続・サンタロガ・バリア  (第262回)
津田文夫


 相変わらずの暑さですが、迷走台風一過のあとは涼しくなるのかなあ。せめて夜だけでも秋らしくなって欲しいですね。
 8月第4土曜日にSFファン交流会8月例会(オンライン)があり、プリースト追悼/回顧をテーマに大野万紀さんとたこいさん☆きよしさんがゲスト参加されたので、一般参加者として見させていただきました。内容については毎回大野万紀さんが詳しくリポートされているので、今回もお任せすることとして、もう一人のゲスト参加者が渡辺英樹さんで、一般参加者に古澤嘉通さんや大森望さん、岡本俊弥さんがいて本会終了後は古澤さんのお話が聞けたり、最後の方で渡辺睦夫さんも混じって皆さんでワイワイしゃべっていたりして、なんだか40年前に戻ったような気分でした。
 みいめさんをはじめ、スタッフの皆さんには感謝申しあげます。

 本会のオマケ的な時間にプリーストの次に読むものとしてゲストがいろんな作品をあげてましたが、たこいさんはジーン・ウルフをあげていて、これは当方も同意見。その一方で渡辺英樹さんが『ルックバック』をあげていたのにちょっと驚いて、ちょうど地元の映画館でも上映し始めて、大ヒット御礼グッズ第3弾をくれるというので、またもや1700円を払ってオンボロ映画館で2度目を見ました。客は当方を含め3人。
 今回はさすがに驚くことはなく、日本のリミテッド・アニメの伝統である画像使い回し技が効果的に使われていたり、1回目を見たあと他人の感想をググると「ルックバック」は「背景を見ろ」とか「背中を見ろ」とかの意味もあるぞと云う感想を読んだこともあり、今回はそのところも意識して見ていた。渡辺さんがプリースト繋がりでこの作品あげているのは、事件後に亡きバディの家の廊下で、主人公が小学生の時のバディとの出会いのきっかけを作らない選択肢と事件を生き延びたバディを夢想するところで、その内容は一般的には主人公視点の後悔のなせるエピソードと解釈されるが、プリースト風にもうひとつの現実と解釈しても良いのではないかという視点を持ち込んだから。
 アニメから窺える作者の意図は一般的解釈だと思うけれど、この作品が持つファンタジーとしての性格からすればプリースト的な解釈も成り立つ。マット・ラフ『魂に秩序を』をSFとして読むのに近いような感じかな。

 今回はお袋の葬儀があって、1週間ほど本が読めず、冊数少なめで、ノンフィクションはナシ。
 ということで前回『資本論 第一巻』について当方のようなボンクラな感想はないのかとググってみたら、ありました。
 以前1冊読んで感想文を書いたことがある早川タダノリ氏がX(旧ツィッター)で、
 「『資本論』第1巻で一番面白いのは、19世紀イギリスの悪徳パン屋が、砂とかホコリとか昆虫とか膿とか汚物とかをいろいろ混ぜた悪いパンを売りまくっていたことを克明に書いているところ。そういうレポートを拾い読みするところからなら読めるのではないか」と発信。
 これに内田樹氏がすぐに、
「『資本論』はご指摘の通り、全体の30%くらいが当時の労働者たちの生活環境についての行政官や医師の報告書です。それを読むだけで19世紀中ごろの英国の労働環境のすさまじさがわかります。一番怖いのは「マッチ作り」の話です」と反応。
 ちょっと笑えた。ちなみに、どちらも「第8章 労働日」から。前者が上巻p456、後者が同p450。

 フィクションに移ろう。

 作者あとがきでのSF愛が面白い芦沢央『魂婚心中』は6篇を収めた短編集。6月刊。うち2篇「ゲーマーのGlitch」と「九月某日の誓い」が再読。
 表題作「魂婚心中」は、死者同士を婚姻させるシステムがある社会で、推しのあげくの果てアイドルと心中したいと狂気に陥る主人公の物語。憑きものは落ちるんだけれどハッピーエンドとは云えないか。どうも「推し」という言葉が好きになれん。
 「ゲーマーのGlitch」は再読だけれど、当方はこの手のゲーム愛がないので、やっぱりピンと来ない。人情小話の方はよく分かる。
 掌編の「三十五万分の一」あとがきによると「嘘をついたのは初めてだった」から始まる作品のアンソロジーのために書かれた1篇。これはアイデアが良くて面白く読める。
 「閻魔帳SEO」は表題作同様『SFマガジン』掲載作というが、スタイルとしては最近はSFを書かなくなった田中啓文を思わせるムチャブリな1篇。「閻魔帳」なので地獄だけれど、どちらかというとクトゥルーみたいな設定だ。善行と悪行のバランスシートがモノを云う世界で、そのバランスをコントロールする業務の見習いが超ハードな先輩について語る1篇。面白い。
 「この世界には間違いが7つある」は、最初から語り手の立ち位置が見えない変な世界の殺人事件の話。最後には見開きで間違い探しの絵が出てくるのだけれど、いかにもミステリ的な書き方だとその使い方にビックリする。当方はSFだとどれほどヘンテコでもそういうものだと納得するけれど、ミステリ的に書かれると自働的に現実世界を参照するらしい。
 巻末の「九月某日の誓い」は、初読の時に伴名練が書いてもおかしくない話だ、と思ったけれど、読み直してもその印象は変わらず。
 これがSFの短編集かと言われるとちょっとクビをヒネるけど、ミステリではないのでSFと云うことなんでしょう。

 お待ちかね林穣治『知能浸蝕3』は、これまでの舞台に加え、この巻だけのスペシャルとして、中央アフリカに墜落した異星人の宇宙船が元はロシアが利権を握っていた鉱山地区を支配領域にしており、そこでは以前日本でチューバーロボットに殺された陸自の一隊員が複数目撃されているということで、日本でその部隊を率いた陸自の大佐が部隊を率いて調査に乗り込む話が加わった。
 リーダビリティは相変わらずだけれど、さすがに登場人物が多くなりすぎて一人一人が個性的に立ち回ることが出来なくなってしまっている。その点は冲方丁のマルドゥック・シリーズと同様の問題を危惧させるけれど、こちらはサスペンスとアクションに知的ゲームとめまぐるしいので、まだ次巻が待ち遠しい。

 キャサリン・M・ヴァレンテ『デシベル・ジョーンズの銀河(スペース)オペラ』。期待に反して、マーッタック面白くない。こんなにつまんないナンセンスを書くとは、出入り禁止じゃ。
 ユーロビジョンといえば、10年以上前、Youtubeではじめて1964年の優勝者、御年16歳のジリオラ・チンクエッティが歌う「夢見る想い」の白黒映像を見たときの衝撃は忘れられない(いまはカラー化された)。その少し後の映像で既にアイドルとなっていたシルヴィ・バルタンがいかにもお姉さん然(4つ上)としてチンクエッティに対していたのも面白かった。
 ユーロビジョンがロックと関係なかったのは、70年頃までソロ歌手が自国語で歌うというルールだったから(ググった)。そのルールはだんだん緩められて何でもアリになって最近はマネスキンが優勝して現在は大人気だけれど、マネスキンは優勝時にグラムロックバンドと紹介されていた。なんじゃそりゃ。
 今年になって、もとセックス・ピストルズのジョニー・ロットン/ジョン・ライドンがユーロビジョンに参加するみたいな記事が流れていたけれど、もちろんジョニーはユーロビジョンを「クソ」呼ばわりしていた。70年代ロッカーたちはユーロビジョンに無関心と云われていたけれど、最近になってセックス・ピストルズを始め、当時のロッカーたちはみんな楽屋でABBAを聴いていたという伝説が流布しつつあるようだ。ホントかよ。
 因みに、渡辺英樹さんの解説ではグラムロックということでボウイ(本名デイヴィッド・ジョーンズ)のイメージが主人公に重ねられている(作者もそのように書いている)けれど、ウィキを見れば分かるようにセックス・ピストルズはもともと「QTジョーンズ&セックス・ピストルズ」(ジョーンズさんはギターのヒト)だったので、本書の日本版タイトル(原題は"SPACE OPERA"のみ)からはグラムではなくてパンクを期待してしまうのだった。

 アン・マキャフリー『歌う船〔完全版〕』は、引退を表明している翻訳家嶋田洋一さんのほぼ最後のSF訳書らしい。お疲れさまです。
 掲載作はすべて再読だけれど、2~30年ぶりくらいなのでディテールは忘れている。それでも今回読んで感じたのは、60年あまり前のタイトル作からしてその古めかしさよりも、よくできたエンターテインメントSFとしての魅力が勝っていて、既に古典的な作品になりおおせているということだった。
 SFとしての設定は60年前にしてもやや古めかしいスペースオペラだ。しかし重篤な障害のある新生児をテクノロジーによって宇宙船のメインコントロールシステムに利用するというアイデアが、現在の視点からするとグロテスクと受け取られようになり、それゆえいまとなってはかえって衝撃的で、またその設定で進む物語の宇宙がディストピア的な世界であることを意識されるようになった。その点ではこの作品は作者の意図を離れた形ではあるけれど現在でもアクチュアルなSFたり得ている。
 とはいえ、基本はすくなくとも作者が思い描いた「苦難の克服とロマンティックの実現」のエンターテインメントSFであって、昔は当方もそのように思っていた。しかし三村美衣さんの解説にあるように「歌う船」は、半世紀を経る内にフェミニズムに代表されるリベラル思想的読みによって上記のように論争的な作品に変化させられた一方、そのユニークな設定/限定がより若い女性作家とのコラボレーションを呼び込んだ。
 多世界解釈やもうひとつの「現実」というテーマが当たり前になった現在では、「ガーンズバック連続体」となった「歌う船」はちゃんと「別宇宙」を航行しているのである。

 そういえばここしばらく短編集が出ていなかった円城塔『ムーンシャイン』は、作家デビュー間もない2008、9年の中編2作といろいろ賞を取って世間に認められたあとの近作2篇を収めた変なバランスの中編集。という訳で、巻末に作者あとがきが付いている。
 「遍歴」以外は再読。
 冒頭の「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」は、作者あとがきによると、作家志望で作品投稿時代に書いて、『群像』新人賞に応募し落選した一作。
 当時これを読んで「純文学」的な作品だと思った審査員がいなかったのは当然で、大森望が拾うのも当然だったことは、いま読んでみればよく分かる。
 「何も無いところには何でも入れられる」は当たり前の話だけれど、それを本気で考えて小説として実行して見せられても、何が面白いのか分からなかったのも当時としては当然だったろう。形式とその内容でSFしてみせるというのは円城塔の変わらぬ志向なのかも。
 翌年の表題作「ムーンシャイン」は、あの頃の円城塔が難解だと云われたトレードマークである、言葉の一般的用法と特殊用法そして用法それ自体の落差を利用したホラ噺。ここでの宗教への関心はその後も続いているようだ。作者あとがきでは、思いつきが面白ければ何を書いても良いのかという反省を述べているようだ。
 時代は10年近く飛んで「遍歴」。プロローグで郊外のちょっと風変わりな喫茶店を描写したあと、本編では地方の一般家庭に生まれた山口という男の平凡な生涯のエピソードがはじまるが、常に風邪気味の体調に「子供が保育園や幼稚園からもらってくる細菌やウィルスは山口家の十のマイナス何乗かのスケールにおける生態系をかき乱し、山口はまるで自分が全く別の生態系の支配する大陸へ放り出された探検隊の一員のように思えた」などという感想を付け加えるところに、昔は「文学」をないがしろにしていると譴責された原因があったのかも。
 この山口が平凡な人生を終えてこのエピソードも閉じられるが、次の章から始まるのが「オープンソース教団」のエピソードで、最初はその定義から始まる。そこへ山口の輪廻転生的覚醒が持ち込まれ、話は宗教団体「エルゴード教団1.0」と転生山口バージョンの話になる。これも数物理学的な用語とそれが匂わせる概念が輪廻転生と新興宗教というパターンを取るけど、「ムーンシャイン」よりは宗教の扱いが限定的かも。それにしても章ごとに笑えるセリフがあって何なんだと思った。
 作者が他の3篇と一緒にして短編集に纏めるために書いたという「ローラのオリジナル」は、初読時もそうだったけれど、ChatGPT及び生成AIが流行りだしたというので、その鳥羽口である画像生成AI「Midjourney」あたりで作成された画像の氾濫が思い浮かぶ1篇。
 これがSFミステリなのか単なる軽犯罪法違反者の言い訳なのかよく分からないけれど、作者あとがきではちゃんと警告を発している。偉そうなのが恥ずかしいから逃げもうってるけど。

 光文社の文庫オリジナルで出た松崎有理『山手線が転生して加速器になりました』は、『小説宝石』に2021年から2024年までの間に発表した5篇に、表題作の続編を書き下ろして、全体を纏めるための掌編「総論 経済学者の目からみた人類史」と「付録 作中年表」を付け加えたもの。オープンAi「モラヴェック」もいつもどおり使われている。
 冒頭の表題作「山手線が転生して加速器になりました」は、パンデミックのせいで東京がほぼ無人状態になり、使い道の無くなった山手線は円環型素粒子加速器に中央線はリニア型加速器として生まれ変わったというもの。先にリニアが完成していて、ここでは山手線の円環型加速器の運転開始式が描かれる。加速器には自己認識するAIが搭載されそおり、なぜか山手線時代の記憶を持ったAIはアイデンティティの危機を迎えるというコメディ。『三体』人気に目配せした宇宙からの侵略危機エピソードも放り込んでノリノリである。ここではまだパンデミックによる無人化した東京という設定は強調されていないが、他の作品はその設定が前面に出てくる。
 「未来人観光客がいっこうにやってこない50の理由」は、いきなり「ホーキングの第2パラドックス」として表題が紹介されるところから始まる。本筋はオンラインで科学解説している貧乏青年が、タイムマシン不可能説を証明しろと視聴者の少年に迫られ、幼馴染みの上から目線女子経済学者「行方ユクエ」に助けを求める・・・。SFホラ・コメディのユルさがたのしい。タイトルはポール・サイモンの初期ソロヒット曲を思わせる。
 「不可能旅行社の冒険――けっして行けない場所へ、お連れします」は、定年を迎えた理系大学教授男女3人がVR世界でブラックホール体験旅行を思いつく話。その実現に協力したアバターが実は・・・。と云うところでコメディが一転する。
 書き下ろし「山手線が加速器に転生して一年がすぎました」は、冒頭標題作の短いリプライズ。
 「ひとりぼっちの都会人」は、パンデミックでほぼ無人となった東京という設定を生かした1作。
 以前は東京に店を構えていた世界的に知られた料理人は現在只一人で沖ノ鳥島在住し、国境管理人を兼務。ときおり遠隔操作ロボットで料理をつくるが、今回旧東京都庁の住人から依頼を受け、東京へアバターを飛ばす。一方、東京では棄民として残された少年がジソウロボットから逃げながら生活していたが、料理人のアバターと出会い・・・。ということで、表題はこの少年や料理の注文主に当てはまる。松崎有理らしい少年愛が感じられる力作。
 一応の巻末作である「みんなどこにいるんだ」は、タイトル通り人間以外の知性とのファーストコンタクトがタコとのコミュニケーションというかたちで実現したところから始まる。話はそのファーストコンタクトを経験した各国の人たちへのインタビューで構成されているが、その後スケールインフレになって、最後はやっぱり『三体』ギャグで締められる。
 オマケの「総論 経済学者の目からみた人類史」は「経済学」の基本概念を「ノー・フリーランチ」であると喝破。宇宙の始まりから人類の誕生、そして資本主義の時代を除いて人類史の経済の基本は「フリーランチ」であるとする。著者は研究専用過去訪問資格保持者のフィールド経済史学者「行方ユクエ」。
 「付録 作中年表」の1行目は「宇宙開闢から数百万年後 ダークマター、ダークエネルギーが意識を持つ」。もう何でもありだ。
 円城塔の作品集も良いけど、松崎有理も悪くない。

 書き下ろしアンソロジーシリーズだった『GENESIS』が雑誌形式になって2度目の『紙魚の手帳 GENESIS』は、雑誌としては2024年夏第18号ということらしい。
 恒例第15回創元SF短編賞受賞作、稲田一声「喪われた感情のしずく」は、なんと珍しや一種の香料SFだった。
 人々のうなじにはいわゆるジャックがある時代。そこへナノテク応用の人工感情操作液を垂らすと後遺症なく様々な感情の経験が可能になり人気商品となっていた。語り手はその製造会社の若手「感情調合師」。語り手は会社の創立者で天才と謳われた調合師の新作に違和感を感じる・・・。
 ちょっとイーガンの短篇を思わせるものの、こちらはサスペンスが勝った1篇。主題をなすテクノロジーの存在と社会のあり方が気になるけれど、物語的なドライヴが疑問を押し切ってしまう。
 宮澤伊織「ときときチャンネル#8【ない天気作ってみた】」はタイトル通り8作目。今回は多田羅さんが先に登場してちょっと新鮮。今回のテーマは夏に合わせて暑さ凌ぎ。ヒロインが主導権を握ってからいろいろ涼しくなる方法が出てくるが、後半は「サンドボックス(隔離環境)」内での天候操作実験となる。結末ではチャンネル始まって以来の危機が訪れる・・・。
 そういえば前回「宮崎伊織」と書いてました。申し訳ない。
 ひとつ前の創元SF短編賞受賞者阿部登龍「オオカミを装う」は、都会での仕事を辞めて実家のクリーニング店員をしている中性的な名前の女性が視点人物。彼女は学生時代の友達が既婚者となって眼前に現れたことをきっかけに、クリーニング店の中で幻聴を訊くようになり、ある夜クリーニング済みの洋服を体に合わせることをしてしまう。そして見つけた毛皮のコートは「狼」だった・・・。
 ややバランスに難のある中編だけれど「狼」の疾走感は悪くない。ただ松樹凜の同賞受賞作が思い出されてしまうところもあって損をしている。
 唯一の翻訳レイチェル・K・ジョーンズ「子供たちの叫ぶ声」は、小学校(?)で銃撃事件に遭った女性教師が、「ポータル」と呼ばれる「子供たちをしまっておくピカピカの防弾金庫」に子供と一緒に閉じ籠もっている状況から始まるが、彼女と子供たちはいつの間にかおとぎ話の世界で生き延びる算段を迫られている・・・。結末にあげられる子供たちの「叫び」は、それでもフィクションの中に止まらざるを得ない。サタイアでは間に合わない世界。
 古澤嘉通さんが、これから出る担当訳書の宣伝を兼ねて世界SF大会中国大会でのヒューゴー賞ノミネート作品捜査疑惑の顛末を綴った「人間的な、あまりに人間的な 2023ヒューゴー賞騒動」は面白く読めました。
 斧田小夜「ほいち」は、これまで書かれたカーSFの殿堂に新しく加わったインスタントクラシックな1篇。面白い。
 ここからの中編3篇はどれも読み応えのする作品が並ぶ。
 超久しぶりに読む気がする赤野工作「これを呪いと呼ぶのなら」は、相変わらず架空ゲームの評価を巡る物語。
 今回は、以前ゲーム紹介記事を書いて炎上したことのある新作ゲームのレビュアーが新作ホラーゲーム評を依頼されて、いろいろな言葉を「恐怖の対象」として当てはめていくうちに、たまたま対象設定をせずにゲームスタートしてしまう・・・。
 ゲームをしない当方からすると語り手の思考や感性にちょっと違和感があるけれど、読ませるという点では無問題。
 「何を怖がってみるか」という選択肢を自分で選べるゲームというのは、今回の創元SF短編賞受賞作、稲田一声「喪われた感情のしずく」に通じるものがある。
 短編集を読んだばかりの松崎有理「アルカディアまで何マイル」は、前半と後半でかなり印象の変わる力作。
 ほとんど緑が失われてた世界の炭坑で働く少年が主人公。この炭坑での少年の眼を通してみた労働環境は、まるで『資本論 第一巻』に出てきた「工場監督官報告書」や「児童労働調査委員会報告書」からの引き写しのように見える。この世界では食べ物といえば牛肉ばかりたまにトリ肉が見つかればつい食べたくなってしまう。というのはこの世界では戦争にこちらは牛兵を敵は鵞鳥兵を使っており、肉は豊富に供給されていた・・・って、ディストピアですね。
 この少年が肉屋で脚のない鵞鳥を買って帰る道すがら、鵞鳥兵は実は死んだふりで生きていて少年を脅して北にあるという「アルカディア」へ向かわせる・・・。ここからが後半で見事にオーソドックスなディストピアSFが展開されるのだけれど、あまりにも書き急ぎな感じがして、もう100枚ぐらいあっても、イヤいっそのこと長編化しても良いような気がする。
 トリの飛浩隆「WET GALA」は、パッと見にはなんじゃと思うが、メットガラが思い浮かべばこれが大規模ファッションショーの話なのかと見当が付く。
 しかし飛浩隆は相変わらず徹底してエピソードを詰め込んで、まるでショートバージョンの『零號琴』みたいなことを未来ファッションでやって見せている。ファッション界を舞台にして創造性とAIをテーマにSFエンターテインメントを展開。スゴっ。
 「無職」になったとはいえ飛浩隆が量産体制を取るとは思えないが、こんなレベルで矢継ぎ早に作品が発表されるようになったらコワいかも。
 全体として、『SFマガジン』2024年10月号「ファッション&美容SF特集」との示し合わせがあったのではと疑われる。

 そういえばSFファン交流会8月例会で話題になるかもと、当日の朝『SFマガジン』8月号の古澤さん訳「われ、腸卜師」を読んだのだけれど、クトゥルーもののゲームに合わせた短篇を依頼されて書いたというだけあってケッタイな1作だった。
 プリーストとクトゥルーではパロディとも言えないけれど、墜落する飛行機の中に閉じ込められた男と視点人物が遭遇する場面では、なぜかバラードが書いたシーンのように思えた。バラードは作家になる前は戦闘機乗りだったし、墜落した戦闘機に執着があったのは『夢幻会社』や『女たちのやさしさ』を読めばよく分かる。
 結局本会では本作への言及は無かったように思う。


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