続・サンタロガ・バリア  (第246回)
津田文夫


 コロナ禍が過ぎ去ったかのようにゴールデンウィークの人出が戻って、それがテレビで嬉しそうに報道されるのを見ながらボケーッとしていたら、これが老化というものなんだろうなという感慨が湧いてきた。ジェスロ・タルのアルバムタイトルが思い浮かぶね。『ロックにゃトシだが、死ぬにはまだ早い』。

 4月は、3年半ぶりにイギリスから帰国した大学SF研仲間の宮城氏が姫路城に行くというので、旧交を温めに同行させて貰った。JR姫路駅から歩いて姫路城に向かう道すがら、近況報告を伺った。宮城氏はイギリス人のパートナーがコロナ感染に危機感を持っているため、この3年間ほとんど外出しなかったという。そのため日本でも室内での会食は避けるようにといわれ、結局喫茶店にも入らず、城の中で休憩がてら石段に座って久しぶりのロック談義をしていた。宮城氏は、帰国中、ディランとクラプトンを見に行くとのことで、既にディランの大阪公演には行ったという。
 姫路城そのものは、日曜日ということもあって、観光客でいっぱい。フランスの団体客にはフランス語の案内役が、英語圏の客には英語の案内役が付いて、韓国語や日本語と混じって喧噪が甚だしい。当方は子供の頃から脚が悪く、天守閣への急階段を登るのに一苦労。もっともお城なんか、松山城だろうが、広島城だろうがこんなもの。姫路城は規模が大きいだけで、観光客としてトコロテン式に押し出されながらぐるぐる回っている分には何の変わりもない。姫路城の売店で宮城氏はパートナーに土産を買っていたが、餡子ものは好きでは無いとのことなので、チョイスは限られていたようだ。
 JR姫路駅にもどる途中に、歩道のテーブルで食べられるソバ屋があったので一服。姫路駅で別れたが、宮城氏は夜にまだ上映中の映画館で「エブ・エブ」を見に行くという。疲れたけれど、とりあえず宮城氏と話もできたので良しとしよう。

 前回NHK交響楽団に較べると広響はまだ若いと書いたが、今回も知人の誘いで電車に揺られること1時間余り、廿日市市のホールで広響を聴いた。プログラムがブラームスの2番のピアノ協奏曲と4番の交響曲、横山幸雄のピアノに超久しぶりの高関建の指揮。高関建は渡邉暁雄に次ぐ3代目の広響常任指揮者。 ググると1986年から4年間と30年以上前の常任だった。1955年生まれというから、まだキャリアの始め頃だったんだな。ベテランとなった高関建の指揮は身振りが大きく見ていて面白い。横山幸雄のピアノはテクニックの勝った演奏で、広響とはやや隙間がある感じがした。アンコールはブラームス晩年の小品から。4番の交響曲はいつどんな演奏でもそれなりに聴ける1曲。今回もやや渋めな演奏ながらとりあえず満足した。アンコールはハンガリー舞曲集から4番だったかな。

 SFの方は、相変わらずプロパーな新作長編がない中、ファンタジー系の続編を読んだ。

 その一つが、前作とっても面白かったジャスパー・フォード『クォークビーストの歌』
 今回の表紙絵は前回の賑やかなキャラクターの集まりから一転して、16歳で魔法マネジメント会社社長代理を務めるが魔術が使えないヒロイン、ジェニーの悩める表情の肖像が印象的(タカヤマトシアキ画)。背景に「クォークビースト」が居るようだけれど影が薄い。
 物語の方はオビの惹句にあるように「世紀の魔術合戦勃発!!その内容は……橋の修理」というのだから、前作の派手さに較べるとかなり地味である。一応、ライバル会社が王国の魔術顧問を独占する野望を実現するための魔法合戦がクライマックスにはなっている。もちろんジェニーの会社の魔法使い達が、事故やライバル会社の陰謀で次々と脱落するサスペンスがあるのだけれど、お約束のドンデン返しで終わる。
 個々のエピソードは相変わらず面白く読めるので、無問題。ただ訳者(ないとうふみこ)解説でも言及されているように、「クォークビースト」がちっとも出てこないのだ。まるで幽霊みたいに痕跡が現れるだけで、遂に本体が現れたらそれは一巻の終わりになっていたという具合。確かに表題の歌がキーではあるが、ちょっと影が薄い。ということで表紙でも影が薄いのだった。

 こちらも、オビには「ヴィクトリアンSFミステリ」と謳っているが、歴史物のロー・ファンタジーっぽい続編が、シオドラ・ゴス『メアリ・ジキルと怪物淑女たちの欧州旅行 Ⅰウィーン編・Ⅱブダペスト編』。それぞれ新☆ハヤカワ・SF・シリーズとして1月と2月に連続刊行された。まあ、急いで読むような話でもないので、今頃読んだ次第。
 前作を読んだヒトは御承知の通り、登場人物の一人、猫娘のキャサリン・モローが書いている物語に、メアリ・ジキルを初めとするモンスター娘たちのツッコミが入るというスタイルなので、どれほどの大冒険だろうとも全員無事で終わることは最初から判っている。それでもⅠ・Ⅱ合わせて800頁を超える長編が楽しく読めるのは、作者(訳者原島文世)のお手柄であろう。
 今回新しく加わる怪物娘はヴァン・ヘルシングが手を加えた吸血鬼娘ルシンダで、彼女から救出を求める手紙が届いたことから、今回はずっと行方不明となる予定のホームズの協力でメアリとジュスティーヌ・フランケンシュタインがウィーンへ旅立つのだが、メアリに居残りを命じられた腕白妹ダイアナ・ハイドが密航して付いてきてしまうのはお約束。ウィーンではホームズの知人アイリーン・ノートンの世話で、ルシンダ救出作戦が行われる。当方はホームズ物を読んでないので、アイリーンの経歴にピンと来ず残念であった(今回ググりました)。
 後半はルシンダの謎を解くため、ヴァン・ヘルシングも参加するという錬金術師協会の総会が開かれるブダペストにメアリ一行が向かうが、彼女らは行方不明に!(この物語構成では当然メインキャラの行方が不明なわけはない)。それを知った居残り組のラパチーニの毒娘と猫娘のキャットがウィーンを目指し、そこからブダペストに向かうことになる。一方、行方不明の一行はメアリ/ダイアナの父親であるジキル/ハイドに捕らわれて危機を迎えるが、そこへカーミラと名乗る女が救出に現れ、ヴラド伯爵の城へと案内する(ここまでくれば原典を読んでなくても今回が吸血鬼編だとわかる)。
 というわけで、ブダペストでの錬金術師協会総会会場が、モンスター娘が勢揃いしての派手な戦闘の舞台となって、一巻(2巻ですが)の終わり。
 次の冒険へのつなぎとして、最後に出てくるのは、今回ホームズがずっと行方不明になっている原因として言及されるホームズ最大のライバルの名前(次はホームズネタのオンパレードかあ、まあ元ネタが判らなくても楽しく読めるさ)。

 これも続編だけれど、さすがに格が違うと思わせるのが、フランク・ハーバート『砂漠(デューン)の救世主〔新訳版〕』上・下。
 読んでる途中で、ハーバートの作劇の濃さに「二流のシェイクスピア」という感想が湧いてきたのだけれど、訳者の酒井昭伸さんが書いた「訳者あとがき」のタイトルが「二十世紀のシェイクスピア」だった。
 酒井さんの解説にもあるとおり、昔の矢野さんの訳で読んだとき(18歳)には当方も面白い以外に感想もなかったけれど、これだけ情報が博捜される時代になると、酒井さんが喝破しているように、キリスト教・シェイクスピア・クロムウェル(清教徒革命)という、この作品の底にある作劇のレントゲン写真が撮られてしまうのであった。
 その作劇の強さを踏まえての酒井さんの新訳は、相変わらずピントがシャープに合っていて、忘れていた多くのディテールが蘇る。
 なお「二流のシェイクスピア」はけなし言葉ではなく、三流のシェイクスピアさえいなくなった(というかもはや誰も頓着しなくなった)時代に、あえてこの作劇法をエンターテインメントに用いたハーバートの蛮勇を褒めているのです。
 それにしても素っ裸で剣術練習するアリア(エイリア)ちゃんは、柔道着のルーク・スカイウォーカーより遙かに魅力的だなあ(でも忘れていた)。

 日本の方もめぼしいプロパーSF長編がないなか、こちらも一種の続編なのが、上田早夕里『上海灯蛾』。いわゆる15年戦争時代の上海や満州を舞台(題材にケシの栽培があるのでインドネシア半島まで広がる)にした伝奇的物語の長編第3作。普通に読めばSFとは云えないが…。
 今回は、日本陸軍も深入りしたアヘン密売を巡って、中国マフィア青幇(チンバン)と関係を持つことになる、上海に移住した日本人青年を視点人物に据え、そのきっかけを作った上質のアヘンを青年のところに持ち込んだ日本人女を狂言回しに、青年と義兄弟の誓いを結ぶ青幇の一派の幹部との関係を軸にして、一大狂想曲が繰り広げられる。
 前回『ダイダロス』のところで書いたように、戦後世代にとっては、小説の題材としての15年戦争の時代もやはり「お勉強」で舞台を作り上げていくしかない。それは現実の歴史にフィクションを忍び込ませるとは云え、そこに描かれた現実の歴史もフィクションの構成物なのである。というわけで、江戸時代小説がファンタジーと化したように、近現代歴史小説もエンターテインメントとしてはもはやファンタジー若しくはSFの異世界づくりに似てきてしまう。
 「昔日本とアメリカが戦争して日本が負けたんだって、」「ヘェーッ、そりゃ当たり前だなあ」などと云うレベルでしか一般的な関心が持たれなくなったような時代の物語を、リアルを目指して構築していくために「お勉強」は必要だが、話自体のエンターテインメント性はキャラクターたちの関係(会話と行動の描写)によって紡がれる。おそらくそれは上記の翻訳SF/ファンタジー作品でも同じことだろう。
 これを読んでいて、20年近く前、大和ミュージアムにいた頃、館内図書室用資料として送られてきた不二出版の十五年戦争極秘資料集のパンフに、中国/満州でアヘン密売をする日本人の資料集の紹介があって、その売上が軍部の資金源になっていたと書いてあったが、まあ、陸軍資料だし大和ミュージアムには入れなくても良かろうと判断して、その時は買わなかったのを思い出した。
 次はSF長編が読みたい。

 こちらはSFプロパーと云えないことはないが、今頃になって単行本の時と別の出版社で文庫化されたのが、畑野智美『タイムマシンでは、行けない明日』。奥付前の頁によると単行本は2016年11月に集英社から出されたが、初文庫化は5年余り経って小学館文庫となった。良かったね。
 それはさておき、以前この作者の短編集『ふたつの星とタイムマシン』を集英社文庫で読んだ覚えがあったので手を出した次第。実は最初、間違えて前作の方を買って帰っていたことに書店カバーを外して初めて気がつき、あわてて本作を買ったのであった。前作の返品はしなかった。まあ別装幀だし、年寄りになって最近はよくあることだしねえ。
 短編集の姉妹編とは云え、これはこれで独立した長編になっている。
 研究者の父が勤務するロケット打ち上げ基地がある南の島で、主人公が高校生時代に図書館でそれまで疎遠だった女子と話が出来るようになって、淡い恋心を抱いて初デートの待ち合わせと思ったら、彼女は目の前で交通事故に遭って死んでしまう。彼女を救えるチャンスがあるならとタイムマシンに繋がる研究をするため大学院生になった主人公は、先輩の余り親しくしたくない女性大学院生から、引退した前の指導教授から研究室の使われていない倉庫にタイムマシンがあることを教えられ、何度かテストした後、あの事故の日を目指して乗り込むのだった・・・。
 ということで、ありがちなタイムマシン・ストーリーが展開していると思いきや、メインストーリーはタイトル通り、元いた世界とわずかに違うパラレルワールドで元いた世界と同じ研究室の30代の助教授(のち教授)として過ごす主人公が、別人として元いた世界でよく知った人々(家族・友人・知人そして自分と同い年の彼女)が彼の元を訪れるようになる。
 書きようによっては、ミステリにもホラーにも出来る設定だけれど、作者はあくまでも主人公の思いに焦点を当てているので、「恋愛小説」に分類されるといえようか。しかしSF読みとして印象に残るのは、これがタイムマシンものとしてかなりガチガチに人物の設定と配置を行っていることだ。東京ノスタルジア抜きの広瀬正を思わせる形式の強さがあり、なおかつ結末の「恋愛小説」的な謎はちょっと不思議な感じを残す。
 この2冊を拾った小学館文庫の編集者は良い仕事をしたのではなかろうか。
(これを書いている最中に、蛸井潔さんの個人誌「糸納豆EXPRESS」54号(第41巻!第1号)に当たる『IT54 クリストファー・プリーストひみつぶっく』が届いたので眼を通していたら、パラレルワールドは歴史改変SFになるんだと教えて貰ったので、『タイムマシンでは、行けない明日』もそういう風に読めるかもと思った次第。ただし、作者はそういう方向ではこの作品を書いていないと思うけれど)。

 え、もう最終巻なの、と読み始める前は前作『大日本帝国の銀河』のように、またコマ落としの未来史になるんじゃないかと懸念されたのが林譲治『工作艦明石の孤独4』
 話の方は、相変わらず地球へのワープが出来ない状態が続き、ヴォイド宙域の星系で孤立したまま、セラエノ星系の人類は新しい政治社会機構を進展させて、より効率的な社会運営を始める一方、ワープ可能だが人類が未踏査のもうひとつの星系で遭遇した、やはりワープ技術を持ちながら人類同様母星へのワープが出来なくなった異星性種族イビスとの交流を深める・・・。と、最終巻でも相変わらず人類と異星人とのゆっくりとした相互理解の物語が展開されて、遂に人類とはかけ離れたイビスの進化過程が明かされる。
 しかし、この4巻を費やした母星から孤立した異星人同士の邂逅物語は、最後の最後、残りわずか30ページとなってから、イビス側の科学者によって驚天動地のハードSF理論が怒濤のように展開されて、当方の目が点になった。
 なんとイビス側からみれば、人類が「時間」ととらえている何かは人類の認知の歪みに過ぎない(いわゆる「時間は存在しない」)ことが、タイムマシンによる親殺しパラドックスがエネルキー保存則と熱力学の第2法則を援用するだけで成立しなくなることを例に挙げ、証明されてしまうのだ。
 すなわち『タイムマシンでは、行けない明日』が、何故そうなのかを論理的に説明できてしまうのである。広瀬正もビックリだろう。
 そしてもっと驚くのが、ワープそのもののハードSF的解釈が開陳される場面。これによって、なぜ人類とイビスがこのヴォイド宙域でファースト・コンタクトすることになったかも説明できてしまう。おまけにエピローグの最後の1行が「そう、伝えるべきことは山のようにある。なんと言っても6500万年分の歴史だから」で閉じられていて、作者の欲張りぶりに頭がクラクラする。
 アンバランスと云えばアンバランスに過ぎるけれど、最近こんなに驚いたハードSF理論はなかったので、忘れがたい1作になった。
 それにしても、あのノワール『不可視の網』の林譲治と同じ人物がこれを書いているとは思えないくらい落差があって、この宇宙の人類社会に『不可視の網』は成立するんだろうか、などと考えてしまう。

 新作短編集やオリジナル・アンソロジーの方を見れば、予備知識や先入観も無く読める分、続編を読むのとは別の期待感がある。とはいえ、当たり外れもよくある話。

 岡本俊弥さんの書評を読んで、やっぱり読んでおこうと手に取ったマシュー・ベイカー『アメリカへようこそ』は、オビに「ファンタジー、寓話、ホラー、ディストピア、SF、ミステリ等あらゆるジャンルを横断する」と小さく書いてあったが、SF読みが読んだ感想は、収録した各短篇にそれぞれのジャンルの仕掛けは使われているけれど、作者はジャンル小説を書くことに関心が無いんじゃないかなあ、というものだった。
 短編13編を収めて500頁近いソフトカバーでけっこう分厚い。長さも10ページ余りのものから 60ページ近いものまでバラエティに富んでいる。
 岡本さんの紹介にもあるように、収録作のほとんどすべてにジャンル小説、特にSF的なアイデアが使われている。
 SF的なアイデアだったものを挙げると、
 「儀式」は、いわゆる「定年退食」。
 「変転」は、いわゆる意識のアップロード。ここではアップロードすると肉体が消失する。
 「終身刑」は、凶悪犯罪者が記憶剥奪されて社会に戻される。
 「楽園の凶日」は、暴力性が男の本質なので女だけで社会を構成している。
 「女王陛下の告白」は、いわゆる金ピカ金持ちの家の少女が、一家の習慣として見せびらかし消費をやめられないので同級生から「女王陛下」と揶揄されている。集中では長い1編。
 「スポンサー」は、結婚式さえ大企業の広告料で賄われる世界。
 「幸せな大家族」は、家庭による子育てが否定された集団育児の世界で、わが子を連れ出してしまう話。
 「出現」は、どこからともなく現れるようになった人間達を州境の外へ運び出す。
 「魂の争奪戦」は、いわゆる「魂が足りない」というヤツ。これも長いが、ホラーで決着する。
 「アメリカへようこそ」は、田舎のある町が独立国家となって「アメリカ」を名乗る。
 巻末の「逆回転」は、ヒトは墓場で生まれ子宮に帰っていく世界の話。
 ということで、形式上はSFと呼ばれても不思議はないのだけれど、この作者はアイデアそのものには何の関心も示さず、シチュエーションとして使っているだけである。すなわちここで使われたSF的アイデアは、ほとんどが手垢の付いた共有財産的なものばかりで、それを新しくSFとして書こうとすると、作者ならではのヒネリを加えようとするものだが、これらの短篇にそちらへの志向は微塵も感じられないのである。だからSFとして読んでしまうと気の抜けたサタイアとしてしか受け取れなくなってしまう。
 裏表紙のオビで引用された、本書を絶賛する書評を書いたような人たちは、たぶん普段SFなんか読まないのであろう。
 まお上記はSFとして読むから出てくる悪口で、この作家に文学的才能が横溢していることは間違いなく、それはほとんどの収録作品で披露される、いわゆる「ものづくし」を書くパワーに感じることが出来る。「魂の争奪戦」で、ズラーっと並べられる死体の様子の描写とか、一種のヴァンパイアものである「ツアー」の主人公が経験する官能の延々と続く描写には一読の価値があると思う。

 これまたオビに「著者初のSF短編集」と書いてある斜線堂有紀『回樹』は、SF的な考察はともかく、設定の発明と使い方においてSFなスタイルが強く感じられる作品集になっている。
 表題作とその続編にあたる巻末の「回祭」からわかるのは、突然存在することになった「回樹」がそのナゾが解かれないまま、死体を受け入れる存在であることにより、愛する人の遺体がそこへ持ち込まれるという設定によって、作者は、「回樹」が遺体を受け入れたらそこには絶対的な「愛」があったことが明らかだ、というミステリの倒叙もののパターンを作っているということだ。なので、この2編では、百合ものの愛憎の殺人事件的物語が展開するが、結論は最初から明らかなのである。
 「骨刻」は、入れ墨ならぬ、生体骨彫刻というアイデアにビックリするが、お骨になって初めて出現するメッセージというのは、シリアスにもコメディにも、当然ミステリにも愛の物語にも使える汎用性の高さに感心してしまう。この作者の思いつきのヘンさがSFと見まがう原因なんだな。
 「BTTF葬送」は「回樹」同様再読。これは名作映画には魂が籠もっていて、魂が足りなくなるパターンのバリエーションですね。
 「不滅」ここまで来るとバカ(SF)話の域にいってしまう。
 「奈辺」は、ちょっとビックリ、アメリカ西部時代の酒場を舞台に、宇宙人と黒人を扱って人種差別問題を取り上げたサタイア。この作者には珍しいタイプなのかな?。
 以上6編、本文250ページのハードカバーだけれど、収録作品はどれも高水準な1冊。

 もはや不定期刊行物となりつつある、大森望編『NOVA 2023年夏号』は、編者自ら声を大きくして宣伝しているとおり、「日本初の女性作家のみによる書き下ろしSFアンソロジー」らしい。編者は巻末あとがきでも日本の女性作家のSFが傑作選やアンソロジーなどに掲載される率が低かったことに言及している。まあ過去については、これから伴名練がいろいろ発掘してくれることでしょうが。
 それにしてもここ10年にデビューしたSFを書く女性作家が急増したことは確かで、もはや女性若しくはLGBTQ作家が賞を総なめしているアメリカみたいにはならないにしても、現在及び将来編まれる傑作選などに多数の女性作家が収録されていても不思議がない状況になりつつはある。もっとも女性作家であることと作品が優れていることは無関係なはずではあるのだが・・・。
 それにしても巻頭が池澤春菜「あるいは脂肪でいっぱいの宇宙」でその次が高山羽根子「セミの鳴く五月の部屋」なんて、そのコントラストの出来が良すぎて呆れてしまう。なおかつこの2人が実際に仲の良い友人同士なんだから仕掛けでもあるのかと思ってしまう。
 芦沢央「ゲーマーのGlitch」は初めて読む作家かな。ゲームの世界には疎いのでSFとしてはよく分からない。
 最果タヒ「さっき、誰かがぼくにさようならと言った」は、この作者にしてはえらく具体的なストーリーのように思える。高山羽根子同様さすがのタイトルではある。
 揚羽はな「シルエ」は悲しい話。ハッピーエンドみたいだが。関係ないけど、バンプの「アルエ」を思い出す。
 吉羽善「犬魂の箱」は江戸時代のからくり物としての犬型ロボット話。よくできてる。
 斧田小夜「デュ先生なら右心房にいる」この作家の具体的なSF性のある作品には期待している。今回も読ませる。
 勝山海百合「ビスケット・エフェクト」これはホッとする話。ちなみに今年あった地元の文学フリマで見つけた「総社文芸」で作者の名前を見ました。
 次が溝渕久美子「プレーリードッグタウンの奇跡」これはアメリカが舞台でホントにプレーリードッグたちから見た世界が描かれる。勝山海百合の次がこれというのもなかなかよくできている。
 新川帆立「刑事訴訟第一審訴訟事件記録玲和五年(わ)第四二七号」は、単行本の短編集では褒めなかったけれど、同じ傾向の作品として、これはこれできっちりとした作品に仕上がっている。
 管浩江「異世界転生してみたら」は、さすがのベテランの実力を見せつけるシロモノ。
 斜線堂有紀「ヒュブリスの船」は、そこまでして登場人物を壊したいのかと、さすがにコワイ話が展開している。伴名練のジャンヌダルク話よりヒドい。これがアンソロジーのクライマックスとしておかれていることがわかりますね。
 ラストは藍銅ツバメ「ぬっぺっぼうに愛をこめて」は、ちょっと懐かしい伝奇的なホラータッチの物語。当方は「ぬっぺらぼう」と覚えてました。
 以上、自慢するだけのことはあるアンソロジーにはなっていると思う。

 フランチェスカ・T・バルビニ、フランチェスコ・ヴァルソ共編『ギリシャSF傑作選 ノヴァ・ヘラス』は、中村融さんの「訳者(代表)あとがき」によると、以前竹書房からでたイスラエルSFのアンソロジーに続くものとして英米以外の国のSFアンソロジー(英訳版)をいくつか読んでみて、これなら出版に値するだろうと見当されたのが、このギリシャSFアンソロジーだったとのこと。ちなみに編者はイタリア人で、英訳はギリシャ人が担当している。
 今回は収録作家の一人による簡潔なギリシャSF史が巻頭におかれていて、それを読むとギリシャSFとして国内で注目されるものが書かれるようになったのは、ここ20年余りのことだったらしい。巻末にある収録作家たちのプロフィールに生年が書かれているものを見ると、60年代から70年代生まれで、その分大人の書いたSFという印象をもたらす作品が多い。また11編を収録して240ページ程度なので個々の作品は短い。
 収録作のオトナっぽさや現代性は、冒頭のヴァッソ・フリストウ「ローズウィード」がすぐに判らせてくれる。海面上昇が進んだ地中海で水没したギリシャの都市の建物を調査するヒロイン。両親がアルバニア出身難民でギリシャに来たら経済破綻で最底辺の仕事しかなかったが、ひとり娘は高学歴の海中技術者となった。高給で海中の調査を依頼してきたのは、水没ビルを富裕層向けリゾートとして開発する企業だった・・・。
 SF的な大仕掛けではなく、現代的な問題をきれいにすくい取った1作で、他の収録作も、枚数のせいか、わりと単純なSF的設定をシリアスな物語として定着させているものが多い。
 コスタス・ハリトス「社会工学」は、VRが当たり前のアテネで選挙戦が行われ、「社会工学」の専門家はある依頼を受けるが・・・。オーソドックなサタイア。
 イオナ・ブラゾプル「人間都市アテネ」は、アフリカ出身の新アテネ駅長が、上級官僚の女性からギリシャ語に関する意見を聞きながら仕事をする話。最後に置かれているのは「労働は人を自由にする」という標語。そりゃ、ディストピアな話だ。
 ミカリス・マノリオス「バクダッド・スクエア」は、アテネがヴァーチャルで標題どおりバクダッドと重なり合っている世界。これはSF的存在論がテーマ。
 イアニス・パパドプルス&スタマティス・スタマトプルス「蜜蜂の問題」は機械のハチの修理で稼いでいた男が本物の蜜蜂が蘇ったといわれ、不安にさいなまれる。これも環境SFもの。
 ケリー・セオドラコプル「T2」は、妊娠中のカップルが胎児検診に向かうのに、切符代のことで言い争いながらも子供のためを思って高価なT1で移動したのに、検診結果は意外な事に・・・。遺伝的特徴が経済格差をもたらす世界。
 エヴゲニア・トリアンダフィル「われらが仕える者」は、観光客が訪れる島で迎えに出る人造人間が主人公。自分の元となった人間は地下に住むが、その本物の方を島で見かけるようになって・・・。最後は、島から出られないはずの主人公の脱出劇となる。
 リナ・テオドル「アバコス」、画期的な食糧を開発したという会社の広報官とジャーナリストの会話劇。わりとストレートなサタイア。
 ディミトラ・ニコライドウ「いにしえの疾病」は、だれもが長命な時代に原因不明の短命病の患者がいるが、新たにその研究を始めた医師にたいする研究所の対応が怪しい・・・。一発オチだげれどシリアスな雰囲気が上手い。
 ナタリア・テオドリドゥ「アンドロイド娼婦は涙を流せない」は、語り手の女性が人造半機械式人有機体型/アンドロイドの娼婦を、現地情報連絡員のディックに紹介される。出会った場所は「虐殺市場」。そしてこの世界のアンドロイドには身体の目立つところに真珠層がある・・・。エピソードは新聞掲載用に書かれた下書きで、「ファイル」という形の短章で構成されている。タイトルとディックから連想されるように、映画『ブレードランナー』から派生したようなスタイリッシュな1作。
 トリのスタマティス・スタマトプロス「わたしを規定する色」は、タトゥ・アーティストの店に女がやってきて、タトゥの図柄を見せてその図柄の男を捜しているという・・・。女の行動が多視点の断章で語られる、主筋は復讐だが、やはり現代的でスタイリッシュなディストピア的作品だ。
 それにしても現代ギリシャ人の名前というのは、めったに目にしないこともあってなかなか読み慣れないですね。 

 先ほど読み終わったのが、今回唯一の単独SFプロパー長編、結城充孝『アブソルート・コールド』。以前読んだ『躯体上の翼』が面白かったので読んでみた次第。
 サイバーパンクという触れ込みだけれど、もはやサイバーパンクのテクノロジーはありふれていて、その点では目新しいSF的なガジェットが登場するわけでも、物語が斜め上に展開するわけでもなく、オーソドックなプロパーSFエンターテインメントになっていて、楽しく読ませて貰った。
 ストーリーは、多視点で展開されるが、第一視点は貧困層の組合員という少女、コチ(東)に置かれ、第2視点は市警察の対不法侵入者狙撃員だったが、市警察さえ自由に動かすと言われる市唯一の大企業佐久間が開発した高度技術で死者の記憶にアクセスする部署へ転属させられた来未(くるみ、男性の苗字)に、そして第3視点は元市警察官だったが、今は酔いどれ探偵で、難病の娘を持つ尾藤(ビトー、男性)に置かれ、必ずしも順番通りでも視点人物が固定されてもいない自由度を持って視点が素早く入れ代わって進行する。
 話の基本的な筋は、コチが組合長の命令で警察の死体置き場に行き、同じ組員だった少年の遺体から重要な何かの記憶キューブを見つからないように盗み出したところからはじまって、このキューブを巡ってすべてが動き出し、複雑な展開が織り上げられていく、というもの。
 物語の設計図がうまくできていて、読み手には判っていても、登場人陸たちは血を流しながら右往左往しているのが楽しめる。アクションは派手だし、AIたちの使い方も堂に入っているし、警察内にうごめくあれこれの陰謀や大企業内の部署間やAIによる抗争、貧民層を牛耳る組合同士の抗争や街のチンピラなど、登場人物が数多く、重要脇役もそれぞれバランス良く配置されている。
 ヒロインのコチが健気なので、作者も余りイジメないが、来未やビトーはかなりハードな目に遭う。しかし、読み終わってビックリするのは、ヤラれ役のキャラ以外は、たとえ死んだも同然な目に遭っても全員何らかの形で生き延びていることであった。
 そういう意味では『アブソルート・コールド』でもない話だったかなあ。判りにくいSFはイヤだと云う人にも十分楽しめる1作ですね。

 ノンフィクションはまたの機会に。


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