続・サンタロガ・バリア  (第250回)
津田文夫


 うーん、残暑ならぬ残酷暑だ。まあ、新潟県在住の山岸真さんのことを思えば35度くらいは涼しい方か。

 前回は、主宰の大野万紀さんからワケワカランと呆れられた「妄想」を載せていただいたけれど、読み返すといろいろ勘違いしてますねえ。まあ「妄想」ですから。ただこれを書いた後で、ググってみると光速が「メートル」の定義に使われているのを発見。でもこの定義はウロボロス的だよねえ。だったら「秒」の定義もそれでいいんじゃないかと思ったけれど、「秒」の方はセシウムが使われていた。
 『七月七日』の方は当方の勝手な推理が間違っていたようで東京創元社さんから訂正の申込が・・・申し訳ない。書誌的なことについては岡本俊弥さんの書評に詳しいので正しい情報を知りたい方はそちらへどうぞ。

 話の枕に、最近聴いたCDの話でもと思っていたら、『SFマガジン』10月号に大野万紀さんの昔話があって、大森望コラムまでその時代の思い出話で、KSFA関連で同志社大学SF研創立者の桐山さんはともかく、当方と宮城氏の名前まで出されていてビックリ。
 大分忘れかけていたけれど、前にもどこかで書いたように大学は卒業したが就職せず京都に居残って安田均さんの下訳(というほどのものではないが)をやっていたとき、英保氏とは喫茶店で会ったりしていた。そのころ英保氏にエイゼンシュテイン論の本を貰ったような記憶がある。きっとボロアパートの書庫のどこかに、もしかしたら開けるのを諦めた段ボール箱の中にあるのだろう(念のためにググったら、その本は1983年刊だったので、これは記憶違いですね。英保氏にいただいたのはホント)。
 大森コラムにも紹介されているとおり、あの当時大学祭で、人が集まりすぎて2階の床が抜けるからと、大学側から木造の校舎からコンクリ床校舎に会場変更されたプロレスショーのことは今でも覚えている。当方は裏方だったけれど、とにかく怪我人が出ないかと3年間ハラハラさせられた。プロレス技の練習と称し御所の芝生で当方と同期の西尾氏と三嶋氏が組み合って、ボールのようにコロコロと芝生の上を転がっていた光景がまるで魔法のようだったのを思い出す。
 当時のプロレスショーのサイレント映像フィルムはその後データ化されてたようなので、たぶん今も元SF研の誰かの手元にはあるはず。

 今月もノンフィクションから。

 こんな本を書いていたのかと驚いたのが、高野秀行『イラク水滸伝』。ソマリランドで冒険した本でも現地の部族どうしの緊張を日本の武将の争いに例えていたけれど、今回は「水滸伝」ときた。当方は書籍はもちろん子ども向けでも漫画でさえも「水滸伝」を読んだことがなく、「ジャーシム宋江」と云われてもピンと来ないんだが、作者のサービス精神はよく分かるので、「水滸伝」がなんとなく分かったような気分になる。
 高野秀行のエンターテインメント文章力は恐ろしく高いので、これまでチグリス・ユーフラテス両川がペルシャ湾に注ぐ手前で宏大な湿地をつくっていて、海に注ぐ前に1本の川となっているなんてことに大した興味も持ってこなかったボンクラ読者に、この地域の歴史的偉大さと現状の危機的状況の両方を一気に読ませてしまう。そして謎の(ペルシャじゃなくてイラク)絨毯の由来を解き明かしてしまう後半の1章では、著者の好奇心の行方を自慢話として披露する。
 例によって驚きの連続である(このハリセン具合がいい)1冊だけれど、個人的にシンクロニシティ過ぎて驚いたのが、著者がこの地域と『旧約聖書』のエピソードの繋がり(バビロン捕囚など)に何度も言及していることだった。ここが「エデンの園」のモデルだったという説もあるらしい。
 というのは、2ヶ月くらい前に20箱位ある親父の残した膨大なキリスト教関係本の中からある箱を開けてみたら、講談社の函入り『キリスト教史』(現在は改訂版が平凡社ライブラリ11巻本になっている)が入っていて、その隙間から薄い岩波文庫版関根正雄訳の分冊『旧約聖書』シリーズが出て来た。よく見ると『出エジプト記』と『ヨブ記』その他預言者のものが数冊という端本状態だったけれど、これくらいなら読めるかもと読んでみることにしたのだった。今回この話は書かないけれど、『イザヤ書』の詳細な訳注と解説(含関連地域図)を読んでいると、『イラク水滸伝』の舞台が「バビロン捕囚」前後のヤハウェ教団の運命を語る「預言書」の舞台と重なっていることがよく分かる。
 最近のニュースでは、この地域の湿地は遂に干上がってしまって、元に戻らないのではないかと懸念されているようだ。著者もあとがきでその心配をしながら、ムリヤリこの地域に行っておいて良かったと述懐していた。しかし今回は「隊長」の持ち上げぶりがスゴイ。

 ある日Amazonでジャック・ヴァンスの『終末期の赤い地球』を検索してみたら、オススメの本の所へなぜか、Jack Vance“This Is Me, Jack Vance ! (Or More Properly, This Is I)”があって、お値段が1700円を切る安さ。何ソレと思いポチってみた。3日後に届いたモノを見てビックリ。裏表紙見返しの最終ページに「Printed in Japan 落丁乱丁本のお問い合わせはAmazon.co.jpカスタマーサービスへ」と印刷されているではないか。これは岡本俊弥さんがAmazonで出した短編集と同じ造りのオンデマンド出版によるトレードサイズペイパーバックだったのだ。
 内表紙裏の奥付(?)を見るとSpatterlight PRESSとあるのでググったら、ヴァンスの息子がヴァンス財団みたいなものを立ち上げて、e-Books形式でヴァンスの作品を世に残そうとしているらしいことがわかった。
 本文180ページ、写真多数の薄めのペーパーバックだし、読んでみるかと思い読み始めた。
 巻頭にR・ルポフの「ヴァンス100歳」という2016年に書かれたエッセイが載っていた。おお、ルポフってまだ元気だったんだ。
 ルポフは1953年の夏、大学2年生に上がる前、ニューヨークのフードコートでアルバイトをしていて、深夜担当を終えてその日読むSFのペイパーバックを買った。ありふれたスペースオペラのケバケバしい表紙、タイトルは“The Space Pirate”作者はJack Vance・・・と云うところから始めて、ヴァンス本人との関わりへと話が進む。
 後半、晩年盲目となったパーティ嫌いのヴァンスを、経営者に頼まれ、やっとこさでエンペラー=ノートン文学賞の授賞式に連れ出した思い出を書いた後、息子のジョンからこの本への序文を頼まれて、きっと、ヴァンスの自作へ言及や作家仲間や編集者とのやりとりなどで埋まっているんだろうと思い読み始めると、ヴァンスはその手のことを一切書いてなかった。そこにあったのはヴァンスの人生経験と妻ノーマ息子ジョンへの思い、世界中を旅した思い出などだった・・・。
 というわけで、1916(大正5)年生まれと云うから、親父より1歳年上のヴァンスの自伝は、子ども時代から盲目となった今までを、作家として初めて口述筆記で語り尽くした1冊。ルポフが云うように、作家としてのキャリアについてはほとんど言及がない(子供時代から文章を書くことはやっていたとは云っている)。
 目立つものとして『終末期の赤い地球』がSF短編集としてのデビュー作であり、処女長編は自分が決めたタイトルを出版社が変えたとか、あの「最後の城」はエージェントが2重売りしてしまい、F・ポールが編集する「ギャラクシー」誌のために大急ぎで仕上げた作品だったということくらい。SF作家仲間との交流にしても、新聞記者時代のフランク・ハーバートと知り合った経緯とか、ポール・アンダースンとはボートハウスを作って遊ぶ位仲が良かったという話が出てくる程度。それを除けば、ここにあるのは妻や子どもを連れて世界を旅してまわる風変わりな男の体験記(思い出話)であって、SF/ミステリ作家としてのヴァンスは蚊帳の外に置かれている。
 終章Final Wordで、ヴァンスは、この自伝では最初から自分の商売の話ばかりするようなことはすまいと思っていたのでこうなったと云い、しかし周囲の者からそれはいくらなんでも作家の自伝としてはいかがなものかと云われ、つまらなそうに作家としての自身のあり方を語っていて、「魔王子」シリーズや最後に書いた連作にはかなり愛着があると云っている。
 結局この自伝の内容は、『SFマガジン』2013年12月号の「ジャック・ヴァンス追悼特集」に掲載された、酒井昭伸氏と牧眞司氏による「年譜」でその概要が尽くされている。
 この自伝を原書で読む意味は、そのディテールとヴァンスの語り口を楽しめるという点に尽きる。
 ※ルポフは2020年に亡くなっていると山岸真さんからご指摘がありました。(大野万紀)

 前フリのCDの話と繋げるはずだったけれど、ちょっと目論見が外れてしまったのが、岡田暁生・片山杜秀『ごまかさないクラシック音楽』新潮選書5月刊。
 片山杜秀は今年2月に文庫化された『片山杜秀のクラシック大音楽家15講』という、語りおろしというかインタビュー形式で、クラシックの代表的な作曲家6人(バッハからマーラー)と指揮者5人(トスカニーニからC・クライバー)や演奏家(カラス、リヒター、グールド+吉田秀和)を評論する1冊を読んでいたけれど、感想は書かずじまいになっていた。
 今回は、巻末に「本書は語りおろし〔中略〕です」とわざわざことわってある対談形式で、バッハ以前から電子音のシュトックハウゼンやアヴァンギャルドのケージそしてライヒ、ライリーらのミニマル系に叙情派のシュニトケやペルトまでを、序章と本編4章で語り尽くしたもの。
 目論見が外れたのでスルーしても良かったけれど、幼くしてゴジラ映画で伊福部昭の音楽に心をわしづかみにされた片山杜秀は、岡田暁生とともにバッハを論じるところで、タルコフスキー版「ソラリス」やクラーク『幼年期の終わり』で何故バッハが流れているのかに言及しているし、片山が担当した「(書き下ろし)あとがき」でも、海野十三「十八時の音楽浴」のあらすじを詳しく紹介して、ディストピアとしての現代においてクラシック音楽はすでに滅んでいると、穿った見方を披露している。でも聴くんだけどね。
 片山杜秀の音楽評論家としての代表作は、やはり以前取り上げた『鬼子の唄』なんだろうな。

 では、フィクションへ。今回も8月刊の読みたい新作SFがあまりなかったので、読んだものを発刊の古い順に並べた。今回は長編ばかりなのでトントンと行くぞ。

 笹本祐一『星の航海者Ⅰ 遠い旅人』は3月刊の創元SF文庫。
 当方はヤングアダルト系のSFをまったく読んでこなかったので、この作者の作品を読むのは初めてだったが、このスローペースにはさすがにビックリさせられた。
 話の方は、通常航法で恒星間移動をする時代に、ある惑星の「惑星記録員」のミランダが伝説の「恒星記録員」のメイアをを迎える担当になり、ミランダはメイアの経歴を知るため、メイアが冷凍睡眠で恒星間を旅するようになる前、彼女自身がジャーナリストとして当時の恒星間移動法を可能にするそれぞれの技術の専門家に対して行ったインタビューを読んでいく・・・、ってそのインタビューだけでこの巻は終わっているのだ。すなわち読者はミランダがメイアに会うための下調べの読み物に付き合っているだけというシロモノ。
 では退屈かというとそんなことはなく、外枠の物語の進行がゼロでも、SF読みとしての期待はちゃんと満足させられるようなインタビュー構成がなされているので、読み心地は悪くない。もうすぐ第2巻が出ると云うことなので読んでみよう。トントンと行くぞ。

 日本ファンタジーノベル大賞2023大賞受賞作という武石勝義『神獣夢望伝』は6月の刊。
 大枠設定は、この世は神獣が夢見ているから存在してのだとされている中華世界風な風俗を持った世界。この世界では三つの国があり、神獣を祀る国がその第1位を占めている。しかし、その1位の国に攻め入ろうとする国もあり、世界は不安定な季節を迎えようとしていた・・・。
 物語の前半は、この第1位の国の辺境にある集落での主要な人物たちのそれぞれの物語が明るい調子で語られるが、彼らがこの国の中枢にある権力者と関わるようになって、大きな戦争のドラマに巻きこまれていく後半は暗い調子へと反転し、物語は陰画のまま閉じられる。
 リーダビリティは充分で、選考委員たちもキャラ立ちの良さを褒めているけれど、話としてはいかにも今の現実の世界の暗さを反映していて、あんまり嬉しくは無い。まあ、中華風という点では第1回以来のファンタジーノベル大賞作の伝統を引き継いでいると云える。トントンと行くぞ。

 同じく6月刊で、読むのが遅くなったのが、小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ3』。地元の本屋で売り切れたせいか、新刊棚で見たことが無く、Amazonへ発注。
 スゴいポップなノリで百合系スペースオペラを進行させてきたけれど、前巻で母星FBBを脱出したヒロインのカップルは今回、辺境宇宙を駆け巡りながら、実は追い込まれていることに気づくまでの道行き、と思ったら最後にエー、そっちなのーッ、と驚天動地の結末が用意されていて、物語が見事に終ってしまっていた。さすがに第1巻からこの結末は見通せないよねえ。なお、ヒロイン・カップルのベッドシーンがあるけれど、小川一水印なのでエロくない。

 高山羽根子『ドライブイン・真夜中』は、出ていることを知らなかったのでAmazonで取り寄せ、現物を見てこれまたオンデマンド出版本であることを知った次第。
 こちらはU-NEXTオリジナル書籍として電子書籍が5月に発行7月に紙書籍化されたと奥付向かいページに説明があった。Amazonのプライム会員だけれど、提供される映像・音楽作品を1度も視聴したことの無い当方にはU-NEXTが何なのか分かりません。
 書籍そのものはわずか140ページの小型新書版で、昔(1960年代)でいえば月刊雑誌の附録を思わせる。
 作品の方は高山羽根子らしい中編で、表題のドライブインに勤める従業員は所謂移民で、語り手もその一人。作中で「この国」の移民政策が説明されているけれど、それは移民をヒョウゲンシャとセイカツシャに分かつ。ということで、普通に読めばそのような情況を撃って見せているような作品なんだけれど、高山羽根子なのでサタイアよりも別の何かがのっそりと居座っているような感じがある。そういえば犬を拾う話でもあるな。トントンと行くぞ。

 高野史緖『グラーフ・ツェッペリン あの夏の飛行船』は、以前大森アンソロジーにも収録された中編の長編版。
 今回読んでみると、ボーイ・ミーツ・ガールものとしては、やはり新海誠『君の名は』とダブるところがあるけれど、さすがに高野史緖はSFとして物語を収束させることで、自らの欲望(ヒロイニズム?)をオトナの視点で果たしている。
 そういえば当方が小学生低学年の頃(60年前ですね)、東京の田舎(失礼!)昭島市の小中高がひとつの長方形区画に収められた(子供視点からは)宏大な校庭の彼方から、校舎より巨大な胴体だけの銀色のロケットが斜めに空へ向かって動いていく光景を視た記憶がある。トントンと行くぞ。

 春暮康一『オーラリメイカー〔完全版〕』は、デビュー作である短い長編の表題作を改稿したものに、単行本にも収録されていた短篇「虹色の蛇」と、文庫化にあたり書き下ろしの短篇「滅亡に至る病」を収録した1冊。
 これまでの春暮作品は、天の川銀河の既知宇宙には知的生命体が集う《連合アライアンス》と人工知能文明《知能流ストリーム》があり、未加入の新知性体を引き入れるために未知の太陽系を調査する《連合》側のエピソードという形になっているらしい。
 ハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作としての「オーラリメイカー」は、初読時にかなりわかりにくさを感じていたように思う。改稿された本作も前半は、各章冒頭の時間表示の煩わしさも手伝って相変わらずわかりにくさを感じたが、後半では謎の種族「オーラリメイカー」に対する銀河種族たちの視点が定まり、それに対する語り手の思いが明らかな形で示されるようになると、途端に分かりやすい作品に化ける。
 「虹色の蛇」は初読時も好感を持ったが、今回の改稿版は2重3重の喪失感が強調されているように思った。
 書き下ろしという「滅亡に至る病」は、「虹色の蛇」の視点人物の異星文明担当外交官時代のエピソード。交渉相手の存在形態が明らかになっていくまでのミステリアスなやりとりとその存在形態に対する主人公側の推理からなる1篇。
 作品集としてはやはり『法治の獣』の方がバランスがいい。トントンと行くぞ。

 ここからが8月の新刊。

 中村融さんの新訳で出たレイ・ブラッドベリ『何かが道をやってくる』は、半世紀前に読んだ時の印象が当然のことにボヤけていたから、こちらはまるでイメージがハイヴィジョン化したような、鮮烈で味の濃い作品として感じられた。
 「一生分の慟哭が、ほかの年のほかの夜のまどろみからこの汽笛のなかに集められている。月を夢見る犬たちの遠吠え、一月のポーチの網戸を吹きぬけて血を凍らせる冷たい川風のうなり、千台の消防車のサイレンのむせび泣き、いや、それどころじゃない! 流れ出た息の断片、死にたくないのに死んでしまった、さもなければ死にかけている十億人の抗議の声、彼らのうめき声とため息が大地にあふれだしたかのようだ!」(72ページ)
 不気味な列車の汽笛の響きの印象を説明するのに、これだけの言葉を動員してしまうのはどうみてもやり過ぎだけれど、これがブラッドベリ調というものだろう。クリシェと独自表現をこれだけ積み重ねると、まともな文学者は否定的な意見を云いそうだけれど。とはいえ、これは文章のみに可能な業で、実際に「汽笛」をそんな音として作ることは出来ないだろう(文章を順番に映像化して音の雰囲気を説明することは可能だろうが、それだけでかなりの時間を費やすだろうな)。
 「この第二の男は、街灯柱と同じくらい背が高かった。月のようにあばただらけの青白い顔が、下方に立つ三人に光を照り返している。ヴェストは鮮血の色。眉毛、髪の毛、スーツは甘草(リコリス)の黒。そしてスカーフに刺したタイピンから太陽のように黄色い宝石が見つめてくる」(101ページ)
 ウィルたちが夕闇の中、サーカスの野営地に忍び込んで捕まってしまったところへ登場した、敵役ダーク〈全身を彩った男〉の初登場のシーンである。
 こちらはどうみても過剰な光と色彩の乱舞だけれど、読んでいるときには闇の立ちこめるブラッドベリの世界で見事な効果を発揮する。
 60年前はこれは確かにファンタジーだったし、50年あまり前にこれを読んだ中学生はSFだと思っていた。しかし、現代日本で『神獣夢望伝』のような作品が「ファンタジー」の典型であれば、ブラッドベリは幻想小説を書いていたのだと云わざるを得ない。この半世紀で日本でも幻想小説は「ファンタジー」とは別のものになった。もっとも山尾悠子に云わせれば、50年前も幻想小説に居場所はなかったと云うことになるが。トントンと行くぞ。

 当方の読書リストから外されていたが、とりあえずSFプロパーな新刊翻訳物がないので、ジョン・スコルジー『怪獣保護協会』に手を出してしまった。
 フードデリバリー会社で、事務職から配達員への格下げを経営者から宣告されて、プライドを優先した主人公が次ぎにありついた仕事とは「持ち上げる」ことだった・・・。
 前半はスコルジーらしいノリの良さで楽しく読めるが、怪獣ワールド研究所に出資者のお偉方としてフードデリバリーの経営者がやって来たときは、ああ、そっちかよとガックリきて、大分期待値が下がり、クライマックスに近づくほど気分が下がった。
 まあ、作者が軽いエンターテインメントだと云っているのに憤慨する方が悪いのだが、やっぱりコイツは読書リストから追い出しとこう。トントンと行くぞ。

 今回読んだ最新刊は、宮内悠介『ラウリ・クースクを探して』、8月30日の奥付。もとは『小説トリッパー』誌に一挙掲載された長中編で、単行本も正味220ページ余り。
 なんとなく縁遠い感じになっていた宮内作品。今回もSFとして読むにはやや難があるけれど、黎明期のコンピュータ・プログラミングを扱っているので、雰囲気的にはSFっぽい。なお、内扉裏に今回の物語の舞台であるエストニアとその周辺国の地図が付いている。
 話の方は、「わたし」が「ラウリ・クースク」の少年時代からの生い立ちを(通訳を通じて)取材しては、まるで本人に成り代わったようなラウル視点の書き方で話を進めていく。ときおり「わたし」による関係者へのインタビューのことや取材の進み具合が報告されるが、この「わたし」のナゾは物語の後半に、当然といえば当然の理由で明かされる。
 1977年、まだソ連支配下にあったエストニアの地方生まれの少年ラウリが、周囲から孤立しながら初期のコンピュータに出会って、ロシアから来た天才的なプログラムを披露する少年と仲良くなり、そこへゲームに興味を示した女子が参加して、ここに幼い青春トリオの夢を語る輝かしい夜が成就したが、ソ連の崩壊とエストニア独立運動はあっという間に少年たちの美しいトライアングルを引き裂いてしまうのだった・・・。
 骨組みだけならよくある話だけれど、作者はいつものように綿密な資料読みを行ってリアリティのある話を紡ぐ。そういう意味では手法的には既に成熟したとも云える物語づくりである。少々「あざとい」という感じもあるけれど、しかしそれはこの作者が最初から持っている資質なので、今更云うことでもない。

 と、以上今回の単行本は短編集が1冊もないという近来珍しい回になった。なお「トントンと行く(ぞ)」は50年前の音楽誌でクニ河内がロックのレコード評欄で使っていたフレーズ。当方にとっては「いわくテンソル」みたいなもの。

 最後は雑誌『紙魚の手帳 GENESIS Vol.12』夏のSF特集号。この雑誌を買ったのは初めて。今号はこれまで単行本で出ていたオリジナルアンソロジー『GENESIS』の雑誌形式以降版らしい。
 第14回創元SF短編賞受賞作、阿部登龍「竜と沈黙する銀河」は、過不足のない物語づくりという点でオーソドックスなSFファンタジー。いろいろな過去作を思い起こさせる設定とストーリーづくりだけれど、作品世界のリアリティを維持できているのは新人作家として評価されるところだろう。作家名にまで龍が入っている。タイトル中の「沈黙する銀河」はややオーバーシュートな感じがする。
 円城塔「ローラのオリジナル」は画像生成AIのもたらす騒動をあつかった1作。なんだかだんだん昔の関西SF漫才トリオの雰囲気を纏うようになったかも。
 笹原千波「手のなかに花なんて」は、死後VR界に移った祖母をおばあちゃん子だった孫娘が祖母との会話に疑問を抱きつつ、未成年者には禁止さているVR界の他の住人と会う話。デビュー作に続いてよくできている。やはり真面目すぎる感じはあるけれど。
 柞刈湯葉「記憶人シィーの最後の記憶」は、人類滅亡後の世界をしゃべる黒猫と旅してまわる主人公のエピソード。柞刈湯葉の作家としての腕前が上がっていることが判る1作といえるけれど、端正になりすぎてちょっと不気味。
 宮西建礼「冬にあらがう」は、十八番の理系高校生クラブもの。今回のテーマは巨大火山噴火による全地球的災害で、スマホには聞けば何でも答えてくれるAIが常駐している時代(って、今か)。高校生たちの議論と火山の爆発が同時進行するので、結末は希望を表明するけれどやや不安。
 高山羽根子「この場所の名前を」はゲームSF。ゲーム仲間たちがVR世界に集まったその場所の名前を推理する・・・ってホントにそんな話か。
 宮澤伊織「ときときチャンネル#6 【登録者数完全破壊してみた】」は、放映中にリアルタイムで「登録者数」500を目指して、チャンネル主宰者が相方のキテレツ発明品を紹介しているうちに・・・といういつものパターンだけど面白い。
 アイ・ジアン「英語をください」は、話し言葉の単語が売買される世界で、貧困のため次々言葉を売ってしまう女性の話。発想は筒井康隆的だけれど、書き方はサタイアと云うよりは叙情的な1作。
 小田雅久仁「扉人」は、短編集『禍』収録作と共通する構造を持った1篇。当方もさすがに慣れてきたので、ドラえもん的とも云えるありふれたSF的設定を物語的にあさっての方向で解決してみせるいまの小田雅久仁は、ある意味好調なのかも知れない。
 青崎有吾「くらりvsメカくらり」は実在の出版社(最初は竹書房)を破壊してまわる「メカくらり」を「くらり」が阻止する楽屋オチな1篇。
 単行本時代の『GENESIS』のままかというと、印象はちょっと違う。まあ、湿気ですぐに表紙がベロベロになっちゃうし。


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