が進行しているらしい。
というわけで、マイルズによる捜査が始まり、地上と軌道上での、テロリスト相手の命がけの闘いとなる。それにエカテリンも巻き込まれるのだが、今回テロリストといっても悪人ではなく、政治的主張をもった過激派の科学者たちなので、血なまぐさい場面は少ない。むしろ、エカテリンに道ならぬ恋をしてしまったマイルズの、何とも笑える片想いぶりがおかしい。次の巻では二人は結ばれるのかな。
『サイバラバード・デイズ』 イアン・マクドナルド 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
近未来のインドを舞台にした連作短編集。ヒューゴー賞受賞の「ジンの花嫁」など、7編の中短篇からなる。
21世紀の半ば、インドはいくつもの国に分裂している。その戦争は一段落し、各国は緊張感をはらみつつも平和な日常が回復している。最大の問題は乏しくなる水資源を巡る紛争と、人々の間に浸透していく高度なAIへの規制である。
本書の主な舞台は、北インドの2大国、オウド(デリー中心)とバラット(ヴァラナシ中心)、それにネパールだ。インドの言葉がたくさん出てくるのでわかりにくいが、まあ、あまり問題ではない。
「サンジーヴとロボット戦士」は村から出てきてロボット戦士にあこがれる少年の話。いかにもありそうなエピソードを描いた短篇で、少年の目から見てどこか牧歌的な戦争が描かれる。「カイル、川へ行く」も少年の物語。バラットの外国人居留地に住む外国から来た少年と現地の少年の交流が、どことなく懐かしい少年小説を思わせる作品だ。この二編は、背景は別として、濃密な物語性やSF性を重視しておらず、短篇映画のような味わいがある。
「暗殺者」になると、水資源の支配を巡って敵対する二家族の中で、武器として育てられた少女の物語となり、物語性が重要となる。エキゾチシズムも重要な要素であるが、ロミオとジュリエットパターンの悲劇性もあって、エンターテインメントとして面白い。
「花嫁募集中」は男女の人口バランスが崩れた社会での戯画的な婚活を描いているが、連作を通じての背景説明という以上の魅力は感じられなかった。「小さき女神」はネパールが舞台で、生神様として選ばれた少女の物語。エキゾチシズムという意味では一番良くできている。物語性も濃厚で、面白く読めた。
ヒューゴー賞受賞作の「ジンの花嫁」は魔神=ジンとして現れるAI人格と結婚する人間のダンサーの物語。高度なAIを非合法化しようとする動きと、AIたちによる大人気の連続ドラマといったSF的な設定が大きく描かれていてSFオタク向きな話ではあるのだけれど、このメロドラマは何というか……。そして大作「ヴィシュヌと猫のサーカス」は、さらにSF度が進んで、超人とAI、インドの大地を舞台にしたシンギュラリティものである。うーん、これも力作で、小説的な技巧も凝らされ、決して面白くないわけじゃないんだけれど、今さらシンギュラリティへの入り口が光の柱だとか(ティプトリーじゃないですか!)、「みんなパライソさ行くだ」のような破壊力もない。結局、イアン・マクドナルドに期待するものとちょっと違う感が強かったということか。『ニューロマンサー』のブードゥの神々がインドの神々に変わり、エキゾチックな魅力には満ちているものの、過去のサイバーパンクやシンギュラリティものや、日本のマンガやアニメで書き尽くされた題材であり、何とも既視感が強かった。傑作というにはちょっと物足りない、残念な気分が残った。
『盤上の夜』 宮内悠介 創元日本SF叢書
第1回創元SF短篇賞の山田正紀賞を受賞した表題作をはじめ、6編が収録された短編集。そのうちいくつかは登場人物など、緩やかな連携をもっている。
いずれも囲碁、将棋、チェッカー、麻雀、古代チェスなど、知的なボードゲームを扱っている。一人のジャーナリストによる対戦者たちへのインタビューという形式の作品が多い。
「盤上の夜」では四肢を失った女性棋士が碁盤を自身の感覚の延長として扱う。「人間の王」は不敗のチェッカー・チャンピオンとコンピュータとの戦い。チェッカーはコンピュータにより完全解が得られ、ゲームとしての意味が失われる。「清められた卓」は異常な才能をもつ4人による、麻雀の勝負が描かれる。「象を飛ばした王子」は古代インドを舞台に、将棋やチェスの原型となったゲームを考え出した、ブッダの息子の物語。「千年の虚空」は異様な生い立ちをもつ少女と兄弟が、政治と将棋の世界で「ゲームを殺すゲーム」を目指す。「原爆の局」は再び囲碁の話で、「盤上の夜」の登場人物が再登場し、広島に原爆が落ちた日に行われた対局を再現する。
いずれも異様な緊迫感をはらんだ対戦の描写が圧倒的で、魅了される作品だ。登場するのは異能のある人々ばかり。超天才の頭脳を描く作品としてはテッド・チャンが思い出されるが、囲碁や将棋の天才たちの頭脳はどうなっているのかと思ってしまう。ロジャー・ペンローズではないが、本当にこういう思考は多世界に広がって同時並列計算されているのではないか、とさえ思えてくる。人間量子コンピュータだ。
本書では、そういう人々の人間ドラマも描かれるが、それ以上に、より抽象的なゲームの世界、ロジカルな世界と、その外部である日常の関係が、非常にSF的に、人工知能や認知科学的な視点でもって描かれている。壊れた日常、平凡な日常は、どのように抽象世界を支えるのか。ゲームの終焉とは何を意味するのか。しかし、こんな作品も書く一方で「スペース金融道」みたいな作品も書ける、この人は本当に才能があるよ。