続・サンタロガ・バリア  (第257回)
津田文夫


 この原稿を書いている時に、山本弘氏の訃報がありました。作家になってからの山本さんとは直接話をしたことはないけれど、大学時代に青空古書市にアルバイトで大量の本を並べていた山本さんのイメージはいまも脳裏にある。山本さんとは一つ違い(当方が年上)だったので、似たような年齢ということもあり、その時は何かSFの話をしたような記憶がある。もっとも何を話したかは忘却の彼方だが。ここ数年は闘病中だったとは云え、早すぎるなあと感慨が湧く。ご冥福をお祈りします。

 さすがに前回は、ミスタッチが多すぎて我ながら呆れました。大野万紀さんには申し訳ないです。もちろん読んで下さった方(いるのか)にも。
 佐々木譲『帝国の弔鐘』はもちろん表紙を見れば『帝国の弔砲』だとわかるので、まあいいとして(良くないけど)、堀米ゆず子のところで「感謝方」が何のミスタッチかはちょっと不明でしょうから、「反射過多」と打ったつもりでいたことは書いておこう。

 クラッシュしたハードディスクのその後の結果は、5日間かかって一応文書ファイルと画像ファイルがほぼ回復、PDFは半分以上ダメだったけれど私的なものは少ないのでタイトルだけ残して置いて必要ならまたダウンロードすれば良いというところで、1万円の回復ソフトはそれなりに役に立ったのでした。
 ただソフトが回復終了の結果を表示したとき、当初の130ギガが300ギガ以上になっていたので、一体何が起きたのかと各ファイルと開けてみると1データにつき同じものが3つになっていて、例えば写真データたと、jpegで同じタイトルが0、1、2 と並んでおり、そのうちの1枚だけが回復画像で、ほかの2枚は壊れたデータになっていた。3メガの写真とすると同じ容量のデータが3つになったわけで、何千枚という写真データがすべて3枚に増えていた。そりゃ3倍になるわねえ。これは文書やPDFも同じだったけれど、それらは3倍と云っても容量的にはたいしたことはなかった。ただし、PDFは3つとも壊れている場合が多かったのが残念。
 結局、壊れたデータを削除するのに1週間かかったものの、私的な写真や文書類はほぼ回復できたので一応メデタシとしておこう。なお、回復したデータは2つのハードディスクに保存しておきました。

 さて先月は『デューン パート2』が上映されるのを待って、また前回と同じ劇場のIMAXで妻と二人で見た。結果は、期待を上回るとまではいえないものの、ほぼ満足の行く出来であったと思われた。とはいえ、相方は「長い、疲れた」とのご意見だったので、まあそうかも知れない。作る方が見る者を圧倒して見せようと云わんばかりの、緊張しっぱなしのドラマと映像と音響が続くため、見たあとに疲れた感が残るのは仕方が無いところ。
 当方は新訳版の第3部を読んでいる最中に見たので、パンフ解説で堺三保さんが、『デューン2』のポールには、『砂漠の救世主』のポールも反映されていると書いていたのを読んで、『子供たち』のレト2世のキャラも入り込んでいるのではと思ったのでした。

 2月に広島文学フリマがあってイマジニアンの会も参加ということで、半日会場にいたけれど、SF関係もそれなりにブースがあって、「はるこん」のところで、昨年買い損ねていたクリストファー・プリースト『落ち逝く』をゲット。作者本人が亡くなったばかりと云うことで、ざっと読んでみた。
 表題作と「波瀾万丈の後始末」に「エピソードを排除せよ」の3篇入り。鳴庭真人氏の解説によると、プリーストは1980年代以降この40年で短篇をたった16篇しか発表していない。デビューした1960年代と70年代に合わせて35篇も書いていたのを思うと、さすがにあの複雑な長編群に専念したせいかと思いきや、実は長編の売れ行きが悪く経済的な理由もあったのではないかという。SF作家でデビューしてしまうと、一筋縄でいかない作品は一部で高く評価されてもファン層の大部分から敬遠される結果となったのか。そういう意味ではジーン・ウルフに似ているなあ。
 本書収録の3篇はどれも2000年代以後の作品で、2019年刊行の最新短編集(と云うことは生前最後の短編集?)からの紹介とのこと。どれもSF味は薄く、表題作はタイトル通り死にゆく瞬間の想念だし、「波瀾万丈の後始末」はホラータッチ、「エピソードを排除せよ」はリアリティショーが過激化した世界を描いてややSFっぽいサタイアだけれど、なんとなくゾンビものを思わせる。SF短編集としてみたらそれほど面白くはないかも。でも読めて良かった。

 文学フリマのブースをうろついていて見つけたのが住田真理子『ハイネさん 豊川海軍工廠をめぐる4つの物語』。もはや仕事ではないとは云え、豊川海軍工廠に関してもそれなりに調べたこともあって、さすがにフィクションには手を出さなかったけれど、もうフィクションでもいいやと思い、買って読んでみた。奥付に依れば、作者は1961年生まれのフリーライターとのこと。
 いわゆる海軍工廠は、明治時代に設置された横須賀・呉・佐世保・舞鶴の4軍港(日本遺産です)に付随したものが有名だけど、日中戦争以降軍艦製造ではなく兵器や弾薬を製造する工廠が全国に作られるようになった。豊川工廠もその一つで昭和14(1939)年に内陸の愛知県豊川町と周辺地域に跨がる宏大な銃器生産工場だった。因みに豊川町が豊川市になったのも工廠が出来て人口が急増、複数の自治体の相手をするのを面倒くさがる海軍が自治体を一本化(実務は内務省を通じて県がやる)したためである。これは4軍港が市制を敷くことになったのと同じ経緯です。
 副題どおり4篇が収録されていて、表題作のほか、「赤塚山のチョンス」、「太陽の塔」、「杭を立てる人」となっている。「赤塚山のチョンス」はタイトルから見当されるように工廠に徴用された朝鮮人のエピソード、「太陽の塔」は大阪万博で家族と万博会場に行った母親が、太陽の塔の顔から動員学徒として豊川工廠空襲時に死亡した友人の女学生の顔を幻視する、「杭を立てる人」はやはり老人となった空襲経験者が行う仕草をモチーフにしている。しかし作品としては、冒頭に置かれ中編と云って良い長さの表題作が一番印象に残る。
 表題作は、女学生で医者の娘が語り手、外国文学が好きだったが、学校では翻訳物は先生に取り上げられてしまうようになっていた。そこへ非常に垢抜けたお嬢さん「拝音(ハイネ」さんが転校してきた。その名前は詩人ハイネに因んで父親が付けたという。当然語り手は彼女と意気投合、文学少女同士の友情が始まるがやがて豊川工廠へ動員されることに・・・。ということで、ここでもクライマックスは空襲であり、語り手の目から見た空襲とハイネさんの運命が綴られている。
 まるでドラマ化のための原作かというくらいきっちりと古典的な悲劇が形づくられていることもあり、この物語は4軍港の工廠やその後各地に作られたどの工廠が舞台でも成り立つ物語になっている。ここでは作者が豊川工廠の空襲経験者に取材したので、そのような物語なったと云えるだろう。当方が担当した呉工廠でも動員された女学生たち(だけではないが)の悲劇は、毎年空襲の日が来るたびに話題になる。

 SFの新刊は相変わらず低調で、新訳のハーバートとレムには満足したけれど、現代に書かれたSF的な作品群にはどれも違和感があって、納得しがたいものばかりだった。なので、以下の4作については、その点について書いておこう。ちゃんとしたレビューが読みたい方は4冊とも岡本俊弥さんのBookreview Onlineの方をオススメします。

 松樹凜『射手座の香る夏』は、第12回創元SF短編賞を受賞した表題作に、第11回時に応募して参考作となり今回改稿されて書き下ろしとなった「さようなら、スチールヘッド」、そして受賞後に「Web東京創元社マガジン」に掲載された「十五までは神のうち」と紙雑誌「紙魚の手帳」に掲載された「影たちのいたところ」の4篇を収録する。
 表題作は再読だけど、初読時よりはディテールが分かりやすくなったとは云え、やはり取っつきが悪いことに変わりはなかった。まず気になるのが人称で、三人称と一人称が混じっていてなおかつ一人称が主人公とも云えないつくりになっているため、視点が混乱しやすいこと。それにかかわって物語が親世代の女性同士の確執と子世代のアドベンチャーの話のどちらもが世界を狭める方向に収斂していること。そして、この世界のSF的アイデアである動物乗り移りサイコダイバー装置が、ここでのシチュエーションのためだけに機能しているためガジェットとして説得力に欠けること、などが当方の感覚ではわかりにくさを齎していると思われる。
 この思考スタイルは、全く違うタイプの設定を持つ「さようなら、スチールヘッド」と「十五までは神のうち」でも共通していて、どちらも当方には違和感の強い作品と感じられている。
 特に「十五までは神のうち」の視点人物の置かれたシチュエーション対する反応とSF的アイデアであるヒトを妊娠時に遡って消滅させる一種の医療用タイムマシン、この両方に強い違和感がある。まず、視点人物が息子に生まれないことを選択されて母親がタイムマシンを飲み、息子は最初から居なかったことになったが、父親である視点人物はその衝撃を受け止めるのではなく、昔兄が生まれない選択をしたことの謎解きへと実家へ向かうのだ。これはかなり変な感覚だろう。そしてなによりも納得しがたいのは、子供が生まれないことを選んだときにタイムマシンを母親が飲むという制度だ。おそらく大半の母親は狂乱するか子供より先に自殺してしまうだろう。第一そんな政府が成り立つとも思えない。そして物語は兄の選択の謎解きに向かい、その原因が判明するのだが、これが原因なら兄はわざわざ母にタイムマシンを飲んでもらわなくても自決しただろうと思われる。
 「さようなら、スチールヘッド」の砲は、コンピュータ・ゲーム世界のNPCたちのドラマのように読めるので、イーガンの短篇を思わせるが、このキャラたちの選択と行動、現実世界との関係がやはりピンと来ない。設定と物語が別のレベルで動いているように見えるのだ。
 ところが巻末の「影たちのいるところ」は、いわゆる国籍不明異国風ファンタジーになっていて、ここでは世界設定とキャラクターが織りなす物語に違和感が感じられず、充分に楽しませてもらえた。作者自身に鬱傾向を選びたがるクセがあるとしても、この作品ではそれが気にならないくらいの世界の広さがある。

 田中空『未来経過観測員』は、松樹凜の重い気質の作風と違って、いかにもファニッシュなSF好きが書いたコマ落とし未来史の長編表題作に、SF的シチュエーションの一コマを叙情的とも云えるスタイルで切りとった30ページ足らずの短篇「ボディーアーマーと夏目漱石」を収録。作者は神戸大学大学院で物理を専攻したというから、大野万紀さんや岡本俊弥さんそして水鏡子の4半世紀離れた後輩に当たるわけですね。
 表題作はファニッシュであることが命な作品なんだから文句を付ける筋合いではないんだが、折角100年毎の地球(果ては全宇宙)の観測ができるというのに、わずか数百年でポストヒューマンとスーパーAIだけ(途中情けない神様連中も出てくるが)で話が進んでしまうのはどう見てももったいないとしか云いようがない。まあ、作者はそれが好きで書いているんだから端からどうこう云うても仕方が無いのは分かっていても、なんとなくイライラしてしまうんだなあ。
 短篇の方は短いこともあって、そのシチュエーションに納得はしないけれど、結びつかないものを結びつけるという点では面白い効果を発揮している。

 自分が好きな設定を選んで作品に仕立てるのは作者の勝手だけれど、選んだ設定が何を意味しているのかは押さえて貰わないと、SF的設定にどうしても反応してしまう当方のような読者はやっぱりイライラが募って書かれている物語がだんだん上の空になってくる。
 セコイア・ナガマツ『闇の中をどこまで高く』は、その典型といってもいい作り方がされている1作。作中に星間移民船が出てくるパンデミックものなんだけど、版元の東京創元社はSF叢書ではなくて、海外文学セレクションの名の下に出版している。でも訳者はSFに強い金子浩氏が担当しているけど。
 パンデミックの元は、うかつな若い研究者たちが太古の氷から蘇らせたウィルスという、常套的なはじまり。しかし作者の目指した方向はシリアスな愛する人を失った悲しみを変奏することにあるらしい、というのが始めの方のエピソード(読んでいる内にオムニバス連作短篇集になっていることがわかる)で感じられた感想だった(だからセレクションなのか)。ところが、パンデミックに現在の医学では太刀打ちできない方向で展開し始めると、なんとエリア51の超科学技術を解読してアルファ・ケンタウリまで光速の10分の1で航行する宇宙船が出来上がってしまうのである。で、この設定をどんどんエスカレートさせるものだからバカSFもかくやという恒星間宇宙船がディープ・スペースを飛んでいくことになる。
 なぜこんな設定の使い方を編集者が注意しないのか不思議に思うけれど、次に取り上げるタイムスリップ・ミステリにも同様の疑問を持ったわけで、要はSF的設定など、作者が書いていたらそれで良く、その意味するところなど誰も気にしていないと云うことなのであった。
 ここら辺で、当方がいちいち引っかかるSF(と思っていたもの)は、どうもその意味を失っているらしいことに気がつき始めた。

 で、その思いが確信になったのが、ジリアン・マカリスター『ロング・プレイス、ロング・タイム』。それにしても不親切なタイトルだなあ、このタイトルは。原題を原綴りで副題にしない限り、『長い場所、長い時』としか解されないでしょ、普通。
 それはともかく、これは冒頭で、愛する10代の息子が見知らぬ中年男を刺し殺してしまうのを目撃、警察に連れて行かれた息子を気遣う母親が、その日から過去へのタイムスリップを繰り返しながら、自らを取り巻く人々の思いも寄らなかった真相を知り、冒頭とは違う世界で結末を迎える1作。
 読んでいる最中は、この作者は作中で設定をタイムループだと云っているが、作ったのはタイムスリップ設定で、それが生み出す効果に作者は気がついていないように思えて、それが気になってしまい、最低でも、目覚める度にスキップしながら過去へ遡っていることに気がついたら、その日の元の自分の意識はどうなったのかぐらいは悩むべきじゃないのか、とか思いつつ、結局流し読みになってしまった。時間旅行ものはそれ自体ファンタジーだし、書きようによっては悪夢と選ぶことのないドラマが出来るだけである。
 しかし「時の門」に代表される時間SFは論理/ヘリクツの面白さという、感情を左右するドラマだけからでは得られない楽しさを身の上としていたわけで、それがSFファン気質をくすぐってきたわけだ。ウェルズ『タイム・マシン』は文明批評の手段としてガジェットを発明しその効果を作って見せたわけだけれど、アホなSFファンが楽しんだのは文明批評部分よりもガジェットとその効果だったのである。
 と、そのようなことを考えていたら、ピンときたのが当方のSFへの思いそのものが、21世紀も4分の1が過ぎようとしているこの現代においては、もはや現代に書かれるSF的作品に対応していないのではではないか、ということであった。

 高島雄哉『はじまりの青 シンデュラリティ・ルーツ』は、作者が制作に関わったSFアニメのスピン・オフ物語で、以前もこの作者のそのような作品を読んだ覚えがあって、まあ、読めるかと思って読んでしまったけれど、当方にはまったくチンプンカンプンな話が展開していて、当方がSFと思っているものにはもはや関係のない世界であった。

 今回読んだ作品がたまたま、当方の気にくわないものばかりだったと云うことも充分ありうるけれど、それよりは現在のSFの書き方は、すでに開発され終わったジャンルのレガシーを自在(好き勝手ともいう)に引っ張ってきて、作者が楽しめてなおかつ読者も楽しめればそれでいいじゃないかと云うものになっているように思えてきた。
 これはジャンルの成熟という観点からすると、どんな創作にも云えることだろうけれど、ジャンルが始まった時は、すべてが余白/フロンティアなため、先駆者が発見したジャンルは、初期の後継者たちが先駆者よりも広範囲に羽ばたくことを可能するが、世代交代を繰り返す内にその余白も狭まり、ジャンルの成熟と共にサブジャンルや新ジャンルの発見が行われるようになる。
 SFのジャンルの発展の仕方は、アメリカSFに限れば1910年代から1980年代までのジャズの発展とよく似ていることは、これまでまでもいわれてきていると思うけれど、ジャズの草創期からウィントン・マルサリスのジャズ・アーカイブまでとパルプ雑誌からヒューゴーを経てポスト・サイバーパンク時代へ至るSFの流れがダブっているように見えるのはよく分かる。ロックだと、50年代から90年代くらいのイメージかなあ。
 これはいわゆる進歩史観なんだけれど、わりとしっくりくるんだよね。そういう意味ではジャンルというのは成熟するまでずっとプログレッシブなもので在り続けていたんだろうなと云う気がする。ロックだと、プログレというサブジャンルがあるけれど、ロックだってその始まりから90年代ぐらいまでずっとプログレッシブな音楽形態だったような気がする。クラシックにしてもグレゴリオ聖歌と俗曲からバッハで様式発展の基礎と集成が出来て、そしてマーラー、シェーンベルクあたりで古典形式が崩れるまで300年進化したと云える。
 しかし、これはジャンルという考え方をするからであって、音楽一般や文学一般にはまったく当てはまらないのは、ワールド・ミュージックとホメーロスや紫式部、中国の漢詩や伝奇物語のことを考えれば自明だろうから、問題はなぜジャンルにこだわるかということになる。それは大森望じゃないけれど、SF者に生まれついたからという答えしかないんだけど、しかし「SF者」も時代と共にその意味が変容していき、昔はそういう風に云う人もいましたね、という時代は必ずやって来るだろう、というか既にそうなっているのかもというのが今回のイライラの原因みたい。飯田一史はロックはもはやゾンビ化していると云ってるしね。
 とはいえ、もちろん現代日本のSF作家の大半は、アイデアのオリジナルな展開にその個性を発揮するタイプで、だからこそ新刊が出れば読んでしまうわけだけれど、それらの作家たちの作品がない時に、SF的なアイデアやガジェットを所与のものとして使うタイプの小説に遭遇すると、作者の怠慢を感じてしまうというのが、当方の期待/視野の狭さのなせるところだと自覚したということですね。

 という訳で、レムとハーバートの既に評価の定まった名作が新訳で読めて、改めて感銘を新しくしたんですが、まあ、それ自体がゾンビ的なことなのかもしれないなあ。
 でもスタニスワフ・レム『捜査・浴槽で発見された手記』を読んでいると、懐かしいと云うよりは、いまでも強いサスペンスが感じられて、レム独特のSF的な思考の賜物という感じがする。
 さすがに1950年代に書かれた『捜査』は、当時のレムが思い描いたロンドンを舞台にして(という設定を忘れていた)、薄暗い世界で薄暗い事件の謎解きが狭い範囲で展開している分、古さを感じさせるけれど、数年後に書かれた『浴槽で発見された手記』の方は200ページ余りの長さしかないのに、その迷宮の宏大さに感銘を覚えてしまう。昔読んだ時も『捜査』は分かりやすかったけれど、『浴槽で発見・・・』の方は非常に混乱した印象だった。もちろん混乱しているのは当方の頭だったけれど。それにしてもこれだけ時間が経つと、『浴槽で発見・・・』の訳者(芝田文乃)解説で作品の大元のアイデアとなった作品を紹介出来るようになったのは嬉しい驚きだ。やっぱり『サラゴサ手稿』を岩波文庫で揃えておこう。
 あと『捜査』の方は訳文が独特で、特に視点人物の警部補とその上司である定年前の主任警部との会話で上司が使う丁寧語には違和感がある。普通現場の警部が部下に「して下さい」とは云わないよね。「したまえ」というのが普通だと思います。

 フランク・ハーバート『デューン 砂丘の子供たち〔新訳版〕』は、酒井昭伸さんのハイビジョン新訳を楽しもうと3週間以上かけて、つい先日読み終わったところ。いや、堪能させていただきました。訳者あとがきで書かれているとおり、第1部、第2部の記憶が残っていると、アレッと思うことがあるけれど、いまさら気にしてもしようがないですね。それにしても「忌み子」化したアリアちゃんが可哀想で泣けてきます。
 もう少し引いて見ると、「ミエを切り」まくっていて、まるで舞台劇を思わせるようなつくりなんだけど、ハーバートはイメージよりは予(預)言的/神話的響きを多用することで柄を大きく見せている。言葉でカブいているともいえるけれど、それでも時折入るデューンの風景描写はあいかわらず読む者に詩情をもたらす。
 もっと引いてしまって、他人事のように読んじゃうと、その知ったかぶりな言葉の多用に「いい気なもんだ」という感想が湧く人もいるかなあ、とは思うけれど、それは不幸な読者と云うことでかたづけておこう。

 前世紀の「名作」SFが達成した成果は、現代においては公共財産なんだと思えば、既に何度も使い回されて、特にSF的な映像作品に取り入れられたアイデアやイメージは、後の世代にはそれらの「名作」を既視感と共に読まざるを得ないことはよく分かる。それでも今回見た『デューン2』ぐらいのレベルだと、原作を読むことの助けにはなってくれると思いたい。いまだに「SFはSFの上につくられる」ような気がするのは錯覚なんだろう。

 こだわりのノンフィクション類はまたの機会に。


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