続・サンタロガ・バリア  (第260回)
津田文夫


 当方の原稿は毎回、主催者の大野万紀さんが読みやすいようにレイアウトしてくださるのだけれど、誤字誤植や文章そのもの(の誤り)には手を入れないので、前回は誤字誤植が少ないだけ「てにをは」の怪しさが目立っていた。当方も実質70歳なので、これからもどんどんボケ症状が進んでいくことでしょうが、まあ、読んでいる方がおられたら最近は一段とボケが進んでいるようだと思ってくださいませ。

 などと仕様も無いことで書き出したのは、古稀といえば昔はよう生きたということで御祝いなりしてくれたものだけど、現代の古稀は意識が未熟者のまま体がいうことをきかなくなると云う困った状況にある(当方の例)。

 という訳で、昔のことは振り返らないというのが、カッコイイ人生なのだけれど、ボンクラな当方は、70歳だしそろそろゴミにする前にボロアパートに20年以上積んだままにした引っ越し屋の函を全部開けてみるかと思うようになった次第。
 これまでも時々書いているオヤジの蔵書は、大正初期の函入り『善の研究』(初版は明治44年、オヤジは大正6年生まれなので、東京の大学に入った昭和12、3年以降に古書店で買ったようだ)が一番古く、戦後は昭和30年代ぐらいからキリスト教及び関連思想・哲学関係の本が増えて、それが平成まで続く。オヤジが買った一番デカくて重い本は、1975年岩波書店刊のルオー『受難 パッシオン』A3判函入り化粧箱付で、当然寝かせるしかない。オヤジは晩年カトリック教会主催ツアーでイスラエルへ行ったほどのヒトなので、その蔵書はハンパなく、中にはカトリック系の『宇宙理解の統一をめざして 物理学・哲学・神学からの考察』なんていうタイトルもある。
 これらはカトリック教会に寄附すればいいんだろうと思うが、今頃は教会も本は邪魔かも。オヤジの蔵書の大半は国会図書館デジタルコレクションで見ることが出来るしね。

 オヤジの本の話はこれくらいにして、このアパートにある当方が集めたSFとその周辺の本も半分以上は国会図書館デジタルコレクションで読めてしまうわけで、まあ、それはそれで良いことなんだろうと思いつつ、開かずの箱をどんどん開けていたら、LPレコードとかカセットテープとかVHSビデオの箱、それににLDの箱とか、いまや再生装置が使えなくなったソフトが大量(と云っても各100単位ですが)に出て来た。
 カセットデッキだけは30年前のTCK333をだましだまし使っていたのだけれど、大量に発見された50年前のFM放送/エアチェックのテープを、リーダーテープと磁気手テープの接着が剥がれてしまったものを修繕しつつ、嬉々として次々廻していたら、30本目ぐらいでガシャッと云う不気味な音とともにテープが止まり、以降デッキがウンともスンとも云わなくなった。だましだまし使っていたところへいきなり巻きのいい加減なテープを大量に喰わせたものだから、走行系と電気系の両方が一辺にイカれたらしく、これは分解してみないと原因が分からないだろうと思い、どうせ修理用の部品はもはや残ってないだろうから、取りあえず物置部屋へと引退させた。好事魔多しとはこのことですね。
 頭脳警察の1975年夏NHK-FMのスタジオ・ライヴテープを聴き損なったのは残念。まあ、どうしても聴きたければYoutubeで探せばあるだろう(ググったら無かった。CDRで売られているようだ。因みに四人囃子とクリエーションはあった)。でもテープの音の方が好きなんだよなあ。メルカリとかでデッキを探すべきか。
 この20年間電気ガス水道等一切止めてあるボロアパートでの探索は1回2時間が限度(トイレが使えないため)で、箱を開けてはついつい遊んでしまうため、なかなか全体像がつかめない。とは云っても本類は5000もないはずなので、一応年内には作業を終わらせよう。これからも時々埋め草にこの話を続けます。

 今回はやねこんRに前泊付で参加予定と云うこともあって、締め切りまでに読み終わる予定だった3冊が次回まわしになったので、今回も取り上げる冊数は少なくなった。

 社会評論社から出るようになたKaguya Books、今回は斎藤隼飛編『ベストナイン2024 野球SF傑作選』というのが出た。ぱっと見に「2024」というからリジナル・アンソロジーかと思ったけれど、再録アンソロジーでした。でも未読が多くててそれなりに読めるものになっていた。しかし文庫も値上がりがすごく、少し前の四六判ソフトカヴァーに近いお値段になってきた。まあ、経費と刷り部数を考えれば仕方ないところか。
 ベースボールSFアンソロジーが編めるのはアメリカと日本と韓国ぐらいなものだろうが、国内で書かれたSF短篇の中から野球を扱った作品を集めることが出来るようになったのはのは、たぶん最近のことだろうと思う。このアンソロジーでも小松左京と新井素子の作品を除けば、新しい作家の作品で占められている。かんべむさしの名短篇は広い意味での野球SFといえるけれど、題材としてはこのアンソロジーにはぞぐわないかも知れない。野球ということで短篇9篇と千葉集の海外野球SF短篇ベストを選ぶコラムと野球にはこのヒトという高山羽根子のエッセイを収録。
 水町綜「星を打つ」は再読。以前オリジナル・アンソロジーで読んだときは書き方のせいか印象が薄いようにおもったけれど、再読でようやくバカSFなのがわかった。語り口が内容と合ってないように思えるのは当方が年寄りだからだろう。
 溝渕久美子「サクリファイス」は、2024年に千葉ロッテマリーンズにドラフト5位で入った選手がバント名人として活躍し残した名言から始まる1篇。ある意味本アンソロジーにエッセイを寄せている横浜ベイスターズDeNAファンの高山羽根子が書きそうな感じがある。それにしても「サクリファイス」という言葉はいろいろに使えて便利だなあ。
 関元聡「月はさまよう銀の小石」はロシアの辺境の村にネアンデルタール人が生き残っていて、そのひとりを父親に持つ子供が語り手。父親はアメリカに渡り人種差別を受けながらも日系の女性と結婚、その後体力に物を云わせてピッチャーになっていた・・・。掌編だが、話は宇宙まで広がる。語り手の現在はエアカーが飛んでるし。
 千葉集のコラムはかなりマニアックなところまで読んでいて、面白く読める。当方程度ではベストナインは選べません。
 暴力と破壊の運び手「マジック・ボール」は、わずか10ページにアメリカを舞台にして女性の権利が認められなかった時代への抗議を、「消える魔球」をものにした女性とその友人である語り手が物語る。圧縮された情報量が意外と軽く感じられるところが不思議だ。
 小山田浩子「継承」は再読。前回読んだ時の印象がまだ強い。
 新井素子「阪神が、勝ってしまった」はたしかにもはや古典なんだろう。
 鯨井久志「終末少女と八岐の球場」はなんと90ページを超える長さの中編。延々と0点が続くスコアボードは何十世代も続いているという世界で、その総責任者ともいえる『硬球史2699-2800』をまとめた「記録者」の家系の男親と娘が「ゼロスコア」の変更をめぐって野球対決する話。視点は娘側に置かれている。
 まあ、バカ話には違いない。しかし女性のバディものがこんなにも書かれる時代(「民主」主義国だけの現象かね)が来るとは。なんとなく伴名練を思わせる。タイトルからはボルヘス作品が思い浮かぶが。
 小松左京「星野球」は今更云うまでも無いコント。星新一のバカ話をタイトルに反映させたのかな。息子さんの解説も入れてあるところがミソ。
 最後9番打者は青島もうじき「of the Basin Ball」は、タイトルその語り口から円城塔の作品を思わせるが、こちらは最初うちは正体を明かさない存在である「わたし」がボール型の宇宙船内に浮かぶ脳らしい「あなた」に話しかける1篇。話の内容なぜか野球ゲームに関する話題で、億年単位で語られる。ここでは終末まで1400億年あるらしい。残念ながら印象は抽象的で薄い。小松左京があまりにも具体的すぎたせいもある。
 と云うことで、やはり当方には旧世代の作品が分かりやすいのだった。

 門田充宏『ウインズテイル・テイルズ 封印の繭と運命の標』は、前回取り上げた『ウインズテイル・テイルズ 時不知の魔女と刻印の子』の続編、というよりかひとつの物語の後編にあたる。
 前回の主要キャラクターに襲いかかるさらなる謎と困難は、旧文明の科学技術をかたくなに収集保存して来た都市国家の奇怪な方針のもとでもたらされるが、最終的には主人公と相方のヒロインの刻印の能力が十全に発現することでこの世界の再生への道筋が現れる。
 前回も書いたとおり非常によくできたジュブナイルSFファンタジー。

 冲方丁『マルドゥック・アノニマス9』は、ひたすら会話劇と付属説明の地の文がつづくのでかったるく、読むのに時間が掛かる。ハンター側もパロット/ウフコック側もセリフを吐くための人形のようになってしまっている。最後になってようやく超能力合戦が出てくるが、それまでの長い計画話の結果なのでちっとも盛り上がらない。今回の連載長編は、これまでの話のどこかでいったん区切りを付けてから現在の会話劇に切り替えた方が良かったと思う。次巻はもう読まないかも。

 冲方丁作品とは別の理由でやはり読むのが大変だったのが、オラフ・ステープルドン『最後にして最初の人類』
 国書刊行会版で読み始めた時は、半分で読み進めなくなって投げ出したけれど、訳者(濱口稔)解説にあるように、訳者がその後ステープルドン故地参りも含め、多くの新情報に接した上で20年ぶりの改訳を文庫版で出したいうこともあり、当方は矛盾した思いを抱えつつようやく最後まで読み通すことが出来た。
 で、得た読後の感想は、この作品は第1次世界大戦で明らかになったヨーロッパの没落の予感を反映した物語だった、というもの。
 矛盾した思いというのは、1930年に発表されたということで、それまでの知識でここまでさまざまなSF的アイデアをよく考え出したものだという感嘆が、いわゆる19世紀的西欧文化人としての型にはまった思考(キリスト教徒か精神文化とか男女/雌雄に対する保守的な視野狭窄)によるイライラ感が同時に湧いてくることを指す。
 ここにある人類文明のヴァリエーションは、一方でアイデア豊かでその後に書かれたSF的アイデアの源泉となる一方、作者による人類文明の興亡に関する説明は、その形態の変化の多様性に対して精神文化のヴァリエーションに乏しく、どれほど寿命が延びようと(5万年)、精神や科学が発達しようが興亡のパターンは同じで、結局最後の人類の泣き言は没落の運命への嘆きになっている。
 第1次大戦後に刊行された思想書の著者の多くはこの作者と同じような危機感を抱えていたと思われる。

 YOUCHANのイラストが表紙の高野史緖『ビブリオフォリア・ラプソディ』は、表紙に小さく副題らしい「あるいは本と本の間の旅」との言葉があるように、本の周辺にまつわる短編5編を、紙のゲラを束ねるダブルクリップのエピソードで挟んだ構成。
 冒頭の「ハンノキのある島で」は、初出が「小説現代」2017年4月号だけど再読のような感覚がある。「世界中で「読書法」が施行されて五年になる」という文章がなんとなく記憶にあるような。ということで論文を書かないと追い出されるという大学/学会の掟の小説家版。作者本人の悪夢ですね。タイトルがエラリー(クィーン)から取られているというのは本当かしらん(ググれよ)。
 その意味ではここに収録された作品は作者本人の感覚的リアリティが強く出たものばかりということかも知れない。
 「バベルから遠く離れて」は、希少言語作品の翻訳を目指す翻訳家のエピソード。翻訳のために悩める男は、生活のために親から継いだ店を開けているが、ある日客として現れた70歳がらみの外国人が、その希少言語の翻訳について知っていると云いだした。こちらは作者も翻訳で苦労した経験は充分あるだろうからその体験の反映でもある。
 「木曜日のルリユール」は、いわゆる仮とじ本を装幀する作業を題材にしているかと思ったら、いまは非主流の評論家をしている男が未発表のタイトル作が本人の知らないところで出版されているのを知り・・・、というものだった。一種のファンタジーだけれど、妄想と現実がごっちゃになる思考がそれらしく描かれている。なお、ルリユールといえば、当方ぐらいの世代だと栃折久美子のエッセイが懐かしい。何冊か集めた集英社版吉田健一著作集は彼女が装幀のデザインをした。
 「詩人になれますように」も、ちょっと「木曜日のルリユール」に似ているけれど、こちらは若くして詩を評価されて一時は話題となったものの、その後は詩も書けず若いときの美貌も失って、傷ついたプライドを抱えた中年女性(元)詩人の低空飛行からの復活を描く1篇。低空飛行中の女性の傷ついたプライドにリアリティがある。まあこの作者なので笑えるともいうか。
 トリの「本の泉 泉の本」は、古書コレクターの凸凹コンビの凹の視点で語られる巨大古書店綺談。これもボルヘス的なパスティーシュなのかな。
 高野史緖の作家力は好調だと思います。

 奥付を見て4月に出ていたのかと、岡本俊弥さんの書評と大森望の『本の雑誌』新刊SF書評コーナーで初めて知ったのが、八潮久道『生命活動として極めて正常』
 収録作は、「老ホの姫」と巻末の「命はダイヤより重い」が短い中編だけど、全7篇で170ページもない。当方も時間が無いので各編を1行で紹介すると、
 タイトルからはその意味がつかめない冒頭作「バズーカ・セルミラ・ジャクショ」は、社会的評価ポイントが身分を決める社会を生きる主人公。
 表題作「生命活動として極めて正常」は、カフカ的悪夢の会社で行われている人事評価システム。
 「踊れシンデレラ」「老ホの姫」は、それぞれお伽話設定と男しかいない老人ホームの地味役主人公がタイトル通りスーパーヒロイン化する。
 なお腰巻の「大森望氏絶賛!」の惹句の下に「大森イチ推しは「老ホの姫」です。」とある。
 「手のかかるロボほど可愛い」は、わりとオーソドックスな50年代アメリカSF風小品。
 「追放されるつもりでパーティに入ったのに班長が全然追放してくれない」は、タイトル通りのいわゆるRPGものだけれど、ほとんど会社の新人研修。
 トリの「命はダイヤより重い」は、新しく電車の運転士になった女性が運転中にホームの客と目が合ったような気がすると、なぜかその客が鉄道事故に巻きこまれてしまう。「ダイヤ」というタイトル自体がビックリ箱だ。
 以上7篇、冒頭作から「老ホの姫」まで、読んでいる間はパンチ力のあるその内容と文章の力にア然としていた。「手のかかる・・・」で一息ついて落ち着いたけれど、まあ大森望の絶賛はよく分かる。カクヨム発としては、柞刈湯葉以来の衝撃かも。もっとも当方はカクヨムを読みに行ったことがないので、カクヨム作品群がどの程度のものなのかわかりませんが。
 あとこの作品を読んで思ったのは、裏表紙側腰巻の惹句「誰も考えなかった「if」の世界が、がここにある」は納得だけど、サタイアとしては現在そのものを描いていてSFという感覚があまりないことかな。

 次回はこだわりのノンフィクションを読み終わって感想が書けるかも。


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