続・サンタロガ・バリア  (第261回)
津田文夫


 開催日が前回の締め切りと重なった「やねこんR」は、前泊しないと翌日午後3時オープニングに間に合わないかと思い、前泊を付けたのだけれど、朝8時に家を出て呉駅を半の電車で広島駅へ、新幹線で名古屋に着いたのが11時半過ぎ、12時発の特急しなので塩尻に午後2時前に着き、あずさに乗り替えて茅野(「かやの」かと思ったら「ちの」でした)についたのが2時15分過ぎ。ホテルからの送迎バスは4時過ぎ発なので駅に繋がった多目的ビルの中をウロウロ。小津安二郎コーナーがあったり、販売を兼ねた図書コーナーがあったり、昭和レトロな品を売る店があったりとなかなか充実した(割にはやや雑然とした)テナント構成である。市の出張所やワーク・ルームに喫茶・レストランもあって、人口5万人台の都市の施設としては素晴らしいけれど、平日と云うこともあって人通りは少ない。
 駅を挟んで反対側(送迎バスが着くいわゆる裏口)には市の図書館分館(?)があってこちらは硝子張りの光溢れる細長い読書コーナーみたいになっている。こちらの方は利用者が結構いた。
 それなりに時間潰しが出来て早めに送迎バスコーナーに行ったら、大型バスが来ていて既に10人程度が乗り込んでいた。
 出発前に東京組がどやどやと乗り込んできて、偶々英保夫妻も一緒だった。ということでホテルまでの小1時間英保氏と2年ぶりに最近のSFの話をしていた。話の中で蔵書をどうしているのかと聞いたら、もう紙の本はほぼすべて処分したとのこと。洋書類はなじみ出版社に引き取ってもらったらしい。そういえばディーラーズルームに大量のSF本が並べられていたけれど、どなたかの蔵書が放出されたとか。あと大野万紀さんからのメールあったように「本の雑誌」で大森望が取り上げた作品の評価が当方とほぼ一致した回があって、そのことで当方の感覚が古いのかなと云ったら、英保氏はあの回に取り上げた作品が偶々そういうモノばかりだったからとの判断でした。
 で、ホテルに着いて部屋割りを担当者に聞こうと並んでいたら、偶々前にならんだ人と同室になり、英保氏から塩崎さんと一緒なんだと云われ、その時は何も気がつかずその人と一緒に割り当てられた部屋に入り荷ほどきして、さてお名前はと尋ねると「塩崎ツトム」です、とのお返事。エエーッ、ゲストじゃないの、と驚いたら、塩崎ツトム氏は「SF大会に参加するのは初めてなんで、どんなものかみてみようと一般参加にしました」とのこと。当方の『ダイダロス』感想文の疑問に大野万紀さんを通じて直接回答いただいたので、その点は初対面とはいえ話がしやすかった。塩崎ツトム氏ご自身はどちらかというと寡黙なタイプで、ひとりで居ることに何の不安もないという感じ。部屋にいるときは、ディッシュの『SFの気恥ずかしさ』を読んでいるか、寝てるかというところでした。
 なお、食事券が部屋割りになっていて、バイキングレストランではなんとなく同じ部屋のメンバーでテーブルを囲む雰囲気が出来ていて、晩と朝それぞれ2回とも塩崎ツトム氏と一緒だったんだけれど、晩の方は飲み放題券を購入されて、何でもござれで呑んでました。当方はやや胃の調子が悪く大会ではノンアルコール状態でしたが。
 さて肝心のSF大会はオープニングとエンディングに片渕須直の部屋以外何も見てません。というのはひとつにディーラーズルームにいたことと、メールで参加を問い合わせたけれど返事のなかった桐山御大が当日参加されて、かなり衰弱されていたのでほぼつきっきり(特に寝部屋は西館(アネックスという客室棟)のエレベーターから一番遠い西の端の部屋だったので部屋まで付き添いました)だったから。なお松代にお住まい桐山さんは妹御が運転手で大会に送り迎えされていて、当方は大会終了後妹御の車でお家とは反対方向の茅野駅まで送っていただきました。その節はありがとうございました。
 今回はリゾートホテルということで、受付兼ディーラーズルームのある新本館と企画部屋のある東館それに寝部屋のあるアネックス(西館)に別れており、桐山さんの部屋から東館の大ホールまでエレベーターを2度、エスカレーターを2度、最後は動く歩道と、数百メートル歩かないとたどり着けないという鳥羽の旅館以上に移動距離のある大会でした。
 でも、特に不満もなく3回入った大浴場の露天風呂からの白樺湖の眺めも楽しんだので、まあそれなりに良かった大会ではありました。しかし今回は3回も物忘れの大ボケをかまして年寄りの自覚をさせられた大会でもありました。
 大会スタッフの高齢化も深刻ですが、まあ行けば何とかなったので、まずは大会を運営された方々に御礼申しあげます。都合が付けば来年の東京での大会にも行くかも。

 話変わって映画「ルックバック」の感想を。
 なんだか口コミで評判だというわずか1時間足らずのアニメ。あんまり情報は入れないので、藤子不二雄の「まんが道」を思い描いて、電車に乗り映画館に入っていってチケットを買おうとしたら、1700円一択の料金表。これが最初のオドロキ。で、映画が始まったら漫画が得意な「女子小学生」と絵の上手な引きこもり「女子小学生」のバディものとしてストーリーが展開したことにビックリ。宣伝などで見るアップの2人はその絵柄から男の子だと・・・。話が進み、高校卒業時のバディと別れその後ひとりでヒット作を出すようになった主人公。そして起こる〔とってつけたような〕衝撃の事件にまたもやビックリ。
 この「〔とってつけたような〕衝撃の事件」が、あの京アニ事件を反映していることは間違いないだろう。そして「〔とってつけたような〕」感覚こそ、あの事件から多分作者(たち)が受けた衝撃の強さを再現しているんだろう。すなわち同じものをめざした者としての仲間への鎮魂と生きている同志としていまも志したことを続けていくこと、それが事件以降エンディングまでの主人公の描写に現れているんだろう。
 とても1時間で処理された物語に見えないけれど、演出が冴えていることとBGMが立派なので、作品の充実がその短さを忘れさせている。
 原作者は「チェンソーマン」の藤本タツキと云われてますが、当方は「チェンソーマン」を読んだことも見たことも無いので作風は知りません。当然原作も読んでないけれど、これを見る限り非常に正攻法なスタイルだと思います。

 今回はノンフィクションから。

 こだわりのノンフィクションは、もちろんカール・マルクス『資本論 第一巻』上・下。今年の3月にちくま文庫ででたヤツですね。親本が2005年と云うから20年ぶりの文庫化。当方は4月から読み始めて7月に読了。
 これだけ時間が経ってからの文庫化になったのは、筆頭訳者の今村仁司が2007年に亡くなってしまい、文庫化を約束していた手前、残りふたりの訳者三島憲一・鈴木直の手で改訳を進めてきた結果が20年ぶりとなったと文庫版あとがきで弁明している。その分読みやすくなったのかどうかは較べてないので分かりません。
 上巻を読み終えたあたりで、大学時代はロシア語を第2外国語にしていたという近代日本経済史専門の師匠に会ったので、マルクスって経済学者じゃないですよねえと振ったら、ありゃ思想家でしょ、とのご返事。ま、そりゃそうだ。キャピタリズムとマルキシズムでは次元が違うって。
 なんでこんなものを読む気になったのか、というとそれはポパーを読んだからで、ポパーのプラトン批判にしろマルクス批判にしろ、その批判は「民主主義的思考」に対する彼らの思考法/思想というただ1点に限ってのものだった。今回読んだ文庫では、下巻p727「第24章 いわゆる原初的蓄積」の最後の方にある「資本主義的私有の終わりを告げる鐘が鳴る。収奪者が剥奪される」というプロレタリア独裁を慫慂するアジテーション思想への反論であった。
 しかしポパーも云うように、文庫で本文1300ページもある『資本論 第一巻』に書かれていることは、膨大な情報であって、そのようなキャッチフレーズ的プロパガンダを抜きにしても、少なくとも当方には驚くべき著作物だと感じられた。

 最初に驚くことは冒頭の一文で、それなりに有名な――
「資本主義的生産様式がいきわたった社会では、社会の富は「商品の巨大な集合」として、また個々の商品はその要素形態として姿をあらわす」(上巻p75「第1篇 商品と貨幣 第1章 商品 第1節 商品の二つのファクター 使用価値と価値(価値実態、価値量)」の最初の段落、あー鬱陶しい、以下ページ数のみじゃ)
 これをを読んですぐ思い浮かべたのが、以前感想文を書いたコルナイ・ヤーノシュ「スーパーマーケットのイメージである「溢れる商品」こそ、資本主義の本質である「余剰経済」を表している」というヤツ。
 因みに『資本論 第一巻』は1867年初版(改訂はその後何度かなされている)だそうで、日本でいえば慶応4年、翌年明治改元という時代の書物。100年後の「スーパーマーケットに溢れる商品」という事実を最初の1文で見抜いて見せている訳で、そりゃ驚くわねえ。
 しかしその後に続くいわゆる「商品」論はなかなかのクセモノで、それはマルクスが「科学的」と称して、物理学と同じように現実を抽象化した商品「論」を作り上げているところから来る。すなわち加速度/速度/距離を説明するときに摩擦力や空気抵抗などは「考えないものとする」と同様の処理を「商品」を説明する上でマルクスが指定した条件以外「その他の社会経済的変動は考えないもの」とするわけだ。
 物理の授業ならともかく現実社会の商品流通しか思い浮かばない中で、この抽象化はなかなか納得しがたいモノがあり、「それはそれでいいとして」と括弧に括ることに抵抗が生じる。しかも延々と読み進める内に、途中で物理学的な抽象化を真似るだけでは間に合わなくなる(一種の「魔法」が生じる)というのが、商品流通と剰余価値の発生にかんするマルクスの説明なので、だんだん眉にツバをつけたくなるのは人情のなせるところ。
 そして、この手の理論的な抽象化、たとえば「売り(G)」「買い(W)」の単純関係G-W-GやW-G-Wと、マルクスが自らその謎を解いたと豪語するG-W-G’(「’」は利潤/剰余価値、「-」はマイナスじゃなくて「→」を意味してる)というものは、経済学史的には重要かも知れないが、当方のようなボンクラ読者にははっきり言ってどうでも良いのである。
 実際1400ページの中で、マルクスが最大のページ数を費やしたのは、19世紀前半の労働者、特に女性と児童が置かれた現実の調査レポートの引用なのだ。
 例えば650ページある上巻で1番長い章は全12章中の第8章「労働日」で、その前に置かれた理論的なパートである第7章「剰余価値率」がわずか30ページなのに対し、140ページ近くあり、そしてその大半は当時の政府機関の出先から派遣された調査員の「工場監督官報告書」やら「児童労働調査委員会報告書」その他医者の健康調査や新聞・雑誌の記事類などからの引用と、それに対する当時の資本側の言い分やそれに対するマルクスのコメントから成っている。
 これは750ページある下巻では更に対照的で、「機械装置と大工業」のタイトルでやはり「工場監督官報告書」が大量に引用される13章が240ページ。「公衆衛生報告書」や「児童労働調査委員会報告書」が引用される第23章「資本主義的蓄積の一般法則」が180ページもある一方、理論そのものである16章「剰余価値率のさまざまな公式」はわずか7ページしかない。
 『資本論 第一巻』は膨大な書物の引用(大量の(注)で補足されている)からなっているけれど、その最大のものは女性と児童を主体とした労働者の悲惨な生活状況に関するものなのだ。この点についてはポパーもマルクスの動機においてその民主主義的価値を認めようとしていた(後で否定するけど)。まあ、ボンクラな読み手である当方はこれでもかこれでもかと引用される報告を読みつつ、マルクスも飽きずによく読んだことだなあ、と感心するのである。
 もちろんこれは、「資本論」がなぜ書かれたか、「資本」はなぜこのような仕組みになったのか、それはどこから来たのか、なぜ維持されていて、その行く先はどうなるのかを、考えざるを得ないこと、すなわちそれを“学問的/科学的に”説明しなければならないのかを、読者に伝えるための「重し」として置かれている。
 そしてこの、現在となってはある意味退屈な報告書類の膨大な引用を、一種のエンターテインメントとして読ませるのが、当方の観点では「マルクスの真骨頂」である「オチョクリ気質」な貶し文体である。親本の解説を書いた今村仁司は「・・・その内容を叙述する「芸術的」言説様式と文体・・・」と高踏的に云って見せてるけれど、ようはマルクスはヒトを貶すのが大好きで、その膨大な読書量と知識量にモノをいわせて片っ端から切ってみせる。その切り方がウマくて当方もついつい笑ってしまうのだった。
 有名どころでは、「第4章 貨幣の資本への変容」に出てくる――
「いまや価値は、商品間の関係を表すのではなく、いわば自分自身との私的な関係に入る。価値は原価値としての自分と剰余価値としての自分とを区別する。 ちょうど父なる神と、子なる神キリストが区別されるように。しかし両者は同じ年齢であり、事実上は同一人物だ。なぜなら、10ポンドの剰余価値によってのみ、前貸しされた100ポンドは資本となるからだ。そしてそれが資本となったとたんに、つまり息子が生まれ、息子が生まれることによって父が生まれたとたんに両者の差違はふたたび消滅し、両者は一体化し、110ポンドとなる」(上巻p288~289)
 というヤツ。無神論者ユダヤ人マルクスの代表的なオチョクリ。現代の読者が読むとチョットまだるっこしい言い回しなんだけれど、当方は噴いた。要は商売の儲けが成立したとたんに商売の元手100円は「資本」になり、儲け10円は「剰余価値」になるけど、100円のモノが110円になったとして貨幣には違いないということ。すなわち「魔法」なワケ。
 この考え方が資本主義生産体制における資本家と労働者にも適用されて、労働者が必要とする価値以上に資本家のための価値を生み出す体制が資本主義体制となる。当方レベルでも必ずしも説得されるわけでは無いけれど。
 どんどん長くなるのでそろそろ終わりにしたいが、ポパーの本の最大の標的だったプラトンについて、マルクスもサタイアのネタにしているので、そこのところを。
「プラトンの『国家』では、分業が国家の形成原理として論じられている〔プラトン曰く「仕事に労働者を合わすべきで、労働者に仕事を合わすべきではない」下記(注80)より〕が、これはエジプトの身分制度をアテナイ風に理想化したものにすぎない。エジプトは、たとえばイソクラテスのようなプラトンの同時代者たちにも産業上の模範国家と思われており、ローマ帝政時代のギリシャ人にとってさえ、こうした意義は失われていなかった。」第12章「分業とマニュファクチュア」上巻p673
注(80)「・・・イギリスの漂泊工場主たちは、全労働者に同じ一定の食事時間を与えるように規定した工場法の条項に抗議したが、その抗議文のなかにも、このプラトンと同じ考えが見いだされる。(中略)あちこちに顔を出すプラトニズムは、今度はどこに住みつくことだろうか!」上巻p675
 マルクスもポパーほどでは無いけれど、プラトニズムをオチョクルだけの批判精神は持ち合わせていたらしい。
 大英図書館に籠もって大量の書物と格闘したという伝説は、『資本論 第一巻』で充分に発揮されていて、聖書、ギリシャ/ローマの古典からシェイクスピアはもちろん、いまでは誰も知らないような昔の経済書をバンバン引用して、オチョクリまくる。
 一般にもよく知られた『人口論』のマルサスなど、「(彼の人口論はすべて恥知らずな剽窃だ)」下巻p257とケチョンケチョンである。その一方でいまでは忘れられた著作の中からこんな引用もしている。
「窮乏は、餓死や疫病といった極限に行き着くまで、人口増加を抑制するよりはむしろ促進する」(S・レイング『国民の困窮』1844年、69ページ)
「全世界が快適な状態になれば、世界の人口はやがて減少するだろう」同上
 ともに下巻p510
 古いSFファンには、「軍隊が士官と下士官を必要とするように、同じ資本の指揮下で協業する労働者集団は、労働過程中に資本の名において指揮をとる産業士官(支配人、マネージャー)と産業下士官(職工長、foreman,overlookers,contre-maitres)を必要とする」上巻p611が、もしかしたら有名なのかも。 
 なお、『資本論 第二巻』以降(構想では4巻本)はマルクスの死後、エンゲルス等によって編集されて刊行されたらしいけれど、当方は読みません。だって第一巻にエンゲルスの書いた文章はチットモ面白くないからね。

 ノンフィクションをもう1冊。
 河出文庫になった山本弘『宇宙はくりまんじゅうで亡びるか?』は、作家の逝去を受けて文庫化された「あとがき」や「巻末解説」、講演や「結婚生活」に関する書き下ろしエッセイなどを収めた雑文集。親本は2007年刊。
 親本刊行当時は多分読んでなかったと思うけれど既読の文章もそれなりにある。SFに関する限り、山本弘の視点はずっと変わらず維持されてきた。それが当方の趣味と一致しているかというと、ややズレを感じるけれど。しかしファニッシュなSF作家でありその立場は最後まで保たれていた。
 今回読んで、当方には興味の無かった「トンデモ」系のエッセイが、けっこう山本弘の倫理観に基づいていたことに感心した。この著作から読み取れる山本弘の政治的倫理的モラルはポパーの主張に近く、東浩紀の最近の主張「訂正可能性」とも重なっている。
 追悼文となっている町山智浩の解説もいい。

 フィクションに移ろう。

 前回の積み残しになったP・ジェリ・クラーク『精霊を統べる者』は、解説で作者が「彼」と書かれていることがオドロキになるくらい徹底的に女たちの活躍だけで出来上がった、これまた徹底的にエンターテインメントを志向したサイエンス・ファンタジー。小川一水や宮崎伊織を髣髴とさせるが、このヒトは1971年生まれのトリニダード・トバゴ移民の子で、現在は大学で歴史学の教授だと云うから作家の方が余業には違いない。
 主人公はエジプト魔術省のエージェントの女性で、魔術の絡んだ事件の捜査と解決がお仕事。彼女は浅黒い肌のエジプト人で若くして才覚を現し、外国製の派手な服にに山高帽というスタイルがトレードマーク。この世界は40年前にアル=ジャーヒズという魔術師が異世界とエジプトを繋げてジンを始めとする伝説の魔物たちを解き放って以来、魔術省が必要とされる世界になった。いわゆる改変歴史に魔法の復活が絡んだ世界が舞台。時代的には19世紀末くらいから第1次世界大戦前な感じで、物語自体は1912年に設定されている。基本宗教はイスラム教である。
 主人公には謎めいた美女の恋人があり、一人で仕事するのを旨としていたが、どうやら伝説のアル=ジャーヒズが蘇って魔術を使った多量殺人事件の調査を始めると、新人の女性エージェントを省から押しつけられ・・・と、百合的な恋人との関係と新人調査官とのバディものとしての甘さが、国家を揺るがす魔術的な陰謀のド派手な展開とともに一種ラノベ的エンターテインメントとして盛り上がる。クライマックスなどアニメの見過ぎでしょ、とも思わせるが、まあそのような作りなので文句は無い。
 エンターテインメントとしては充分な仕上がりだけれど、改変世界エジプトの表面的なエキゾティシズムは、現代アメリカンの感性によってディズニーアニメみたいなものに感じられる。

 同じく前回の積み残しになったのが井上雅彦監修『屍者の凱旋 異形コレクションLVII』。今回は巻頭に話題のホラー作家背筋を据え、織守きょうや、上田早夕里、篠たまき、黒木あるじ、空木春宵、斜線堂有紀、芦花公園、平山夢明、三津田信三、そして牧野修と巻頭の2人以外は常連とも云うべきラインナップ。
 基本的にゾンビには関心が無いので、監修者の意気込みや力の入った各短篇のリード文を読んでもあまりソソられないため、収録作品に対する評価も低め。
 その典型が背筋「ふっかつのじゅもん」。当方はコンピュータゲームを全くやらない人間なので、ここで多用されるゲーム用語とその効果に何の反応もできず、オマケに妻を生き返らせる話がそれと繋がっていてもピンと来ない。
 織守きょうや「ハネムーン」は冒頭から軽いノリで始まる、ゾンビ/新型コロナ/ウィルス感染見立ての差別感情サタイア。面白い。
 上田早夕里「ゾンビはなぜ笑う」は、ゾンビならぬ「違種」対策班の班員が語り手のいわゆる奇病SFもの。グロ叙情的な一作。
 篠たまき「粒の契」は、日本神話の黄泉国エピソードからヒントを得たらしい、ゾンビ・バリエーション。「ハネムーン」と似ているが、こちらは古典的枠組みがモノをいう。
 井上雅彦「アンティークたち」は、作者自らこれが人形師・宵宮綺耽の「作品目録」シリーズの1篇であると謳っている。これは怪奇小説のアマルガム。
 実はゾンビ小説が巧かったとわかった久永実木彦「風に吹かれて」は、墓地物語の新機軸を創り出していて読ませる。
 最東対地「コール・カダブル」は、「ゾンビ」の由緒から入るが、話は一転ゾンビも資本主義には勝てないサタイアと化す。ちなみにタイトルは肉体そのものという意味らしい。
 黒木あるじ「猫に卵を抱かせるな」は、意味不明のタイトルだけれど、ググるとイタリア語のことわざのヒネリらしい。ということでイタリアを舞台にマフィアの親分みたいなヤツが、死者を蘇らせるという日本人兄妹に死んだ娘を蘇らそうとする話。文体は漢字にルビ多用でページが黒く、古めかしさを醸している。タイトルは「何か裏がある」という意味のことわざ「猫が卵を抱いている」の否定形。話の方はすべて灰と化したあとも最後まで生き残った視点人物である兄は呪われている。
 空木春宵「ESのフラグメンツ」は、本文と脚注で構成された1篇。文庫だと老眼にはチョット辛いけれど、分量によって脚注の印字ポイントが変化する。って、アソビすぎだろ。話の方は本文が3人称で書かれたゴスロリ衣裳モデル少女ゾンビの行動。脚注がその少女のコメントとなっている。しかし、クライマックスでその形式が逆転する。「ES」は少女同士の契りに関連する。なかなかの野心作。
 空木春宵のあとはもちろん斜線堂有紀「肉霊芝」。これもググると霊芝はキノコで漢方薬に使われるらしいが、作者が「肉」を付けたとたんにオドロオドロしいモノに変化する。この世界では「肉霊芝」は遙か昔から存在し、その一部を切りとって万能薬として使っている。「肉霊芝」に時々顔状組織が現れるが、それは切りとって処分しないといけないことになっている。という訳で、「肉霊芝」の起源を巡る中華風怪奇小説が始まる。
 この2篇はどちらも視点人物が最後に亡びているなあ。
 芦花公園「ラザロ起きないで」は、閉じこもり男が橋渡し役の謎の人物に誑かされて、以前唯一好意を寄せた女性の腐乱死体と一緒になる話。タイトルはラストのシチュエーションに由来する。
 平山夢明「煉獄の涙滴」は、編者のリード文にあるように今回もSFに分類されそうな資本主義ディストピアもの。SF的世界で視点人物が味わう苦難とドン底はこの作家の基本的なスタイルなのかも。
 澤村伊智「ゾンビと間違える」はゾンビ状態判定基準が恣意的に適用されてゾンビ狩りが行われている世界。当然ゾンビより狩る方がコワイ。
 三津田信三「屍の誘い」は作者本人が「異形コレクション」への作品依頼を受けたところから始まる、実話系/民俗系怪奇モノ。しかも怪奇をミステリのトリックとして謎解きもしてみせる余裕の1篇。
 トリはなんとなく久しぶりの牧野修「骸噺三題 死に至らない病の記録」。「1.それは深海からやって来た」は400万年前にメガロドンが人魚を喰って不死になり・・・それが人間と御麗体(良い香りのするゾンビ)の関係を決めた。「2.死体と遊ぶな子供たち」は御麗体がリサイクルされる時代の「葬儀」風景。「3.釣り堀にて」は天使代行業の視点人物が高エネルギーエンジン「オフィーリア機関」の燃料にに使われるという女児の麗体を捜査しに釣り堀を訪れる噺。面白い。

 というわけで牧野修『猟奇の贄 県警特殊情報管理室・桜庭有彩』を読んでみた。
 プロローグは、小学校の教室に入り込んだ殺人鬼が子供たちを次々と殺していく中、隠れたところを見つかった時点で助かった少女の恐怖を語る。
 本編は、職員さえ何をする部署か知らない一見ボンクラおじさんが室長の県警特殊情報管理室が舞台。そこへヒロインが赴任するところから始まる。室員は超絶美男子の警部補とデジタル・ウィザードの惚れっぽい若者、それに室長が散歩に連れて出る臆病なオチコボレ警察犬。これでチームが出来たと告げられる。
 ヒロインはもちろんプロローグの少女で、実は彼女には人と人の繋がりが糸として視えてしまう特殊能力の持ち主だった。室長以下犬までそれぞれワケありなキャラが揃って、通常捜査から外された原因がつかめない不気味なカルト系事件の解決を目指す。
 タイトルほどオドロオドロしくはなく、基本はコメディータッチだけれど、不気味なカルト系事件の展開と顛末は結構ハードである。
 ラノベで育った世代へのエンターテインメントにふさわしい仕上がりの1作。

 山尾悠子『初夏ものがたり』は、昭和55(1980)年にコバルト文庫で出た『オットーと魔術師』から連作短篇の標題作のみを復刊。酒井駒子の挿絵を付したことでグッと解像度が上がった。
 もちろん初刊時に読んでいるが、当然内容は忘れている。巻頭の「オリーブ・トーマス」を読みながら、そうだった、こういう話だったな、と思い出し、なぜか「タキ氏」に『笑ゥ(黒イ)せぇるすまん』のイメージがあるように感じられたのは、当時当方があの強烈なキャラに影響されていたせいだろう。
 全4話からなるが、ジュヴィナイル・レーベル向けと云うこともあって、当時の山尾悠子作品のトレードマークである強烈な幻想性は控えめ。幽界と現世を繋ぐ仲介ビジネスマン「タキ氏」の設定は、この時点ではまだ充分に使いこなせていないような感じがある。
 表紙を含め、酒井駒子の挿絵が話の初々しさを強調しているんだろう。そういえばボロアパートに詰め込んだ荷物をアレコレ開けていたら、当方が大学時代(作者とは同年齢で同窓、ただし向こうが1年先に卒業、もちろん作家デビューするまで一面識も無かった)に作者からいただいた手紙が出て来た。すっかりわすれていたけれど、初々しさという点では共通しているような・・・。

 「日本ファンタジーノベル大賞2024」大賞受賞作という宇津木健太郎『猫と罰』は正攻法過ぎて奇想天外はないけれど、読後感はナルホドこれを上回る奇想で読ませる作品を創るのは難しいだろう、と思わせるだけの後味の良さがある。
 「猫」の方は語り手で、9つめの最後の転生を黒い子猫として始めたが、これまでの8回の生の記憶があり、その中で「猫」が己のアイデンティティのよりどころとしているのが、己をモデルにした小説を書いて一躍人気作家となった男との生である。一方「罪」の方は、9回目の生を受けた人嫌いな「猫」が、ある日「北斗堂」という古書店の女店主に見透かされるように馴らされて、結局その店に居着いてしまうが、その謎めいた女性店長の出自に関わる。
 物語全体の構えは大きくなく舞台も「猫」の行動範囲に限られており、「猫」の思い出話が日本の近世近代(文学)史に絡んではいるものの、そこに重点があるわけでも無い。それでも「猫」を取り囲む古書店の先住民である猫たちや女店主との関係と謎解きは、驚きはなくとも、読ませるものになっている。
 ただ小学校時代から出入りしている小説家志望の少女の扱いはやや類型的といえるかな。

 以上は6月刊、7月刊はまだ読み終えてないものが多い。

 やねこんRの行き帰りで読もうと思っていたんだけれど結局読めなかったのが、マット・ラフ『魂に秩序を』。英保氏との話の最中にいま読んでると云ったら、既に読了していたらしく後半がねえ、とのこと。新潮文庫初の1000ページ超えも500ページの上下巻ならまあ普通なんだけど、との感想。もっとも解説では物語的に1冊本である必要性が強調されていたが。
 これが何の物語かというと、なんと多重人格者の内のひとりを主人公人格として1人称で薦めるパートと、やはり多重人格者である女性の代表的人格の3人称語りのパートからなる、多重人格であることによって引き起こされる情況のレポートと云っていいかと思われる。
 読者を五里霧中な語りに引き込んでメチャクチャ面白い前半と、あまりにもありがちなサスペンスを主軸とした後半の落差は大きいけれど、非常にエキセントリックな語りの前半の面白さは無類なので、読んで損はない作品ではある。
 前半が面白いのは、信じられないくらい多重人格者の1人称語り/3人称語りがうまくて(訳は浜野アキオ)、『ラヴクラフト・カントリー』でも黒人でもないのに黒人が書いたかと思わせるテクニックに感心させられたように、ここでは本来知り得ない多重人格者の内心をまるで本人であるかのように語っている。本物の多重人格者からクレームが来そうだ。
 それにしても多重人格者の中の一人格にとって、他の人格が表に出て行動したあとにもどってくると、まるでタイムスリップとテレポーテーションが同時に生じたような感覚に襲われる(ように作者は書いている)ので、SFとしても読めてしまう。そのせいか解説によると本書はティプトリー・ジュニア(現在はアザーワイズ)賞受賞と紹介がある。ただし、これを知ってしまうと、少なくとも前半では作者が読者に分からないようにしているキャラの性別が、ジェンダーSFと了解されることでネタバレが生じてしまう。まあ翻訳SFファンにしか分からないけど。

 こちらも久しぶりな感じのする柞刈湯葉『幽霊を信じない理系大学生、霊媒師のバイトをする』はタイトルの作り方からも分かるように、新潮文庫のラノベレーベルから出た1冊。
 タイトルはプロローグですぐ由来がわかるが、本編はひいばあちゃんの焼香にやって来た、見た目40代の女性がひいばあちゃんと幼な友達で、ひ孫の語り手にアンタちょうど良さそうだから霊媒師の仕事を手伝いなさいと言われ、ハアッ?となりながらバイト代ほしさに付き合ってしまうところから始まる。もちろん霊媒師自体は何かのトリックだと思いながら。
 この語り手のいかにもな理系思考が作者の出自を思わせて、きれいなフィクションを形づくっている。霊媒師の家のひ孫娘の登場によって、古風な世界観を爽やかに打ち破ってみせるのも好ましい。
 この作者の作品としては構えはささやかだけれど、よくできた物語といえる。

 なぜか今頃になって「サイボーグ009」関連が盛り上がってきている。そんな中で河出文庫編集部編(?)『サイボーグ009 トリビュート 石ノ森章太郎原作』という、あまりにもストレートなタイトルを持つ書き下ろしアンソロジーが出た。収録作家は最初のTVアニメの脚本を担当した辻真先を除けば60年代に「少年キング」や「少年マガジン」でリアルタイムにオリジナルの『サイボーグ009』を読んだ世代の作家は一人もいない。
 以前書いたように当方は1960年代半ばにミッションスクール系の小学校に行かされたけれど、その時に「少年キング」が創刊、サイボーグ009たちが、ミュトス・サイボーグたちと闘って島ごと海に沈んだエピローグにア然とし、少年マガジンで復活したのにビックリして、ジェットと009が流れ星となって光り、平和の願掛けのネタとなって終わったときは、もう復活はしないだろうと思っていた。TVアニメも映画も見たけれど、それはマンガとは違うもうひとつの「サイボーグ009」だった。当方の中では60年代の中学生時代に「サイボーグ009」はいったん閉じているのだ。
 大学生時代には『マンガ少年』の連載を読んではいたけれど、作画がキレイになったのに反して物語への興味はあまり湧かなかった。
 そんな人間が、いかにもアニメ脚本からの小説化を感じさせる辻真先「平和の戦士は死なず」を除いて、ここに収録された古典的SFマンガとしての「サイボーグ009」に材を取った短篇群を読むと、どれもストレートに敬意を示した仕上がりになっていて、すばらしいと思う一方、それを壊してみせる作品がひとつくらいあっても良かったかもと思った。
 斜線堂有紀「アプローズ、アプローズ」は、なんか映画のタイトルを思い出すけれど、流れ星となったジェットとジョーが息を吹き返す、漫画では描かれなかったエピソードを描いた1篇。上手くて泣ける。
 高野史緖「孤独な耳」は、いかにもこの作者らしくバレリーナの003フラソワーズと001の関係を軸にして紡いだリリカルな1篇。
 この2人の女性作家がこのアンソロジーの基本的なトーンを決めている。
 酉島伝法「八つの部屋」はタイトルから見当されるように、開発中の00ナンバーサイボーグの物語。視点人物は002ジェット・リンクに置かれている。ジェットなので一緒に実験体となった「ウェストサイド物語」の仲間とのエピソードがくりかえし出てくる。彼らをブラックゴーストから離反させたギルモア博士はG博士と紹介される。酉島伝法にしてはあまりにも読みやすい文体でビックリする。
 池澤春菜「アルテミス・コーリング」もバレリーナとしての003を主人公にしている。やはり女性として視点人物にしやすいんだろう。こちらはバレエ公演に出るフランソワーズが貧しい少女との交流を通して戦士としての自覚を得る話。フェミニズム系とも言える。
 集中一番長い長谷敏司「wash」は00ナンバーサイボーグとブラックゴーストとの闘いを現代風にアップデートした1篇。主人公は004ハインリヒで相棒役は007グレート。敵役はブラックゴーストにいた科学者(の亡霊)。ということでこれがマンガ版「サイボーグ009」に一番近い仕上がり。楽しく読める。
 斧田小夜「食火炭」はタイトルからうかがい知れるように006張々湖のエピソード。ここでも相方に007グレートが選ばれている。使いやすいキャラクターだよね。こちらは張々湖が経営する中華料理店を舞台に、張々湖の中国での悲惨な子供時代とそれに絡む愛憎の亡霊が現前する1篇。シリアスだけれど、そのためのグレートがいる。
 藤井大洋「海はどこにでも」はタイトルからすぐ分かるように008ピュンマが語り手。またタイトルが表しているように「海」は宇宙船に積まれた数万トンの水のことでもある。008なので水の中も宇宙空間も常人の及ばない活躍が出来る。ということで軌道上の惑星間宇宙船の支配権を巡る陰謀が008(とやっぱり007)の活躍で阻止される。藤井大洋なので、エンターテインメントの作法に間違いは無い。
 トリはなんと円城塔「クーブラ・カーン」。ぱっと見にコールリッジとザナドゥが思い浮かぶ人はどれくらいいるんでしょうか。当方はフビライ・カンを先に思い出しました。ルネッサンスの「ラジャ・カーン」も、と書こうとしてググったらアニメのキャラしか出てこなかった。
 最初から現代テクノロジーの時代のジョーとジェットとの会話が出てくるけれど、とてもマンガ版009と002の会話とは思えない円城塔キャラクター口調に笑ってしまう。
 この時代ギルモア博士はサイボーグ化を拒否して死亡。後に残されたのはデジタル/AI化ギルモア博士。超アップデートされた00ナンバーサイボーグたちは世界で起きる事件にブラックゴーストの匂いを嗅ぎつけるが、その真相は・・・というもの。アップロード・ギルモア博士がアイデアの肝だけれど、なんだかデニス・E・テイラーの電脳宇宙空間に「僕」が何千人もいて「僕」らが徒党を組むようになるというおバカなシリーズを思い出す。

 早川書房から「台湾文学コレクション」と称して呉佩珍・白木紀子・山口守編 伊格言・他『台湾文学コレクション1 近未来短編集』が出た。ソフトカバーで2900円。台湾の文学振興の助成金があっての刊行らしいけれど、最近の物価高もあって以前大量に出た韓国小説の翻訳本に較べるとやや高めなお値段。
 「近未来短編集」であってSF作品集とは謳っていないけれど、それは収録作品の性格からしてよく分かる。8篇を収録。
 巻頭の賀景濱(ホー ジンピン)「去年アルバーで」は、語り手が「俺はバーチャル都市バビロンのバーチャル市民だ」ということで、まるで『攻殻機動隊』第2巻の世界の片隅で演じられるメモリー女との恋愛話が展開する。作者は1958年生まれ、この作品は2011年の発表ということで、既に懐かしい未来となっているが、それ自体が狙いという可能性もある。
 湖南蟲(フーナンチョン)「USBメモリの恋人」も、2008年の作でSFとしてはやや古めかしい1篇。視点人物は女性で社長に惚れ込んで彼のあらゆるデータをUSBで盗み自分のアンドロイド筐体にそのデータを詰め込む。その行為の技術的仲介者は彼女を好きな同僚。これだけでサタイアのオチは分かってしまう。
 しかし中には黄麗群(ホワン リーチュン)「雲を運ぶ」のような表面的な設定はわかるのに話についていけない作品もある。
 訳者(三須祐介)あとがきによると、物語の主要キャラクターである「孔雀と天空の親子は、他人の脳に入り込み、その感情を処理する・・・能力」を持つポストヒューマンと説明されている。しかし孔雀と天空の親子関係だけはハッキリしているけれど、孔雀が亡くなり自由を得た天空の結末に向かうエピソードは揺らいでいて、読み返しても話の筋と意味合いが捕らえにくい。
 姜天陸(ジアン ティエンルー)「小雅(シャオヤー)」は、主人公は仕事が忙しく母の介護に役所を通してアンドロイドに世話させていたが、そのアンドロイドが異常を来す。アンドロイドぎらいの母親が無理をさせてプログラムを壊したらしい。ということで始まるアンドロイドと母を巡る主人公のテンヤワンヤ。テーマとしては使い古されているけれどなかなか面白い。
 林新惠(リン シンフイ)「ホテル・カリフォルニア」は、あの曲の歌詞どおりに物語を紡いだ1篇。
 私は車に「ホテル・カリフォルニア」をプレイさせながら、誰もいない都市をゆく。この街はVRなのか現実なのかと思いつつ、ひょっとしたら私はストリーミングのメモリーかもしれず・・・。と、冒頭から現実性のあやふやな世界で私はホテルに泊まる。
 こちらは、「雲を運ぶ」のような「つかみどころのなさ」はなく、明快な謎物語。
 蕭熠(シャオ イー)「2042」の視点人物の女性は、医者に開いた頭を見てもらい、診察を終え彼女の頭蓋を閉じた医者から「持病ですね、・・・考え事がたまったら、まずはアップロードして」と云われる世界に住んでいる。そして現実世界を移動して診察を受けた女性は、なぜVR診断で済ませないのかと娘からなじられる。
 これは娘との関係を2042年時点から回想する個人的クロニクル。文学的テーマだな。
 許順鎧(シュー シュンタン)「逆関数」は、昔「ストーリーマシン」というインタラクティヴ・ヘッドギアを開発した老教授を、やはり昔若手としてその機械が絡んだ迷宮入り事件を担当した刑事が訪ねてくる。刑事は昇進したことによって事件の全体像を見られるようになり、事件の謎の解決を博士に求める・・・。
 タイトルがその答えなんだけれど、これは昔懐かしいワン・アイデア・ワンダーの1作。
 巻末に置かれた集中一番長い中編、伊格言(エゴヤン)「バーチャルアイドル二階堂雅紀詐欺事件」は、この巻の作品の中では一番現代SF的な特徴を備えた1篇。
 タイトルから分かるとおり、これは日本を舞台にした物語。時代は「この詐欺事件は2238年に最初に発覚し、6年後の2244年の秋に事件の終結が宣言された」が、主犯とされた2人は釈放されている。この謎めいた事件を2250年代に追いかけた「私」のリポートとして作品はなり立っている。
 基本的にはレムの『捜査』や『枯れ草熱』に見られるような、迷宮感覚の物語で、現代日本SFでもこの感覚は当たり前に存在している。この作者はレムに較べると神秘主義的な判断留保をしているように見えるが、タイトルの軽さからは見当も付かないSF的広がりを見せている。
 この1作のために買ってもいいかも。

 マルクスのせいで長くなった。あとは次回まわし。


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