続・サンタロガ・バリア  (第264回)
津田文夫


 珍しく10月末締め切りの原稿を2本書くことになり、どちらも広島のSFファンクラブ「イマジニアンの会」関係。

 会誌『イマジニア』の方には、以前ここにも書いた国立国会図書館デジタルコレクションのネタで短いのを投稿。こちらは、一般に雑誌類は非公開と思っていたところ、「柴野拓美」で検索したら、1980年の中間小説雑誌『小説CLUB』(宇能鴻一郎や川上宗薫がメイン)がヒット。目次を見たら鏡明とヨコジュンがなかよくショートショートを載せていた。前後の号を見ると半村良の『妖星伝』をはじめ、当時のSF作家たちの短篇やエッセイが結構な数掲載されていたことがわかったうえ、実は『小説CLUB』版元倒産のため全号がダウンロード可能であることを発見したというもの。しかし毎号毎号目次をめくり終わった途端にフルヌード女性のグラビアになっていたのには驚いたというオチ。

 もうひとつは60年代に本名渡辺晋名義で元祖「イマジニア」を主宰した天瀬裕康さん(昭和6年生まれ、筒井さんより3つ上)から以前、今年も『SF詩群』を出すのでどうですかとお誘いを受け、考えておきますと云ったきり忘れていたところ、原稿依頼の暑中見舞いが届いて、あわててネタの仕込みに入った次第。
 前回の『SF詩群』では川端茅舎の一句にディレイニー『エンパイア・スター』をぶつけてみたけれど、そうそう都合の良いものはなくて、結局30年前に師匠が1巻全集の編集委員をしたので少々調べた、地元呉出身で昭和12(1937)年夏に日中戦争が始まってすぐ応召、陸軍歩兵少尉で出征して2年後の14年夏に32歳で戦死、死後陸軍大尉になったアララギ派「戦争歌人」渡辺直己(わたなべなおき)で書くことにした。以来ずうっと函入菊版で1000ページ以上ある『渡辺直己全集』を読んでネタづくりに励んだのでした。
 デジコレで戦後に出た渡辺直己を論じた文章を読んだり、何か無いかとググったりしていたら、なんと全集編集時には行方不明だった渡辺直己が広島高等師範(当時広島にはまだ大学がなかった)の学生時代に編集を担当した昭和3(1928)年の同人誌が「日本の古本屋」で引っかかり、乏しい小遣いしかないのに2万円だして入手してしまった。
 届いた同人誌をめくったら、これまた渡辺直己の書いた文章にのみ鉛筆でチェックが入っていて、よく見るとアララギ派文芸評論家米田利昭が1968年に紀伊国屋新書から『戦争と歌人』(これはデジコレで可読)の題で出して、90年に『渡辺直己の生涯と芸術』と改題してハードカバー(これは当然デジコレ不可読)で復刊した本(当方は30年前これを読んだ)の引用部分とよく一致していた。リショーさんこと米田利昭はウィキを見ると2000年に亡くなっているので、その蔵書が今頃になって古書店に流れついたらしい。
 「戦争歌人」渡辺直己とSFを直接結びつけることは不可能だけれど、このひとは昭和10(1935)年の時点で、アメリカを舞台に進化論否定運動を展開したキリスト教保守派を揶揄したコントやヒットラーが「相対」と云う言葉を蛇蝎のごとく嫌って「相対性理論」のアインシュタインを追放したというコントを地元雑誌に発表している。そのほか未発表だけれど、同時期のコントで、悪魔たちが開いた403回目の大集会で「人間を堕落させよ」と叫ぶヒットラーやその集会の執行委員長ムッソリーニが元は「イワンの馬鹿」に出てくる小悪魔だったという小話とか、「人間先祖は鉱物だった」そりゃどうして?「神は土でアダムをつくったから成分は一緒だ。」鉱物は生殖生長しないだろう?「国歌は「さざれいしの巌となりて」と」じゃ、いま鉱物から人間が作れるかい?「適当なる地球の温度と長い進化が要ります」というサゲのコントを28歳で書いていて、まるでSF作家への道が見えるような人物なのである。
 それが翌11年には「近世に入って知識方面はなるほど素晴らしい躍進を遂げました。広壮なビルディング、快速列車、流線型、トーキー、テレヴィジョン、曰く何、曰く何、ついには悲嘆の涙まで科学的分析を蒙り、感情も意志もことごとく知識の秤にかけられて何グラムカングラムと評価されるありさま。そのため脳髄は雑ぱくな知識の堆積で破壊に瀕しており、心臓は標語と利息の計算ではちきれそうです。肝っ玉なんていうものは溝の中かゴミ箱の中へでも棄てられたのか居所さえありません。2+2=4の世界がすべてでありその他に何物もないのです。一片耿々〔こうこう〕詩心は天空はるかに白鷺のように飛翔し去ってしまいました。」と書いて、短歌に専念してしまったんだからモッタイナイともいえる。
 渡辺直己は昭和10年にアララギに入って作歌を一から学んだ人だけれど、12年夏、日中戦争勃発ととも応召して広島で入営、その年11月末に中国の天津に着任。しかし渡辺直己は広島にいる間に「照準つけしままの姿勢に息絶えし少年もありき敵陣の中に」というような「戦地詠」を次々作って「アララギ」誌上で特選に選ばれるようになった。これを1930年公開のアメリカ映画「西部戦線異状なし」のシーンからつくったフィクションだと喝破したのが、『戦争と歌人』の米田利昭でみんなひっくり返った。当方も今回わざわざDVDを買って見たけれど、なんと幕切れは主人公のドイツ兵の少年が敵の狙撃手に撃たれて死ぬ(少年の姿は映してない)シーンで終わっていた。これを観客の視点で歌にすれば引用した作品になっても不思議はないとリショー氏に説得された。
 もちろんリショー氏は渡辺直己が実際に中国大陸で詠んだ歌を高く評価し代表的「戦争歌人」として文句はないとしているわけだけれど、呉にある平成2(1990)年建立の歌碑には「ほそぼそと虧〔か〕けたる月に対〔むか〕ひつつ戰は竟〔つい〕に寂しきものか」という応召後だけれど天津に行く前につくった作品が刻まれている。リショー氏をはじめ渡辺直己を論じた歌人評論家でこの歌を秀歌としたヒトはいなかったけれど、地元ではこれを「戦争歌人」の代表作にした。
 ということで、渡辺直己のコントとこの歌碑の作をネタになんとA4用紙12枚という長い文章を書いてしまったのでした。これを天瀬さんに送ったら即「改稿せよ」とのメールが・・・。しかしこれを書いたお陰で、歌碑の「新月(暗黒)へ向かう消えつつある細い月」が、中国大陸に渡ってわずか1年半あまり、人殺しを嫌って経理担当将校になり、倉庫の2階で寝ていたら、倉庫にガスが充満して大爆発、即死した当人の運命を暗示していること、そしてその月を見て「戦はついに寂しい/空しいものか」と感傷/観照した渡辺直己はEclipsed by the Moon なひとだったと云うSF的な感想が湧いてきた。
 長々と書いたけど、要はこれも本が読めない言い訳です。

 先月号で大野万紀さんが『侍タイムスリッパー』が面白いと書いていて、そのあとすぐにイマジニアンの会会長の宮本さんから面白かったとメールが・・・。で新聞を見たら地元映画館が上映を始めたので、見に行ってきました。今回は10人以上の観客がいて年齢層もバラバラ、何度も笑い声が上がるという希有なものでした。当方はなぜか目がウルんできたんだけれど、それはこの映画に『カメラを止めるな!』を見ていたからだろう。ということで大ヒットも納得の1作だった。

 アンジェラ・カーター『英雄と悪党との狭間で』は論創社海外ミステリの1冊として8月に出たもの。1968年の作、70年代にはポストアポカリプスSFという紹介だったので当方も昔小型のトレードペイパーバックを買ったんだけど、もちろん積ん読になった。今ボロアパートで探すと見つからない。原題はHeroes and Villainsなので邦題はややずらした感じがする。
 基本設定は、知識人が集まったコミュニティに外部の野生化した人々が時々襲撃に来る破滅戦争後の世界で、先にウィンダムとかクリストファーなんかが書いていたし、この手のSFと変わりはないけれど、書き方はジャンルSFよりは文学寄りだ。
 コミュニティで育った教授の娘がヒロイン。プロローグは、野生化した集団の一員でコミュニティを襲ったとき娘の兄を殺した若者がその後の襲撃時にケガで動けなくなったところを娘が匿い、教授も亡くなったことで娘が若者と一緒にコミュニティを出るというもの。
 その後は、娘が外の世界を移動する若者の集団の中で生活することになり、若者にレイプされたあと若者の妻と見做されるが、娘は常に不信感を募らせながら成長していく。脇役として、若者にある程度の文化的教養を施したという元はどこかのコミュニティの知識人だった男や、やはりコミュニティ出身と思われる年配の女性がこの集団にいる。
 アンジェラ・カーターの書き方は、ポストアポカリプスの野生化人間集団で生活する娘の体験と思考に焦点を当てており、その意味でSFとしてのエンターテインメント性はあまりなく、あくまで思考実験的なフェミニズム的物語になっている。バラードの破滅3部作のような派手さはないけれど、文学的という点ではそれなりの効用は感じられる。ただ邦訳で240ページ足らずの長中編と云うこともあってなんとなくもの足りない。
 あと翻訳の流儀が独特で、訳注の施し方など、国書刊行会版レムの『捜査』や『大失敗』とかキース・エマーソンの自伝の訳を思い出した。その意味でも原書が見つからなかったのは残念。

 このひとの短編集なら面白いだろうと思って、斜線堂有紀『ミステリ・トランスミッター 謎解きはメッセージのなかに』を買って来たけれど、目次の中に「妹の夫」があったのでウーンとなった。これは大昔の宇宙船と地球の距離によるタイムラグとワープ時の通信不能に翻訳機の故障を組み合わせたミステリだったけれど、そのユルさに笑えるほど当方は心が広くなかった。
 収録された他の4篇も基本は非常にユルいSF/ファンタジーのアイデアを使ったミステリ。井上雅彦の《異形コレクション》では毎回驚くような切れ味を見せてくれているけれど、まあ、こういうユルさもまた読者を楽しませるのだろう。
 冒頭「ある女王の死」は、いきなり榛遵葉(はしばみじゅんよう)73歳女性が腹を割かれても気品ある死体となって転がっていた・・・。たしかにこのオープニングは読み手にある種のマインドセットを準備させるので、ユルさは前提なのであった。ストーリーはこの守銭奴の冷血漢といわれた女性の一代記として回想されている。
 「妹の夫」は再読。初読で上記のような感想を持ったわけだけれど、今回は狙いがわかっているだけに普通に読了。
 「雌雄七色」は手紙形式。最初は母の葬儀を終えた息子から母と離婚した父へのもの。そのあとは母(私)から父(あなた)へのもの。七色は手紙の封筒の色。こちらはしんみりする話。もしかしたらSF的な仕掛けはあるのかも。
 「ワイズガイによろしく」は、なんとアメリカ・マフィアの一員となって家族扱いしてくれたボスのためにつくす若者の話。しかしメインは若者の危機を救う「ワイズガイ」の存在にある。これも大昔のSFとか奇妙な味系統の一編だけど作風の幅の広さに驚く。
 トリの「ゴールデンレコード収録物選定会議予選委員会」は、これまたなんと1行目からカール・セーガンが出てくる1編。セーガンとなれば、「ゴールデンレコード」は例のボイジャーに乗せたヤツで、即ちセーガンはそれへ収録する映像の候補を一般公募の人々が持ち寄ったものの中から選ぶ第1次撰定委員会に出席したが・・・、というもの。公募メンバーに奇妙な日本人がいて、他の参加者の持ってきた写真に潜むトリックを次々見破るというのがメインストーリー。そんな話を考えつくかという、これまた作風の幅広さを窺わせる1編だ。

 社会評論社からKAGUYA Booksブランドの下、文庫で出るようになった少し毛色の変わったSFアンソロジーのひとつが、トウキョウ下町SF作家の会編『トウキョウ下町SFアンソロジー この中に僕たちは生きている』。編者代表として斧田小夜が「はじめに」を、大木芙沙子が「あとがき」(謝辞にかえて)を書いている。
 冒頭の大竹竜平「東京ハクビシン」は下町ッコ口調のハクビシンの雄が語り手となって東京ハクビシン事情を語る、なかなか新鮮な調子の1編。山の手お嬢様ハクビシンへの懸想と悲恋も良い味を出している。
 桜庭一樹「お父さんが再起動する」は、浅草の焼き鳥屋の夫婦の妻の方に未来の編集者が作家だったお父さんの著作権使用許可を取りに来た話。なかなか強引な設定だけれど、桜庭一樹なので、読ませてしまう。昭和オヤジへのフェミニズム的な生暖かい揶揄もある。
 関元聡「スミダガワイルカ」は、文字通り隅田川にイルカを見つけた一人で生きることは出来ないかと思う大学生の青年が語り手。イルカに興味を抱いた青年は、イルカは都の保護のもとにあってチップが埋められていることを知る。青年は川で見かけた都の担当職員の女性と知り合うが、彼女は都の方針に反してイルカに埋められたチップを外していた・・・。
 まったく上滑りしない静かな語りの一編なんだけど、当方にはどうもスンナリと落ちてこない話だった。
 東京ニトロ「総合的な学習の時間(1997+α)」は1997年の「総合的な学習の時間」の参観日一コマ。当方の息子はその頃中一だったけれど、小学生時代の授業参観には出たことがないので「総合的な学習の時間」がどんなものだったかは知らない。でも素朴な疑問にわだかまる子やいわゆる開かずの教室と幽霊の話はスタンダードかも知れない。こちらは昭和20年3月の大空襲とからめた1編でこういう物語は常に必要とされている。
 大木芙沙子「朝顔にとまる鷹」は、なんと時代劇。タイトルの「鷹」を見て、まるで動物アンソロジーだなあと思ったけれど、話に出てくるのは「鷹」じゃなくてちっちゃい蜘蛛でした。これは辰巳芸者寅吉と女戯作者緑豆春雨の絡みに寅吉の生い立ちが挟まる一編。朝顔に蜘蛛は寅吉のドレードマークだがそれは寅吉の生い立ちに秘密があった・・・、ということで寅吉と蜘蛛の因縁がSF話になっている。
 笛宮ヱリ子「工場長屋A号棟」は、下町の請負工場兼長屋の住人が主人公。居付く職人もあればすぐに出ていくのもいる。主人公は長居組だが職人たちの交流は少ない。制作物は部品で用途は不明。主人公は祖父の時代に侵略戦争があって祖父の死体に隠れて助かった記憶の持主だが、長屋の住人は老いも若きもよくわからない世界の状況のもとに暮らしている・・・。現代のディストピアSFのティピカルな1品。
 トリの斧田小夜「糸を手繰ると」は、チベットダライラマの転生ラマが東京下町青年であるとされ、それに振り回される青年の語りで進む1編。ダライラマなので中国との関わりも深く、設定もそのようなものだが、話自体はノホホンとしている。
 ちゃんとトウキョウ下町SFアンソロジーになっているところがスゴい。

 大恵和実編『長安ラッパー李白 日中競作唐代SFアンソロジー』は副題通り中国作家4人と日本作家4人の作品を並べた「唐代SF」という縛りが珍しい1冊。
 冒頭の灰都とおり「西域神怪録異聞」は唐代の三蔵玄奘に西遊記のエピソードを絡める話。その話は、呉承恩が三蔵法師むかって私が君の作者だと宣言するくらいにはブッ飛んでいる。漢語が乱舞しているが、サルの少年が「だってこっちは白話小説(ライトノベル)だから」いうようなルビの使い方でかき混ぜ方が21世紀だ。この作品がこのアンソロジーの基本的トーンを作っている。
 2番目はなんと円城塔「腐草為蛍(くされたるくさほたるとなる)」。ルビは冒頭作品にも振ってあるけれど、普通に読めるのに対して(ふそういけい)と読んでしまうことを防いでいる。まあ、わかりやすく読まそうというだけだけれど、漢文読み下しはいまも学校で教えているのか。
 話の基本は隋から唐へ移る時代の李世民/太宗の歴史的活躍をそのまま語るが、彼らが甲虫に似た何かとして描かれているところがミソ。円城塔の歴史への関心は最近の傾向だけれど、円城塔が歴史上の人物の人間ドラマにどういう関心を抱いているのかは、まだハッキリしない。
 最初の中国側の作品は祝佳音(ジュージアイン)「大空の鷹――貞観航空隊の栄光」はタイトルページ裏の編者解説にもあるように牛皮筋を動力源とする世界の航空隊の話。バチガルピのゼンマイ動力世界を思い出すけれど、編者はスチームパンクならぬ牛皮筋パンクと形容している。これも軍事行動としては史実にあるらしいが、基本的には牛皮筋戦闘機や航空(ホントに空に浮かんでいる)母艦が出てくるエンターテインメント。楽しく読める。
 そして標題作の李夏(リーシア)「長安ラッパー李白」が登場。これまた歴史上の長安の街と酒飲み李白は歴史的な関係にあるけれど、「白髪三千丈」的ホラで李白は漢詩を吟ずる代わりにラップして陰謀と人々が渦巻く長安をコントロールする。長安の街については『中国の歴史』で街割が記憶にあったので、あれかと思い出すことが出来て良かった。
 中国側の3作目梁清散(リアンチンサン)「破竹」は、凶暴なパンダ(白羆)が街にも出現していた時代に暗殺者が相手の家でパンダに出合う話。アクションシーンもよくできていて、パンダの主食がこの時代の文書というのも面白い。
 日本作家に戻って十三不塔「仮名の児(けみょうのこ)」は、日本でいえば平安初期の長安を舞台に「書」で身を立てようとする少年がヒーローだけど、オチは別にある。沙門が出てくるので、日本の読者には夢枕獏の作品タイトルになったくらい有名なのですぐわかる。
 トリ前に置かれた中国作家羽南音(ユーナンイン)「楽游原」は晩唐の詩人李商隠と詩人のお陰で地下の神様が益体もない人類を見放さずに済んだというわずか3ページの掌編。解説にある「会昌の廃仏」も『中国の歴史』で印象に残ったエピソードだ。
 トリは立原透耶「シン・魚玄機」。「ぎょげんき」って、ワープロで一発変換するんだ。こちらも晩唐の女性詩人に美少女暗殺者を絡めての現代風百合エンターテインメント。
 編者自ら云うようにユニークな成り立ちのSFアンソロジーには違いない。

 2021年の『SFマガジン』連載完結時に翌年の星雲賞を受賞済みという藤井太洋『マン・カインド』は、これまでも作者が短篇で用いていた「公正戦闘」のアイデアを全面的に打ち出した、現在の世界状況でも願望的リアリティがたっぷり、という驚くべき1作。しかし、もうひとつのメインテーマはヴォクト『スラン』以来の「新人類」迫害テーマをこれまた最新遺伝子操作医療を取り入れて描いて、「ガンダム/エヴァ」の子供たちにリアリティを付与することに成功。非常によくできていて藤井太洋のSFとしての新たな代表作には違いない。「マン・カインド」は「・」がミソですね。

 ハヤカワSFコンテスト出身者としては最大の成功を収めているひとり、小川哲『スメラミシング』は近作6編を収める短編集。帯を見ると「陰謀論」や「サイコサスペンス」というフレーズが踊っているが、巻頭の「七十人の翻訳者たち」と巻末の「ちょっとした奇跡」はそれぞれ重厚な歴史改変SFとロマンティックなヤングアダルトSFなので、基本的にはSF短編集な感じが強い。この2編は再読。なお「七十人の翻訳者たち」については鴻巣友希子がかなり長い書評を書いていた。
 「密林の殯(もがり)」は、京都八瀬の殯人を両親に持つが、東京でアマゾン専門宅配会社で働く青年が京都から出て来た父を自分の部屋に泊める一方、自分は同僚との勢いで配送先でもあるデリヘル嬢とのひとときを過ごす、文学的といえばそのような1編。
 帯のキャッチフレーズに対応するのが表題作「スメラミシング」これは新型コロナをはじめとする様々な陰謀論で繋がりが出来ていく語り手の青年の話。語り手自体がそのような感覚の持主として描かれている。謎のタイトルは教祖的とされる発信者のハンドルネーム。よくできている。
 「神についての方程式」は、「ゼロ」がなぜインド/ヒンドゥでなければ発見されず、ユダヤ/キリスト教の西洋では発見できなかったかを多神教/一神教で考察し、なおかつその理論の主唱者としてインドで崇められる日本人女性教授の講演をリポートする語り手話。手違いで全く数学を解さないインド女性通訳がいいアクセントになっている。
 トリ前の「啓蒙の光りが、すべての幻を祓う日まで」は、1万数千年前にプローブが到着してテラフォーミングが行われたある星系の惑星で起きた文明の興亡の一時期を描いたレポート。すんごくオーソドックスなSFだけど「一神教症候群の発症」などとリポートしているところが現代日本風。
 円城塔とならんでSF出身作家が文芸誌に何でも書ける時代になったことを象徴する1冊。むしろジャンルSFの方が保守的なので『SFマガジン』がバリエーションに力を入れているのか。

 角川ホラー文庫から出た柴田勝家『カタリゴト 帝都宵闇伝奇譚』はホラーじゃなくて大正探偵物語。ただし表題のように探偵とは別に路上で「カタリゴト」を芸を披露する美少年がいて、三つのお題で話を作っては事実上の謎解きへ探偵を誘う。
 物語は「大正ゾンビ奇譚」「ムカデ伯爵と消えたバスガール」「黄金幽霊の首」「当世巌窟王」の4編からなっていて、それぞれタイトルのような事件あり、それを探偵志望の元貴族の青年が、最初の事件で「カタリゴト」の美少年と出会い、親しくなったふたりがそれぞれの事件の謎を解いていくけれど、最後の1編で先立つ3編の事件がつながりクライマックスを迎えるので、構成的にもきっちりと納まって、この作者の専門知識とエンターテインメントが見事な効果を上げていることがわかる。
 柴田勝家は相変わらず好調のようだ。

 ノンフィクションは2冊。

 新聞の映画欄に『キングダム』というのがあって人気らしい。宣伝を見ると、こりゃ昔『ヤングジャンプ』でチラ見して中国の春秋戦国末から秦の始皇帝につながる話だったようなと思ったが、見る気も読む気も無い。しかしまだ読んでなかった鶴間和幸『中国の歴史3 ファーストエンペラーの遺産』読むきっかけにはなった。
 始皇帝については、これまで習い覚えたエピソードからして当然あまり良い印象はないのだけれど、鶴間和幸の評価はほぼ一代(オヤジもそれなりに立派だったらしい)で大帝国を作り上げ、王様から皇帝になった30年余りに成したことが、その後の漢帝国に受け継がれているとのこと。だからそういうタイトルになっている。
 冒頭から2002年に発見された秦時代の文書(簡牘(かんとく)/木簡)から始めているように基本的に21世紀初頭の最新情報によってこれまでの秦・漢史を新たな視点で見てみようという書き方になっている。
 もはや巻頭地図をはじめとする図版は老眼には判読不能だけれど、本文は一応読めるので、始皇帝の暗殺未遂とか焚書坑儒とかはさらりと流し、制度的なことや始皇帝の帝国内巡幸(「巡幸」のはじめらしい)などに力が入っている。もちろん新発見文書から見える当時のリアルについての解説にもページを割いている。
 項羽と劉邦は章題が「秦楚漢の三国志」となっていて、英雄ふたりのキャラを紹介しつつ、どちらも元は楚にゆかりがあって「四面楚歌」は両者に親しいものだったはずとか書いてあって、フーンと思いました。
 「史記」の司馬遷は前漢末のヒトだったとかもう忘れていたこともあらためて確認。漢の歴史を中断した王莽はもとは「安漢公」という役職だったとかも、そうだったかとすっかり忘れているのだった。
 とはいえ400年に余る秦漢の歴史がボケ頭に入るかというとまあ5%でも残れば御の字でしょう。そういえば渡辺直己は天津で戦死する前は中国史と中国語の勉強をしていたんだっけ。で、直己さんは出征以前は女学校の国語の先生だったので、戦地から教え子に「支那人も人間だ。(中略)完全な統一をした時は優に世界強国の一になるだろう」と書き送っている。戦死する1ヶ月ほど前の日付。善人は若死にする。

 というくらい30年ぶりのにわか勉強で、渡辺直己が頭から離れなくなったので、解毒剤として読んだのが、小林ふみ子『大田南畝 江戸に狂歌の花咲かす』。9月下旬刊の角川ソフィア文庫。親本は2014年の岩波書店刊という。
 「大田南畝」を「なんぽ」ではなく「なんせ」と覚えたのがいつのことか覚えてないけれど、この名を見るたびに今でも「なんせ」じゃない「なんぽ」だと意識しないと読めない。たぶん10代の頃「南畝」をみて「畝」が田んぼの枚数を数える単位「せ」と記憶したんだろう。
 で、天明狂歌といえば、石川淳が戦時中は江戸に留学していたとうそぶいて、天明狂歌に耽溺して書いたのが「江戸人の発想法について」で、それはこの本でも言及されている(石川淳が何を書いていたかはもう忘れた)。
 とはいえ、天明狂歌に対する見識の深さは石川淳にあっても、南畝を中心とした狂歌に関わる全史の解説はその任ではない。その点、この本は狂歌研究を専門とする大学教授が書いたものなので、天明狂歌の立役者太田南畝の生涯を追いながら、1780年代の天明狂歌のはじまりと隆盛、寛政の改革を経て南畝が没する1820年代文政期までの狂歌の流行が語られている。
 まあ、大田南畝について知ってる人はもう知ってるし、知らない人には興味はなかろうという本ではあるけれど、中途半端に知っている当方みたいな者にはちょうといい解説書で、大学の先生でも文体は「南畝」と「狂歌」に合わせた語り口調で、「さてははやくも禁じ手の下ネタを出してしまおう。」などと言っていて、非常に読みやすく動員される専門知識は膨大でも屈託なくたのしめる。
 内容についてはそれ以上のこともここで書く必要はないと思うけれど、南畝初の狂詩(漢詩)集「寝惚先生文集」を18才かそこらで出して評判を取ったと云うから恐ろしい。あと蜀山人という号を使うのは後年「天明狂歌」を離れてかららしい。
 渡辺直己君よ安らかに眠れ。


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