みだれめも 第242回

水鏡子


○近況(6月)

 引き籠り継続のなかで覚えたぷち贅沢は、お茶の2ℓペットボトルの買い込み癖。これまできちんと湯を沸かし、お茶パックを入れていたのに。人間、こうやって怠惰になっていくのだなあ。ウォード・ムーア「ロトの娘」の石鹸のエピソードなどを思い出す。
 ほぼ半世紀続けていた日曜ごとの大阪行きが断続的になってみて習慣性が途切れると、往復3時間の移動距離は意外としんどく感じる。今までは惰性で気にならなかったのに。
 6月は、ついに遠出が一度だけになった。他には株主総会に絡めて近場の姫路と明石に一度づつ。
 6月19日(土)に先月同様大阪古書会館に、一泊して京都の平安神宮で催された初の古本祭りに行く。古本市は、たいていブックオフとかで買った本も一緒に送ってもらえるのだが、さすがに数冊買うだけだと受けてもらえないと思うので、むりやりあわせて段ボールひと箱分をひろい集める。京都の古本祭りは300円が最低ラインだったので少し出血気味。
 駿河屋の三冊百円コーナーでバンタムブックス版『氷と炎の歌』箱入5冊セットをみつける。絶対読まないけれどこれで165円というのはなあ。数合わせに既に持っている道満清明3冊が帯がついていたので合わせて買う。330円也。
 そんな6月の購入は、210冊、32,000円。クーポン使用1,000円。なろう系73冊、漫画25冊、ダブり及び買い直し15冊。硬めの本が多かったので結果的にダブり本が減った。

 今回入手したいちばんの変わり種は、「総評新聞縮刷版①②③⑤⑥」一冊各200円である。総評発足から75年まで四半世紀の機関誌の縮刷版である。初期のものは印刷の悪さもあって見出し以外ちゃんと読めない。マルセル・シュネーデル『フランス幻想文学史』とマリーナ・ウォーナー『野獣から美女へ おとぎ話と語り手の文化史』をそれぞれ1,500円で。同じ人の放出本らしく、どちらもかなり読み込んだ印象がある。つまり少し傷みがある。
 西村寿行の新書版は、基本買わないことにしているのだが『牙城を撃て』にはめずらしく著者あとがきがついている。さらには加筆しているとの言がある。この本の二か月後に角川文庫版が出ていて、こちらにはあとがきがない。もしかしたら加筆もないかもしれないと購入する。あとがきのためなら下巻だけでいいのだけれど、書架の並びが中途半端であるので一応上巻も買った。
 その他のひろい物。中田耕二『異端作家のアラベスク』、加太こうじ『街の芸術論』、現代哲学の冒険『⑧ 物語』、ロタール・ケーン『文学と二〇年代』、j・ガッテニョ『ルイス・キャロル』、日外アソシエーツ『翻訳小説全情報01ー03』など。

〇老言妄語 昔語り今語り 2  ダブり本の分類

 家にあるダブり本について種別分けをしてみる。

  1. 買い直し
  2. 異本
  3. 義憤と憧憬本
  4. 余剰本
  5. 間違い本

 分けるとこんなところだろうか。

 1.の買い直しについては、その名の通り、傷んだ本の買い直しである。
 中高校生のころというのは、買った本をものによっては数十回読み返し、さらには布教がてらに周囲に貸したりしていたせいでボロボロになった。
 読めればそれで良かった時代、安く買った古本は、買った時から傷んでいたり、中には途中のページが汚損していて読んでる途中でショックを受けたものもあった。さらにこのころの文庫本は紙質が悪く、夏の直射日光や梅雨の湿気で劣化の度合いが激しかった。
 最初の買い直しはたぶんシマックの『都市』だったと思う。ある時期までの一番好きだった本で、持ち歩き読みかえし、表紙がはがれ気味になった。そのまま書架に並べておけばいいものを、知識の乏しい学生は、セロテープで丁寧に修理した。セロテープが劣化すると悲惨なことになるのも知らずに。
 はじめに書いたように古本屋でボロボロで買った本もある。とにかく読めたらそれでいいと喜んでいた時代である。表紙が千切れて内容のわからないものが探していた本の1冊であると知って大喜びしていた。菓子や果汁で汚損した本には嫌な気分になったけれど、はなからわかる破損本には抵抗がなかった。もっとも中には数ページ途中が破れていて愕然としたものもあったけど。表紙カバーなんてものにはまったく価値を認めてなかった。
 こうした本は印象が強くて、ダブることに抵抗感がなくなった割と早い時期に古書店で100円200円で見つけたら買い直すようになった。
 ところが傷んでいた印象だけが強くて、買い直した記憶が抜けていたりで結果的に意外と何度も買い直したりしている。
 人に貸したまま、つきあいが途切れて返ってこなくなった本の買い直しというのもある。元がないのだからダブり本とは言えないか。『闇の左手』とか『中継ステーション』とか『日本沈没』とか、布教的な貸し出しだったので、けっこう有名どころが消えている。『日本沈没』なんかあとから思えば貴重な初刷りであったのだが。さすがに初刷りの『日本沈没』はなかなか100円ではみつからない。
 それでも、そういったかたちでの買い直しは、合わせてせいぜい数十冊、多くても百冊に届かない。
 現在の買い直しの中心は、以前にも書いたことがあるとおり、書庫管理の失敗に起因する。
 初めて作った移動書庫。
 業者は空調機を設置して、常時稼働を推奨してくれていたのだけれど、梅雨どきくらいに使えばいいやと電気代をケチって運転を停止していた。
 これが大失敗。移動書庫のレール部分はコンクリートの橋桁をしっかり地面に刺していて、ここからコンクリートが地中の水分を吸い上げ、密閉した六畳空間を湿気まみれにしてしまった。単行本の被害はそれほどでもなかったが、文庫本は湿気を吸って、表紙カバーがごわごわになり、本体まで染みこんだり、ひどいものは背表紙が色落ちして読めなくなり、さらにはかびが蔓延した。とりわけ、創元推理文庫の表紙カバーに被害が大きく、そこから同時に並べてあった他社のものまで広がって、ハリスン、ホーガンなどのHの棚、ヴァンス、ヴァンヴォークトなどのVの棚、ゼラズニイのZの棚などが特にひどい状態で、その他も含めて500冊くらい、買い直しを決断せざるを得なくなった。
 問題がいくつか生じた。
 ひとつは、あまりに量が多いので、創元の古い本とか、何人かの作家名とか大まかな指標しか頭の中にないものだから、同じ本を何冊も買い直している。何を買い戻したのか覚えきれないのである。
 買い直しにあたっては、同じ本を買い直すのであるから、創元SF文庫ではなく創元推理文庫でなければいけない。色付きではなく白いバックの背表紙でなければいけない。新装版を買うかどうかはまた別の話であるが。
 ひとつに、傷めた本の大半は、出たとき新刊で買った初刷りである。自分の読書体験と強く結びついてるものを、買い直したからといって廃棄していいのか。かといって残しておくと、それらを感染源にカビが広がる危険もある。
 また、買い直した本はブックオフの100円本であるわけで、当然ながら帯がない。カビ菌のついた帯をもとの本からとりはずし、買った本につけるのだけどそれはカビの再発につながるのではないか。
 そんなこんなのジレンマは今も解決できないいる。とりあえず傷んだ本も処分しないで一か所にまとめたままに置いてある。

 2.の異本。 
 異本とは、ググってみるともともとは「同じ書物ながら普通行われている本文と、文字や語句、組立てなどに(相当の)相違のあるもの。」と説明されているけれど、古本極道たちにかかると本の装丁などで少しでも違いがあればすべて異本であるらしい。むしろわずかな違いが生じたものをたくさん並べて愛でることに至福を得たりするらしい。なかには刷り版をすべて集める豪のものもいるという。膏肓の病である。
 僕はそんなことはない。せいぜいブリッシュ『暗黒大陸の怪異』のSFマークと帆船マークを並べる程度までである。(ここには出版元におけるジャンル区分の見直しという史的決断の証左という資料的価値があるのだ。あるのか?)
 海外SFが読書の主体だったぼくの場合、日本作家に手が届くようになったのは、角川文庫を中心に日本作家の文庫化が一気に進んでからである。むしろ、安くて解説付きの文庫本の方が、単行本より好ましかった。
 だから基本的には文庫化される可能性のある本は、ブックレビューとかで緊急性が求められるものを除いて、文庫になるのを待つのが常態だった。早川の日本SFシリーズさえも『SF入門』くらいしか買ってなかった。今でも3冊くらい抜けている。単行本が古書でも400円くらいしていたことも大きい。
 ブックオフなど新古書店の伸長で、単行本が100円200円で並ぶようになったとき、買うかどうかかなり悩み始めた。しかも各地の古書市も100円均一本コーナーが拡張され、小説類の100円本が目立つようになっている。
 既に読んでるもので、二重に書架を埋めること、しかも単行本は文庫本と比較して、概ね六倍くらいの空間を占拠する、あっという間に本の置き場がなくなる、そんな理由の忌避感が抵抗線であったのだけど、書庫を増設するうちに最後の砦は崩れ落ちた。日本SF及び、風太郎、寿行など一応全作品を集めたいと思う作家に対しては、文庫本と単行本が重なることに抵抗がなくなり、重なる本が増えるに従い、集めることができるなら単行本と文庫本をどちらも揃えておきたいと意識が変わっていったりする。
 西村寿行の単行本を集め始めたのは、寿行リストを作っていると、文庫本の初出説明が原典としての単行本の刊行年月だけのものが多く、雑誌掲載時の記述があるのが単行本だけだったりしたことがきっかけである。もっとも単行本でも出版社によっては雑誌掲載の記述のないものも少なくかった。
 寿行の場合、ほかに徳間書店から出していた新書版の西村寿行選集があるのだが、これには解説類もないので、基本的にほとんど買っていない。
 逆に少し迷っているのが、文庫本の他社バージョンで、解説のついているものは当然ながら文庫ごとに解説者が異なる。これを集めるかどうか、ちょっと悩みどころである。
 解説があるかないかがダブり買いの基準であって、表紙の違いはあたりまえすぎて基準にならない。けれども、同じ出版社の文庫であって、新装版というほどに時間が経っているわけでもなく表紙が変わっていたりするのはなにかの経緯があったんだろうかと集めてみたくなったりする。寿行の場合、角川文庫『牛馬解き放ち』をそんな理由で2刷5刷の2冊を買っていたりする。
 概ね文庫本で買っていたものの単行本を買い直すというのが流れであるので、単行本を新刊で買っていたのを文庫本で買い直すということには、躊躇がある。
 山田風太郎については、幕末から明治を舞台にした作品以降はほとんど単行本を新刊で買っているので、文庫本はあまり増えない。数年ごとに資料的側面の整った日下三蔵企画の各種文庫版新書版風太郎選集が出版されて苛ついている。断片的には拾っているけど、セットで買い揃えているのは「ミステリー傑作選」だけである。どこかで一気買いすることがありそうだ。
 日本作家の場合、単行本から新書版、そこから文庫版、さらに他社から出直したり映画化等に合わせて化粧直しをしたりと同じ本がいろいろ変わるわけだけど、執着している作家以外はあまり食指が動かない。興味がないから逆に間違って単行本と文庫本とを集めてしまうことはままあるのだが。
 海外SFの場合、翻訳権の問題があるので古い作品以外は基本的に一社限定となる。もっともホームズ本ならすべて集める人もたくさんいるし、ウェルズ、ヴェルヌらクラシックSF、ホラー、ファンタジイなどを際限なく集める極道道の輩もたぶんそれなりにいるのだろう。
 今では、当たり前になってしまったが、版を重ねた文庫本が突然表紙を変えて出直したのは、ぼくの記憶の中ではハヤカワSF文庫が最初である。映画化によるスチール写真への差し替えは他社も含めてそれなりにあったが、ムアコック『野獣の都』やファーマー『緑の星のオデッセイ』のように挿絵入りの白表紙の文庫が、表紙だけでなく挿絵まで新しくなったことに衝撃を受けた。
 創元文庫も表紙とともに解説の差し替えをした。
 訳文についても新訳、改訳もある。
 ハヤカワは、表紙、解説だけでなく、活字が大きくなったり、トールサイズに判型を変えたり、新訳になったり、あげくは通巻ナンバーまで新規に取り直したりと年寄りコレクター泣かせの改革をどんどんしている。
こういうところに手を広げると大変な事態になる。改装が常態化して、たとえブックオフで揃えるとしても、ぼくなりの買える限界を越えてしまった。
 解説の異同については表紙絵以上に悩ましい。もともと単行本より文庫本の方が好きだったのには値段の安さもさることながら、解説があることも大きかった。特に海外SFの解説の差し替えは、初版から数十年を経過しての見知った著者によるしっかりした作家論であったりする。それなりの悩みどころであったりする。

 3.義憤と憧憬本
 これについては以前から繰り返している。こんな本が100円200円で売られていいのかという義憤にかられて拾う本。基本的には毎月の収穫に挙げている本だったりするのだが、それとは別に、すでに持っているのに100円で並んでいるのは許しがたいとつい買ってしまう本もある。たいていは過去に新刊だったり1,000円以上で買った本だったりする。
 憧憬本はハヤカワSFシリーズや日本SFシリーズみたいに金がない若い時分に買いたくても買えなかった本。ハヤカワSFシリーズなら美本で200円、日本SFシリーズなら美本で300円以内ならダブっても買う。

 4.余剰本
 これは、家に何冊かある全集本や上下巻本をセットでみつけたものの、何を持っているか分からなくなって、えいっとまとめて全部買ってダブりが生じたケースである。『世界動物全集』『筒井康隆全集』などそれなりにある。昨年買った「本の雑誌」200冊みたいに、元々持っていた号が管理状態が悪くて買い替え甲斐があることもある。サルマン・ラシュデイ『悪魔の詩』みたいに下巻を間違えて2冊買ってしまったのに、どちらを持っているのかわからなくて、上下巻本を買ったケースもある。

 5.間違い本
 いまやダブり本の大半を占め、他と比べてまったく無意味な購入本である。
 まず根本的に、特にライトノベルとなろう本、それからミリタリーSFについて、持っている本がまずあやふや、持っている巻があやふやであること。記憶が薄くなっていて、「不完全リスト」採点の一週間後には読んだ本の内容がさっぱり思い出せないというていたらく。さらには古書店で本を手に取ってみても見たことのあるタイトル、見たことのあるあらすじ、見たことのある表紙絵ばかりなのである。さらには古書店経由の購入でとびとびの巻数であるので、たしか三冊持っていたはずと第4巻を買って帰ると家にあるのが①②④とか、ざらにある。さらには三冊くらいしかないはずだと、8巻目を買って帰ると、そのとおりだけどどんぴしゃで8巻目が家にある。どうやら同じ時期に出た本だから放出する時期が重なったりするせいらしい。
 さすがに200点くらいは購入リストを作って持ち歩いているのだけれど、今度はリストから消し忘れている本をダブり買う。
 さらには意外とたびたびあるのが買った本の中に記憶のない本が混ざること。どうやら、棚のとなりの本を抜いてしまったようなのである。
 老眼による買い間違いも多々ある。巻数の⑧のつもりで⑥を買ったり。一番ひどいしくじりは、①②③と買ったつもりで、家に帰って確認すると①①①であったこと。これにはさらにその①は家にある本とダブっていたとオチがつく。
 ほかにも東京、京都といった遠方での買い出しの際は、持っているかどうか自信がない本についても100円200円なら近場より踏ん切りがついて買ってしまうことが多い。たぶん現在この⑤間違い本はそれだけで500冊を越えている。

 うーむ。なんだか。
 年寄りの愚痴と自慢話のちゃんぽんで、あんまり面白くならない。とりあえず、この二回で一旦打ち止めとする。


○WEB小説作家別一覧(不完全)リスト (※リンク先はOne Drive(Excel Online)です)

 ※ 凡例、表の説明などはこちらにあります。追加・修正についてはこちら


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