今年の京都SFフェスティバルは5年ぶりに合宿ありで完全復活! 10月12日(土)の午前から本会企画が、夕方から合宿企画が開催された(Discordによる配信もあったもよう)。本会企画の会場はJR京都駅前のキャンパスプラザ京都。新しそうな立派な建物で、駅からも近いしなかなか良かった。
以下は、メモと記憶に頼って書いています。もし間違いや勘違い、不都合な点があれば、訂正しますので連絡してくださいね。
最初の企画は京都大学大学院理学研究科教授橋本幸士さんによる「科学を『エンタメ』する」。橋本さんは映画やアニメなどのエンタメ分野、また音楽や書道といった芸術分野、さらには落語にまで幅広い現場に実践的に飛び込んで行かれるとてもオモロイ素粒子物理学者さんだ。一般向けの著書も多数あり、Youtubeにも面白い話が色々アップされています。
まず科学者がやっていることは仮説の提案でありそれが検証されるとサイエンスになるが、その前の段階、あるいは否定された場合、それは「サイエンス・フィクション」だとの話。つまり科学者はSFを研究しているのだという。これはまあ科学を親しみやすいものにするために言っているのだと思うが、橋本さんのすごいのは、言葉だけじゃなく実際にエンタメの世界に入り込んでそれを実践しているところだ。ただ、その昔はフィクションというものが良くわからず、SFも嫌いだったという。ウルトラマンも何であんな大きな人がいるんだろうと思うと楽しめなかった。それが「シン・ウルトラマン」に登場する物理学者を本物の物理学者に近づけてほしいという依頼があって引き受けたそうだ。
そしてその映画やアニメの現場から。橋本さんが監修した「シン・ウルトラマン」では本当の物理学者が日常的にどんな手順で数式を書くか(式の筆順も)とかそういうところまで話をし実演をして見せたとのこと。たとえば物理学者はUSBに入った論文を見るとき、PDFを開くのじゃなくまずTeXファイルのコンパイルから始めるとか(実際にその動画を撮って使う直前までいったが映画では長すぎるのでカットされたそうだ)、βシステムの論文も仮説(フィクション)として現実のサイエンス(ここでは素粒子の標準模型)に基づいたものを実際に執筆し、その数式を黒板に書いて見せた。素粒子の標準模型の説明を、素粒子物理学者向け、グレッグ・イーガン向け、一般向けと分けて説明されたのが面白かった。サイエンスにはグラデーションがあり、場面によって使い分けなければならない。エンタメであっても本物の物理学者が登場するというシーンでは本物の物理学者のように演じてほしい(ただし決めるのは監督である)ということだ。
またアニメ映画「ゴジラ 星を喰う者」ではムートン会(雑誌「ムー」と「ニュートン」の愛好者が集まる飲み会)で監督と盛り上がった話など、色々と珍しい話があってとても興味深かった。
後半は日常生活での様々な発見の話や、アート系の人たちとのコラボの話があった。数式を入れた指輪、E=mc2を漢字っぽく表現してみたら数式書道になってフランスで展覧会が開かれた話などなど。小説を1次元で読むだけでなく、2D的につながった文章やそれを3D化したりする話はまんま円城塔だと思ったが。最近の話ではパフォーミングアートに加わり、舞台で研究しているとそこに色々な人が現れてパフォーマンスするものとか、素粒子論のファインマングラフを音楽家とコラボして音楽で表現し最後には交響曲が完成したといった話もあった。なかなか新しい表現で面白かった。
橋本さんは他の物理学者が好きだというイーガンが嫌いで、それは普通にフィクションとして楽しむ前に物理的な細部にツッコミを入れたくなって素直に楽しめないからだと言う。まあそういうこともあるだろうなとは思う。
橋本さんの日常生活の話で、夕陽が家の中にどこまで差し込むかトイレに付箋を貼ってみたとか、そういう細かなこだわりがあるところを聞くと、確かにリアルであればあるほど普通の人(物理学者含む)ならフィクションだとして気にしないところを無視できなくなってしまうのだろうなと思った。橋本さん、確かにすごく面白いキャラクターだ。彼が相手なら、映画やアニメやアートの人たちが物理学者と気負わないで気楽に話ができるのだろうという感じがした。
次の企画は友田とんさんの「『百年の孤独』を代わりに読むという方法」。ハヤカワ文庫から出た『『百年の孤独』を代わりに読む』の著者による講演である。著者は京都生まれの理学博士。『『百年の孤独』を代わりに読む』を自主制作し、ひとり出版社・代わりに読む人を運営している。
特に『百年の孤独』の内容に特化した話ではなく、「代わりに読む」という方法論の話が中心だった。そもそも「代わりに読む」という言葉を思いついたとき、ガルシア・マルケスが亡くなったというニュースを聞き、いつか『百年の孤独』を読んだときの不思議な感覚について書いてみたいと思っていたことと合体して「『百年の孤独』を代わりに読む」になったとのことだった。もともと二つは独立していて合体する必然性もないことだったが、書いてみると実はそこに必然性が立ち現れてきたのだ(それは最後まで読んでいただければわかるとのこと)。
この本を書くために『百年の孤独』を再読したが、そこでマルケスはこれを冗談話として書いたのだろうと思った。一族の始祖であるウルスラはTVドラマ「それでも家を買いました」の田中美佐子さんと重ね合わさり、またあり得ないことが次々と起こるがそれをいちいち真に受けるのはドリフターズのコントみたいだと思えた。変なことが起こってもツッコむことが皆無で、そのまま話が進んでいくのが『百年の孤独』である。
「代わりに読む」を書くにあたって、ノーベル文学書作家だからと「ありがたがって」読んではいけない。冗談は冗談として、ドリフのコントとして読まないといけないだろう。またなるべく脱線して関係ない話を交えて書いていこうと決めた。「代わりに読む」んだから自分の感想よりも読者が自分で読んだように感じることを目指した。
執筆については進行表を作り、左側に本編、右側に脱線を書いていく。すると決闘して殺した相手が毎晩幽霊となって庭に現れるのも、幽霊が出るのを何とかしようではなく、それを当たり前の前提として、喉が渇いているようだから水をあげようとか、そんな風に進んでいくのがドリフのコントと同じで、変なことをいつまでも真に受ける話なのだと思える。
このような「脱線」はコンピューターのマルチタスクのようなものだが、人間の場合はそれぞれのプロセスが独立ではなく互いに干渉する。そこから創作的な「乗り移り」が起こりうるのではないか。
小説の中にまるごと「私」が入ることは不可能だが、その部分部分をある距離をもって自分の記憶や経験と関連付けることはできる。それを小説の側から見ると、小説の中に「私」が位置づけられることになるだろう。「脱線」とはそれを意識的に行う行為であり、「代わりに読む」はその脱線を「私」に代わって発見させてくれるものではないだろうか。
この講演とSFとの関わりについては正直よくわからなかった、というか直接的には関係ないのだろうと思うが、SFもまた小説であり、その読み方を深める方法論として面白く聞くことができた。
3つ目の講演は作家須賀しのぶさんと少女小説研究家嵯峨景子さんの対談で「少女小説の記憶――SF・異世界・コバルト文庫」。
ぼくは少女小説にもコバルト文庫にもほとんど親しんでいなかったがこの対談は興味深くてとても面白かった。
須賀さんは1994年に『惑星童話』でコバルト・ノベル大賞読者大賞を受賞してデビュー。その後『キル・ゾーン』シリーズ、『流血女神伝』シリーズなどで人気を博したが、「少女の思考が変わってきてコバルトとは合わなくなってきた」ということもあり、現在では一般文芸の作家として活躍されている。『革命前夜』は大藪春彦賞を受賞、『また、桜の国で』は直木賞候補となった。ちなみに水鏡子は『キル・ゾーン』を大絶賛している。
嵯峨さんはアンソロジー『少女小説とSF』の編者で、10代のころからSFが大好きという熱いSFファンの人だった。須賀さんの『惑星童話』をリアルタイムに読み、2016年には『コバルト文庫で辿る少女小説変遷史』という本も出版されている。以下、嵯峨さんによる少女小説とSFについてのまとめから。
まず少女小説とは明治に誕生したもので、戦前では吉屋信子がその代表といえる。戦後はジュニア小説となり、1980年ごろから少女小説レーベルが立ち上がってくる。それは少女を主な読者層とした小説であり、当時は女子中高生がその中心だったが、今では大人の女性も読むようになった。
ところが2010年にはコバルト文庫も電子書籍のみとなってしまう。狭義の少女小説は縮小していると言わざるを得ない。とはいえ女性向け文芸はWEB小説に引き継がれ、ジャンルは広く拡散しているとも言える。
少女小説におけるSF・ファンタジーについて。少女小説の中でSFがメジャーになったことはないが、その中に常にSFやファンタジーが含まれていた。若木未生、榎木洋子、雪乃紗衣といった9名の方には『少女小説とSF』に作品を執筆してもらっている。80年代にコバルト文庫・少女小説のブームがあり、須賀さんや、新井素子、氷室冴子といった人たちのヒット作がスタートする。
嵯峨さん自身は中学生のころから夢中で読んでいたが、クラスのほとんどの人が読むようになったのは高校生になってからだった。クラスにそれぞれの作家の担当者がいて、氷室冴子なら氷室冴子を買ってみんなに回すようなことをしていた。1989年が売上のピークで、文庫の10%が少女小説だった。
90年代に入るとジャンルが定着し、ファンタジー路線が主流となる。
須賀さんによれば、80年代は少女マンガを読むよりもわかりやすいので多くの少女が読んでいたが、90年代になるとコバルト文庫を読むのはオタク女子と見られるようになったとのこと。
須賀さんは初めて書いた小説でコバルトにデビューしたが、そのころコバルトでは学園ものがなくなりファンタジー一色となっていた。戦争ドラマが好きだったので編集にそれを話すと、少年主人公、バトルもの、神話ものが増えていると言われた。当時の編集長は「少女小説はわからない、俺はアンケートの数字だけ見る」という人で、逆に数字さえよければ何を書いてもいいと言う人だった。それで書いたのが『キル・ゾーン』。目が大きくないキャラが表紙になった。読者の反応を見ながらシリーズを書いていたが、殺すつもりだったキャラクターを人気が高いので生かすようなこともあった。
『流血女神伝』シリーズはアンチ少女小説として書いた。王子様はいりません。テーマは変容。人が変われば愛も変わる。
『アンゲルゼ』シリーズはSFミリタリー恋愛もので、『流血女神伝』で気が済んだので王道に戻りたい、学園ものを書きたいと思って書いた。ホラーとして書いていたがホラー過ぎると言われて大人しくした。
その後少女小説から歴史・時代小説、野球小説を書くようになったのも、特に一般文芸に行きたいと思っていたわけではなく、20世紀の東欧や満州の話が書きたくてのことだった。主人公の造形などには少女小説時代の経験が生かされている。
そして「少女小説にとってSFとは何か」。
SFは多いわけではないが常に一定数のファンがいると嵯峨さん。
確かに商業的には売れているわけではなく、SFが書きたいと言っても編集者に断られる場合も多いと須賀さん。少女小説からSFへとなると及び腰になるので、SFの方から呼びかけてほしいとのこと。
それに答えたものが嵯峨さんの『少女小説とSF』のようなアンソロジーとなるのだろう。
年代による少女小説、ライトノベル、SFの要素についてその変遷をまとめてあって、なるほどと勉強になることが多かった。京フェス側の進行役である女性もうまく話をもっていっていてとても良い講演だった。
本会最後の企画はSF作家人間六度さんとボカロPの吉田夜世(よしだやせい)さんによる「ボカロ(小説)とSF」。
六度さんは最近ボカロからのノベライズ小説(『トンデモワンダーズ』)を書いたそうだ。ぼくもボカロはたまに聞くが全然詳しくないので知らないことが多くて面白かった。
吉田さんはどちらかというとIT系の人みたいで(正確なことは知らない)SF小説にはあまり詳しくないとのことだった。最後にSFは何を読めばいいですかと聞いていて六度さんは小川一水『老ヴォールの惑星』をすごく勧めていた。
吉田さんの「オーバーライド」は5000万近い再生数があるというから驚く。六度さんはサラリーマンをした経験がないのでどうやってボカロで食っていこうと決断したのかとか、お金の話も聞く。六度さん本人はたまに入る印税と、雑誌の原稿料、マンガ原作料、SFプロトタイピングなどで少しずつバイト的にもらって暮らしているとのことだ。
吉田さんは思い切って会社を辞めてから1年くらいは細々と貯金を崩しながら生活していたが、10数万再生された曲があり、時々オリジナル曲の依頼があるくらいだった。それが「オーバーライド」を作ったとき、初めはそうでもなかったが二次創作が広がるにつれて再生数が増加していったとのこと。二次創作がやりやすいようにと考えたところはある。
収入としてはインターネットに曲を上げ、Youtubeやサブスクで収入があり、また依頼された曲を作って対価をもらう。買いきりの場合もあるが著作権を保持して印税をもらう。曲もmvも全部自分で作っていた。
六度さんもボカロ曲を作ったことはあるが、mvがネックだったと言う。吉田さんはもともと絵を描くのもmvも自分で作っていたが、今はイラストは二次創作でファンアートを描いてくれたイラストレーターさんにお願いしているとのことだった。
「オーバーライド」のSF要素について、歌詞は現実的な歌詞だけれど実は自分語りなんですよと吉田さん。ボーカロイドである重音テトの自分語り。そこには吉田さん自身も投影されているが、テトはプログラムなので命の関数とかコードやエラーとか、プログラム用語が出てくる(そもそもオーバーライドがプログラム用語ですね)。最後の方はもう人間の視点じゃない。人間のなすことをプログラムで表現するのもSFじゃないかと思っていますと吉田さんは言う。
六度さんには『トンデモワンダーズ』のノベライズについての質問。そもそもは『きみは雪を見ることができない』で電撃大賞を取ったときコメント欄に「sasakure.UKのノベライズ書きたい!」と書いたら、担当編集者がそれを聞いて、別に話があったのを取ってきてくれたそうだ。こういうのが好きだとよくツイートしているので、DMでお仕事の依頼が来たりすることも多い。『トンデモワンダーズ』がどんな話かと言うとネタバレになるので難しいが、ゲーム的世界観の中で男の子と女の子が仲直りする話としか言い様がない。
ボーカロイドに対してSF作家の視点で面白いと思うところはという質問には、存在自体がSF的であり、それが二次創作というミームで広がっていくところ。それがオリジナルとはまた違ったものになっていくところが面白いとのこと。
それから六度さんの好きなボカロの話やボカロのライブってまさにSF的だといった話もあって面白かった。お勧めのボカロ曲の話もあり、また聞いてみようかとも思った。最後に「オーバーライド」のノベライズ小説を人間六度が書くことになったとの発表で終わった。
夕食後、合宿所へ。今回の合宿はこれまでのさわやではなく、本会会場からほど近いたきがわ旅館。ここはうん十年前の第二回の京フェスで合宿に使われたことがある。何とそのころから間取りも同じでほとんど変化がないのだ。
大広間でオープニング。大広間といってもディーラーズと兼ねているのでさわやほど広くはない。オープニングで5年の空白があって今のSF研にはさわやの合宿を知っている人はおらず、初めての合宿開催で不手際が多いと思うがそこはよろしくと言う挨拶があった。いえいえとんでもない、すごくちゃんとした運営ができていたと思います。
合宿企画の最初に参加したのは木下充矢さんによる「第11回星新一賞受賞全作品を語る(当事者が)」という企画。
木下さんの他、木下さんと同じく優秀賞受賞の玖馬巌(くまいわお)さんが会場で参加(玖馬さんは『大阪SFアンソロジー』にも書いていた人だ)。また「冬の果実」でグランプリ受賞の柚木理佐さんがネット参加だった。柚木さんは小林栗奈(こばやしくりな)名義ですでに多数のファンタジー作品を書いているプロ作家だった。他に優秀賞の鷹羽玖洋(たかばねくよう)さんがインタビューで参加。高羽さんは第8回創元SF短編賞で「銀の滴降る降る」が長谷敏司賞を久野曜(ひさのよう)名義で受賞している。
内容はそれぞれの作品がどのように書かれたかを作者自身が語るということで、すごく充実していてとても面白かった。ただ作品を読んでいない観客もいるので、作品内容をもう少しわかりやすく伝えた方が良かったのではとも思った。
次は下村思游さんの「円城塔『ムーンシャイン』を語る部屋」。
下村さんが十数人いる参加者に『ムーンシャイン』で何が一番好きかと聞くと、ぼくを含めて多くが「ムーンシャイン」だった。
ムーンシャインの少女は「強制到達不能基数」を越える存在で、われわれの数学(ZFC)ではない別の世界の少女である。
今回の話ではウルフラムのテーゼ「十分複雑なものはチューリング完全である」が中心的なキーワードとなったが、下村さんはこれを少し弱めて「十分複雑(にみえる)ものはチューリング完全である(ことが多い)」とした。これはすなわちこの少女がチューリング完全であり、生命であることを示している。
ここで部屋にいた大森望さんが『コードブッダ』について発言。下村さんは『コードブッダ』の「わたしはコードの集積体である」と「そうしてコードの集積体ではない」の矛盾はウルフラムのテーゼから考えると「わたしは(十分複雑な)コードの集積体であるから生命であり」「もはやわたしは(単なる)コードの集積体ではない」となって矛盾しないことを示した。
多くの読者にとって、円城塔の話はレベルの違う様々なものが重ねられているので結局何を言っているかわからないという感想になる。だがそこへ集約することこそが円城塔の思い通りなのであって、すべての感想を畳み込んだひとつのベクトルを返してくるというのが正解なのではという話があった。
下村さんがそろそろ円城塔に対して次のステップに進むときではないかと思っていると言うと、会場からそのステップって到達不可能基数じゃないのと突っ込みが。痛いところを……まあみなさんで頑張っていきたいですねと下村さん。円城塔をどのような公理系で読み替えていけばちゃんと読めて円城塔の小説を破壊できるようになるのか考えていくのも面白いでしょうとのことだった。
全部が理解出来たとは言えないが、とても興味深く刺激になった。
その次がわれわれの「SFファン交流会出張版 〈SFファン活動〉アーカイブ化計画」。出演は渡辺英樹さん(書評家、名古屋大学SF研究会OB、SF文庫データベース主宰)、山本浩之さん(前日本SFファングループ連合会議事務局長)、七里寿子さん(第45回日本SF大会実行委員長、eSFe世話人、SFファンジンコレクション)
、元KSFAの岡本俊弥さん、それにTHATTAより大野万紀という面々。
6畳くらいの部屋にプロジェクターを置いて壁に投影する。山本さんがプロジェクターを調整。岡本さんが自分のノートPCをつないで画面を表示。渡辺さんがレジメを配り、七里さんはSFファンジンリストの雑誌(売り物)を並べる。客は水鏡子も含め10名以上はいた。SFファン交流会の根本さんとみいめさんが司会して始まる。
渡辺さんが全体構想を話し、岡本さんが自分のアーカイブから色々と画像を表示して現状を語る。
今は個人で書庫を作ったりしている人が何人もいるが、持続するのが難しく後の世代が困って、結局散逸してしまう可能性が高い。そういったものもデジタル化してアーカイブにしておけばいつでも見ることができる。実は今でも色んな所に個別にそういう情報はあるのだが、横の連絡がなくてわからない。石原藤夫さんも今は連絡できなくなり、森東作さんのSFデータベースもあるが連絡のある人しか知らない状況だ。そこで渡辺さんが今こそ本気を出そうとしており、そういったもののハブとなって情報を集約できるようにしたいのだという。
まずは連絡先を渡辺さんのところにしてSF大会やSFマガジンで呼びかけることになった。そしてその名前が「SF第2ファウンデーション」(仮称)と決まった。
なお会場にいた国会図書館に勤める藤元さんによれば国会図書館には同人誌も送れば保管してもらえるそうだ。国会図書館のアーカイブの窓口は関西館でやっているとのこと。
思いのほか盛り上がった企画でとても良かったと思う。
4コマ目の合宿企画で参加したのは東方綾さん「最新SF・ファンタジイ情報 こんな本が出ます」。
これはほぼ早川の新刊・近刊の紹介で、特にSFというよりファンタジイ、それもいわゆるロマンタジーが中心の話だった。
『フォース・ウィング』の第2作『アイアン・フレイム』が来年早川で。妖精国の「バチェラー」×「ハンガーゲーム」ことニーシャ・J・トゥーリ『トライアル・オブ・ザ・サン・クイーン』が来年早川で。エマ・トルジェ『血の魔術師と姉妹たち』は8月刊行済み。これはロマンタジーじゃなく現代ファンタジイ。アンドレイ・サプコフスキ『ウィッチャー
嵐の季節』が11月にハヤカワ文庫FTで。これはゲームのノベライズか。他にも色々と。(疲れたのでここまで)。
なおこれと次の企画は眠くて疲れていたので写真はありません。
5コマ目は石亀航さんと勝山海百合さんの「東京創元社と最新海外SFを語る部屋」。
いつものようにネビュラ賞、ヒューゴー賞の中編部門・短篇部門の受賞作と候補作についてあれこれ話す企画だった。
ファンタジー(ホラー含む)がとても多かったということ、雑誌からのノミネートが今回はなかったこと、石亀さんが一番面白かったと思ったのは「紙魚の手帖」に訳されたレイチェル・K・ジョーンズ「子どもたちの叫ぶ声」だとのこと。途中で急激に眠くなってきたのであんまり覚えていない。
今年の京大SF研はすばらしかった。これだけのイベントを大きな問題もなくちゃんとやり遂げたのだ。OBの支援はあったかも知れないが5年の空白でノウハウも失われていたはずなのにすごいとしかいいようがない。拍手。
関係者の皆様、今年もすばらしい京フェスをありがとうございました。
※これまでの京都SFフェスティバルレポートは下記インデックスページにまとめてあります。