続・サンタロガ・バリア  (第174回)
津田文夫


 正月気分も終わってしまいましたが、みなさま明けましておめでとうございます。本年もどうぞよろしくお願いいたします。

 12月は、映画『この世界の片隅に』の衝撃のアフターマスがまだ尾を引いていた初旬に、グレッグ・レイクの訃報が入ってきて、えーッ、それはないだろうと、絶句してしまった。1年のうちにエマーソン・レイク&パーマーの前の2人が失われるとは。
 EL&Pのアルバムで発表されたレイクのソロ・パフォーマンスがとても好きだった。デビュー・アルバムの「ラッキー・マン」から90年代の「ダディ」まで、芝居がかった大げさなアレンジも含めて好きだった。
 1973年頃だったか、『ロッキング・オン』の渋谷陽一がアメリカに行き、『恐怖の頭脳改革』ツアー中のグレッグ・レイクに会った時の印象を、繊細な詩人肌の人間かと思ったら陽気なフツーの兄ちゃんだった、みたいに書いていたのを思い出す。また、80年代初頭レイクがゲイリー・ムーアにサポートを頼んでソロ・アルバムを録音したが、ゲイリー・ムーアが、レイクが曲作りにあれこれ理屈をたれるのを、たかがロックン・ロールなんだぜみたいに嘲笑していたことも思い出す。
 エマーソンが自伝でレイクを尊大でイヤなヤツとけなしていたことも含めても、グレッグ・レイクの曲と歌からはレイクの人の良さと弱気なナルシシズムがうかがえて、むしろその性格がこれらの曲を作り出していたような気がする。
 そういえば青池保子のEL&Pが出てくる漫画はなんだったけ、と思ってググって、ああ、『イブの息子たち』か・・・ と思ったら、EL&P図書室2号に意外なことが書いてあった。レイクと思っていたあのキャラはピーター・フランプトンだったのだ。

 あまりのことに12月はまったくCDも買わずに過ごしたが、SF忘年会でかおるさんが、Nocturne Moonrise というアルバムを貸してくれたので聞いてみた。いわゆるシンフォニック・メタル・バンドというやつだけれど、台湾のバンドというところがミソ。ちょっとググると、これは2014年作の2枚目でセルフ・タイトルのアルバム。ちなみに同年イタリアのプログレ・バンドの前座として来日した模様。
 メタル・プログレはドリーム・シアターぐらいしか聞いてないので、これがどのレベルなのかよくわからないけれど、すくなくともシンフォニックの看板らしいストリングスは、椎名林檎のアルバムで聞ける斉藤ネコのストリング・アレンジなどを知っていると、まだまだ工夫が足りない感じである。また、典型的なメタル・ドラミングも安っぽい感じがする。それでも欧米のメタルと違った東アジア系歌謡メタルが聞けるところが面白い。
 メイン・ヴォーカルの男声はわりと甘い声質で、いわゆるデス声は使わず、節回しも聞きやすい。曲作りはキーボード担当の女性が担当していて、バンドの実質的なリーダーでもあるらしい。彼女もリードやコーラスを歌う。ギターがオーソドックスで巧い。歌詞は全編英語だけれど、ボーナストラックとして5曲目の'When the Holy War has begun' (ベタですね)の中国語版がついていて、これが英語版以上に歌の良さを発揮している。特にリフレインの韻の強いところが可愛く印象に残る。
 同曲英語版のPVがYoutubeにあったので覗いたら、再生回数352回って、本物は別にあるんだろうね。

 正月休みにスターウォ-ズのスピンオフという『ローグ・ワン』を地元のおんぼろ映画館で見てきた。吹き替え。
 パンフレットや前情報もあまり見ずに、SF忘年会で前半と後半が違うテンポになっているけど面白いとの話を聞いただけで見た。
 これが第1作につながる話だったのを知らずに見たおかげで、最後まで楽しく見ていられたけれど、見終わってすぐ連想したのが、これって『七人の侍』/『荒野の七人』 をモデルにした皆殺しの詩じゃないか、というものだった。あとでググってみたらまあそういうモノであったらしい。それと、このエピソードがジェダイ騎士団敗北後の時代だったと気づいたのは、僧形の東洋系キャラが単なるジェダイおたくに過ぎなかったことがわかってからだった。最後の5分はトイレに行きたくてエンドタイトルで中座した。シネコンでもう一回字幕版を見てもいいかも。

 SFはとりあえず新刊に手が出なかったので、気楽にスッと読めそうなモノをと、積ん読から山本弘『MM9-Invasion-』を取り出した。2011年刊。
 ヤングアダルト特撮怪獣モノ第2弾だけれど、前作の方がもうちょっと大人向きだったような気がする。でも、これはこれで悪くない。3作目はそのうち文庫で読むかもしれない。

 全然知らない作家だけれど、たまにはいいかと読んでみたのが、畑野智美『二つの星とタイムマシン』。帯にあるように「タイムマシンや超能力がもしも使えたら―?」を女性的な日常の想いで描いた短編集。ゆるい連作短編集になっている。SFというよりは「ドラえもん」的な話の作り方(ただしエピソード自体は成人女性向き)がされている。読み終わって解説を見たら、ユビキタス大森望だった。

 新刊で読んだのはまず、宮内悠介『月と太陽の盤 碁盤師・吉井利仙の事件簿』。本格ミステリという触れ込みだけれど、何が本格なのか知らないので、フーンと想いながら読む。
 碁盤師に弟子入りしたという16歳のプロ棋士男子とそのガールフレンド18歳の女流棋士が狂言回し役で、名品の碁盤の贋作師などという変なキャラもほぼレギュラーで、最後の謎解きはもちろん利仙の役目、決めぜりふは「あとは盤面に線を引くだけです」。
 面白いことは面白いけれど、宮内悠介にしてはややぎこちない物語運びが感じられて、肩すかしなところがある。それにしても、よくもまあ次々とこれだけの作品が書けることよ。スゴいな。

 森岡浩之『突変世界 異境の水都』は、あの分厚い書き下ろし文庫『突変』の続編ならぬ前日譚。
 水の都は大阪湾岸地域ということで、大阪弁世界がアチラにいっちゃたけれど、今回は向こうの世界の異生物よりも、日本から切り離された大阪世界での組織対組織の闘争劇がメイン。ガンガン読ませるけれども、SFとしてどこまで面白いかは別の話。まあ、少年パートがそれを担っているんだけれど、後半はどうしてもドンパチがクライマックスになってしまって、ページターナーながらやや退屈を覚えるという矛盾した印象。百万単位の人間が何をしているのかというとちょっとわからない。

 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ最新作は、タイトルを見てびっくりのチャイナ・ミエヴィル『爆発の三つの欠片(かけら)』。500ページあまりに28編もの短編(短いのは数ページ、長くて40ページ)をおさめた1冊。
 読み終わってまず思ったのが、これってSFシリーズで出すよりも、単行本向きじゃなかったのか、というもの。しかし考え直してみれば、一定の売り上げが最初から見込まれるSFシリーズで出す方が3000円超の並製製本で出すよりは営業的に安全と判断されたということなんだろう。
 ということで、最近のミエヴィルは、ここで見られる限りにおいては、SFプロパーとはかなり隔たったところにいる。一種ホラー・タッチな作品群としみれば、その感触はジェフ・ヴィンダーミアの3部作を思わせるところがある。
 収録作品中ではやはり長めのものが印象に残る。まず「キープ」のもつムードがこの短編集の印象を決定づけている。そのムードがたった3ページの冒頭表題作に反映しているかどうかはよくわからないけれど、全体としてホラーがかった奇想小説みたいなものが多く、不条理な感覚も強く出ているので、ホラー・タッチのJ・G・バラードが誕生しつつあるのかもしれない。離島での発掘競争が心理ホラーになる「山腹にて」や医学生のための疑似患者を演じて狂気を感じさせる「バスタード・プロンプト」、精神科医の問題解決法がブラック・ユーモアになっている「恐ろしい結末」などがそれに当たる。
 その一方で氷山がロンドンの空に出現する「ポリニア」やそれに続く「〈新死(ニュー・デス)〉の条件」などは普通に奇想小説で、この短編集では最もSFに近い、海上櫓が陸地を目指す(海亀みたいだ)「コヴハイヴ」もまたそのタイプだろう。
 作品集としてはレベルが高いが、作品が多すぎてどのタイトルがどの印象だったか覚えていられないのが難ですね(そんなのはアンタぐらいなものだと云われそうだけど)。

 ジャック・ヴァンス・トレジャリー第2弾、ジャック・ヴァンス『天界の眼 切れ者キューゲルの冒険』が順調に出た。30年以上前から知ってるタイトル(たぶん原書も買ったはず、当然読んでない)だったけれど、ようやく日本語で読めるようになった。
 ジャック・ヴァンスの小説家としての意地の悪さは、キューゲル・シリーズの方がマグナス・リドルフよりもよく出ているかもしれない。ここでのキューゲル・シリーズは、出来心で魔法使いの品を盗んだキューゲルが逆に捕まって、魔法使いに強制されて宝探しとそれを持ち帰る冒険譚が、一話完結形式の連作長編になっている。その一話一話にヴァンス特有の異世界趣味が横溢しているのが魅力であることは間違いないが、それよりも驚くのは、キューゲルを含めてすべてのキャラクターがヴァンスの手でろくでもない目に遭わされていることだ。
 まず、善人というものが出てこない。キューゲルは女好きだが、自分の安全のためならヒロインになれそうな美少女だって裏切ってしまう。もっともその美少女も結構打算的でご都合主義なんだから同情できないが。物語の最後の方でキューゲルは巡礼の一行に加わって故郷を目指すが、この一行の道行きの悲惨さはすさまじい。さすがにキューゲルは生き延びるも、最終話での魔法使いとの因縁の決着が更に悲惨で笑わせる。こういう味わいはたぶん他の作家には期待できないかもしれない。

 さきほど読み終わったのが、谷甲州『航空宇宙軍史・完全版3 最後の戦闘航海/星の墓標』
 第1巻第2巻で描かれた第1次外惑星動乱終わって、この巻では戦後掃海に戦時中の生体兵器開発の顛末を描いた短い長編と、その生体兵器開発が人間とシャチの脳に関わってまるでサイボーグ009のブラック・ゴースト物語みたいな様相を見せる4つの連作中編が納められている。
 後半の『星の墓標』収録の4中編では、サイボーグ009のことが思い出されたように、やや古めかしさが目立つ。あのダンテ中佐が帰ってきて、驚異的な精神的タフネスを見せつける第1話の描写や、その描写をさらに拡大したエピローグ「星と海とサバンナ」の精神攻撃描写は強力だが鈍重で、それが古めかしさにつながっているのかもしれない。シャチの一人称もこの航空宇宙軍史リーズ内のリアリズムと合致しないこともある。
 まあこれらの不満は読後に浮き上がってくることで、読んでいる最中は物語世界に没頭していたのだけれど。
 一方の『最後の戦闘航海』は、戦後掃海という敗戦後の日本軍掃海部隊の悲哀を彷彿とさせている。もっとも話の主筋は生体実験の顛末へと動いていくのだけれど。
 敗戦後の瀬戸内海掃海作業の過酷さと触雷による悲惨な事故については、昔仕事で調べたけれど、掃海後に触雷覚悟で試験航海するモルモット船なんか本当に怖い。そして1950年6月に朝鮮戦争が勃発して、準備不足の米軍に付き合わされた日本の掃海部隊が朝鮮半島の元山沖で掃海中に1隻が触雷、占領5年目になって日本人青年が1名戦死した、等と云うことを思い出しながら読んでました。

 最初に書いたように12月は、フィクションを読んだりCDを聞いたりする気力があまりなかったので、もう何年も前から読んでおきたいと思ったデイヴィッド・ハルバースタム『ザ・コールデスト・ウィンター 朝鮮戦争』上・下を読んでいた。谷甲州の『最後の戦闘航海』に現実の朝鮮戦争の日本掃海部隊を思い浮かべたのはそういう理由だった。
 親本のハードカバーが2009年刊で文春文庫になったのが、2012年。文庫は丸善で今年買ったのだが、未だ初版だった。ヤスリが掛けてあったけど、よく店頭に並べていてくれたものだ。さすが丸善。
 ハルバースタムは本作の脱稿後に交通事故で亡くなったので、これは遺作となった。訳者は最高傑作と入っているけれど、文庫が初刷のまま動かなかったのは、内容を読めばよくわかる。
 文庫の上下合せて1100ページで描かれているのは、アメリカ兵が朝鮮戦争勃発以来被った地獄の戦場の経験談と、そのような状況をもたらした東京のマッカーサー司令部、そしてそれをコントロールできない本国アメリカの政治的混乱しかないからだ。もちろん金日成と李承晩への言及はあるが、蒋介石とアメリカのチャイナロビーの話の方が遙かに多いし、中国については毛沢東とスターリンの関係にページが割かれている。
 いかにもハルバースタムらしく、戦場での勇敢な下士官兵とその指揮官の一人一人のエピソードに寄り添いながら、マッカーサーの狂気とそれに取り入った(戦争指導という意味で)無能な将軍たちの絶望的な行動を描き出している。ハルバースタムはアメリカ軍を徹底的に痛めつけた中国軍の悲劇の将軍彭徳懐を同情的に描いており、マッカーサーが解任される頃には毛沢東がマッカーサー並みの狂気に陥ったとしている。
 朝鮮戦争は1950年6月に始まり53年7月の休戦協定まで3年間続いたが、ここで取り上げられているのは、だらけきっていたマッカーサー司令部のもとで、開戦当初に釜山まで撤退を余儀なくされた米軍の悲惨さ、その劣勢を同年9月に実施されたマッカーサーの天才的な仁川上陸作戦で盛り返したところで、中国全面参戦を予期しなかったために生じた再度の悲惨な戦闘、そしてリッジウェイが登場し、なんとか中国軍を食い止めた51年2月までの戦闘、最後に4月マッカーサーが本国召還され、「老兵は死なずただ去りゆくのみ」で姿を消すまでの、わずか10ヶ月のことである。
 ここには朝鮮戦争の後方基地となった日本がほとんど描かれていない。日本にいるのはマッカーサーとその取り巻きで、日本という国はマッカーサー王国として言及されるだけだ。強かったアメリカ兵たちを骨抜きにさせた従順な被占領国として、冷たく描かれた日本の姿に共感できる日本の読者は少ないだろう。別にハルバースタムにその意図はなかったとしてもやはり鼻じらむものがある。冬に朝鮮半島の北側へ行くものではないことだけはよくわかったけれど。

 ブルーバックスというのに、読み始めたらノンフィクション・ストーリーになっていたので、なんだコレと思ったのが、ルイーザ・ギルダー『宇宙は「もつれ」でできている 「量子論最大の難問」はどう解き明かされたか』。なんと570ページもある。
 作者は大量の資料を読み込んで、量子物理学に関わった物理学者たちの対話をノンフィクションとしてつくりあげた。まあ、眉にツバをつけた方が良さそうなエピソードもあるけれど、全く数式が出てこないと云うことだけでも数学音痴にはありがたい。
 以前取り上げたように岩波文庫のボーア論文集を読んでいたおかげで、戦前までの前半はわりとすんなり読めたけれど、1950年代からのアインシュタイン等の「隠れた変数」理論に基づくデヴィッド・ボームの理論あたりから、なんだかよくわからない世界に入っていく。
 量子力学の非局所性とジョン・ベルの不等式となると結構ワクワクするけれど、理解できるかどうかは別の話。最終的に多くの物理学者が、量子力学が相対性理論と折り合いがつかずとも、「量子のもつれ」現象は量子力学に実用性をもたらしており、それが暗号解読や量子コンピュータに結びつくことで、量子力学が「使える」ものであることに何の問題もないとする立場らしいけれども、量子論にはまだ隠れた何かがあると考える立場の方が面白いのは確か。それにしても実験屋さんを含め、ここに出てくる数物系大学院生はスゴイねえ。


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