続・サンタロガ・バリア (第251回) |
ヴァンスの自伝で「ルポフってまだ元気だったんだ」と書いたら、山岸真さんから2020年没とご指摘いただき、ありがとうございました。1950年代に大学生だったんだから不思議はないけれど、ルポフも鬼籍に入っていたとは。
むかし、大野万紀さんがSFマガジンのスキャナーでルポフの日本神話ファンタジー『神の剣 悪魔の剣』をとても面白そうに紹介していて、創元から翻訳が出て早速読んだところ、まったく笑いののカケラも無かったことを思い出しますね。
なぜか地元の映画館が思ったより早く上映を始めたので、宮崎駿『君たちはどう生きるか』を見に行った。平日の昼間なので、ロビーで待っている観客は5人、内2人は元市長夫妻。現役時代はいろいろお世話になったので、(当方は野球帽にマスクだったから素通りしても良かったが)知らんふりは出来ず、御挨拶して中へ入った。
宣伝しないのが宣伝ということもあって、内容についてはまったく知らなかったが、プロローグで分かることは、戦時中、母を空襲で失った都会の少年が母方の実家に避難、母親そっくりの女性が出迎えて驚くが、その女性は航空機部品製造会社の社長である俗物の父の再婚相手で、母の妹だった。そして母の実家はお婆さん世代の使用人がうろちょろする大邸宅。そこには主屋から離れた広い池と廃墟と化した洋館があった・・・。
主人公の家族及び母方の実家の設定、時代設定ともその後に展開するファンタジーとの繋がりが分かりにくい(世界のバランスを支えているようなパズルの表現はあるけれど)。少年が、田舎の国民学校で転校生にはお定まりのイジメを受けて自らを傷つけ、その原因を黙秘することで「悪」との対決が生じているように見えることについても、部屋で少年が見つける吉野源三郎のタイトル本の伝えるメッセージがこの物語のテーマなのか、画面を見ている最中は考えている暇が無い。個々のシーンとイメージと云う点では、宮崎駿がこれまで示してきたものが乱舞しており、そちらに気を取られて、これが少年の母恋物語であることさえ棚上げされてしまう。多分、宮崎駿は2020年代という時代から離れているのだろう。
当方がお世話になっている地元SFファングループ「イマジニアンの会」の宮本会長が面白いと云っていたので、見ようと思ったら県内に上映館が1館しかない。おまけに見に行く機会を待っていたら、上映が1日1回午後5時からだけに。ということでムリヤリ見に行ったのが、ウェス・アンダーソン『アステロイド・シティ』。
ウェス・アンダーソンの作品は『犬ケ島』さえ見ておらず、見たのはこれが初めて。1955年の舞台劇という触れ込みで、1955年の映像は白黒、劇中劇のアステロイド・シティはカラーで物語が進む。映画は、現実の1955年、お悩み中の劇作家の部屋セットの外で進行役が情況を説明するところから始まるため、1955年のドラマがどれくらい入れ子構造なのか不安なまま、本編であるパステルカラーの、いかにも造りものっぽい、隕石によるクレーターが売り物の砂漠の町アステロイド・シティでの物語に移っていく(物語進行中に時々原爆実験のキノコ雲が上がり地震がある)。
本編の設定は、この町で開催の軍も絡む財団のジュニア宇宙科学賞のために数組の親子が集まって表彰式を行うというもの。集まった親子のうち、戦場カメラマンとその息子プラス3つ子の幼女たちの一家及び有名女優とその娘という2家族を中心に物語は進行するが、表彰式開催中に宇宙船が現れ、痩せた宇宙人が一人下りてきて式場の真ん中に飾られていた隕石を盗んでしまうのだった。
一方、現実世界ではモノクロ画面の脚本家の居室に、カラー画面の舞台から主演俳優が舞台セットに付いている扉を開けて入り、微妙な男同士のラブシーンを演じる。解説によれば、劇作家のモデルはテネシー・ウィリアムだそうで、彼はゲイだったらしい。
アステロイド・シティでの物語にもどれば、戦場カメラマンは最近妻を病気で失い、無神論者なので妻の遺灰をタッパウェアに入れて持ち歩いているが、それを幼い三つ子姉妹に渡すと彼女たちはモーテルの庭でお墓ごっこを始めてしまう。またこの町に到着した途端車が故障し、妻の父親に三つ子姉妹を迎えに来てくれるよう頼むが、義父と戦場カメラマンには結婚前から確執があった・・・。
登場人物たちは淡々と役をこなすような演技で、わずか90分余りの映画にこれでもかとセリフが詰め込まれ、膨大なカットがめまぐるしく切り替わる。
この映画も見ている間に何かを考え続けていることは出来ない画面を作っていて、全体的な印象を言葉にするのは難しい。一種『エブ・エブ』みたいなところがあるけれど、やはり印象に残るのは無神論者の戦場カメラマンが感じている悲しみだろうか。
帰りにバス食堂で食事してグラスビールを飲んだら600円もしたので驚いた。
音楽の方は、秋分の日、諏訪内晶子のヴァイオリン・リサイタルを初めて聴いた。ブラームスのソナタ全3曲から成るプログラムで、誰の演奏にしろ聴いておきたいと思うセトリだ。地元のホールでの演奏だったのに、開演時間を勘違いして1番第1楽章を外で聴く羽目になった(アホですな)。
ロビーで聴いていても諏訪内のヴァイオリンが朗々と鳴っていることは分かったが、2楽章への曲間にすばやく最後尾席に座らせて貰って聴いた生の音は、ヴァイオリン1挺で大ホールの空間を埋め尽くすほどの響きをもたらしていた。休憩時間に本来の席に行き、2番、3番と続けて聴いたけれど、ヴァイオリンの響きは終始ホール全体を覆っている。2番、3番は1番「雨の歌」と違って晩年のブラームスなので、やや地味な印象だけれどまったく集中力が途切れず最後まで聴けた。
既に50歳を過ぎた諏訪内、以前はストラディバリウスのドルフィン(昔は天才と云われたハイフェッツが使っていたという)で空間を切り裂くタイプだったけれど、少し前からデル・ジェズに換えたと云うことで、今回初めて聴いたデル・ジェズは刺激的な鋭さのない野太い音色で、今の諏訪内にはよく似合った楽器のようだ。
10数年前、ベートーヴェンのクロイツェルと7番のソナタのCDを聴いて、真面目すぎてついていけないと思ったし、その前のシベリウスの協奏曲のCDではライナーノートで元N響コンマス徳永次男が、諏訪内のスタイルを「四角い部屋を丸く掃くような演奏が多い中・・・」と表現していたが、今思えば、それは四角四面な演奏だと揶揄していたのかも知れないな。
でも今回聴いて、諏訪内はその枠を破っているように思われた。伴奏の男性ピアニストも見事に付けていたけれど、視覚的には背の高い男がすごく低い倚子を使っていて、まるでグールドみたいだったのが印象的だった。
アンコールは覚えていない。
今月も月初めは読みたい新刊SFが少なかったので、本屋の棚を見ていて買い忘れていた2021年刊の単行本2冊を読んだ。
1冊目は山之口洋『SIP 超知能警察』。当方には縁遠かったのか、ファンタジー大賞出身作家で寡作な感じのある著者の過去作を殆ど読んでいない。
この長編は、AIとビッグデータの応用で警察庁捜査を補助する科学警察研究所情報科学第4研究室チーフが、国の高官から各地方で起きている個々には独立的であるが謎めいた事象を示され、一時的にチーム全体が国家公安部門に移されて、ついに隣国の謀略行動を浮かび上がらせるというもの。
物語の組立は非常によくできていて、チームを構成する者たちは警察官と云うより研究者の集まりで一種のキャラクター小説的なノリもあって、もちろん現場捜査に出ればチーム員も荒事に巻きこまれるけれど楽しく読める。ただSFとしては藤井大洋の『ワン・モア・ヌーク』の設定と同様、朝鮮統一国家(!)という時事的な設定とその謀略を暴く過程が面白さと表裏一体となっているので、人ごとながらもったいない気分にはなる。
2冊目は山田正紀『開城賭博』。表題作は宮内悠介のアンソロジーで既読。収録作6篇はどれも表題作同様の手法を用いて奇想歴史小説に仕立てたもの。集中1番長い「独立馬喰隊西へ」が書き下ろし。他は2018年から2021年にかけての『小説宝石』掲載作4篇と『ジャーロ』掲載作が1篇からなる。山田正紀の作品はデビュー作以来わりと読んでいるのだけれどSFプロパー以外は読み落としも多い。
表題作「開城賭博」は、江戸薩摩屋敷での勝と西郷の江戸城引き渡し会談は、チンチロリン勝負で条件が決まったという奇想/バカ歴史ものだった。
「ミコライ事件」は、語り手が大学生の時、父親から「張作霖爆殺」はソ連の陰謀だったという話を聞かされ、そして親父が死んだ後、遺品から曾祖父が残した関東軍麾下の諜報機関員だったときの手帳を発見する・・・。ということで物語はその中身。なんでミコライ事件かというと、事件をソ連陰謀説にする為の工作に使われた偽ロシア貴族名が『罪と罰』の登場人物名をもじったミコライ・ブルガーコフだったから・・・。先行文学作品から名前を流用しながらベタに落とす1作(でも『罪と罰』にブルガーコフなんて居なかったような気がと思いググったら、最初の方に出てくるペンキ職人がニコライ・デメンチェフで、ミコライと呼ばれていた。なんのこっちゃ)。
「諜報専門家」は、吉村昭『戦艦武蔵』や鷗外「舞姫」を下敷きに、戦時中の航空機の秘密をめぐる恋とスパイと公安捜査の物語。
「恋と、うどんの、本能寺」は、本能寺の変に至った光秀の行動は讃岐うどんを出したことにあったという「饂飩本能寺始末」という古文書が、現代の讃岐うどん本舗と三河うどん本舗に伝わって、その本舗の跡取り息子と跡取り娘が恋仲に・・・。もう好きにせいとしか云えない。
「独立馬喰隊、西へ」は、江戸時代に武田の騎馬隊の名残が少年少女によって伝えられ、誰の支配下にもない独立馬喰隊として武蔵青梅で勝手に過ごしていたところ、大久保長安配下の依頼を受けて、武蔵御嶽の山から切り出したご神木を江戸へ運ぶことになった。しかし大久保と敵対する本多正信側の妨害に遭い、本多側にも若者から成る騎馬隊が・・・。
流石に説得力が弱い。なお、武蔵御嶽社がある御岳山には、当方が昭島市に居た頃、小学校卒業記念に仲間数人と一緒に登ったのを思い出した。御嶽社までは行ったか覚えてないけど。
トリは「咸臨丸ベッド・ディテクティブ」。タイトルから勝海舟の話だろうと見当される。まあ、勝は船酔いで役立たずだった話は有名だ。これは寝たきりの海舟を励まそうとジョン万次郎が怪談を3回披露する物語。その怪談の筋がこれまたどっかで聞いたような・・・。
全体としては、高野史緖の『まぜるな危険』に近い印象があるけれど、高野史緖の方がテンションが高いか。
新作に移ろう。
あの驚くべき時間論・ワープ論を結末で炸裂させた作品の外伝、と云うことで期待した林譲治『コスタ・コンコルディア 工作艦明石の孤独・外伝』は、まったく予想外の物語が展開していた1作。
設定は、ある星系の植民可能な惑星には人の姿をしたビチマがいたが、文明を持っていないとされて人類が強引に植民してから150年、その間ビチマを奴隷として扱ってきたが、ここ最近はビチマも人間であるとされ人権回復が行われるようになった。最近遺跡でビチマの白骨化した惨殺死体が発見され、殺人者の正体が新植民者の可能性もあるということで、その謎を解くのに現地弁務官はわざわざ地球から調停官を呼び寄せた・・・。
タイトルの「コスタ・コンコルディア」はワープ異常で3000年前にこの星系に出現した宇宙船の名前。ビチマはその宇宙船の乗組員の子孫として独自文明を持っていたのではないか、という点で対立するビチマと現植民者たち。現地弁務官は150年前の初代弁務官の苦悩を引継ぎながら、この惑星の抱えるアポリアを断ち切ることを調停官の調査に求めたのだった。
新大陸アメリカ原住民侵略や黒人奴隷制度を髣髴とさせる設定で、読み始めはなんだかイヤな予感がしたのだけれど、さすがは林譲治、惑星植民のハード・ソフトを総動員して殺人事件の解明を政治論・文明論につなげ、植民惑星経営論として物語が展開する。
多分これは眉村卓の司政官シリーズへのオマージュなのだろう。視点人物は調停官に置かれているが、その動きは現地弁務官の構想を実現する形になっている。最新型の司政官シリーズと云っていいかも。
Kaguya Books(VGプラス合同会社)から薄めのSFアンソロジーが2冊出た。発売が株式会社社会評論社、と云うところがなんとも云えません。
1冊目は、正井編『大阪SFアンソロジー OSAKA2045』10篇入で正味220ページ。1作平均20ページですね。
先に全体的な感想を述べておくと、もうすぐ開催されるという大阪万博(含70年万博)がらみの話が多いことと、北野勇作・牧野修のベテラン2人の作品がやはりコッテリとした印象をもたらしているということ。その他の作家の作品は初めてか2回目くらいなので、何十年も読んできたこの2人の作品に較べると淡い印象がある。
ということで、先にこの2人の作品に言及しておこう。冒頭の北野勇作「バンパクの思い出」は、バンパクの思い出を聞かれたボケ老人の話芸。7番目に置かれた牧野修「復讐は何も生まない」はIR計画の失敗や南海トラフ地震で沈んでしまった夢洲が再埋立でも祟られて荒野と化した時代、パワーアップして帰ってきた2人の女が以前の暴力男たちをボコボコにする話。ヴァイオレンス牧野の典型作。さすがにこの作品群の中ではどちらも浮いている感じがある。もちろん作品自体は面白い。
玖馬巌「みおつくしの人形遣いたち」は夢洲の科学館でロボットの「澪標ミオ」を相手に子供向け科学ショーをするサイエンスコミュニケーターの女性が、ショーをロボットに任せて裏方に入ろうとして、ある子供の親から人間が出演することに意味があると云われ、悩み続けるうちに先輩等と文楽を見てその意図に気づく話。
昔大和ミュージアムに居た頃、サイエンスショー担当の若い女子2人にいつもショーのコーチングをしてくれと云われ、閉口したことを思い出す(彼女らの考えたショー自体は面白いんだが、どこをどう直せば良いかなんて云えない、上司失格ですな)。
青島もうじき「アリビーナに曰く」は70年万博幻想譚。アリビーナは75年後の万博会場の中にいる女の子。ではだれが「曰く」しているのかというと「わたし」でアリビーナに「解体機」と呼ばれる存在。「あえかな」という形容が使えそうな1作。
玄月「チルドボックス」は戦後100年の大阪で、昭和と博士という2人の年寄りの会話からなり、記憶があちこちに飛びながら最後に現状が語られる。それがタイトルになっている。コテコテの大阪弁語りだけれど、ベテラン2人がいるので、それでも大人しく見える。
中山奈々「Think of All the Geat Things」は、解説によると2045年の十三に生きる人々を思って作った俳句10句を並べている。なかには川柳っぽいのもあるけれど、ちゃんと季語が入っている。シンギュラリティ云うても十三は十三か。
宗像涼「秋の夜長に赤福を供える」は「菊人形まつり」で有名な枚方市生まれの作者による、菊栽培に人生を賭けた1965年生れで今年(2045年)亡くなった祖父の菊栽培への執念と父による現代へ繋ぐ努力、そしてそれを語り継ぐ孫の語り手という3者の物語からなる、オーソドックスといえばオーソドックスな1篇。当方はこの祖父より10歳年上なのでそっちの方の感慨が湧く。
正井「みほちゃんを見に行く」は、独身のまま歳を取ったオバ「みほちゃん」を、祖母に言われて中学生のころから様子見に行っていた語り手から見た「みほちゃん」回想録。2045年の大阪はやはりわびしい。
藤崎ほつま「かつて公園と呼ばれたサウダーヂ」は、ある意味「みほちゃんを見に行く」と対になる1作。こちらは亡くなった叔父のアヴァターの案内で、VRで再現された叔父の子供時代の公園を、語り手が見学しながら叔父のことを回想する。
トリは紅坂紫「アンダンテ」は、インディー・バンドが演奏場所を失った大阪を出て活動してきたが、大阪に戻って演奏しようとする話。短いがパッションが感じられる1篇。作者名がいにしえのブリティッシュロックのグループ名(複数)を思わせる。
ここに収められた2045年の大阪を舞台にした話は、端正な作品が多く、その点で北野・牧野・玄月あたりがコテコテ感を担って、いわゆる大阪イメージを保持している。まあそれ自体が2045年の大阪では失われているかも、という気はする。
井上彼方編『京都SFアンソロジー ここに浮かぶ景色』の方は8篇でやはり正味220ページ。基本的には京都市内の話が多いけれど、そこから外れた舞台もある。さすがに北野・牧野のようなコテコテな作品は無いけれど、千葉集、溝渕久美子、麦原遼あたりはやや濃い感じがある。
冒頭の千葉集「京都は存在しない」は、1945年に京都市中心部が消滅、その事実は戦後30年秘され、その後50年の間に堰を切ったように京都者のエッセイが溢れ出た・・・という設定で、ベテランと語り手である新進の京都エッセイストのやりとりから、空想による京都の風景がまるで現実のように(そりゃ現実だけど)言及される。手法としてはありふれているけれど、語り口が上手い。
暴力と破滅の運び手「ピアニスト」は、観客の示す言葉と想念からイメージを作るコンピュータ・インスタレーションに、才能あるピアニストだが、日本人バレリーナへの妄執がある外国女性が関わって、その成り行きが語り手に一種の恐怖をもたらす話。美術・音楽とも硬質な感覚があるが、一応穏やかな結末を迎える。それにしても作家の名前が自由すぎるなあ。
鈴木無音「聖地と呼ばれる町で」は、京都北部の海辺の町が40年前ある映画の舞台となったことで、いまでも聖地としてマニアが泊まりに来る民宿の経営者が語り手。そして今、その監督の息子がそこを舞台にしたドキュメンタリーを撮影しに来て、語り手と親しい間柄となり、語り手はドキュメンタリー映画の寄稿文を頼まれ・・・。時間の経過以外SFとは感じられないが、良い作品ではある。
野咲タラ「おしゃべりな池」は、民俗学の講師を務める語り手が、親から80歳過ぎの祖父の様子見をまかされて、美術館に連れ出し印象派のスイレンの絵を見たところで、祖父は、戦前に干拓されて消えた巨椋池での思い出を語り出した。その後祖父が池のコトダマの話をするところから奇想の世界が現れる。そうかあ、巨椋池かあ、と思ってしまった。
ここからの3作はいわゆるSF慣れした書き手の作品が続く。
溝渕久美子「第二回京都西陣エクストリーム軒先駐車大会」は長いタイトル通り、道が狭い西陣の町で交通の妨げにならないようミリ単位で家に幅寄せすることを競技化した話。なんでかというと基本的に車はすべてAI搭載自動運転となったから。まあ後は仕掛けをご覧じろの世界だけれど、この作者はあきさせない。
麦原遼「立看の儀」は、京大名物立看が伝説となった時代に、京大跡地(!)に立看を立てることに情熱を燃やす者たちの物語。って、そんなの今書くかあ、と思う世代である当方は老人ですな。当方が京都をうろちょろし始めた1975年には東七条から今出川まで市電で通ってました。数は減ったとはいえまだ立看は健在だったなあ。
藤田雅矢「シダーローズの時間」は、京大農学部出身の作者が京都府立植物園を舞台にして書き上げたリアルなサイエンス・ファンタジー。専門知が上手くいかされている。
こちらのトリは織戸久貴「春と灰」。近未来軍事政権下で崩壊状態となり呪術的変容を遂げた日本国。軍事政権はコントロールできない非デジタル情報が集積する国立国会図書館を炎上させたが、その後の混乱で関西館があった京都府南部は呪術的汚染地区となって放置されていた。しかし、そんな場所を目指す人間もいた・・・。ドラマ造りは違っても結末の希望は、ジーン・ウルフの有名な短篇のそれに重なる。
大阪に較べると京都は何となくせまい。
ジェフリー・フォード『最後の三角形 ジェフリー・フォード傑作短編集』は出ていたのを忘れてて註文した1冊。谷垣暁美の編訳。なんとなくイギリス作家のような気がしていたのだけれど、アメリカの作家でした。ジャスパーと混同したわけでもないだろうに。
冒頭の「アイスクリーム帝国」は、視点人物がいわゆる共感覚保持者だったけれど、それが判明したのはかなり成長した後で、それまではイジメに遭ったり医者をたらい回しにされていた。ある日アイスクリーム帝国(という店)でチョコ味を嘗めていたら、同年代の女の子が見え、以来チョコ味は女の子を呼び出す方法となった。一方、共感覚は老医師のところで診断がつき、彼は作曲家を目指すようになる・・・。結末のオトし方を含め非常によくできたファンタジー。
「マルシュージアンのゾンビ」も、大学で文学講師をしている語り手が、表題の名前の老人と知り合い、その秘密を教えられ・・・、と、こちらも題材的にはありふれているけれど、物語づくりは鮮やかだ。
「トレンティーノさんの息子」は、クラム(貝)漁で生計を立てている語り手のこれまでの回想から入り、その中でクラム漁仲間の不吉な言い伝えを自ら体験するもかろうじて助かった話をして、表題の人物が漁に出て行方不明なったという話に続く。これもよくある怪談のパターンだけれど、話づくりは上手い。
「タイムマニア」は、時間ものかと思わせるタイトルだけど、ハーブの方。主人公の男の子は5歳の時から悪夢に悩まされるようになり、それを鎮めてくれるのがタイム。小さいころはお茶だったけれど、少年になるころはタイムそのものを口にするようになった。そんな彼はいろいろ周囲からからかわれながら、ある日廃牧場の井戸の底に頭蓋骨を見つける・・・。ヒネリの手法は先に読んだ4作と近いけれど、この作品でも語りはなめらかで、今回はハッピーエンドを迎える。
「恐怖譚」は、エミリが夜に眼を醒ますと家に誰もいない、着替えて外へ出て道を歩いていたら、黒塗りの優雅な4輪馬車がやってきて、室内からエミリ・ディッキンスンさんですねと男の声がして、エミリは警戒してたのにいつの間にか馬車の室内に・・・。男の依頼はある少年の魂を詩で成仏(?)させること。全体にディッキンスンの詩句をちりばめたという技巧的な死者のためのファンタジー。
「本棚遠征隊」は、これまでの3、40ページの作品と違い15ページの短篇。語り手は大病を患って以来、本棚の間に赤ちゃんカマキリより小さいこびと(ワープロ変換できない)=妖精が目に見えるようになった。そんなに小さいのにもかかわらずハッキリと・・・。ということで、これは妖精たちの行動観察記。相変わらずサラッと読ませる。
表題作「最後の三角形」はいわゆる魔方陣もの。語り手はロクでもないヤク中ホームレスだったが、ヤク切れの最悪の状態になり、ある家のガレージで寝て眼を醒ましたら、拳銃を持ったバアさんがそこに立っていた・・・。ということで語り手はこの変なバアさんに徹底的に鍛え直される。そしてバアさんにこの町のどこかに三角形が対角線を為すように存在しているから探してこいと云われる。これまたありがちな設定をうまく利用した心地よいファンタジー。
「ナイト・ウィスキー」は、年に一度選ばれた者たちだけが飲める液体の名前。これを飲むと素晴らしい眠り/夢が訪れるが、身体は会場から消えて町のあちらこちらの高い場所(多くは樹上)に移動してしまう。語り手は、この身体が落ちるときピックアップトラックの荷台に載せたマットレスでキャッチする役目の見習い。日本の作家は大型の竿ネットで掬うが、こちらはマットレス。奇想ファンタジーのお手本。
「星椋鳥の群翔」は、架空の帝國の海辺の街〈ペレグランの結び目〉で起きた「野獣」による凄惨な連続殺人事件を捜査官の視点で語る変身譚。「ペレグラン」という単語の意味から思いついたかのような擬古典的1篇。
「ダルサリー」は10ページの掌編。瓶の中の都市というイメージを提示して、極小ガラスドーム都市「ダルサリー」内のドラマが観察者によって報告される・・・。「フェッセンデン」を下敷きにしたような古風なSFファンタジー。
「エクソスケルトン・タウン」も擬古典的SFといっていいかもしれない。人類にとっては宝石のような糞球を出す甲虫型異星人が住む超高気圧惑星で、人間は耐圧服を使用するが、甲虫たちは昔のハリウッド映画に夢中で、人間は甲虫の機嫌取りにハリウッドスターの外見を耐圧服に纏わせていた・・・。セピア色SF。
「ロボット将軍第七の顔」も10ページの短い懐旧的SF。「・・・彼は軍服を着ていて、銀河軍団の古い紋章が金糸で刺繍された前庇つきの軍帽さえ、かぶっていた」というのが表題の将軍。今では忘れられたロボット将軍の経歴を回顧する1篇。
「ばらばらになった運命機械」も「千古の時を経てきた宇宙飛行士」が、人間嫌いの超高齢者として人を寄せ付けない難所に住んでいたが、ある日眠りの中で自らの宇宙冒険譚を回顧する・・・。表題は宇宙飛行士が入手した不思議なパーツのこと。
トリの「イーリン=オク年代記」は、カゲロウよりも短い一生を送る妖精が砂浜の砂の城に住んでいることがあると語り手は云い、ある妖精の日記を発見しそれを表題の物語として紹介する。
この短編集を読むとジェフリー・フォードの作家としての技巧は、アイデアの独創性と云うよりはモディファイの的確さとそれを心地よい物語としてつくる所にあると感じられた。SFの使い方も自家薬籠中だけれど、オマージュ的な雰囲気が漂う。つまらない作品は1篇も無い良い短編集だ。
出ましたジョン・スラデック『チク・タク・チク・タク・ チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク・ チク・タク・チク・タク・チク・タク・チク・タク
』(数えながらコピーするのも大変だ、いやググって1発コピーだろッ)。原題が「チク・タク」なのに10個に増やすかねぇ。さすが竹書房。
訳者鯨井久志さんの持込訳稿・初単行本だそうで、おめでとうございます。
悪名高いジョン・スラデックの殺人ロボットものの長編(といっても短いが)。昔ペーパーバックを買っていたか思い出せないけれど、一番ヒドい話だということだったと覚えている。
まあ、ロボット3原則は絶対破れないという人間側の妄念をいいことにやりたい放題で、大人も子供も容赦なく殺しまくるけれど、残酷かというとそれはやっぱり人間のやっていることだというサタイア/鏡になっている分、ホラー成分はなくてブラック・コメディー一直線な印象だ。
身も蓋もないサタイアは今の若い人にウケるのかなあ。
斜線堂有紀と高野史緖が入っているのか、まあ読んでみるかと買ったのが、日本文芸家協会編『雨の中で踊れ 現代の短編小説 ベストコレクション2023』。
で、斜線堂有紀「妹の夫」は「五度目の短距離ワープが終わった」の1行で始まるSF。しかし中身は、万能翻訳機の時代に他国語学習など眼中に無かった宇宙船の乗組員が、殺人事件の真犯人に気づいて地球に知らせようとしたところで翻訳機が故障、もうすぐ通信不可能になるワープ突入までにフランス語話者の地球側通信員に何とかして伝えなくてはならないという、バカSFっぽいサスペンス・コメディ。常識的なSFとしては成り立たないシチュエーションだけれど。
高野史緖「楽園の泉の上で」はたった2ページの見開きで終わっているコント。具材はクラーク『楽園の泉』と芥川「蜘蛛の糸」を混ぜたアレ。非常な脱力感に襲われる。
この2人以外は初めて読む作家の作品だ。
巻頭を飾る1作は佐藤愛子「悧巧なイブ」は、上司から出戻り娘を押しつけられようとしている男が電子計算機「悧巧なイブ」の前で愚痴ると・・・。まるで星新一のショートショートだった。佐藤愛子はもうすぐ100歳らしい。
森絵都「雨の中で踊る」はこの文庫のタイトルのもとになった作品。生活に疲れた男が偶然話の合う男に出会い、その男に「生き方のカリスマに相談してみよう」と連れて行かれ、雨の中で踊ることになる話。うまい。
一穂ミチ「☆ロマンス」は、夫に幻滅している妻が、すれ違っただけのイケメンフードデリバリ配達員に再会するため注文を繰り返すようになる。ミステリじゃないがサイコなイヤミス系。
まさきとしか「おかえり福猫」は、死ぬことを考える44歳の独身女性が語り手、家賃3万5千円のアパートには11匹の猫がいるが、もちろん秘密。女性の語りはあちこち飛ぶが、最後は6歳の時から9年間飼っていた福ちゃんのエピソードになり、それが今語り手の前に帰ってきていた・・・。まあ、作中で語り手の現況がどうなっているのかは後半明らかにされる。語りはスムーズで悪くない。
君嶋彼方「走れ茜色」は、同級生男子に恋心を抱く男子高校生は相手方の態度もあって確信がない。そんなところへ相手方に恋してるという女子が現れて、この報われない恋に悩む二人で愚痴を言い合っているうちに・・・。まあそういう話ではあるが、タイトル通りのラストシーンが訪れる。その後はどうなったのかねえ。この場合女の子は「おこげ」ではないよなあ。
「叔母が死んだ。一角獣に蹴り殺されたそうだ」の一文で始まる佐原ひかり「一角獣の背に乗って」は、一角獣がいる世界で処女伝説をキイにしたフェミニズム系ファンタジー。話は姪の語りで進められ、この社会の一角獣と処女の扱いが明かされ、姪はそれを蹴る。 須藤古都離「どうせ殺すなら、歌が終わってからにして」は10ページの掌編だが、参考資料として高野秀行のソマリランドものが挙げられているように、ソマリランドで歌の上手い女の子がたどる運命をすくい上げた1作。
荒木あかね「同好のSHE」は、バスの中で、持ち物を盗まれたと近くの席の男がわめきだしたが、あたしは(人は殺すけど)盗みなんかしない女だからと高をくくって座っていたら・・・。コージー・ミステリ的百合人情小話(長いけど)。うまい。
逸木裕「陸橋の向こう側」は、興信所の中間管理職で子持ち夫ありの女性探偵の主人公が、残業代わりにイートインで書類仕事をしている時に、そばにいた男子中学生が父親殺しを計画していることを知ってしまう・・・。いわゆる不幸な家庭事情に首を突っ込んだ探偵のサスペンスもの。時代設定を昭和時代にずらせば男性作家が男探偵で書いていたような話だ。
トリの一条次郎「ビーチで海にかじられて」は、鮫村の浜でサメ対策訓練の手伝いに狩り出された山側にある熊村の熊対策救助員が、凶暴な着ぐるみ鮫にかじられる話。スラップスティックの見本みたいなつくりのナンセンスコメディ。うまい。
ということで、一般的なエンターテインメントでも女性陣の大活躍ぶりが伺えるアンソロジー。SFファンとしては佐藤愛子に一番驚いたかな。基本的に上手い話が集まっているけれど、SFファンは上手い話を求めているわけではないからなあ。人情小話は小松、筒井のご両人が上手かったけれど、もっと上手い半村良が直木賞を貰ったのだった。
9月中旬以降に次々出た新刊SFが読めていないのは、この2冊のせい。
1冊目は京極夏彦『鵼の碑』。もちろん新書版の方。村上春樹やウエルベックは文庫まで待つにしても、流石に京極堂の新作は読んでしまうのだった。
「ヌエ」なので、開巻冒頭で、『平家物語』のヌエ退治の一節が引かれ、その他にもさまざまなヌエに言及した古典の引用が並ぶ。まあ、『白鯨』のようなことはないが。『平家物語』は以前読んだので、このエピソードはなんとなく覚えていた。
ということで、ヌエである。ヌエの声はトラツグミ〈虎鶫〉という鳥の声なんだそうであるが、ここではヌエは化け物である。それにしてもなんで日光でヌエなのか。
いつものとおり、前半は謎の始まりを示すエピソードがおかれ、関口を初めとする主要キャラクターがそれぞれの都合でばらばらに日光に集まる。この前半のあれやこれやがやはりいつものようにかったるくて、読むのに日数がかかった。後半は2日で読み終わったのだけど。
今回は「ヌエ」なので、いつものように京極堂はあの衣裳でお馴染みのコトに及ぶわけだが、化け物「ヌエ」の性格から由来するナゾは・・・。
新書版で800ページだけれど、これほど多くの主要シリーズキャラとゲストキャラをめまぐるしく動かされると読む方も大変で、時々ゲストキャラを間違えてしまうのだった。
主題は何かといえば、原子力エネルギー信仰なんだろうなあ。
もう1冊は新井素子『チグリスとユーフラテス』上・下。2002年5月初刷の集英社文庫。20年間積ん読にしたものになぜ今頃手を出したかというと、高野秀行の本を読み、旧約聖書の預言書を読み、ワープなしの『星の航海者』を読み、ワープありの『コスタ・コンコルディア』を読んで司政官シリーズを思い出し・・・と、どうしたって星間移民と「チグリス・ユーフラテス」が結びつかざるを得ないわけで、当然思い出したのがこのタイトル。
この作者がデビューした当時の作品は長編『絶句』をはじめいくつか読んでいたけれど、やはり文体や内容からその後は当方が読みたいものからは外れていた。で、たしか昔水鏡子が本誌に本書の感想文を書いていたよなあと、索引ページからアクセスすると、99年刊のハードカバーを読んでいて、SFの設定としてはダメだが、テーマは重い、としか書いてない。やはり読んでみるかと思った次第。
上巻の目次を見ると「1st マリア・D」「2nd ダイアナ・B・ナイン」「3rd 関口朋美(トモミ・S・ナイン)」の3編が収められ、短いあとがきが付いている。これで450ページあるので、1編が150ページの中編集だ。
第1部は、マリア視点の覚醒シーンから始まる。目の前にいるのはリボンとレース付きという子供向デザインのドレスを着た見た目70代の女ルナだった。幼児口調のルナはこの移民惑星ナインの「最後の子供」だという。マリアは約80年前にコールドスリープに入り治療法が確立する時代に目が覚めるはずだったのに、ルナに覚醒させられたのだ・・・。
この上巻の3編は病気治療法の確立を期して眠りに就いた女たちが、寂しさを紛らわし(そして自分一人を残した大人社会への復讐として)ルナに順番にコールドスリープから目覚めさせられた女たちなのだ。なぜ女ばかりかというと「最後の子供」としてルナを産んだ母親が許せなかったから。
物語は、この3人の女(3人とも違う時代の人間)のそれぞれが生きた時代をその育ちから回想しながら、ルナ視点を交え進んでいく。ルナ視点からはマリアが死ねば、ダイアナを起こし、ダイアナが死ねば関口朋美という具合。そして彼女らは死ぬ前に手記を書いており(それらの手記はルナにより改変されてはいるが)、下巻全部を占める第4部の、星間移民を果たしこの惑星ナインの女神となった「レイディ・アカリ」へと渡される。
この第4部から判明する、追放/逃亡同然の扱いをされたわずか30人余りの日本人だけで恒星間移民が行われた(先にテラフォーミング済みらしい)という設定やその後の過程もまったく納得しがたいし、ルナの幼児的言葉遣いや、最初のマリアの独白スタイルもいかにも新井素子スタイルなので、読むのが大変ということもあり2週間ぐらい抱えていた。そして読みながら思ったのは新井素子という作家は基本的にホラー体質なのではないか、ということ。
まあ「最後の子供」ルナの思考が、惑星ナインのすべてのオトナ(死んでいるかコールドスリープに入っている)を憎み復讐することに捕らわれているので、語り口がどれほど新井素子スタイルでもホラーである。しかし第4部「レイディ・アカリ」においては、惑星ナインが最後を迎えるときまでコールドスリープに入っていたはずのアカリが覚醒まもなく状況を把握し、そのパワーで「最後の子供」ルナを変容させてしまう。そこにおいてこの物語はホラーを止めてSF的な滅びと再生の詩情へと生まれ変わる。
第4部を読めば、好き嫌いは別として、読後に読んだ方が良い大沢在昌の解説にもあるように、「神」の物語を読み取ってしまう人も出てくるくらいの、レイディ・アカリ/作者の力業が確認できる。
ところで「チグリスとユーフラテス」はなんだったんだ?という疑問は、第2部のダイアナのところで、まずは判明する。
地球に援助を求めた通信(届くのに30年かかる)に応えて60年後に地球から送られてきたのは、「ノアの箱舟」同様すべての動物(含昆虫)のつがい一揃いだったため、そこには蛍もいた。すなわちチグリスとユーフラテスは蛍のつがいの名前だったのだ。上巻ではその話しかないのでちょっと呆れるが、蛍は最後の最後で惑星ナインに舞う。上巻のあとがき(下巻にも長いのがある)によるとこの最後のシーンが最初に浮かび、それを実現する為にこの長い1編を書いたらしい。すさまじい執念だ。
因みに、この物語の一番目立つテーマは生殖で、マリアは出産、ダイアナは人口計画、関口朋美は血統を扱うが、レイディ・アカリではテラフォーミング自体が一種の生殖であるところまで進む。本書発刊後4半世紀が過ぎて、LGBTQ関連に関心が集まる時代には思い出されることも少なくなったろうが、新井素子が注ぎ込んだエネルギーは読めばそこにあると感じられるだろう。
ノンフィクションはまたの機会に。