続・サンタロガ・バリア  (第248回)
津田文夫


 話のマクラがないねえ、と思ったら、大野万紀さんが古希を迎えられ、THATTA ON LINE が創刊300号を迎えたというではないか、おめでとうございます。

 毎回だらだら書いているうちに疲れて省略してしまうので、今回は先にノンフィクションを1冊。

 コルナイ・ヤーノシュ『資本主義の本質について イノベーションと余剰経済』講談社学術文庫5月の新刊。親本は2016年NTT出版。
 大学では経済学部にいたせいで、時々経済学関係の本が読みたくなることがある。これまでだと同文庫から出た山形浩生訳のケインズ『雇傭、利子、お金の一般理論』なんかがそれに当たる。
 以前にも書いたように大学では遊ぶのに忙しく、統計学や計量経済学は1、2回授業を受けたもののすぐに挫折。3回生からのゼミはマルクス経済学に逃げて、レーニンの帝国主義論なんかを読んでいた。英書講読はポール・スウィージーのMonthly Reviewで、いま思えば結構ハイブラウだったではないか。もちろん当時はポール・スウィージーが誰だったかなんて気にもしていなかったけれど。
 その程度の人間なのでコルナイ・ヤーノシュが誰かはまったく頭になかったけれど。タイトルと、ハンガリーで社会主義経済を研究したのちに自由化でアメリカに渡り長年ハーヴァード大で教授を勤めた(のち名誉教授)という経歴に興味が湧いたので読んでみた。因みに著者は1926年生まれ2021年没。本書は2014年出版というから88才の時のほぼ最後の主要著作だ(といっても、2本のエッセイ的論文を収めた新書ぐらいの長さ)。
 第1部のタイトルは「イノベーションとは何か」である。昔は「技術革新」と訳されていたし、経済学ではシュンペーターというヒトがこの言葉の喧伝者として有名だけれど、いまや昔の話のようになっている。
 しかし、著者はイノベーションこそ、その初期から21世紀に至るまでの資本主義社会の特徴である、もしくは資本主義それ自体が備えている特質であることを、母国ハンガリーを始めとする社会主義時代の国々と比較しながら、(やや恣意的だけど)データでもって読者を説得してしまうのである。すなわち20世紀後半に人類社会に大きく影響した発見・発明が、どれほどの割合で資本主義国で行われたかを、社会主義国と比較しながら表にして見せ、また経済的効果を持つ新発明の普及が資本主義国でいかに急速に広まるかを、社会主義国のデータと対比させて見せる。
 これは西側の政治経済学者や理論家がずっと言い続けてはいたけれども、当然のことながら社会主義国への知見の不足によってその説得力には(東側のプロパガンダもあって)やや欠けるものがあった。その点、この著者は社会主義国時代のハンガリーで身を以て経験したことを理論化したこで、その弱点から免れているのである。
 第2部「『不足経済』と『余剰経済』」は、資本主義の経済的本質を「余剰経済」、社会主義のそれを「不足経済」と分析して名づけ、この2つがそれぞれの特質として一国の経済として両立/併存できないことをグラフ化して見せ、やはり強い説得力を発揮している。
 社会主義国の「不足経済」の典型は、むかしテレビでよく紹介されていた「店の棚に商品がない」というイメージ(いまは北朝鮮に貼り付けられている)だけど、著者はそれが社会主義経済の特質であることをこれまでの研究で明らかにしてきており、その業績はアメリカの経済学会でも(当然)高く評価されている。そしてアメリカに渡ってから研究した資本主義については、スーパーマーケットのイメージである「溢れる商品」こそ、資本主義の本質である「余剰経済」を表しているとする。これほど判りやすい解説もないけれど、これが著者の半世紀以上に亘る経済研究の決算として語られると重みがある。
 「余剰経済」をイノベーションとの関係で語っているところを当方の貧弱な理解力でいい加減にまとめると、
「成功したイノベーションによる新商品は、それまでの同じ用途の主流商品をある程度の時間を掛けて駆逐してしまう。新商品が主流になるまでに、以前の商品はそれまでの大量生産のために、後から大量生産に入った新商品と一定期間競合するが、旧商品は最終的に在庫化していく。労働力もこれと同じでイノベーションが起きると常に一定の失業人口を抱えざるを得ない。商品(生産設備も?)は安売りなり、廃棄なりできるが、労働者はそうはいかないので、政府の出番になる。この現象が常時多数生起することで、資本主義は「余剰経済」であることを運命づけられている」らしい(ここでは著者も云うように金融論には言及がない)。
 この特徴をひっくり返すと社会主義経済が「不足経済」となる。もちろんそれは順番が逆で、著者は社会主義経済の本質が「不足経済」であることを確信した後、では資本主義はどうなのかという方向へ向かったわけである。なお、著者は社会主義にも利点はあるが最終的に資本主義の方がヒトの生活にはより適しているだろうと結論していた。
 ということで、なかなか面白い経済理論エッセイだった。
 

 フィクションに移ろう。

 読みながら、前回読んだデビュー作からもっと時間を空けて読むべきだったと反省してしまったのが、ローラン・ビネ『文明交錯』
 オビにもあるように「インカ帝国がスペインを征服」というかなりヘンテコな内容が期待できる改変歴史もので、世評も高かったのに、読んだばかりの『HHhH』にかなり昂揚した読後感をもったせいで、却ってハードルが高くなってしまい、デビュー作の手法との兼ね合いばかりが目に付くハメになった。
 どういうことかというと、前回の『HHhH』の感想文で書いたように、そこでは作中の「僕」が歴史資料の博捜にこだわって作品を仕上げたと何度も繰り返すことでエンターテインメント性を高めたその手法が、ここでは逆転的に用いられて、改変歴史ものとしての元の史実への確かさへのひっくり返しが作品の面白さを保証/補償しているように思えてしまった、ということである。その原因の一つは、各章末に付けられた歴史的事実の解説を中心とした多数の注だった。これは単に当方の早とちりで、これらの注は『HHhH』の続きとして作者が付けていたとばかり思い込んだことで、上記のような感想が生まれてしまったのだった。最後に訳者(橘明美)あとがきを読んで、漸く注が本当に訳注だったという勘違いに気がついたのだけれど、後の祭りであった。

 前作の続きと言うことで文庫化されたので読んだのが、多和田葉子『星に仄めかされて』
今回もそれぞれの登場人物各自に語らせる形式だけれど、前作の「パンスカ」使いHirukoに比重のかかった物語にはなっておらず、新登場人物である病院住みのムムンと神経精神科医ベルマーと看護師ノラ、そしてこれまで無言だったSusanooの語りが重みを持っている。
 本来のテーマであるはずの帰る国がなくなってしまったHirukoとSusanooが象徴する〔NIPPON〕は前作同様まったく姿を現さないまま物語は続いていく。もちろん作者が〔NIPPON〕にこだわっているわけではなく、むしろタイトルからして言語と心情の壁を取り払える可能性を希求していると読むべきだけれど、でも日本語で書く多言語多国籍な物語に「日本」が入っていないわけはない。3部作の最終作の文庫化を待とう。

 短編集『カミサマはそういない』が印象的だった深緑野分『空想の海』は、250ページ足らずに11編を収めた短編集。2013年に書かれた未発表作から書き下ろしまで、この10年間にいろいろな媒体に掲載された短い作品で構成されている。ただし表題を持った作品は収録されていない。
 巻頭の「海」は「そうしてすべてが終わると、荒くれた世界のはずれに、海が生まれた。」で始まる詩行が冒頭に置かれた掌編。物語は「私」が小舟で海に出て再び詩行を挟んで戻り、次は陸を行くことにして陸の詩行が詠われ、図書館に出会いただ1冊の母国語の本に出会って読み終えると、それからは大量の本を海に捨てに行く。そしてその行為の詩行が置かれて最後の呼びかけへと繋がり静かに終わる。
 次の「髪を編む」も7ページの掌編だけれど、こちらは大学生になった妹の髪をいまだに編まされる姉の視点で描かれた妹の素描。面白い。
 「空へ昇る」は初出が『短編宇宙』で既読。「土塊昇天現象」を扱ったSFで、とても印象的だった1編。
 「耳に残るは」は、ピアニストの女性が久しぶりに実家のある町に着いて家に向かう途中で、昔教えていた女の子の演奏とそっくりの演奏を耳ニして、母にその子の話題を振るとその子は亡くなっていたことを知り、その不思議を追う話。超自然な要素はないがホラーかも。
 「贈り物」は『ギフト 異形コレクションLIII』初出で再読。『ベルリンは晴れているか』のスピンオフみたいな怨霊譚。
 「プール」は学校のプール授業で、語り手の女の子が同級生と一緒に水の中から赤いマニキュアがされた足の親指の爪を見つけるところから始まるけれど、主題は百合っぽい。
 「御蔵館に収蔵された12のマイクロノベル」は、長編『この本を盗む者は』の関連企画と思われる。北野勇作が強力に推し進めたいわゆるマイクロノベル「100字程度のフィクション」のお題を募集して作者がそれに応えた作品を12編並べたもの。ウーム。
 「イースターエッグに惑う春」は、なんと1913年3月22日と日付を特定した第1次世界大戦前年のイギリスのパブリックスクールを舞台にした他愛ないミステリ。スゴすぎる。
 「カドクラさん」は、太平洋戦争末期に、疎開で田舎の「カドクラさん」というおじいさんの家で世話になる少年の一人称で語られる「カドクラさん」の秘密の経歴。この作者の戦争への手つきがよく分かる1作。
 「本泥棒を呪うものは」は、書き下ろしということで、父親が残した膨大な蔵書を守る「たまき」という、かなり意固地な女の物語。『この本を盗む者は』を読んでいないとやや隔靴掻痒なところがあるエンターテインメント。この短編集の出版に合わせて文庫化されたばかりだし、読んでみようかな。
 巻末の「緑の子どもたち」は再読。帯裏に「植物で覆われたその家には、使う言葉の異なる4人の子どもたちがいる・・・」と、「空へ昇る」の設定とともに紹介されている、この短編集の中ではSF的な性格の強い1編。破滅後世界で子供たちが自転車をつくるジュブナイル。
 この作者のSFへの親和性とヴァアラエティに富むスタイルがよく分かる短編集である。

 ということで、文庫化された深緑野分『この本を盗むものは』は、今回最後に読み終わったのだけれど、ここに感想文を入れておこう。親本は2020年の刊。加筆修正してこの6月に文庫化。
 てっきり、「たまき」の話から入るのかと思っていたら、主人公は「たまき」の息子の娘、御倉家に生まれ、蔵書泥棒に呪いを掛ける偏執的な祖母のお陰で徹底的な本嫌いになった15才の女子高生、深冬。
 いうことで、これは深冬が、巨大書庫御蔵館から本が盗まれる度に、発動した「ブック・カース」による世界変容に何度も付き合わされる話。基本的に、深冬が読まされた本の世界に入り込む形を取る。但し後半は舞台を換えながらの「連続活劇」になっている。
 さすがに、15才の女子高生の心境にはついていけないが、ヤング・アダルト・ファンタジーとしてはよくできていて、後半は続きものと云うこともあって、読むスピードが上がった。いわゆる恋愛沙汰はゼロだけれど、呪いの発動と共に毎回御蔵館に現れる、主人公と同い年くらいの、犬に変身する少女とはバディものに近い関係になる。
 少女が冒険の主体的なヒロインとして物語を引っ張っていくという点は、『ベルリンは晴れているか』とよく似ている。

 創元日本SF叢書20冊目という久永実木彦『わたしたちの怪獣』は独立した中編4作を収めた1冊。前作『七十四秒の旋律と孤独』では設定の方が物語全体を支えていたので、目立たなかったけれど、この4つの中編を読むと、この作者の基調は「不穏」であることが得心される。
 冒頭の表題作「わたしたちの怪獣」からして、免許取り立ての18才の姉が、父親を殺してしまった妹のために、シン・ゴジラみたいな怪獣が暴れ回る場所に死体がいっぱいあるから、そこへ父親の車で父親の死体を捨ててこようという発想がまず「不穏」としか云いようがない。結末はハッピーエンドのようにも見えるが、町からは美しいオーロラが見えている・・・。「不穏」だよね。
 創元SF文庫のアンソロジー『時を歩く』で既読の「ぴぴぴ・ぴっぴぴ」はタイトルからしてすでに「不穏」だ。とはいえ、これはアシモフ『永遠の終わり』直系の時間局もの。面白いのは時間跳躍がある人間の血液によって起こるというヘンな設定。話の大筋はこれまたアシモフ譲りの時間局へ反抗を描くが、タイトルに象徴されるようにアシモフの結末とはほど遠いエンディングだ。
 「夜の安らぎ」は、なんといまどき珍しい(って、当方が読んでないだけだが)「良き吸血鬼」もの。タイトルは主人公の吸血鬼になりたがっている女子高生が、どうしてもコイツは吸血鬼に間違いないと決めつけてその住処に日参するようになる男の名前「夜安」に由来する。まるで萩尾望都が半世紀前に描いていても不思議はないような1作。実際には最初はずっと女子高生の1人称だが、後半に入ると3人のキャラの一人称で物語が語られるようになり、結末の語りは女子高生でも吸血鬼でもない人物によって締めくくられる。読後感は女子高生の物語だが、ふつうに「不穏」な話だ。
 巻末の「『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を見ながら」は、この作品集の「不穏さ」を最も強く打ち出した1作。
 語り手は映画好きでも何でも無いのに、ヒョンな事から閉館記念の『アタック・オブ・ザ・キラートマト』上映会をやっている映画館の客となる。彼は『アタック・オブ・ザ・キラートマト』のZ級映画伝説も知らず見るが、映写機が故障、映画館主を含めて数名の映画マニア客たちの『アタック・オブ・ザ・キラートマト』に因む蘊蓄を館内で聞かされているうちに、外ではゾンビ・パニックが発生中との情報が入る・・・。
 さすがにこのヘンテコさは久永実木彦のヘンタイ映画オタクぶりをよく現している。この『カメラを止めるな!』にちかい感覚はほかには中々ないと思われる。前作の印象からこの作者はもっと叙情的な作風だったと勘違いしてました。
 ちなみに当方は今の今まで『アタック・オブ・ザ・キラートマト』を通しで見たことはありませぬ。

 冲方丁『マルドゥック・アノニマス8』は、巻の大半がハンター側と〈Mの子たち〉の拳銃使いマクスウェル一派の超能力者合戦に費やされていて、もはやこの手の話にあまり興味を惹かれない当方には読むのがシンドかった。残りの50ページほどで漸く本筋が動き出すが後の祭り。

 創元SF文庫から毎年出るようになったアメリカのテーマ・アンソロジー、今回はD・H・ウィルソン&J・J・アダムズ編『ロボット・アップライジング AIロボット反乱SF傑作選』。解説(渡邊利道)によると、原書収録の17編中13編を訳出とのこと。J・J・アダムズ編のアンソロジーは当たり外れが多いので、どんなもんかと思ったけれど、今回は外れの方だった。
 内扉のリーディングが「人類よ、恐怖せよ――」ということで、副題通りの作品が並ぶ。テーマがあまりにピンポイントなので、日本SF作家クラブ編『AIとSF』に較べると結局同工異曲な印象が強い。
 スコット・シグラー「神コンプレックスの行方」それだけかい、という読後感。
 チャールズ・ユウ「毎朝」もヒネリが足りない。
 ヒュー・ハウイー「執行可能(エクセキュータブル)」世界を滅ぼすAIの開発者は常に責任を取らされるバリエーション。
 アーネスト・クライン「オムニボット事件」1986年のクリスマス、ぼくはロボットをもらった。市販品とちょっと違ったそれは・・・。まあ、よくある話だけれど悪くはない。
 コリイ・ドクトロウ「時代」はやや長めの短篇。中身はドクトロウの十八番、システムアドミニストレーターもの。長年手塩に掛けたAIはついに会社の資源を食い過ぎるので廃棄が決まったが、主人公もAIも納得がいかない・・・。主人公は上司に反撥しながら、当然の帰結を迎える。テーマがピンポイントなのでどうしてもホラーでないと終われない。
 ジュリアナ・バゴット「〈ゴールデンアワー〉」は、タイトルページ裏の著者紹介によると児童文学系の作家らしい。そのせいかこのアンソロジーの中ではサスペンスの作り方や結末に毒が無い。
 久しぶりのアレステア・レナルズ「スリープオーバー」もやや長い短篇。長命技術の進展を期待してコールドスリープに入った初老の資産家だった主人公が眼を醒ましてみると・・・、ということで、テーマに沿ってそこは当然ディストピアだった。まあ、この作者なのでヒネリは充分効いている。
 イアン・マクドナルド「ナノノート対ちっぽけなデスサブ」は、大統領の身体の中で治療側のナノノートが害を為すちっぽけなデスサブ(マリン)たちが戦っている話を、その操作を担当している生化学者の青年が、バーで女の子をナンパしているときに語ってしまうコメディ(そりゃフラれるぜ)。さすがマクドナルド、このテーマをハードSF的御託を並べながら、さらりと流す。
 ロビン・ワッサーマン「死にゆく英雄達と不滅の武勲について」ここからはテーマに縛られた窮屈なロボット/ナノテク話が続く。これは人間を殺しまくるロボットの一体が不調があるので、精神科医の男を活かしておいて治療させる話。男には生き延びるための嘘があるが、ロボットは気にせず会話を続けていく。与えられたテーマに頭をひねることなく物語を紡ぐことに専念した1作。
 ジョン・マッカーシー「ロボットと赤ちゃん」は、貧困家庭のアル中母親から赤ん坊を連れて出て行けと命令された(育児はできない)家事ロボットを中心に、いわゆる三原則コメディが展開する。ある意味昔懐かしい1作。
 ショーニン・マグワイア「ビロード戦争で残されたいびつなおもちゃたち」もテーマに対して頭をひねることなく、殺人ロボット・ホラーを導入した1作。教育用AI・ロボットが反乱(!)子どもたちを攫って、大人たちを殺す。子どもも第2次性徴期になると女の子は乳房を切り落とされる・・・。悲惨だがSFになってない。
 ンネディ・オコラフォー「芸術家のクモ」は、ナイジェリアを舞台に、パイプラインへの侵入者排除に使われているクモ型ロボットの一台が、つらい家庭生活を父親譲りのギターを弾くことで紛らわしている女の演奏に魅入られる話。殺人ロボットものの定型は免れないが、主人公がフェラ・クティやキング・サニー・アデを弾くのでそちらに興味が湧く。70年代の終わり頃、NHK-FMで放送されたキング・サニー・アデのライヴをカセットテープに録ってよく聴いていた。
 トリは編者の一人D・H・ウィルソン「小さなもの」、集中で一番長い80ページを越える中編。これも世界に災厄をもたらしたナノテク研究者が責任を取らされる話だが、こちらは、主人公が軍隊にムリヤリ徴用されて、主人公以上に強大なナノテク兵器研究者が作り上げた禁断の王国と化した島に送り込まれる話。これはもうSFではなく秘境ホラーに近い。この臆面も無いストーリーにホラーファンは悦ぶのかも知れないけれど、SFファンとしては鼻じらむばかりだ。おもえばラヴクラフトにはまだ規範というものがあったような。
 SFはこの話の行き着く果てを2つ用意していた。ひとつはレムの『砂の惑星』。ナノテクが排他的占有を目指せばその果ては『砂の惑星』だろう。一方、生物組織との合体を続行すればベアの『ブラッド・ミュージック』になる。そうかレムもベアもホラーだったのか(って、テーマが違うよね)。

 創元のアンソロジーの評価が低くなったのは、同時にキム・ボヨン『どれほど似ているか』を読んでいたから。オビに「世界的評価著しい韓国SFのトップ・ランナー」とアオリ文が入っているが、女性作家だと気がついたのは読み始めて大分経ってから。
 冒頭の「ママには超能力がある」は当たり前のことを超能力に変換してしまうショートショート。一人称の語り口がやや不穏。この時点で女性作家だと気がついてない。
 「0と1の間」は量子力学とタイムマシンを組み合わせて、自殺した/する/したかもしれない娘のためのレクイエムみたいに見える1編。受験地獄韓国ならではのサタイアでもあるけれど、動員される既成のSF的なアイデアの組み合わせがサタイアのリアルになっているところがスゴイ。「時は別れて果てしもない」けれどシリアスな1編でもあるなあ、という感想が湧いているうちに、教育ママの「キム女史」が作者の名前であることを忘れていた。
 「赤ずきんのお嬢さん」は、男社会が行き過ぎて女も男にならざるを得ない社会に、姿を現した表題の人物をめぐっておきるテンヤワンヤ。ティプトリーよりはストレートなフェミニズム作品。これでさすがに女性作家だと判っていたはずだが、まだ余り当方の意識に上っていない。
 「静かな時代」はいわゆる選挙もの。高齢者世代の女性言語研究者が視点人物となって、この研究者が関わった韓国大統領選の「プロパガンダ」作戦が若者世代の「マインド・ネット」で無効になる時代を、言語の機能に関する知見を入れながら展開する話。視点人物は敗北した候補者側の人物で、普通はサタイアとして造られることの多いテーマだけれど、この作者は叙情的と云っていい結末を用意している。
 「ニエンが来る日」は、なぜか中国の新年(春節)祝いを扱った堯舜伝説ファンタジー、と思ったら、作者あとがきで中国で編纂された春節をテーマとしたアンソロジー(岡本俊弥さんの書評で紹介されているように、ケン・リュウの短編集『宇宙の春』の表題作もこのアンソロジーからのものらしい)に掲載の1編とあった。また作者は「ニエン(年)」が怪物的なイメージとして扱われる中国の春節伝説の設定を使っているとのことで、日本人にはエキゾチックだが判りにくい感覚の1作。
 「この世でいちばん速い人」「鍾路のログズギャラリー」は、なんとスーパーヒーローものの2部作。アメコミにはとんと馴染みがないので、なんじゃこりゃと思いつつ読了後、作者あとがきを見ると、作家仲間でスーパーヒーロー・アンソロジーを作ろうということになり、スーパーマンはありふれているので、「フラッシュ」で行こうと作者は決めたらしい。当方は「フラッシュ」も知らないため、スーパーヒーローが大衆の支持で「正義の味方」と「悪党」の判定が行われる設定にピンと来なかったが、まあ、こんなものであろうという感じは伝わった。前半は先輩ヒーローと後輩ヒーロー(こちらが「フラッシュ」役)の対決で、後半は「悪党」になった後輩ヒーローと対決を迫られる気弱な少女ヒーローの話。この2編で短編集の全体の3分の1を占める。
 「歩く、止まる、戻っていく」は、ヒト(女性)の人生全体を一個の時間的多面体として説明してみせる掌編。SFの技巧がよく分かる。
 タイトルページ裏にタイタンとエウロパのデータが掲げられている表題作「どれほど似ているか」は、表題作になるだけの本格的なSF。
 タイタンから救助信号を受けたエウロパ行きの補給船のなかで語り手が目覚めるところから始まるが、語り手は自分が誰なのか混乱しているうちに、周囲の乗組員からオマエは、補給船の予備乗組員の生体に組み入れられたAIだと教えられる。また乗組員からオマエは現在の難問を解決するためにはAIを生体乗組員に組み入れるようAI自身が主張したと聞かされる。そしてAIは補給船の人間関係を学んでいくうちに何かのデータが自分から欠落していることに気づく・・・。
 表題といい物語の始まりといい、典型的な宇宙船AIミステリかと思いきや、ドンデン返しの大テーマが炸裂する。AIはさまざまな観察の疑問点を箇条書きしていくのだが、「8.私が人間と性交したがると思っている。
  私は何でこのリストをまだ作成しているのかなあ。」
 というセリフで笑ってしまった。しかし当方はこの時点でも大テーマへの予感が湧いてきていなかった。
 で、読んでいるうちにAIの生体が船長からキスを受けるシーンでなぜか泣けた。
 ここまで読んで、漸く作者が女性だと云うことの重みが当方にも伝わったのであった。ボケ頭にはこれくらいの強い作用がないと気がつかないんだよね。
 トリの「同じ重さ」は、スーパーヒーロー・アンソロジーの前に作ったピーマン・アンソロジー(?)のために書いたという、誰が読んでもアスペルガー症候群を抱えた語り手の物語だとわかる1作。墨で描いたような脳神経の繋がり方のイラストが印象的。
 ということで、この作者は、量子論や時間論、AIついでにスーパーヒーローとSFの流行を取り入れながら、ハードSFではなくより現実的なテーマを書いている。チャン・ガンミョンの短編集『極めて私的な超能力』と好一対。

 韓国SFの出版が続くようになって、新☆ハヤカワ・SF・シリーズの1冊としてキム・イファン、パク・エジン、パク・ハル、イ・ソヨン、チョン・ミョンソプ『蒸気駆動の男 朝鮮王朝スチームパンク年代記』が出た。本文250ページ足らずの薄い1冊だが、2600円となかなかのお値段。まあ、翻訳料については古澤嘉通さんもツィートしていたように、安すぎるので仕方が無い。
 朝鮮については、仕事柄、明治時代初期の江華島事件から朝鮮戦争、乙巳の変(ミンビ暗殺)、伊藤博文暗殺、日韓併合まで一応お勉強したけれど、朝鮮王朝ドラマはひとつも見たことも無く、中国史に較べれば朝鮮王朝については無知に近い(昔、釜山に行ったとき、鎮海(チネ)で李舜臣(イ・スンシン)の銅像は見たような気がする)。
 訳者(吉良佳奈江)あとがきによると、5人の作家が飲み会で、朝鮮王朝スチームパンク・アンソロジーのアイデアに意気投合して、基本設定担当や改変歴史年表担当はあみだくじで決めたらしい。キム・ボヨンの短編集でもそういうアンソロジーに掲載された作品があったが、韓国ではこの手のアンソロジーがよく編まれているようである。
 さて、5人の作家の5編は、巻末の改変朝鮮王朝年表に合わせると前半の2編が1540年前後、日本なら戦国時代(中国は明時代)後期の物語で、後半3編が日本の江戸時代(中国は清時代)前期と後期の物語なのだが、時代の雰囲気が日本とも中国とも似ていないので新鮮といえば新鮮である。
 改変歴史の大前提として、朝鮮王朝の始まりである1400年前後に初代国王が側近の紹介で回回人都老(トロ)から蒸気力を教えられその発展に力を貸した、という設定がある。ここにある5編の物語は、直接間接の違いはあれ、蒸気力に惹かれる革新派と蒸気力を嫌う保守派との争いの中で、国王・貴族から一般大衆・奴隷階級の奴婢(「奴婢」が変換候補にないぞ)までが振り回されるという形を取っている。
 冒頭のチョン・ミョンソプ「蒸気の獄」は、王朝の記録を残す若手記録官の青年が、過去に起きた蒸気推進派の一掃事件の真相を、自身は蒸気推進派に属するものの、先王の廟号を巡って言い争う推進派と保守派の大物の議論を記録しつつ、保守派の大物に紹介された過去の事件を知る老人から真相を聞き出す・・・。
 改変歴史物語の大枠を記録官が調査するという形で読者に伝える1編。
 次のパク・エジン「君子の道」は集中最長の80ページの中編。これは、奴隷階級の少年だった語り手がいかにして郡役人の高官まで上り詰めたかを息子に聞かせる話。当時の有力者の奴隷は、主人の出世に浮き沈みにその運命を左右されるが、少年は都老と出会って蒸気技術で音声及び文章作成能力を持つロボットをつくれるまでになり、その技術を悪用(?)して棚ぼたで出世する。
 日本でいえば江戸時代初期の、第3話キム・イファン「『朴氏夫人伝』」は、オモシロ話を人に聞かせて、これからというところで止めて、続きを聞きたい聴衆からお代を取る「伝奇叟(チョンギス)」と呼ばれる者が語り手。日本だと講談師とか講釈師に近いかな(後半が袋とじのミステリ本とかも思い出ますね)。つまらないと聴衆が金を払う前に去って行くので、オリジナルをやると受けないのはなぜかと悩む語り手に、ある日都老と名乗る男が、話のネタになるかもと、謎めいた「朴夫人」いるという山中の鍛冶屋に行くことを勧められ・・・。ここでも蒸気駆動の「汽機人」が登場するが、やはり蒸気派への取締が時代背景になっている。
 18世紀後半に入っての第4話パク・ハル「魘味蠱毒」は30ページ足らずの短篇で、王朝の滅亡を言いふらす呪術師を、その地方の責任者(県監)が心ならずも拷問の末に殺させたところから始まる、最後まで陰惨な話。県監は、息子に秘密裏に呪術師の背景を調べさせ、呪術師の罪が濡れ衣であったこと、そして呪術師は子どもを連れていたことが判明する。後半はその子どもである少女と県監との話になるのだが、少女の存在自体がこれまた陰惨で、蒸気派への厳しい弾圧の記憶と絡まってホラーになっている。
 なお、この話には出てこないけど、タイトルにある「毒」で思い出したことに、朝鮮王朝では王が臣下に賜死するときは、日本の切腹と違い毒薬を与える、と解説にあった。
 トリはイ・ソヨン「知申事(チシンサ)の蒸気」は、韓国王朝ドラマに無関心な当方でも名前は知っているイ・サン(李祘)と彼に仕えた重臣洪国栄(ホン・クギョン)の物語。
 韓国や一部日本でもよく知られた王朝物語を、ホン・クギョンが「汽機人」だったらという設定で再構築した1編。イ・サンは子どもの時に「汽機人」ホン・クギョン(当時は「徳老(トンノ)」と呼ばれた)と知り合って以来、ホン・クギョンに絶大な信頼(BL入ってる?)を寄せていて、王になってからも重用していたという風に読み替えて、史実をほぼ追いながら、最後はホン・クギョンが失脚して賜死を受ける(当然死なないが)。
 もとの史実の重みもあって、50ページの短篇に長い物語がパックされている。巻末の作者紹介で女性作家とあった。
 このアンソロジーに参加した作家たちは、次のテーマ・アンソロジーに取りかかっているというから、韓国SF界は若くて元気だなあ。

 創元日本SF叢書としてようやく初の短編集が出た倉田タカシ『あなたは月面に倒れている』を読むと、どうしてこの作家の作品イメージが固定されないのかが判るような気がする。
 収録9作品の内、5編が既読だったけれども、当方が忘れっぽいことを差し引いても、なんだか初読のような感じがある。
 巻頭の「二本の足で」は、移民の子供たちが当たり前な時代、変わった名前の男女カップルが、助けるつもりで訪れた友達のいる部屋のドアを開けたら、そこは「シリー・ウォーカー(二本足のスパム)」と呼ばれる人型AIがワンサカいた・・・と云うところから始まる。カップルが友人に向かい、何をヤバいことやっているのかと問い詰めているうちに、シャワー室から女型のスパムが出て来て、あたしたち4人て学校で仲良しだったよね、などと云いだした。結局、友達の愛人みたいな女型のスパムと一緒に4人で車に乗り込むことになり、スパムの言動に振り回される。
 これを読んでいて思い出したのは、レムの『ソラリス』に出てくる主人公の恋人。特に謎解きもなく、もちろんこちらはこぢんまりした話だけれど、雰囲気は似ている。結末はこの作者らしく静かに閉じる。
 「トーキョーを食べて育った」は既読。廃墟のトーキョーで街を徘徊するいろいろなルーツの名前を持つ同じ学校の子供たちの集団。その一人の少年の眼を通して語られるレポート。なんとなく、河野典生「機関車、草原に」を思い出す。
 「おうち」は、語り手が以前住んでいた家から思い出の品をとっておこうと、現在の管理人に教えてもらったコードを打ち込んで玄関を開けると、そこら中に猫がいる。猫に断りを入れながら、恐る恐るかつてのわが家に入ると何やら声が聞こえた。管理人が先に来てたのかと視線を向けたら、そこにはやはり猫が・・・。ということで、一応猫がしゃべることもあると知られていて、猫語アプリさえある世界なのだけれど、語り手は猫とのコミュニケーションに失敗してトイレに立てこもる。そこへ後から来た管理人に助けられるという、基本的には二足歩行する猫も出てくるバケ猫屋敷のエピソードである。
 しかしながら、作者はホラーには関心が無く、この語り手に設定された家庭の事情なども手伝って、ある猫が手放さない思い出の品を諦める心境と、最後に用意されたその猫とのしりとりに、タイトルが映し出す何かが表現されている。
 「再突入」は既読。2146年と2144年のエピソードが交互に並ぶ1作。表題は冒頭の、宇宙から地表へ向けて落ちる「グランド・ピアノ」のシーンに象徴される。物語は2146年の老大家と若者が交わす一種の未来の芸術論が中心だけれど、2166年の宇宙服を着たピアニストの災難もSFっぽさを醸し出す。そこから結末に向かってはこの作者のSFらしい叙情性が用意されている。演奏曲がケージの「4分33秒」なのはちょっとお約束っぽい。
 「天国にも雨は降る」は、アパートの1室を複数人(人じゃないものも含む)で借りているが、互いが認識できないように出来ているのに、他人(人じゃないものを含む)の気配を感じてしまう語り手が経験した物語。この設定にはなんとなくミエヴィルの『都市と都市』を思わせるものがある。話自体はアパートが爆破された後に、語り手がAIからこの世界の成り立ちをいろいろ聞くエピソードが大部分を占める。語り自体はやっぱり静かだ。
 「夕暮にゆうくりなき声満ちて風」も再読だが、面積が広い分、『NOVA』の文庫で読んだときよりも長く付き合っていられた。静けさと偏執的な作業が同居する詩(?)作品。基本的には地図を見ながらのつぶやき話。
 表題作の「あなたは月面に倒れている」も再読。今回読んでも、内容が把握できたとは思えない。まあ、繰り返されるタイトルの間で語られる個々のエピソードは繋がっているのかも判らないが、最後は宇宙からの侵略があったことになっている。
 「生首」もやはり再読。落語みたいなタイトルだけれど、これもシチュエーションだけでは、読んで何かがわかるというものでも無い。多分女性の一人称による「個人的な体験」の物語。
 トリの「あかるかれエレクトロ」は、あなたへのさまざまな目に映るものの提示で出来ているが、やはり具体的な内容は不明な1編。結末はそれなりにハッピーだ。
 巻末の作者あとがきで自ら表明しているように、「ここに集められた短篇はすべてSFだ」と言われると、そうだなあ、そうかも知れないとの感想が湧く。
 この短編集における倉田タカシという作家のSF的エンターテインメントは、相当パーソナルな成分で出来ていて、SFにおける純文学(って貧乏?)みたいだ。


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