続・サンタロガ・バリア  (第252回)
津田文夫


 地元の映画館で『アステロイド・シティ』の上映が始まったので、暇があったら見に行こうと思っていたら、前日まで12時過ぎの上映だったのに、当日(11月3日)は午後5時前からの上映になっていた。なんか前回見たときと同じパターンだな。
 『アステロイド・シティ』は2度目の今回の方が、前回よりも楽しめた。全体としてはまだハッキリとした印象が文章に出来ないのだけれど、今回は個々のシーンのディテールに集中したので、わりと細かいくすぐりがキャッチできた。チャンスがあればもう1回見てもいいかも。その点では『エブ、エブ』よりも気に入ったのかも知れない。なお、映画は夜7時前の終わったので、家で夕食を摂りました。第3のビール付。因みに客は当方を含め4人だった。
 ついでに前回書いた『アステロイド・シティ』の感想を再読しようとしたら、その上の『君たちはどう生きるか』の感想文のところに、タイトルのもとになった本の作者を吉野作造と書いてあるのを発見。もちろん吉野源三郎ですね。(修正済み)

 実は映画を見る前に、書庫代わりのオンボロアパートで函開けしていたら、安野光雅の『読書画録』が出て来てこんなもん買ったかなと思い、パラパラしていたら石川淳『夷齋筆談』を取り上げていたので、それで買ったのかとも思ったが、この本の出版年である1989年に広島丸善(当時は本通にあった)で開催された『読書画録』原画展のハガキが挟んである上に、表紙見返しにはなにやら筆文字と朱の角印があるではないか。一見何かと思ったがよく見れば、当然「安野光雅」と読める。安野光雅の筆文字は初めて見るもので、かろうじて「光」が判読できるくらいで、ほかの3文字はくずし字と云うよりは文様に近い。ということは、これは当方が買ったのではなく、おそらく姉が安野光雅が来るというのでサインを貰いに行ったようだ(ウチの奥さんに見せても記憶にないと云うことだったし)。
 で、改めて目次を見ると吉野源三郎『君たちはどう生きるか』もあり、ようやく意識に引っかかったというわけ。ボロアパートは山裾の小学校の上側にあり、11月3日は各地区で祭り(小祭り)が行われていて、ここの小学校でも地区祭りの行列が最後に校庭に集まって、やぶ(鬼)が東西南北四方に矢を射る儀式(「四方払い」と云うらしい)をしていた。そういや去年もボロアパートから小祭り行事を見ていたんだった。

 今回読んだSFのうち、一番印象に残ったのが(川野太郎新訳版)シオドア・スタージョン『夢見る宝石』
 前回読んだのは、大学に入ってからのSF全集版だった。既に45年前で、感触は覚えているけれど、筋とかキャラクターとか全く忘れていたので、どれどれと読み始めたらあっという間に100ページを読んでしまい、プロローグで少年時代の主人公と同級生だった女子が19歳の現在、法律事務所で働いているシーンに切り替わったところで、漸くブレーキがかかった。
 ブラッドベリの『何かが道をやってくる』のサーカスほどではないにしろ、ここでもサーカスに拾われて成長していく主人公とその取り巻きの話は魅力的で、少年だった主人公を助けるサーカスの小人たちや元医者で人類ぎらいのサーカス団長が織りなすエピソードには夢中になるだけの魅力があったらしい。
 残念ながら、いったん立ち止まってからの現代パートは、ドラマがいわゆる通俗的なストーリー運びになっていて、スタージョンらしい感性が溢れているものの、やや熱中度が殺がれる。もっともそれは本書の全体的評価からすれば瑕疵程度に過ぎず、現に朝日新聞の文庫書評欄では、藤井光が「・・・思弁的な幻想の味わいは清新ですらある」と評している。
 しかし、今回読んで一番驚いたのは、表題である「夢見る宝石」の設定。スタージョンが70年以上前に小説の骨子として考えていたのはおそらく、「思弁的な幻想の味わい」をもたらすことではなく、SFのアイデアとして異星の産物である宝石の成り立ちとサーカスの団長のさまざまな実験が示すワンダーを一種通俗的なエンターテインメント(藤井光云うところの「善悪の明確なドラマ」)の中に埋め込むことだったように思える。
 「思弁的な幻想の味わい」は大方のスタージョンの読者が感じるその魅力だけれども、ここでのスタージョンはいわゆるSFの「ガジェット」的な設定を物語の基礎にしているように思え、そのことについて思いを巡らすと、たどり着いたのがレムの『ソラリス』。
 どういうことかというと、「ソラリスの海」の原点に「夢見る宝石」があるのではないかということ。スタージョンの「夢見る宝石」の意味不明の複製能力こそ「ソラリスの海」がもたらすホラーの原点ではないのか、ということだ。
 1950年刊の『夢見る宝石』をレムが1950年代の内に読んでいたとしても不思議はない。まあ、悪意の推測ではあるが。悪意の推測を進めると、レムがスタージョンを「ニセモノ」呼ばわりしたのは、「夢見る宝石」みたいな無限の可能性を秘めたアイデアをSFとしてマトモに展開することをせず、通俗ドラマに仕立ててしまっていることに腹を立てたからで、このアイデアで「ホンモノ」のSFを見せてやろうじゃないかとレムは考えたんじゃなかろうか・・・。
 ウーム、われながら妄想が酷いな。トシの所為だろう。

 ま、タイトルからして推して知るべしな宮澤伊織『ウは宇宙ヤバイのウ!〔新版〕』は、作者あとがきによると、ラノベとして出したときは編集部の要望で主人公キャラが男子だったが、新版では作者の趣味を優先してすべて女子にしたとのこと。内容については特に云うべきことはないけれど、やはりあとがきに、パロディやオマージュの元となった「参考文献」というのが挙げてあって、SF小説類は当方もほぼ読んでいるけれど、大抵中身を忘れているので本作のくすぐりが楽しめず、その分損したかも。

 未完の遺作を翻訳してまで出すというのは、それなりに評価された作家でないと売れないだろう。ジーン・ウルフ『書架の探偵、貸出中』はどうなんだろうと思わないでもないが、新☆ハヤカワ・SF・シリーズだし、買う人は買うか。
 と云うことで、本文260ページ余の薄い1冊になった物語は、190ページまでは一応起承転結のあるストーリーが展開しているけれど、そこから先は断片的エピソードの連続となっている。
 今回、書架の探偵は、相互貸借制度により、ほかの2冊の女性とともに小さな町の図書館に運ばれて、借主の少女チャンドラの家庭でのテンヤワンヤに巻きこまれる。実際は少女の母親が夫の行方を捜すために彼を借り出したのだった。しかもどうやら小さな町の図書館にあった前のバージョンの彼もこの母親に借り出されていたらしい・・・。と、なかなかの思わせぶりだけれど、行方不明の夫の消息はわりとあっさりと判明するので、ミステリ的ないわゆる推理モノと云うよりは、全体的に謎めいた雰囲気の方が作品の基調だろう。
 この前半エピソードは、チャンドラという少女の健気さも手伝って結構面白く読める。とはいえ作者の充分な推敲を経ずに出されたこともあって、巻末の訳注にもあるように本来ならあり得ない単純な不整合が多く、いくらジーン・ウルフの作品でも仕掛けの緻密さを味わうという点では難がある。
 ジーン・ウルフはいい作家だったなあ。

 キム・チョヨプ『この世界からは出ていくけれど』は、これまで訳された作品からイメージされる作者の持ち味を更に深めた短編集。作者が云うところでは、本書にはタイトルと同題の作品は無いが、収録作全体から受ける印象を表しているとのこと。
 冒頭の「最後のライオニ」は以前同題のアンソロジーで読んだ。最近読んだはずだけれど、再読するとこんな話だったかと驚く。
 「マリのダンス」は、行方不明のマリにモダンダンスを教えた講師の視点で進む1篇。マリは薬害で視覚異常を蒙った「モーグ」と呼ばれる人々の一人で、脳へのインプラントで補正されているとはいえ、そのダンスの見た目は常識的ではなかった。しかし、マリは特殊なVRテクノロジーと組み合わせることでそのダンスの感覚を他人にも感じさせることが出来た。マリは健常者に「モーグ」であることを強制的に知らしめる方法を開発していたのだった・・・。ダンスのところでは全然違うけれど『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』を思い出した。
 「ローラ」は、現実の身体と自分が感じる身体の間に乖離を覚える「間違った地図」を持った人々の話。ローラは物語の視点人物と関係の深かった3本目の腕を必要とする女性。テーマの骨子だけなら「マリのダンス」と同様な感触がある。 
 「ブレスシャドー」は、呼吸から意味を読み取る人々が地下世界に住む星で、遠い過去に遭難した宇宙船から一人の女性が息を吹き返す。もちろん彼女には「嗅覚言語」が読み取れなかった・・・。これは舞台設定がSFで「嗅覚言語」もSFだけど、テーマ的にはマジョリティとマイノリティの寓話で、視点はマジョリティ側(「現代」の「嗅覚言語」話者たち)にある。これまでの短篇とも共通した感触がある1作。
 「古(いにしえ)の協約」も、外宇宙探査船の調査員が訪れた星の住人から、すでに去って行った調査員へ送った通信文という形を取って、遠い過去に行われたこの惑星への植民が、原住のものとの「協約」の上に成り立っていることを明かす。それはこの星の人類が生きる条件であるが、調査員に直接話せないことだった・・・。
 ここでは視点人物の悲劇が将来への希望によって閉じられている。
 「認知空間」は、AIとVRが示すような情報世界を、人間の脳が現実的に操作できる実在の空間らしいが、この作品では機能障害によってその空間に入れない者を友とした「認知空間」管理者の視点で語られる1篇。ここまでくれば本書のタイトルが「この世界からは出ていくけれど」である理由も得心がいく。
 トリは「キャビン方程式」で、「キャビン」というのは遊園地の観覧車の人が乗る箱のこと。ここでは工業都市の蔚山(ウルサン)にある観覧車を指す。語り手はどうしても観覧車に乗らなければと思いここへ来た。「局地的時間バブル生成」に関する研究で天才物理学者といわれた姉が時間感覚不統合症という謎の病に倒れ、語り手の妹は姉の指示で観覧車に乗りに来たのだった・・・。
 これも一種ハードな時間SFとして読める(I・ワトソン「超低速時間移行機」の脳内現象版)が、テーマは通常の生活時間から切り離された姉と彼女を思いやる妹の想いによって示される。
 静かなSF作品集とでも云えば良いのか。

 全然SFじゃないよな、と分かってはいたが、読んでしまったのが、津原泰水『夢分けの船』
 小説家津原泰水のもうひとつの姿はミュージシャンだったこともあり、これは愛媛松山の一本気な性格の青年が、音楽への憧憬止みがたく東京の音楽専門学校に入学する話。ところが入居先に決めたマンションの部屋は、以前この部屋を借りてその音楽学校に通っていた女性が自殺したという噂がつきまとっていた・・・。
 小説の骨組み(文体も?)は、松山から東京へ一本気な青年が上京する、と云うところからも明らかなように漱石『坊ちゃん』であり、ということはこれは現代(というよりは少し前の)音楽青年の青春物語。と云うことで、こちらは田舎者の青年が東京の面妖な友情や恋愛等の諸事情に振り回されるさまざまなエピソードから成っている。そしてそれらの渦に呑み込まれても埋もれてしまわない理由が青年の一本気なのだ。
 読んでいる最中は見事な小説っぷりに感心する。もしかして和風マジック・リアリズム入ってるかも。ファンと云うほど津原泰水を読んでいないが、いい作家だった。

 斜線堂有紀『本の背骨が最後に残る』は、光文社文庫『異形コレクション』シリーズに発表された6篇と書き下ろしの表題作の続編から成る1冊。
 と云うことで既読の方が多いけれど全部読んでみた。
 表題作「本の背骨が最後に残る」は再読。いわゆるブック・ピープル(ここでは女)が本として扱われ、異本が許されないため、燃え上がる焔の上に吊されて本同士が対決するというもの。初読時はちょっと驚いたけれど、これはブラッドベリじゃなくてウルフの『書架の探偵』に由来する設定ですね。『書架の探偵、貸出中』でも、主人公の前の版が死体となって図書館に転がっていたけれど、誰も見向きもしないというヒドい設定になってるし。
 「死して屍知る者無し」は人間の子供が成長すると動物になってしまう世界の物語。語り手は兎を願い、好きな男子にも兎になることを持ちかけたけれど、結局彼は当初の願い通り驢馬になった・・・。これは語り手がこの世界は見かけと違うことに気づくことで恐怖がやってくる。
 「ドッペルイェーガー」では、VR空間の家の中で子供が徹底的に痛めつけられているが、それをプレイしているのは成長して間もなく結婚しようかという、その子供だった女性・・・。ということで破局が目に見えているけれど、面白いのはVR空間内の子供の視点で結末を迎えているところにある。再読。
 「痛妃婚姻譚」は再読。、人の痛みを引き受けることで頭が割れそうな苦痛に襲われながらも平然と舞踏会で踊る美女たちという、いかにもそのための舞台設定の中で、現在はトップの地位にある田舎出の少女と少年の物語。ロマンチック、なのか?
 「『金魚姫の物語』」も再読。個人につきまとう止まない雨、というアイデアを人の形を失うという病に見立て、病を得た年上の女と彼女の美しさに惹かれた写真少年の物語。これは好きかも。
 「デウス・エクス・セラピー」も再読。いわゆる精神病が外科的手法で治療される時代に、ある若い女性がその被験者にされるのを助けようとした若者の話。視点は若い女性に置かれ、物語は進行するが・・・。一応SFです。
 巻末の「本は背骨が最初に形成(でき)る」は書き下ろし。表題作の続編は、表題作の異本対決に勝ちつづける異色の本に、本屋の娘が惹かれて・・・。物語としては当然あり得べき続編といえるが作者の腕前はまったく不満を感じさせない。
 ホラーに興味は無いが、この作者の創り出す雰囲気は好きなんだな。

 小説としてはドライブ感皆無で読むのに時間がかかったのが、キム・スタンリー・ロビンソン『未来省』
 正味570ページを106の断章で構成した1冊だけれど、インドの熱湯と化した湖で一人生き残って環境テロリストになった男と、国連に設立された「未来省」の責任者となった女性のエピソードを除けば、本当に断片的な挿話と説明に費やされていて、気候変動による人類滅亡の危機を描くという点でディザスター小説、その気候変動に対してどのような対処法があるのか、そのバラエティを描くという点ではユートピア小説というシロモノである。
 作者は40年前のデビュー当時からカリフォルニアを舞台にした作品などで環境異(改)変に関心を示しており、生真面目な小説作法でリアリスティックな描写を得意としてきただけあって、この作品でも個々の風景は、たとえそれが災害を描くことであっても印象的である。特に未来省の責任者の女性がアルプスを巡るシーンは素晴らしい。
 しかし、この作者の理想主義的というかアメリカ民主主義的というか、一種の正義志向な持ち味が、ユートピア的テクノロジーの希望をやや嘘くさいものに見えてしまうことも確か。それは「火星」3部作でも顕著だったけれど、ここでは生な形での資本主義や権威主義への批判が強く、現在の現実のインドに云わせれば大きなお世話であり、中国もいい顔をしないだろう。いくら希望的観測として、また小説ならぬ大説として提示される、「良い」テクノロジーと人間集団の政治的心性の性善説には、現実世界の現況からは浮いたものに見えてしまう。
 それらの欠点は、この作品の訳出を強く薦めたという坂村健の解説でも指摘されているが、それでもこの作品は訳出する価値があるとした美点も感じられはする。なんといってもキム・スタンリー・ロビンソンだからねえ。
 『三体』のようにビジネス書で持て囃されるだけの話題性があれば良いのだけれど。その伝で行けばオバマやビル・ゲイツの言葉は帯の表に出すべきだったような・・・。

 デビュー作が前の見えない話づくりでユニークなファンタジーだった、高丘哲次『最果ての泥徒(ゴーレム)』は、1900年前後の中・東欧とロシアそして日本をひっくるめて、泥徒のいる偽史を展開している。
 しかし『屍者の帝國』が示した水準があり、その記憶からすると、本作はやや設計図が透けて見えることと、ヒロインとその父親のキャラクター設定にいまひとつ説得力が不足していることも手伝って、あまりノレなかった。また、物語がクライマックスに向かってスーパーゴーレムの活躍で一本調子に締めくくられてしまうのも釈然としないのだった。
 もう少し時間を掛けて練り込んでいたら、より面白い作品になったかも。次作に期待。

 ホラーは嫌いなナンだから手を出さなきゃ良いのにと思いつつ、読んでしまったのが、エレン・ダトロウ編『シャーリー・ジャクスン・トリビュート 穏やかな死者たち』。ダドロウの序文を読む限り、オリジナル・アンソロジーである。18編を収録。
 シャーリー・ジャクスンの作品は、50年近く前にハヤカワ文庫NVに収められた『山荘奇談』(創元の新訳版は『丘の屋敷』らしい)を読んで、面白かったという記憶があり、大学に入ってからハードカヴァーの短編集を買った覚えがある。この早川書房の叢書は『トマト・ケイン』とかも買って集めたのだけれど、結局積ん読になったまま。『ずっとお城で暮らしてる』も小型のハードカヴァーを持っているが、同前。それでも「くじ」とか有名短篇はいくつか読んでいる。
 ということで、シャーリー・ジャクスンにはかすかながらその作風に覚えがあったが、残念ながらここに収められた18編の内、文句なしに楽しめたのは、ジェフリー・フォード「柵の出入口」と巻末のケリー・リンク「スキンダーのヴェール」(ですます調の訳!)の2編だけ。
 何がいけないかというと、神経症的なキャラクターをいかにも不気味なことが起こりそうなシチュエーションで行動させる話が多く、読んでいて何の楽しさも感じられず、あー、そうですか、という感想がわくばかり。これではホラーが楽しめないのは当然である。
 エリザベス・ハンド「所有者直販物件」レアード・バロン「抜き足差し足」あたりが、文学的技巧のお陰であまり抵抗なく読めるけれど、これらがそれらの作家の初めて読む作品(バロンはそうだ)だとしたら他の作品が読みたくなるかといえば、そんな気持ちは湧かないだろう。
 巻末解説で深緑野分がシャーリー・ジャクスンの諸作が持つ特性を3種類上げて、この収録作18編をそのどれに属しているか分類しているが、ジェフリー・フォードもケリー・リンクもその3つの特性のどれにも対応していない作品とされていて、そうか、当方はシャーリー・ジャクスンの特性を取り入れた作品には反応しないんだと改めてホラー嫌いを自覚した。ウーム、創元推理文庫のシャーリー・ジャクスンの短編集をどれか読んでみるかなあ。

 『本の雑誌』9月号で山岸真氏がわざわざ「傑作」と冠して文庫化を紹介していた太田愛『彼らは世界にはなればなれに立っている』を読んでみた。
 テレビドラマは全く見ないしミステリも読まないので、太田愛がどういう作品を書くのか何の情報も無く読み始めた。
 読了後の感想は、これは最強度のレベルで語られたディストピア寓話/抵抗のファンタジー。
 終章の永遠に生きて記憶する運命を負った魔術師を除いて、先立つ3編の物語は、読者に好ましく思われるよう描かれた、被差別者側の語り手が召喚されるているが、彼らはそれぞれの物語の最後に砕かれてしまうし、魔術師はそれをどうすることも出来ない。そして戦争がすべてを滅ぼし、差別者も被差別者側も等しく死者となる。
 この陰々滅々な物語を作者は、緊密に組まれたプロットとよどみないエンターテインメント的語り口で、共同体と外部への差別、権威主義と弾圧が民衆のコンフォーミズムとともに打ち立てるディストピアという、呑み込みにくいテーマを前面に打ち出しながら、強力にドライヴする。
 そして、終章の魔術師の述懐から、抵抗がどれほど無駄になろうとも、抵抗の希望はいつまでも失われることないだろうということがわかる。
 好きかどうかにかかわらず、これは力業であろう。
 なぜ人々が大切にしているささやかな喜怒哀楽の生活が、どうしてこんな悲劇としかいいようのない人類社会をつくりあげてしまうのか、本気で考えている高校生に薦める1冊かも知れない。
 なお、終章の魔術師のエピソードで語り手の魔術師が、小さい頃にサーカス団に拾われ、団員に愛されながら育ち、団長からオマエは「多くを見て、記憶するのだ。遙かな遠い未来、おまえは〈声の地〉へ行く」と云われるシーンがあるが、ブラッドベリの「永遠に生きよ」がこだましているセリフだ。

 本誌前々号で木下充矢さんが市川沙央「ハンチバック」を褒めていたのが、ちょっと引っかかっていて、そういやあったよなと引っ張り出したのが、積ん読になっていた『文学界』2023年5月号。文芸誌などめったに買わないのだけれど、これには特集「12人の〝幻想”短篇競作集」が掲載されていて、そのトップに山尾悠子の名前があったので入手したのだった。結局、エッセイなどを拾い読みしたまま積ん読に。
 で、その特集が最近単行本になったらしいので、今回マジメに特集を読み、ついでに新人賞受賞作も読んでみた。
 市川沙央「ハンチバック」の中身については、いまさら当方がどうこういうこともないけれど、この私小説的な強力なパンチを新人賞の審査員たちはホメつつ、複数の審査員がこの小説が最後にフィクション内フィクションであるポルノのヒロインの物語で終わっていることに違和感を表明していたのを読んで、当方が思ったのは、この作者はフィクションの再確認をしたのではないかということだった。
 まあ、新人賞受賞作の短篇1作だけ読んで、作者の意図なぞ忖度もしようがないが、その作品に複雑骨折したようなしたたかさが感じられることは確かだ。

 「12人の〝幻想”短篇競作集」は、山尾悠子を筆頭に、諏訪哲史、沼田真佑、石沢麻依、谷崎由衣、高原英理、川野芽生、マーサ・ナカムラ、坂崎かおる、大木美沙子、大濱普美子、吉村萬壱。沼田、ナカムラ、大木、大濱が初めて読む作家だが、ここでも女性作家が大半を占めている。このうち、山尾悠子と川野芽生の作品はこれから出る作品の一部抜粋。
 山尾悠子「メランコリア」は、瀬戸内海の海辺の町にある醤油醸造場の女子高生が語り手。醤油の納入先でもある元旅館だったお屋敷は、留年した同級生の男子の家でもあり、その母は先に夫を失い、愛する犬の遺骨とともに旦那とは違う墓に入りたがっていたという。そしてお屋敷には江戸時代の大きなヒナ壇が飾られていて、それを見られるかどうかが女子たちの話題にもなっていた・・・。と、まるで普通のひなびた瀬戸内の町の物語が進行しているけれど、実際は物語が始まってすぐ、これは「鬱」という名の巨大船が町に突っ込んできてすべてをなぎ払う前のことだったという注釈が施されていて、表題の出所が感知されるというシロモノ。単行本が待ち遠しい。
 諏訪哲史「昏色(くれいろ)の都」は、エピグラムがローデンバック『死都ブリュージュ』からの引用で、物語はヨーロッパの一都市で育った語り手の回想録。非常に雰囲気のある昔ながらの語彙を使ったパスティーシュ風な1作。
 沼田真佑「茶会」は、語り手は社命で長崎で開かれる茶会に出席する予定が時間が狂い、列車も間に合わないところへ、知り合った男が親切にも車で送ってくれるというので同乗した道中の物語。最後に手品のような手際の人格変換がある。
 石沢麻依「マルギット・Kの鏡像」もヨーロッパのどこか(ドイツ?)にいる画家とその複数の妹たちに関する語り手による報告。冒頭から列車の中で画家のスケッチ帳のページが笑い声を立てるので、一瞬ファンタジーかと思うが、画家が手でスケッチ帳を押さえると笑い声が引っ込むという文章が続くので、リアリズムなことがわかる。物語もその伝で、画家のクローンみたいな妹たちの話になる。
 谷崎由衣「天岩戸ごっこ」は、娘の寝物語に童話版日本神話を読み聞かせている内にそこに取り込まれてしまうコント。キング・クリムゾンのデビューアルバムのジャケットにあるあの顔を思い出してしまう。
 高原英理「ラハンドーサ手稿」は、亡くなった母方の祖父が戦前東欧にいたとき今は失われた小国の言葉に詳しかったというが、遺品からその言語から翻訳された原稿が出て来た・・・。ということで、物語はその中身。まさにきちんと形式通りを踏襲したお手本のような作りの1品。
 川野芽生「奇病庭園(抄)」は既に単行本が出版されたので、次回以降にそちらの感想を書こう。
 マーサ・ナカムラ「串」は、タイトルからは何のことかと思うが、「クシダヒメ」という女人形に因む。「クシダヒメ」は語り手の家の「御秘所(おひそ)」という場所から生まれ出る・・・、ということで人柱伝説に逆件(くだん)を引っかけたノホホンとした女「性」ファンタジー。
 坂崎かおる「母の散歩」は、母が入院中にクリーニング店に出したというネクタイを半年ぶりに取りに行った娘の母にまつわる綺譚。クリーニング店では犬も預かっていたとバスケットを渡されるが空っぽで、店員は見えない犬だという・・・。犬自体は年寄りの散歩用に設定された空想犬で、それ自体はNPO事業なので、リアリズムから浮き上がる母の像が肝なのかな。
 大木美沙子「うなぎ」は、冒頭の一文が「臍からうなぎが出るようになって最初のうちは・・・」と始まる典型的な奇想短篇。倉田タカシを思い出してはいけません。
 大濱普美子「開花」の方は、1行目が「階段を上がる」だけで始まる。語りの描写はは階段を上りながら階段の描写を始め、それはアパートの何階かの廊下へ出て、奥の方のドア脇にカラフルなたたまれた傘を見つける。これだけで1ページが費やされているので、キイはカラフなル傘である。近代的幻想譚。
 吉村萬壱「ニトロシンドローム」は、架空の冴えない町を舞台に、この町も病に冒されていたと始まり、冴えない町のエピソードを重ねながら、タイトル通りの病で人々が爆発する話。〝幻想〟というより〝妄想〟SFだ。
 因みにこの『文学界』は大江健三郎追悼特集号でもある。そういや大江健三郎は『燃えあがる緑の木』3部作を読みかけて途中で脱落して以来読んでない。

 長くなったので、ノンフィクションについてはまた今度。


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