続・サンタロガ・バリア  (第117回)
津田文夫


 いつまでも寒いので、夕飯を食ったらコタツで寝ている毎日。これではなにもできないのも当然だ。
 奥さんがスーパーマーケットの2階にあるフリマの会場で「きれいなクラシック・ギターが2万円」で出てたわよと云うので見に行ったら、これが1972年製ゼンオンの阿部保夫ギター。阿部保夫は、40年以上前の高校生の時、ギターが弾きたいと思い、半年見たNHK教育テレビのギター入門番組の講師役だったヒト。ギターの方は結局まともに弾けるようにはならかったけど、あまりの懐かしさに鳴らしてみると1弦が鈍いほかは意外に音が柔らかい。40年前の想い出としては2万円も高くないかと即買いしてしまった。後でネットで調べたら、オークションでタダから3000円程度で出品されていることが判って苦笑いしたけれど。買ったその日は、よし、老化防止のためにまた一から練習しようと心に誓ったが、次の日からまたコタツに逆戻り。ま、そんなもんだよね。

 CDは何枚か買ってはいるのだけれど、上記のような状況であまり聴いていない。東京事変の解散記念の2枚は一応聴いてみた。ドライな「color bars」ウエットな「東京コレクション」といった感じ。ライブでの演奏力のすさまじさは映像で見るよりずっと強烈。クラシックは相変わらずケンペを買っている。安くなったワーグナーの「ニュルンベルグのマイスタージンガー」4枚組をようやく手に入れたのだけれど、有名な序曲とはじめの女声の絡みを聴いてこれは本気で聴かないともったいないと思い、気力が湧くまでお預けとした。同時に買ったブラームスのピアノ協奏曲1番は67年の録音だというのに、モノな上に非常に音が悪くてがっかり。55年録音のワーグナーの方が遙によい音がしていた。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ第2弾のパオロ・バチガルピ『第六ポンプ』は、イーガンやチャンのような革新性はないけれど、レベルの高い短編集。デビュー作という「ポケットの中の法(ダルマ)」こそまるでサイバーパンク風の習作になってしまっているけれど、それでもストーリーテリング能力は十分発揮されている。収録作の中では『ねじまき少女』に繋がる世界を描いた作品がやはりよくできていて読ませる。その他の短編もバラエティに富むとはいえ、何らかの形で環境SFになっている。全体にバチガルピの世界認識は苦く倫理的で、それを読ませるストーリーに仕立て上げるところに作家としての力量を感じさせる。集中の異色作は「やわらかく」で、本来ならコメディホラーに仕上がっているところだろうが、微妙にハズしていて奇妙な読後感が残る。

 昨年出て読み逃していた西崎憲『ゆみに町ガイドブック』は、その散文的なタイトルから予想されるより、ややこしい物語だった。ファンタジー大賞作品ほどではないにしろ、互いにどう関係しているか定かではない3つの物語が進行する。表題通りヒロインがゆみに町での経験を語るストーリーをメインに、「雲マニア」と名付けられた雇われ限定世界創造者の話と「くまのプーさん」の世界(?)の住人(ヒトじゃないか)が語り手のファンタジー・ワールドの話が語られている。ゆみに町の話が普通の物語に見えるのは、そのように装われているだけのことで、もしかすると「雲マニア」の世界と「くまのプーさん」の世界と同じくらいファンタジックな世界になっているのかもしれない。ヒロインの夢の中で、きれいな顔した汚い服のヒトが彼女の家に如雨露で水を掛けているという最終ページの語りは、果たしてこの3つの世界をつないでいるのだろうか。

 大森望責任編集『NOVA7』は、宮内、小川、増田のおかげで、まるで大原まり子と岬兄悟のSFバカ本シリーズの1冊みたいな印象が強い。その他は谷甲州や壁井ユカコに代表されるシリアスなスタイルの作品の方が多いのに、この3人の作品のカラーが強すぎた。作品のレベルは総じて高く文句はないけれど、圧倒的という感じの作品が読みたい。

 5年ぶり(へえーっ)の作品という野尻抱介『南極点のピアピア動画』については、コタツの天板に放り出していたら息子が小1時間で読んでしまい、スゲーっ、といっていたので、そうなんでしょう。例え方を思いつかないけれど、SF(+エトセトラ)・マニアのファンタジー(「ポルノと同じくらいもてなしがよい」)というヤツではないでしょうか。

 長山靖生『戦後SF事件史 日本的想像力の70年』は、前作『日本SF精神史』に較べると、えらくとっ散らかった印象の日本SF史になっている。もうちょっと熟成させてから出した方がよかったんじゃないかなあ、と思われる記述がところどころあるし、事件史としては個々のトピックのつながりがしっくり来ない。個人史的現代SF史序説とでも呼べそうな感じがする。とか文句を言いつつ愉しく読ませてもらったことには間違いなく、こういう軽いフットワークのSF史が他にも出てくれば、すでに60年を超えた現代SFの歴史もより客観的に見られるようになるかもしれない(それが求められているかどうかはまた別の話だけど)。

 昨年はSFがらみのアメリカの評論が2冊出ていたのに読み損なっていたので、その内の1冊、フレドリック・ジェイムソン『未来の考古学@ ユートピアという名の欲望』に手を出した。モアの作品を基礎にしながら、ユートピアの考察を進める上でル・グィンをはじめステープルドンやレムやキム・スタンリー・ロビンソンやブラナーなど大量のSF作家の作品に言及したした評論だけど、マルクス主義批評はマジメだなあ、というのが第1印象。
 少し前に講談社学術文庫版『日本歴史』25巻を読んだ時に思ったのが、網野善彦の総論と全23巻の本編は出来不出来や読む側の興味の濃淡により評価は様々だけれど、一応歴史読本としての面白さはどの巻にもあった。ところが日本史評論集みたいな第25巻「日本はどこへ行くのか」の冒頭論文がマルクス批評用語満載の日本論で、ズッコケたことがある。マルクス主義批評用語使いの難点はユーモアのかけらもないことだよねえ。先頃、ケインズの『雇用、利子、お金(貨幣)の一般理論』を山形浩生が訳していてビックリしたが、朝日新聞にコラムを持つアメリカの経済学者ポール・クルーグマンの序文と山形の後書きを読むと二人ともオチョクリ精神が旺盛で、イヤミだが面白い。
 そういう点でジェイムソンの論議は鬱陶しいことこの上ない。それでも読んでて愉しいのはSFファンとしてのジェイムソンの作品選びであり、自らの学問への取り込みにおいては必ずしも傑作を選ぶ必要はないのだけれど、作品選択はけっこう趣味がいいのだ。昔、創元推理文庫で出ていたカレンバック『エコトピア』はともかく、スワンウィック『大潮の道』やオールディスのヘリコニア3部作、ニーブン&パーネル『神の目の小さな塵』そしてマージ・ピアシー『時を飛翔する女』など盛りだくさん。未訳の『未来の考古学A』はウィリアム・ギブスン論やキム・スタンリー・ロビンソン論などの作家論らしいので、出たらまた読もうと思う。


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