みだれめも 第241回

水鏡子


○近況(5月)

 5月の大阪行きは2回。うち1回は大阪古書会館で月1回開かれる恒例の小さな古本市。高くはないけど安くもないのでいつもあんまり買えない。
 今回も、「牧神」全巻揃い1万円とか、「SFの本」「幻想と怪奇」1冊500円とか、SF、ファンタジー系がまずまずの値段で充実していて、それなりに悩む。300円までだったらダブり買いしてもいいんだけどね。G・サートン『古代中世科学文化史①~⑤』が1,000円であったので、これに合わせて配送用に硬めの本を段ボールひと箱分、いろいろ拾う。グリン・ウィッカム『中世演劇史の社会史』、草薙聡志『アメリカで日本のアニメはどう見られてきたか』、ジャクリーヌ‣ベルント『マンガの国ニッポン』、日本イギリス児童文学会編『英語圏諸国の児童文学①』、T・モリスン他編『世界比較文化事典』、中野美代子『ゼノンの時計』、小山宙丸『比較宗教哲学への道程』、外国民話研究会他編『世界の愚か村話』、現代日本キリスト教文学全集『⑱キリスト教と文学』、加島祥造『アメリカンユーモアの話』、日本聖書協会『アートバイブル』など。最後の『アートバイブル』は聖書の名シーンの画集本である。
 今月はクーポン7,000円分使用して、購入額29,000円の192冊。うち新刊本分が9,000円ほどあるけれど、『三体 Ⅲ』を始めそのほとんどに大森望の名前が出てくる。「フリースタイル21年春号」は鏡明、大森望のなろうについての鼎談で、やたらとぼくが引き合いに出され、セレクトがふつうでつまらないと言われている。
 なろう本70冊、コミック23冊、買い直しを含めたダブり本22冊。気にしつつ留保していた赤江曝の単行本を11冊のまとめ買い。

〇老言妄語 昔語り今語り 1  内容の重複に寛容となるまで。

 不完全リストの合間で、書庫と本をめぐる体験談を書き記す。実際、作ってみて初めて気づく書庫の功罪などがある。

水は方円の器に従い、書庫はその容量で様態を変ずる。
書庫は最低10年先を見据えて構想すべし。構想の10年は現実の3年である。
読むことを断念すると本は増える。
読まないために、書庫は作るものである。
本は揃えて並べて意味を生じる。段ボールに詰めた本はただの煉瓦である。
書庫を作るにあたっては、書庫空間の通路部分が空間の何割を占めるかを考慮すべし。
書庫は作品リストの上位互換である。
本を動かして遊ぶには、2割程度の棚の余剰が必要である。
5000円の本を1冊買う金があれば、100円200円の本が30冊買える。
買った本の値段が上がることはない。2,000円で買った本も20年後は100円である。100円は買値であって、売値は10円20円である。
今100円200円で買える本は10年後でも100円200円だが、入手は極めて困難になる。

 最初はこうした項目を順に章立てしていこうと思ったが、似たような話がぐるぐる回りそうなので、これとはちがうテーマで書いてみることにした。たぶんそのはしばしに上記の文節が繰り返し紛れ込みそうに思えるから。
 そんなわけで、まずは「内容の重複に寛容となるまで」について。

 「乏しい小遣いの中から、吟味に吟味を重ねて月に一冊買うのがやっとだった中学高校時代、SFMはとても購読対象になりえなかった。悩んでいるうち次の号が出て書店の棚から消えていく。長編連載をちゃんと読むには最低でも4冊セットで買う必要があったし、短編集に収録されるのが明らかである作品などは二重に毟られる気がしていた。古本屋を回ってバックナンバーを買い揃えるようになったあとも、ハインラインやシェクリイなどの有名作家や日本作家が載っていない号を可能な限り選んでいた。」(SFM創刊60周年記念号寄稿エッセイから)

 買った本が重複するのが気にならなくなったのは、いつごろからだろう。
 SFマガジン記念号でも触れたように、若いころは真逆の購入方針だった。買った本の内容がダブることに極端に神経質になっていた。
 一冊でいくつもの話が楽しめる、お買い得であるはずの短編集が買えなかったのは、買うと先行掲載されたSFマガジンのバックナンバーが買いづらくなったから。短編集の発売に先立って組まれた有名作家の特集号など、バックナンバーを揃えることと短編集を購入するののどちらを選ぶか、真剣に悩んだ。両方ともを買うなんてあり得なかった。値段と重ね合わせてどの号を買うべきか検討を繰り返すことで読んだ号より買わなかった号の目次の方がいっそう頭に刻み込まれた時代だった。古雑誌コーナーでSFマガジンでないSF雑誌を150円でみつけて、目次を見たら、ネビルの「ヘンダースン爺さん」とかハインラインの「地球の緑の丘」とか持ってるものとダブっていたためスルーしたのが、日本最初のSF雑誌「星雲」だったのを何年も後になって知って驚愕したことも懐かしい思い出である。

 今でも鮮明に覚えているが、買うことに一番苦しんだ号は67年3月号である。このころはまだ早川SFシリーズを二十冊程度しか持ってなくて、購入の主体は創元推理文庫だった。そこにブリッシュ『悪魔の星』の第一部である「良心の問題」と『スカイラーク・デュケーン』4回分載第一回。これだけで本誌200ページ中80ページを超えており、さらにアシモフ、クラーク、ブラッドベリの短編が並ぶ陣容に、どうすんだよとずいぶん悩んだ。
 『銀河帝国の崩壊』の3倍近い値段のする『都市と星』とかは、寄贈で図書館に入ってやっと読めた。なんか間延びした印象で、コンパクトにまとまった『銀河帝国の崩壊』のほうがずっと気に入っていた。
 当時持ち歩いていた創元推理文庫目録は70年3月刊行のもの。柱の上にいくつもの手書きの印がつけてある。小さな★が読みたい最優先の作品で、次点となるのが小さな☆、大きめの〇が図書館その他で読んだ本、大きめの●が持っている本。●のついている本は、当然すべて読んでいた。〇のついた読んだ名作本より、まだ読んでいない本の方が買う本として優先していた。というより、図書館や友人に借りて読んだ本をなぜ買う必要があるのか理解できなかった。9割の作品に印がついているので、たぶん3年くらい持ち歩いていたのだと思う。

 少なくとも学生時代はそんな状態だった。大学でも書籍代は月平均で1,000円くらいであり、社会人になって数年は、3,000円分くらいに本の数が増えた程度で基本姿勢は同じだった。読むべき本の中から選んで買うというステージから、読むべき安い本をたくさん買うというステージに。この先には、読むべき本は高くても買う、読みたい本を買う、読みたい作家の本なら買う、読んでみたい本を買う、読んでもよさそうな本を買う、並べておきたい本を買う、とりあえず安いから買う、とステージはまだまだ続くのである。
 なによりも読むことが大切だった。カバーのとれた裸本が100円でみつかれば、150円の美本よりもうれしかった。中身を読めれば本のイタミなどは関係なかった。だからこそ、内容のかぶった本が許しがたかった。原作者としての漫画をいくつも愛読していたある作家など、その原作をつづけさまに小説として出版したのに怒り狂って、20年近く読むのをやめたほどである。(ブックオフができてからぽつぽつ集めていたりする)
 買った本は読むのが当然と思い込んでいた。今でもそういう人が大半だとは思うのだけど、読むために買うのであれば、記憶に自信のある若いころなら読んだ本は残しておく必要はない。再読する値打ちの本を残して、残りは放出すればいい。本というのは極論すれば読まないために買うものなのだ。

 それに近いことをじつは学生時代に読んだ本に書いてあったということに、最近気づいた。
 当時一世を風靡していた梅棹忠夫『知的生産の技術』である。氏の所属していた京大人文研系今西グループや未来学メンバーに、彼らと親しくしていた小松左京を通じて感化されたSFファンは僕らの世代は数多い。今西錦司、加藤秀俊、梅棹忠夫、川喜田二郎等々の当時の活躍は、その後の収集癖においてうちの本棚が百科全書的になった原因の一助といえる。
 『知的生産の技術』はカードを用いた情報管理の思考法を記した小冊子だが、なかでも刺激的だったのは「カードは忘れるために書く」「記憶するのではなく記録する」という言説だった。
 本を一枚のカードに見立てれば、いわば書き記す必要すら省いた効率的なカードであり、内容を簡潔にまとめた見出しは背表紙になる。小見出しは目次であり、作成日時は奥付けにある。有機的に関連付けて背表紙単位で並べればさまざまなものが見えてくる。完璧じゃん。さらには並び変えるという作業は川喜田二郎の提唱したKJ法にも通じていく。
 と、話は少しずれたけど、少なくとも四〇代くらいまでは、間違えて買って本がダブるというケースはなかったと思う。

 理由は大きく7つ(かな)。

①  持っている本が少なかった。
本に使える資金がなかった。(月5,000円前後、多くて一万円くらい)
読んだ記憶が鮮明だった。
買う本が少なかった。(年間50冊程度、多くて100冊くらい)
本の値段が高かった。(古本でも基本7割、安くて定価の半額くらい)
ブックオフがなかった。
買った本を全部読んでいた。

 それがいまではどうだろう。買う本の、たぶん2割くらいは広い意味でのダブり本。間違って買った本が一番多いが、持っているのにわかっていながら買った本というのもそれなりの量。
 そのあたり、ダブり本に関しては、次回に章を改める。

 内容が重なることに諦めがついたのは、まず最初に触れたハヤカワSFシリーズとSFマガジンとの重複だった。
 これについては、それぞれに、どこかでコンプリートを求める意識が働いて重なることへの忌避感は早い時期になくなった。それでも、いまだにどちらもコンプリートに至らない。古本屋で買うにあたって購入額に上限を設けているからだ。どちらも300円あたり。
 SFマガジンについてはいまでも創刊当初の丸表紙時代のものが10冊弱抜けているし、あと「ハヤカワHi」がすべて欠けてて、背表紙のバックナンバーを眺めるうえで軽い苛立ちがある。SFシリーズはぼくにとっての永らく憧憬の対象であったため、資金と空間にゆとりが生じた今では、100円、もしくは美本で200円で見つけたら、ふらふら買うようになってしまっているせいで、すでに400冊越えの冊数になっているのだが、いまだに30冊ほど抜けている。

 ちなみに、抜けている本を区分けすると、

①  古書価が高いクラシック:『金属モンスター』『読心機』など。
大した内容でもないのに資料的価値のせいで値段が高いノベライゼーション:『インベーダー』『タイムトンネル』など。
③  創元推理文庫との重複本:『観察者の鏡』『レンズマン』など。
④  学生時代、SFの伝道者気分で人に貸してそのままになったもの:『闇の左手』『華氏451度』など。ああ、そういえば『日本沈没』も貸したまま帰ってこなかった本である。古本屋で見かけても初刷りはさすがに100円ではない。
⑤  すでに他の版を持っていたもの『地衣騒動』『ラルフ+124c41』など。

 同じ理由で、創元だと『地球幼年期の終わり』『わたしはロボット』などをいまだ持っていない。
 こんなもの、まとめて一万円も出せば、簡単に揃えることができる。それを原則200円、上限300円などと制限するところ、本質的にコレクターの気質でないということである。

 叢書にしろ、雑誌にしろ、コンプリートを目指すという行為は、結果的に買った本を読まないことへの第一歩である。
 巻頭に記したように、乏しい資金をやりくりして買うべき本、買うべき号を選んでいたのは、どれがとりわけ読みたい本かを選び出す作業だった。だからこそ、持っていない号の目次を暗記するまで覚えこんだのである。さらにはSFマガジンの読者アンケート欄であった「人気カウンター」の順位まで調べ尽したものだった。理由は既に読んでいる作品が上位にきている号について、買うのを後回しにするためであり、上位にあがった見知らぬ作品見知らぬ作家に思いを馳せるためだった。
 コンプリートを目指すというのは、馳せた思いをないがしろにする、作品を読むことよりも雑誌を並べることに重きを置く行為なのである。そこから読むことこそ本を買う一義的価値であるところから逸脱をしていく。
 SFマガジンとハヤカワSFシリーズについては先にも述べた。問題は「世界SF全集」だった。当然ながら、SFシリーズとの重複は大量にある。しかも意外と図書館で読むことができる。読むために買う必要はほとんどない。また、海外SF中心の読書傾向であったので、日本作家の作品は、角川文庫の大攻勢までほとんど入手していなかったため、日本SFシリーズはほとんど所持していなかった。読むだけだったら、それで別にかまわなかった。
 ただ、憧憬の対象ではあるので、いつか資金と空間が確保出来たら揃えたいという気持ちは育まれていった。

 四〇代、一九九〇年代に古本業界に激変が生じる。ブックオフをはじめとした新古書店の出現である。
 100円で本が買える。これは画期的な事件であった。七〇年代に近所にできた古本屋さんのお兄さんと仲良くなって、それまで定価の7割が当たり前だった古本の値段を一律半額にして、「これからの時代、ここまで下げて客を呼ばなければ」と意気込みを語られて感激したものだけど、100円となると、特に単行本類については逆に(当時は)許せなかった。この本にこの値付けなんて信じられない!という義憤もあって読む読まないに関係なく本を買うようになった。
 それまでの年間購入額は5万円くらいでしかなかったし、買う本は必ず読んでいたはずだ。このあたりから、読む予定がないのに買う本が増えた。値段が高いからと文庫本になるまで我慢していたものが、単行本が100円であったら文庫本を持ってても買いたくなるのもしかたがなかろう。
 新古書店の伸長は、古本屋の値付けにも顕著な影響を与えた。値崩れが激しくなり古本祭り等においてはブックオフでは見かけない本が、100円、200円、300円でごろごろ並ぶようになる。中古市場の活況は、やがて電子化の波とも重なり、出版不況と新刊書籍価の高騰の悪循環へとつながっていく。今では文庫本で1,500円の値段のものも珍しくなくなりますます古書価との乖離が激しくなった。今では年間ベストのアンケート用と既読のシリーズものの新作以外ほとんど新刊を買うことがなくなった。
 それでも九〇年代、〇年代は、年間購入額は10万円くらいで済んでいたと思う。この規模である限り、少なくとも間違って買って帰るということは、あっても例外的なことだった。読まない本を買う状態には既に突入してはいた。

 グレイドが上がったのは、一〇年代以降のこの一〇年余り。余裕を持って作った書庫の余裕空間を埋めたくなってしまったこと、親が亡くなり一人暮らしでブレーキ役がなくなったこと、退職して古書店巡りの時間が余暇の主体になったこと。こうしたことが合わさって、一気に本が増加して、持っている本の把握ができなくなって、間違えてダブる本を買うことが常態化した。
 ひとつだけ面白いのは、大量の本をプラスチック・ケースに詰めていた時には、本当に持ってる本がわからなくて古書店でのセーブが効いたのに、一応背表紙全部棚に並べて見ることができ、中途半端に掌握できるようになり、却ってダブり本の量が増えたこと。年齢による記憶力の減退の面もあるけど、それよりも、買った本の記憶がめったやたらすぎ、短期作業記憶に留まるようになった為ではないかと思う。

みだれめも(242)へ続く


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