内 輪   第307回

大野万紀


 大森望さんの新訳によるバリントン・J・ベイリー『カエアンの聖衣(新訳版)』がハヤカワ文庫SFから発売されました。訳者あとがきや中島かずきさんの解説を見ていると、大野万紀という名前が目立つじゃありませんか。旧版の解説を書いたのは83年、もう30年以上も前なのね。その全文はここにあります。いやあ、ベイリーはいいですね。ワイドスクリーン・バロックは大好き。
 ベイリーは『時間衝突』の解説も書きました(ここ)。これも大森望訳だ。二つの時間線が正面衝突するなんて、すごい。でもまともな時間理論じゃないと思っていたけど、最近のぶっとんだ宇宙論など読むと、これもありかと思えてきます(もちろんベイリーが正しかったというわけじゃありませんが)。イーガンの『クロックワーク・ロケット』だって、乱暴にいえばそんな話でしょ。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。

『あまたの星、宝冠のごとく』 ジェイムズ・ティプトリー・ジュニア ハヤカワ文庫SF
 ティプトリーの実質的に最後の短篇集。亡くなった翌年、88年に刊行された。この後も短篇集は出ているが、落ち穂拾い的な数編を除けばほとんど再編集ものだ。
 本書では、SFマガジンに掲載された伊藤典夫訳の1編「いっしょに生きよう」を除いた9編が小野田和子訳の初訳である。1970年に書かれた短い「昨夜も今夜も、また明日の夜も」以外は、85年から88年に出版されたティプトリー晩年の作品である(執筆されたのはもっと昔のものもあるが)。
 そのためか、本書にはかつてのような鋭くエッジの効いた刃物で切り刻まれるような感覚はない。でも鈍器でゆっくりと殴られるような、重い読後感がある。それは〈年老いた霊長類〉の、老獪で底意地の悪い視点と、それと裏腹な、諦観を秘めた優しさや穏やかさだ(それはまた、残酷な現実を見つめる重い眼差しでもあるのだが)。別に読者を意識したものではない。徹頭徹尾、自分自身を見つめる視点なのである。
 本書の作品には宗教的なアイコンが出てくるのも特徴だ。キリスト教的、神話的なアイコンが多く見られるのだが、でもそれは唯一絶対の神ではなく、多神教的で、相対的なものだといえる。神と人との間をとりもつ異星人(でもシーフード型)が登場する「アングリ降臨」も、神が死んだので、悪魔はどうするかという「悪魔、天国に行く」も、キリスト教の現代的パロディとして読めるが、むしろ多神教的で日本的な感覚に近いものがある。信者が大勢いるほど神様も力をもつことができるのだ。
 「悪魔、天国に行く」の最後に出てくる存在が興味深い。あらゆる感覚を失うことで力を得る神とは、ドーキンスのいう〈盲目の時計職人〉と同じもの、すなわち意志のない、自然そのもの、冷たい方程式である科学法則という神なのだ。この、自然科学あるいは自然そのものの、人間に無関心な残酷さというものは、ティプトリーのとりわけ執着している大きなテーマだといっていい。
 多くの作品ではまた、自らにとっての「自由」をひたすらに探し求める主人公たちが描かれる。ありきたりの自由ではない。雲上人たちの自由だ。それは日常的な幸福や不幸を超越している。決して成就されないその望みは、周囲に不幸と悲劇をまき散らす。そこには作者自身の生涯も反映している気がする。社会の、家族の、様々なくびきから逃れようと苦闘する中で、人も自分も傷つけてしまう。苦しみは、性差、階級、さらには地球や宇宙といった巨大な存在へまで広がっていく。「肉」や「ヤンキー・ドゥードゥル」のようなテーマが明確で「わかりやすい」作品もあれば、「すべてこの世も天国も」のような社会システムに関する皮肉な寓話、「もどれ、過去へもどれ」の、自らの選択による救いのない悲劇のように、単純に読むだけではなかなかその真意にたどり着けない作品もある。
 「地球は蛇のごとくあらたに」(これは書かれたのは73年だ)は「エイン博士の最後の飛行」を裏返しにしたような話でありながら、かえってその拒絶感はより絶望的で、もう笑うっきゃない話となっている。「いっしょに生きよう」はそんな作品の中にあって、本書で唯一ハッピーエンドなほっとする話のように思えるかも知れない。だが、よく考えれば、これまたおぞましい話に違いない。肉体は重要ではなく、意識は外部から注入される。その二重性。それは「接続された女」からずっと続く、ティプトリー自身のトラウマのように思える。
 本書の最後にある短篇「死のさなかにも生きてあり」は、作者の自殺の直前に書かれた作品であり、まるで遺書のようにも読める、これは死後の世界を描いた作品だ。だがここにも明確な結論、ビジョンはなく、もやもやとした読後感が残る。わかるのは、死によっても自由は得られないということだ。

『ロックイン -統合捜査-』 ジョン・スコルジー 新☆ハヤカワ・SF・シリーズ
 スコルジーの新作はSFミステリーだ。ヘイデン症候群という疫病の流行により、全世界で何億人もが死亡した未来。でも本書はパンデミックSFではない。それが一段落し、世界に秩序が戻った後のアメリカが舞台である。
 ヘイデン症候群が完全に終息したわけではないが、そこから生き残ったヘイデンと呼ばれる何百万人もの患者たちがいる。意識はあっても体を動かすことができない「ロックオン」という症状を呈している彼らは、脳にニューラルネットを埋め込み、スリープというロボットを遠隔操作して、日常生活を送れるようになっている。また一部の「統合者」と呼ばれる人々は、生身の人間の体だが、その脳を他の人間と共有できるようになっている。
 そんなスリープを使うヘイデンの一人、有名人を父に持つシェインは、FBIの新人捜査官となり、先輩のヴァン捜査官と、ヘイデンに関わる奇妙な殺人事件の捜査を始めるのだが……。
 バディものであり、富豪刑事ものであり(シェインの一家は大金持ちなのだ)、語り口はコミカルで、楽しく読めるエンターテインメントである。実際、とても面白くてどんどん読み進められる。それはそうなのだが……。
 スコルジーの作品って、何かちょっと変というか、バランスがおかしいところがある。『老人と宇宙』シリーズでも『レッドスーツ』でもそうだが、妙にリアリティがあるくせに、その世界設定はどこか極端で、ちょっと変だ。本書でも、ヘイデンはまるで普通の人間のように描写されているが、その実体はロボットロボットしたロボットなのだ。人間そっくりのアンドロイドではなく、顔もほぼのっぺらぼうで機械的。スリープというのが、あの映画からということが冒頭に書かれていて、それでもうみんなC3POの姿でしか読めなくなってしまった。それで殺人事件の捜査とか、渦巻く陰謀とか、何かおかしいでしょう。
 ロボットといってもその精神はあくまでも人間なので、シンギュラリティとか人工知能とかのややこしさは免れている。でも脳に埋め込まれたニューラルネットワークの上では市販のソフトウェアが動いており、そこにハッキングすることで思わぬ事態を引き起こすことができる。というわけで本書の半分はハッカー・サスペンスでもある。
 ヘイデンのような存在は、例えばティプトリーの「接続された女」のような視点からも描けるはずだ。本書では、そういう方向へは進まず、ひたすらユーモアたっぷりなサスペンスを書くことに専念している。そしてそれは正解だ。だって面白いもの。スリープの肉体はフライパンでどつかれてへこんだり壊れたりするけれど、本体は死ぬわけじゃない。統合者の方はちょっと悲惨だが、あまりそれを強調して描いてはいないので、全体に軽くて安心して読める。でもその本質はかなり不気味という、そこがスコルジーの本領発揮というところか。

『第三回日経「星新一賞」受賞作品集』 日本経済新聞社編 日本経済新聞社
 登録すれば無料で読める電子書籍となっている。一般部門がグランプリ(星新一賞)1編、準グランプリ1編、優秀賞4編。ジュニア部門(小中学生)が受賞作5編、学生部門(高校、専門学校、大学)が受賞作3編。計14編が収録されている。
 グランプリの佐藤実「ローンチ・フリー」は宇宙エレベーターを人力で登るという挑戦を描いた作品。著者は『宇宙エレベーターの物理学』という本も出している専門家である。人力で宇宙エレベーターを登るというテーマは、『NOVA6』の七佳弁京「十五年の孤独」と同じだ。あっちは静止軌道まで15年かけて(サポート機付きで)登るのに対し、こっちは高度百キロまでをサポートなしで9日間で登る。肉体的にはこちらの方が大変そうだけど、精神的にはあっちが大変そう。だからこそ、最後の、あえていうが無茶な決断ができてしまうのだろうな。
 準グランプリの人鳥暖炉「その空白を複製で」は現役の遺伝子工学研究者によるバイオSF。クローン、脳の複製、コピーとオリジナルというSFではありがちなテーマだが、ミステリっぽい味付けがあって、面白く読める。
 優秀賞の相川啓太「第37回日経星新一賞最終審査 ――あるいは、究極の小説の作り方――」は、タイトルの通りのセルフパロディだが、さらに今回の星新一賞ではAIが書いた作品が一次選考まで残ったというニュースが発表されて、ますます自己言及度を増した作品となった。この賞の常連である作者だからこその作品かも知れない。
 月立淳水「ビットフリップ」はケン・リュウ「1ビットのエラー」とテーマがかぶるが、表示系にだけビットエラーが入るって、いくら何でも無理すぎなアイデアだ。まあそれで大らかに暮らせるなら、それでもいいけど。
 鈴木創「プラスチドα」もバイオSF。作者は微生物学の大学教授だ。はっきりいって小説としてはもう一つだが、ヴァーリイの共生体を思わすアイデアは面白く、むしろドラマを廃してプラスチドの視点から描いた方が面白そう。
 小中学生のジュニア部門では、グランプリ(星新一賞)受賞の新井清心「無色の美しさ」がとても良くできたショートショート。学生部門グランプリの松尾泰志「2045年怪談」はAR/VRが普及した中でのリアルとバーチャルの狭間を描く作品で、ありがちな話ではあるが良く書けている。

『アメリカ最後の実験』 宮内悠介 新潮社
 著者の最新長編は、音楽がテーマ。
 失踪したピアニストの父を捜しつつ、アメリカ西海岸の難関音楽学院〈グレッグ音楽院〉を受験するため渡米した脩(シュウ)。そこで同じ受験生たちと友人になり、また先住民の居住区で父の残した謎の楽器〈パンドラ〉を手に入れ、さらには〈アメリカ第nの実験〉とのメッセージを残す連鎖殺人事件に巻き込まれ――と盛りだくさんな内容だ。でもストーリーラインははっきりしている。そして傑作である。
 基本は家族の関係をテーマにした青春小説だ。受験といってもペーパーテストではなく、実技、それも観客にどう受けるかというところまで含めて合否が決まるというものだ。コンテストもの、ガラスの仮面みたいな雰囲気である。音楽はクラシックではなく、自由なジャズ。そこに被さってくるのがアメリカという人工的な国家の問題。それらが重層的に和音や不協和音を生じ、しかし殺人事件まで起こるにもかかわらず、わりあい爽やかな感じで物語は進んでいく。
 中でも音楽そのものが一番重要なテーマとなっているのだが、本書を読んで感じたのは、それが感覚的・情緒的というよりも、とても理知的で、むしろハードSF的な雰囲気があったことである。オキシタケヒコとは違うが、本書を音響SFといってもいい。そしてそれは主人公たち個人の世界を離れて、歴史や、生物としての人類にまで広がっていく。そのセンス・オブ・ワンダーに満ちた時間的・空間的に壮大な広がりから、また主人公たちの世界へと戻って行く。読み応えがあり、堪能した。

『安楽探偵』 小林泰三 光文社文庫
 事務所から一歩も出ず、依頼者から話を聞くだけで事件を解決する、ものぐさな安楽探偵。街一番の名探偵として有名な彼のもとには、奇妙な依頼人ばかりがやってくる。その助手である「わたし」は、それらの事件を記録する。
 熱狂的ファンだというキモい中年男にストーカーされるアイドル「アイドルストーカー」、自分には人を消してしまう超能力があると主張する依頼者「消去法」、なぜか太ってしまうというダイエットマニアの女の悩み「ダイエット」、食材持ち寄りのレストランで娘が誘拐されたという「食材」、自分の寄付が正しく使われていないと主張する「命の軽さ」、そしてそれらすべての事件の背後にあるものを推理する「モリアティー」。
 6編が収録されているが、実は全体で一つのストーリーとなっているのだ。安楽探偵だけに、ほぼ会話のみで話が進むので、いつもの底意地の悪い、ねちねちと論理をこねくり回す登場人物たちの会話に、もうやめてと言いたくなるが、それでも本書では「わたし」がわりあい冷静に口をはさむので、ブラックなユーモアというレベルに落ち着いており、そんなに嫌ではない。そして、エッと驚く叙述トリックの連続に、確かにそう書いてはいなかったなと前のページを読み返してしまう。ミステリに詳しいわけではないが、とりわけ前半の話はそんな感じで面白い。それが後半になると、ちょっと無理があるのではと思えるようになり、書き下ろしの第五話では、「わたし」といっしょにツッコみたくなる。しかしそれがすべて第六話につながるとは。参った。びっくりです。


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