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続・サンタロガ・バリア (第277回) |
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
年末は今年2回目の青木さん主催のSF忘年会に参加。年初の1回目は日にちを間違えて参加し損ねたので、今回は早めに新大阪について、ホテルを確認してから、緑地公園駅に行き久しぶりに息子に会った。夕方にホテルに戻ってSF忘年会。今回も楽しく過ごさせていただきました。青木さんをはじめ皆さんありがとうございました。
そういえば参加された藤元直樹さんから、最近あちこちに書かれた研究報告のコピーを何点かいただいて、読んでみるとなかなか面白かったので簡単に紹介しておこう。
ひとつは初期映画検閲の話題を追った「一九一七年・警視庁「活動写真取締規則」の成立 映画検閲創世記―検閲官・沼田穣の挫折」とその続編「悪の検閲官という聖痕(スティグマ)からの解放 橘高広―立花高四郎再考」(『映画論叢』68号2025年3月及び70号同年11月)、これを読むと大正期から昭和の初めにかけて、サイレント時代からトーキーへ変わろうとする時代に、主に教育界の意見で警察が検閲を担当し始めたけど、検察官は映画マニアで本職の警官ではなかったらしい。警察側には、まだ大した問題意識がなかったようだ。サイレント時代の初代がすぐに身を引いたこともあって、続編の主人公は大活躍していたようだけど、この人は戦後まで生きたが娯楽映画の検閲よりも教育映画の分野で活躍していたらしい。
もう一つは新聞研究の「酸っぱいブドウかお宝か―欄外記事という課題 附・新聞の版次について」(『近代出版研究』第3号2024年)。こちらは当方も現役時代は明治・大正の新聞にお世話になったので、本来余白であるはずの欄外に記事が印刷された新聞をよく目にしている。もっとも当方の場合は、幸いというかいい加減というか、戦時中の新聞統合(一県一新聞)のあおりで仕事のなくなった地元新聞人が、地元名士の屋敷の新聞蔵に閉じこもって明治19(1886)年以来の各種新聞から地元に関連した記事をすべて手で写し、単行本にして発刊した『大呉市民史』があったので、大抵はこの本でチェックして本文確認のために新聞原本を読んでいた。藤元さんのこの記事では、欄外記事が印刷間際の情報を刷ったことに関連して、その日のうちに何刷りか出された版違い(本来後になるほど最新情報が載る)の新聞紙面調査があって参考になりました。
そして最後がSF関連の「一九三〇年のファウンデーション―改造社世界大衆文学全集版『海底旅行』の翻訳者木村信児を捜して」(『EXGELSIOR!』20号2025年11月 日本ジュール・ヴェルヌ研究会発行)。
昔はこの手の、ある意味万能どちらかというと中途半端な才能の持ち主がいて、翻訳業を中心に様々なことに手を出す(巻き込まれる)タイプの人(インテリ)がいた。藤元さんの調べた文献によると、木村信児は昭和13(1938)年当時東京発声文化映画製作所員として満蒙学術映画の撮影監督を担当していたとか、慶応大学の考古学者の戦後の回想記事には、早稲田大学出身で百科事典編集者、映画の仕事にも才能を発揮とあり、やはり考古学関係者からはその文献調査能力を称賛されていたという。その百科事典がすなわち戦前1930年代の平凡社大百科事典。そしてそこにはこの木村信児のほか、『SF古典こてん』で紹介された人物やいさましいチビのイラストレーターこと水玉蛍之丞の祖父など妙にSFに縁のある人々が集っていた。(これがタイトルの「一九三〇年のファウンデーション」の由来)。当時の編集部を知る人間の回想によるとサヨク崩れやアナーキスト崩れがいて一種の梁山泊みたいだったと云う。
ここら辺までがプチインテリともいえる木村クンのエピソードだけど、藤元さんの筆はこの木村信児が若い時からアナーキストの集団に属しており、いわゆる特高の「思想資料」にその名が見いだされるところまで行く。この木村と若い時から付き合のあった作家の子息の回想からは、木村は往年の左翼で、表面上やむなく転向したものの人生をいまさら変えようもなく、いわばわき道を歩いていた人間のひとりだった、という人物評を引っ張ってきている。ここら辺の藤元さんの調査力がおもしろい。最後に木村信児の出自を記して終わるが、父親の方はそれなりに資料があり研究もされた人物であることが判明している。ただし息子の方はまだ誰も注目した人がいないというのが、藤元さんの言。明治30
(1897)年生昭和28(1953)年没。この年齢からすると、ちょうど木村鷹太郎の子供世代なので、親父が鷹太郎だったらもっと注目されたかも。
音楽の方に移ると、昨年最後に行ったコンサートは、クラシック好きの知人に誘われて聴いた小山実稚恵のベートーヴェン後期3大ソナタ(30,31,32番)の演奏会。場所は市内とはいえ車で小1時間の離島、下蒲刈美術館ホール。前にも何度か書いたように、ホールといってもただの広い廊下であり、低い天井とコンサートを予定していない狭さのため、客は階段や展示室の一部にまで座ることなる。
行ってみたら今回は300回記念(25年間)ということで、スペシャルな催しであった。
元NHK交響楽団専務理事元サントリーホール総支配人という経歴の地元出身原武氏が司会。小山実稚恵は20年連続で毎年ここでコンサートを開いてきて、いまや島の名物ミカン狩りまでするようになったとか。
当方座った場所からはかろうじて柱とピアノの響板の間に演奏者の顔が見えるだけだったけれど、10メートルもないので、ひとつひとつの表情がよくわかって面白かった。演奏そのものは、曲目が曲目なだけに、また数年前にこの曲目でCDを出していることもあって、非常に立派。休憩時間に当該CDを買ってしまったくらい。大晦日に聴いてみたら生演奏が思い出されて、聴き入ってしまった。
では読んだ本から。
前回積み残したのは、まず多和田葉子『太陽諸島』。親本は2022年。この10月に文庫化。スカンジナビア半島の言語をごっちゃにして意味を通じるようにしたパンスカを使うHirukoが、北欧留学中に祖国が消えたと知り本当かどうか確かめようとする3部作の物語。ヒロインを取り囲む様々な国籍/人種の男女とヨーロッパを旅する話でもある。
最終巻にあたる本書は、新しい取り巻きが加わらない代わりに、取り巻きの一人が告げた祖国を探しに行けばいいという提案に乗って、Hirukoは格安貨客船に乗り込むが、取り巻きも全員が引っ付いてくる。今回はその船が(時折下船するものの)全編の舞台となっている。
船上が舞台ということは、常に移動しているのに物語の生じる場所がずっと同じだということを意味している。そしてそのことを象徴するかのように、この船はバルト海のあちらこちらに寄港するだけで、大西洋に出るまでに物語の方も大団円を迎えている。そして物語は、ほぼ仲間同士や他の船客たちとの会話からもたらされる情報が大部分を占める。
叙述形式は前2作同様、Hirukoをはじめとする仲間たちそれぞれの視点からのエピソードで構成されており、その点ではすでに読み慣れたパターンを踏襲していて、とても読みやすい。
3部作を通して最大の謎は、Hirukoの祖国(今回ようやく波がJapanといって、その名が明らかになる)がどうなったかなのだが、物語の構成上からすると、それは駆動力であって主題ではない。じゃあ何がテーマかというと、やはり「言葉が(翻訳されて)通じる」ことで世界は成り立っているというようなことだろうと思われる。ここでは一般化できない言葉のニュアンス(たとえばHirukoが披露する新潟弁「なじらね」)があることを含めてその可能性が考察されているようだ。
しかし何よりも読んで面白いということが、一番大切な要素であることは間違いない。
こちらも10月刊だったけれど、読むのが遅くなった宮澤伊織『ときときチャンネル ない天気作ってみた』は5編を収録。語り手十時さくらが同居人の「天才科学者」多田羅美貴の発明(といっても「超高次元のエネルギーネットワーク《インターネット3》」からの横流し情報を利用する)を毎回配信で紹介する短編シリーズの第7作から11作を収めた第2集。後半2編が書き下ろし。このうち、『紙魚の手帳』に掲載の表題作と「高次元で収益化してみた」が既読。
冒頭の「電気DIYをしたら気持ち悪いことになった」は「Web創元推理マガジン」掲載作で、タイトル通り電気代を浮かせるための自家発電を何種類か試す話。ここでも電気電流エネルギーについての蘊蓄とSF的なムチャぶりが駆使されているけれど、最後のアイデアがさくらの動きをいくつもの高次元空間に投影したらさくらの動きだけで電力が発生するというもの。なんだか10次元だか11次元だかの4次元以外の次元が折りたたまれていることでダークエネルギーが発生しているかもとかいう話を思い出す。
書き下ろし「ブラックホールで手首鍛えてみた」は、透明容器内に時間も止まるという超静止水に極小ブラックホール閉じ込めたものが出てくるところから始まる、ブラックホール蘊蓄で進む話。だけどこの話一番のアイデアは、ペットにした「時間」である「バンちゃん」がこの超静止水に突っ込んだら頭半分で止まってしまい、さくらがひっこぬいたときに「バイーン」と音がした。この音が巻末のもう1篇の書き下ろしを呼び込むことになる。
その「宇宙からの荒らしとバトってみた」は、既読の「高次元で収益化してみた」で高次元での収益化の契約相手「+ぬさん」が、収益化したおかげでこの「バイーン」が高次元にも伝わり、これを攻撃と受け止めて反撃に出た高次元クラスタから時間ループ攻撃があったことをさくらたちに告げる・・・。
どの作品も読んで面白くSFファンのSF心をくすぐって止まない。
11月に出た作品は、「なんだかなあ」という感想の湧いたものが続いた。
まずは、ロブ・ハート&アレックス・セグラ『暗黒空間』。原書は2024年刊とあるから新作もいいところだし、ロブ・ハートは前作『パラドクス・ホテル』が面白かったとこともあってちょっと期待したのだけれど・・・。
タイトルページ裏の小活字で刷られた作者二人の献辞「ブラッドベリに」と「ジーン・ロッデンベリーに」をちゃんと読んでいれば、ここまで戸惑うことはなかったんだけれど、エピグラムの方がカール・セーガンにル=グウィンだったのが誤解の元だったか。
「マニフォルド321―B 地球から四・一光年 宇宙船モザイク号の操縦席(ルビはフライト・デッキ)」という舞台設定の一行から物語が始まった時、すでに気づいていなきゃいけなかったんだけど、素通りしてしまったのも敗因だった。
大体、人類初の星間亜光速巨大宇宙船がAIも積まずに、パイロットが亜空間航行重力発生エンジンの人為的サボタージュが行われた可能性を感じるなどというミステリ設定が、作品のパロディ/オマージュ的性格を表しているし、量子論の同時収縮を利用した通信がモールス信号しか使えないなど、大笑いしてしかるべきだったのに、その時点でもまだこれが最新SFだと思っていたんだから救いようがなかった。
渡邊利道の巻末解説冒頭にあるように、これは『スタートレック』へのオマージュとして書かれたおおらかな60年代SFテレビドラマの再現であって、作者たちも本格SFを書こうなどとはまったく思っていない。『パラドクス・ホテル』の作風を思えば、当然のつくりだったのだが、気がついたときは後の祭りであった。残念。
吉田親司『第二警察』の方は、ずっと昔新ハヤカワSFシリーズのJレーベルで出た『マザーズ・タワー』をまったく評価していなかったんだから、読まなくてもよかったのに、久しぶりだから読めるかと思って手を出してしまったのが敗因ですね。
第2次世界大戦で最大の勝利国となった皇国日本(でも象徴天皇制っぽい表現もあった)の警察組織は腐敗していた。そこへ現れたのが世界最大の起業家韋駄アキラ・・・。
この設定を読んだところで投げればよかったのに、最後まで読んでしまったんだから当方が悪いのだけど、まあ読ませるだけの筆運びはあるので最後まで読んでしまったということでもある。
こりゃ最初から最後まで「韋駄アキラ」と名乗る人物の妄想だったに違いない。
変な組み合わせと思いつつ、アメコミ・ノヴェライズだと気が付いた時点でこちらも投げればよかったものの、訳が安野玲・内田昌之で解説が堺三保とあれば、キアヌ・リーヴス&チャイナ・ミエヴィル『再誕の書』は読むに値するだろうと思うのは仕方がない。
本体はアメコミ設定の一連の物語で、8万年前に生まれ、死ぬたびに再生を繰り返しながらすべてを記憶しているという男をめぐって、現代アメリカの特殊部隊と研究所を舞台にあれこれ怪しい話が展開(?)していくもの。目次ではこの本体各章のタイトルが上段に並ぶ。これに対してこの男にかかわった様々な時代の様々な人々の一人称の短編のタイトルが下段に並び、中段には男が生まれてからのエピソードが2人称でつづられた断片的物語のタイトルが並んでいる。
読み終わった後で目次を見返せば、かなり凝った構成でミエヴィルの工夫の跡が見えるものの、主たる現代の物語が徹底的につまらないうえ、ミエヴィルの重厚な文体がその物語の噓臭さを強調している。
これに対して様々な時代の様々な年齢の男女が男との出会いと別れを一人称で語る6つの短編は、いかにもミエヴィルらしい作品に仕上がっていいて、男の設定を表に出さないことでバカバカしさ補って見せている。それでも4000円も出して買うべき本だったとは思えない。忘年会では三保さんにイチャモンをつけてしまったよ。ゴメンね。
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今回最大の難物が韓松(ハンソン)『紅色海洋』上・下。立原透耶(監訳)・林久之・上原かおりという翻訳陣で新世紀社刊。帯には「水棲人が語る、未来の記憶」と書かれていて、どれどれと第一部「我々の現在」を読み始めた・・・。
先に早川書房から出た『無限病院』のエキセントリックな物語のつくり方は、ここではさらに強烈で、地上に住めなくなった人類の末裔であるらしい水棲人は赤く染まった大洋でも滅びへの道をたどっているが、作者が持ち込んだのは同族を食料とすることに何のタブーもなく、ついには食用に女と子供を牧場で育てるというところまで行く物語。主人公の視点からは、そのようなアイデアが素晴らしい閃きとして淡々と描写されるのである。
いかに現生人類とは似ても似つかない姿かたちをしていると書いてあっても、視点人物の少年時代からの遍歴を主筋とする当たり前の冒険小説的な構成と、あまりにもあっけらかんとした食人行為や食人のための戦いのエピソードとの落差は、それが反道徳的なエンターテインメントとして書かれていないことによって、当方のような常識的な読者にとっては異和感が持続する。
ホラーがエンターテイメントなのは、それが現状へのアンチであることによって読者を怖がらせて(楽しませて)いるからだが、この作者は物語づくりの作法を見る限り、そんなことを考えてこの食人世界を描いてはいないように感じられる。そのため異和感が半端なく、読むのに抵抗感が生じるのだ。
第2部「我々の過去」に入ると、水棲人に伝わる創世神話から始まり、水棲人の歴史に現れた様々なエピソードが語られ、果ては「百万年後……宇宙戦争のふたりの脱走兵が光子宇宙船でこの水多き惑星にやってきた」で始まるはるか未来のエピローグまで用意されている。こちらは、どのエピソードもSFとしてはエキセントリックではあるけれど、読む苦労はない。そのかわり第1部が現在でこちらが過去というのもピンとこない。どんだけ時間が経過したんだろう。
第3部「我々の過去の過去」では、なんと改変歴史上の日本で軍の研究者たちによって「水棲人第1号」が造られるところから第1章が始まる(ギャグには見えん)。この世界は「ホワイト人」が世界的戦いに勝ち、彼らはどんどん住めない環境になっていく地球を脱出して月に行き、月から地球の人類(「ホワイト人」以外)を攻撃しているのである。
そして第2章のタイトルが「紅色海洋」であり、ここでは重量1万2千トンの海洋石油掘削プラットフォーム(石油の枯渇で最後の1基)を舞台にした乗組員たちの悲惨な物語が展開する。しかしこの章のタイトルが意味しているのは、プラットフォームを海から侵蝕する強靭な「赤い藻」であり、「生物兵器」の可能性が示唆されて、プラットフォームを囲む海は赤く染まっていく、そしてすべての海が・・・。ということで、一般的なSFファンからするここでようやくタイトル『紅色海洋』の由来が理解されることになるわけだ。
こうしてみると、第3部の改変世界観はやや古めかしい感じがする。それは「ホワイト人」や「帝国日本軍」の使い方がいかにも古い中国のプロパガンダを反映しているように見えるからだが、これに関しては、現代中国SF界では年長者に属すると思われる1965年生まれの、文化大革命とその後の混乱期に子供時代を経験した作者の実感が込められているのかもしれない。
そういう意味では中国史に絡めた改変世界物語である第4部「我々の未来」が一番なじみやすい話になっている。とくに明時代の鄭和の大航海を描いた最後のエピソードは面白い。
実際の鄭和は東アフリカのソマリアやケニアまで行ったらしいが、ここでは喜望峰を回ってポルトガル方面まで到達して、幻想の東西交流が熱夢のような雰囲気で描かれている。ちょっとローラン・ビネ 『文明交錯』っぽいところも。
最終章には再び「紅色海洋」というタイトルが用いられ、鄭和を失ってヨーロッパに残った乗組員と子孫は故郷への船団を組織して海洋に乗り出す・・・。ここでも「紅色海洋」の悲劇的なはじまりが語られて終わるが、だからといって大団円的な感慨が湧くわけではない。
読み終えるのに3週間以上かかった。
ここからが12月に出たもの。
ハヤカワ文庫SFから出た辻村七子『博士とマリア』は、24世紀世界を支配する大企業から逃れてクリニック船でフリーの医者をしている「博士(ドクター)」と助手のロボット「マリアⅡ」が毎回患者を治療するエピソード5編からなる200ページもない薄い1冊。うち4篇が2025年の『SFマガジン』に掲載。謎解き編である最後の1篇がおそらく書き下ろし。巻末に作者あとがきがある。
いかにもこの作者らしいホンワカとした表面とシビアな視点が同居していて、相変わらず面白く読める。SFとしての新味はあまりないけれど、だからといって楽しく読めることに違いはない。巻末の1篇で描かれる大企業独裁の熾烈さとそこから逃れざるを得なかった企業研究者の物語が作者の持ち味をよく表している。
作者あとがきでは父への思いがつづられている。
第13回ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作と帯にあるのが、関元聡『摂氏五千度、五万気圧』。
先に感想を書いてしまうと、選考委員のひとり神林長平が危惧した「この物語の設定を読者に納得させる力が弱い」という意見に激しく同意してしまったのだった。
SFとしての個々のアイデアは申し分なく、一つ一つが時間を隔てたストーリイとして別々の主人公を立てて、それらの人物に関連を持たせた形の連作短編集だったらこんな印象にはならなかったかもしれない。
まず、異星人が地球を訪れて、地中海のヨットから夫婦を拉致、その後数日で地球人類の運命を超科学で変えて去っていったという序章はやや安っぽいが、最初のエピソードである、摂氏70度に達するまでになった地球環境の中で、体内にダイヤモンドを育てる一族が絶海の島に住んでいるというアイデアはいい線行っている。ロートルSFファンだとハル・クレメントを思い出すようなタイトルだけど、こちらは天然ダイヤモンド生成条件。ただしこのタイトルが物語全体を象徴しているかはちょっと疑問。
その一方で、人類が熱波からの避難コロニーとして使える「コクーン」が異星人の置き土産だったとして、現状はコクーンが地球上の数十カ所に散らばって存在し、数千から数万人がこの閉鎖的コロニーで暮らしているという設定をメインにしながら、コロニー間の連絡はどんどん失われ、調査に出向いたヒロインのひとりは、コクーンに丸い穴が開いている状態でコロニー民全員が熱波で死んでいるのを見つけてもあまり不思議に思わず、なんでそんな仕組みが存在するのかという当たり前の疑問への執着や危機感が非常に薄い。
その一方で冒頭のエピソードには人間は島の女からダイヤを奪う危険な者たちと代々云い伝えられていて、たまたまヒロインの一人である少女の時には一人の人間の男が滞在を許されていた・・・。
そしてン3人目のヒロインはどうやら島出身の女の生き残りで、人間に復讐するため、各コクーンに取り入っては、そのコクーンの円形外壁を開放して住民を熱死させることをしてきた・・・。
この最初の3つの各ヒロインのエピソードで、一番混乱したのが最初のエピソードと島出身の女の復讐者のエピソードの時間設定が明らかでないことだった。これは読むうちにおいおい分かってくるのだけれど、章立てが3人のヒロインの名前を時系列順に並べたものなので、各人の関係が分かるとナニソレという感想が湧くし、コクーンテロリストであるヒロインのエピソードで、後半になってから地球上には2本の塔が立っていて、その塔には雌雄があり、その塔が今の姿になる前にはこのヒロインと配偶関係にあったなどと云われると、さすがに構成がうまくいってないように感じられる。
ということで、細かいアイデアはどれも面白いのにそれを長編として組み合わせるのに工夫が足りなかった作品のように思えた。昔の言葉でいえば「眼高手低」なのかな。
竹書房文庫からは英語圏SFの代わりに韓国のSF・ファンタジー・ホラー系短編集が出始めた。今回手を出したのは、キム・イファン『おふとんの外は危険』。長短12編を収録。
表題作「おふとんの外は危険」はたった6ページのショートショート。目が覚めたら布団に外は危険だといわれ、寝床から出たらそこら辺のものがうるさく口を利く。主人公は精神科に行くと入院させられた…。なかなかのセンスを感じさせる1篇。
「Siriとの火曜日」は35ページほどの短編。近未来にSiriというAIロボットのベータ版使用者に選ばれた主人公が部屋にロボットを迎え入れ、いろいろ試していくうちに友人がやってきて、ロボットに失礼な口をきいて帰る。ロボットの開発者がアップルでロボットを通じてあらゆるデータを収集しているという設定で、主人公たちは別のたくらみをしている。ちょっと目新しいタイプのオチだ。
「バナナの皮」もショートショート。主人公が遅い時間に開いているカフェに入ると、バリスタからおススメコーヒーを出され、帰ろうとするとお代はなしでお土産の箱までくれた。帰り道になんだろうと見るとバナナの皮だった・・・。ちょっとしたヒネリが効いている。
「#超人は今」は後に加筆されて長編になったという1篇。超人のいる世界で、超人に頼る社会に警鐘を鳴らすためテロリストがビルに入り込み人々を射殺、そこへ超人がやってきて、テロリストを全滅させてしまいうがヒロインの親を含め41名の犠牲者が出た・・・。
超人はソウル地区でしか活動できないとか国民投票で「超人法」を制定するとか変な方向に行く話だけど、表題の「#」はいわゆるハッシュタグで、超人のゴシップサイト名。
「運のいい男」もショートショート。これはタイトル反転の一発オチ。
「セックスのないポルノ」はSM趣味のゲイカップルを中心に据えた表題通りのきわどい感じが面白い25ページほどの1篇。
「魔導書」はさらに短い1篇で、龍退治をして手に入れた魔導書が焼けていて一部しか読めないようになっているというもの。竜は頭数が増えて何度でも襲い来るし、退治するたびに焼けた魔導書の一部しか読めない。最後は現実の日常世界に着地する。SFとはいえないか。
「万物の理論」はマクドナルドで天文台の観測記録を読んでいる科学者の話。毎ページ、20分からのカウントダウンが表示されているところがミソ。
「スパゲティ小説」は40ページほどでやや長め。「バナナの皮」に出てきた店を舞台に、鍋に面白い話を聞かせるとおいしいスパゲティができるという話に乗せられた作家が語るちょっとホラーっぽいファンタジー。結末で「面白い話」の論理的な謎解きが用意されているけれど、ファンタジーの雰囲気は持続する。収録作品中では最もよくできた1篇かも。
「君の変身」は、美容整形への執着が限界を超えて肉体改変に突き進む話。ただし語り手はそれを見ている側。これもホラータッチの作品だけれど、怖がらせるための作品ではない。
巻末の「透明ネコは最高だった」もショートショート。家に入る帰ると透明ネコに話しかけられる場面から始まり、透明ネコが出て行ったところで終わるが幸福感は続く。
作者あとがきと訳者(関谷敦子)あとがき付き。
なかなか良い短編集だった。
現役時代は長い間図書館ある1室(この部署に転課した当初は総務部でのちに企画部や産業部に属し現在は文化スポーツ部に属しているジプシー(死語)のようなセクション)で過ごしてきたので、図書館員に顔見知りは多い(現在の館長は昔の部下だったりする)こともあって、資料以外の本を借りることはほとんどなかった(例外は「SFマガジン」のスタジオぬえ特集号)けれど、ここへきて翻訳ハードカバーが軒並み5000円前後になって、むやみに小遣いで買うのも躊躇するようになった。
ということで、昨年出たその手の本では一番気になったトリスタン・ガルシア『7』を借りて年末年始に読んでみた。
読後感は、この作品は肌に合わない、というものだった。岡本俊弥さんの評は肯定的だったし、冬木糸一さんは昨年のベストに挙げていたけれど、当方の感想は『本の雑誌』の大森望評のそれに近い。いわく「ジャンルSFの手法/モチーフを使った世界文学という感じだがあまり新味はない」。
長めの短編6篇に7つのパートで人生を7度繰り返す短い長編の表題作からなる部厚い1冊。収録作のそれぞれに、戦後アメリカSFで使いまわされたようなアイデアを使いながら現在的なモラルのエピソードをひっかぶせたような感じが付きまとう。基本的に悲観的な話(サタイアとして書かれているわけではない)が多く、読んでて全然楽しくないのが一番の問題。
冒頭の1篇「エリセエンヌ」は、ヒッピーコミューンみたいなところでメンバーの化学の天才が、記憶に作用して10年くらいの刻みでその年齢の意識に戻ってしまうという薬物を発明。それを使った結果が話のメイン。初期のヴォネガットが書いていそうなテーマだけど、こちらはリアルな風俗ものとして書かれている。また有機化学の手書き環式図が挿入されていて、まるで本気でSFを真似た(作品によってはイーガンなどSF作家への言及がある)ようなところもあるけれど、脳の記憶を各年齢時にリセットできるというテクノロジー自体がデッチ上げ(現実の記憶の仕組みに合ってない)なので現代SF的なリアリティはない。その代わり物語的な感情刺激はある。
他の作品も基本的にはこのやり方で書かれており、陰々滅滅な宇宙教殺人事件を扱った「宇宙人の存在」などはその暗鬱さが印象に残るが、最後の1篇、出生時から前世記憶を完全に保持しながら人生を繰り返す長編「7」も、卑小な語り手の存在が鬱陶しく読んでてイヤになってきた。筒井康隆に書き直してもらいたいぞ。
それでも最後まで読めてしまったのは、訳文(高橋啓)が抜群に読みやすく、達意の日本語を達成しているおかげだった。この訳者は当方とほぼ同世代(大野万紀さんと同年齢)でネットにこの本を訳すことで何を思ったかを書いているけれど、読書歴(ハイティーン時代の埴谷雄高とドストエフスキー、青年時代の両村上)を見ると埴谷雄高を除けば当方と重なっているところが興味深かった。
今回最後に読み終わったのが、斧田小夜『では人類、ごきげんよう』。創元日本SF叢書の32冊目。「2020年代の日本SFを牽引する新星」という大森望の巻末解説からの「檄」が帯に刷られている。
書き下ろし1篇を含む6篇を収録。書き下ろし以外は東京創元社の雑誌に掲載されたもの3篇と大森望の日本SFオリジナルアンソロジー『NOVA』に掲載されたもの2篇からなる。当方は『NOVA』掲載の2編が既読。雑誌掲載作は『紙魚の手帳』2024年8月ご掲載の「ほいち」が既読。残る2編は今回が初読。
巻頭の「麒麟(きりん)の一生」は、改元が行われたころの上野公園で爆発事故があり浮浪者が1名行方不明という記事から始まるが、ページをめくると、その昔宇宙に生まれた光点が地球に落下、いつの間にか意識を持つようになった光点は変身し飲兵衛の龍(八岐大蛇?)の徒弟になって自分も酒ばかり飲んでいる。これが「麒麟」の名を持ち、漢の武帝との交流を深めたって、なんじゃそりゃな展開だけど、この作者は読み手にウムを言わせず読ませてしまう。最後はまた上野公園に戻って、「麒麟」も宇宙へ消えていく。
大森解説によると、ゲンロンSF創作講座で提出された1作だそうで、当時の作者がつけたタイトルは「酔来酔去」で「帰ってきたヨッパライ」の話を書いたという創作意図が引用されている。これだけでもこの作者の大物ぶりが窺える。
「飲鴆止渇(いんちんしかつ)」は前のユーモアSFから一転、架空の中国風国家で民主化運動鎮圧に駆り出された下級兵士が、空が騒がしいので見上げると伝説の巨鳥「鴆」やってきてその場にいるものを全滅させた。物陰に隠れた下級兵士は片腕失っただけで済んだが、「鴆毒」が残った・・・。最後まで現代中国の管理体制を下敷きにしていてシリアスな雰囲気をまとったままの結末の暗さが印象的。
大森解説によると、これは89年の中国民主化運動(戦車の前に学生が立ちふさがったアレ)を題材にしているという。「鴆」は羽に猛毒があり、題名は猛毒でも渇きを止めるために飲んでしまうという意味で、転じて目先の利を追って後のことを考えないことを云うらしい。ググると「鴆毒」の故事が「漢書」にあるという。
再読の「ほいち」は、壇ノ浦で滅亡した平家ゆかりの赤間神宮の駐車所に放置された車の車載AIが、「耳なし芳一」の主人公と同じ目(とられるのは耳じゃなくてバックミラー)に遭う話だったけど、作者の技巧は再読の方がより楽しめた。
これも再読の「デュ先生なら右心房にいる」も今回の方がイメージが鮮やかで、初読の時より楽しめる話になっている。それにしても宇宙ロバの「驢䍺(ろか)」というネーミングもすごいね。
「海闊天空(かいかつてんくう)」も再読だけど、初読時のタイトルは「お前の知らなかったころ」で、これはヒロインの息子に蓄財のお守りといわれる「貔貅(ひきゅう)」の置物が声をかけるプロローグから結末のロボット運搬機の語りまでを象徴するタイトルだったけど、ちょっと座りが悪かったのだろう。「飲鴆止渇」に合わせたタイトルのようにも見える。こちらも再読の方が解像度が高い。
巻末書下ろし表題作「では人類、ごきげんよう」は、以前話題になったオウムアムアみたいな長い棒のような天体が太陽系に入り込んできたので、その調査に通信迅速化が可能なリレー形式で地球に毎回の調査結果を伝えるため多数のAIボットが投入されたが、そのうちの1基が人間の言葉で報告を担当。これはその内容の記録である。
マーダーボット・シリーズの「弊機」の話っぷりを彷彿とさせるギャグ満載で、実際に「弊機」への言及もある。タイトルはその報告の最後に毎回出てくる終わりの挨拶。
ということで、巻頭の「麒麟の一生」に対応する形での宇宙ものユーモアSF。
こうしてみると、収録された6篇のうち「飲鴆止渇」と「海闊天空」がシリアスで、残りの4篇は「ユーモア」系。中国の故事伝説に関連するものが多いのは作者が使いやすいからか。
全体としての読後感は結構ハードで、この作者は「ユーモア」系の作品にもパワーを感じさせる密度をもたらしている。
ノンフィクションは1冊。
駅の本屋の棚に面陳されていたので、手に取って奥付を見たら8月に出て10月で4刷になっていて、ちょっと読んでみようと思ったのが、角悠介『呪文の言語学 ルーマニアの魔女に耳を澄ませて』。
本のつくりはどうみても地味な言語学のマイナーな研究エッセイにしか見えない。帯に「呪文もことば(「ことば」に強調点)である」と大きく書かれているが、それだけで2か月で4刷はいかないだろう。ググると結構あちこちの新聞に取り上げられていて、それなりに読者をつかんだらしい。
著者は東欧在住20年の言語学者で、専門はロマ語(ロマにロマ語を教えるくらいらしい)とのこと。
全体は3章からなり、第1章「魔女」では、著者が中学生くらいから言語学に興味を持ち、アテネフランセでラテン語を習ったりしたという生い立ちから、どうしてルーマニア留学することになったのかとか、自己紹介もかねて「ルーマニアの魔女」と「呪文」の世界へと誘う。語り口はバッタ博士のようなエンターテイナー文体ではないが親しみやすい。
第1章のポイントは、ルーマニアではキリスト教と昔からの生活の中で築かれた「呪文」とそれを使う「魔女」が日常の中の当たり前の存在であることを読者に納得させることにある。
日本(だけに限らないが)の「魔女」に関する情報は西ヨーロッパ経由のファンタジーにほぼ覆われていて、歴史的には魔女狩りの「魔女」像のイメージが強い。しかしトランシルバニア地方を含む東欧の田舎であるルーマニアでは、「呪文」と「魔女」はあまりにも日常生活に密着していて、急進的な「魔女」狩り思想が入り込むには平凡なものでありすぎたのだ。
第2章「魔術」では、呪文に迫る前に、それが使われるおおもとの儀式であるルーマニアの伝統魔術の研究紹介に移る。ここからは著者本来の研究テーマであるルーマニア語の原綴りが頻出してちょっと煩わしくなるけれど、読む障害にはならず、読者の興味を引っ張って行く。
第1章で明らかにされたように、ここにあるのは「魔術」であっても基本的にルーマニアの伝統的生活の中で行われるものについてなので、もはやファンタジー由来の魔術を思い浮かべるような世界は存在しない。それは一種の「生活の知恵」としての「魔術」であるが、だからといってつまらないわけではないのだ。
第3章「呪文」では、「呪文」そのものの言語学的な考察が主軸になって、ますますルーマニア語が頻出するようになるが、読むほうもそんなものだと慣れてしまっている。この地味な「魔術」と「呪文」の言語学的知見による紹介がこんなにも読めるものになっているのは、著者の文章力もあるが、やはり全く未知の文化に触れる面白さ、しかもあまりにもファンタジーのクリシェ化した「魔女」イメージとの落差が驚きとともに感知される面白さによる。 オマケに著者が「ハゲ防止」のために作ったオリジナル「呪文」も収録(ただし効果は保証されてない)。
巻末には、第1章で紹介されていた、著者が留学前に日本で知り合ったルーマニア語の先生の女性で、今や長年の付き合いとなったこの日本に住む先生も、実は日常的に「呪文」を使う「魔女」だったという。そこで彼女とのインタビューが付録になっている。長年の付き合いの親密さも手伝ってか、当たり前すぎて説明に困る「アッケラカン」としたこの女性の言葉こそ、ルーマニアの「魔女」と「呪文」のありようを説明していることがよくわかる。
ヘンと云えばヘンな本だけど、2か月で4刷の人気も納得の面白さではあった。
新年早々から長い文章になってしまった。