バリントン・J・ベイリー/冬川亘訳
『カエアンの聖衣』 解説
大野万紀
ハヤカワ文庫SF
昭和58年4月30日発行
(株)早川書房
THE GARMENTS OF CAEAN by Barrington J. Bayley (1976)
この本はすごい。あなたがSFファンならぜひ読んでほしい。SFファンじゃなくても、SFというジャンルの特異性に興味をもっている人なら、やはり読んでほしい。SF本来のおもしろさというのは、こういうムチャクチャなアイデアのごった煮の中にこそ見つかるものなのです。
のっけからすごいすごいとわめいてしまったが、実をいえば、こういうSFはそれ以外にうまく表現し難いところがある。傑作とかいうのとは少し違う。いわゆる文学的評価にSFが必ずしもなじまないなと思うのはこんな時だ。かといって冒険やアクション主体のエンターテインメントともいいきれない(そういう側面もあるのだが)。また、科学的な面に重点を置いて論理のおもしろさや進歩したテクノロジーへの興味を描こうとするハードSFとも違う。科学用語や擬似科学的論理は山ほど出てくるのだが、ハードSFとは違い、よく読めば矛盾がいっぱいだ。ところが読んでいる間、こういったことはまったく気にならない。デタラメだろうがインチキだろうが、ひどくぬけぬけと語られ、しかも物語の中ではそれで当然だと思えてくるから不思議だ。
こういう種類のSFを、ふつうワイドスクリーン・バロックと呼ぶ。ブライアン・オールディスが『十億年の宴』で使ったことばだが、スペース・オペラの奔放さと雄大さを受け継ぎつつ、観念性と軽薄さを同時に武器とするような離れ業をみせる。ひとつひとつじっくりと味わう間もないほど、これでもかこれでもかと詰め込まれたアイデアの、めまいを起こしそうな密度の濃さ。それを柔らげるコミカルなユーモア感覚と、どこまでも広がっていく気の遠くなりそうなスケールの大きさ。無限の時間と空間。個々の人間ではなく、文明や種族のレベルで語られる観念的な物語。何重にも入り組んだプロット。めくるめくセンス・オブ・ワンダー。こういったすべてをひっくるめて、意識の拡大という、SFの重要な特質が効果を発揮するのだ。ハードSFが論理(ロジック)に重点を置き、文学的SFが文体(スタイル)に重点を置くところを、ワイドスクリーン・バロックは観念(アイデア)に重点を置くのである。そして、それこそが、最もSFらしいSFであり、SFファンが最も魅惑的だと感じる形式――そしてSFファン以外の読者にとまどいを感じさせる形式――であると断定しても、おそらく間違ってはいないだろう。
ワイドスクリーン・バロックの特質については、クリス・ボイス『キャッチワールド』(ハヤカワ文庫SF431)の、安田均氏の解説に詳しい。『キャッチワールド』もまた本書と同様、典型的なワイドスクリーン・バロック型SFであった。安田氏によると、最近のイギリスSFに顕著な現象として、アイデア派、観念派の存在があるという。一部引用すると、「この派には、(クリス・ボイスの)他にバリントン・ベイリー、イアン・ワトスンといったいずれも七〇年代に頭角を現わした作家が属す。彼らの作品の特徴となるのは、小説のアイデア部分に異常なほどの力を注ぎ、つぎつぎにくりだされる(ときに未整理なほどの)アイデアの奔流によって、一種のめまいとも呼べる効果を導きだすといった点だろう。これは一方で、マイクル・コニイ、リチャード・カウパー、クリストファー・プリーストといった小説スタイルに重点をおく作家群と対置されながら、現在のイギリスSFの活況を担っているといえる」のである。
さて、こういうアイデア重視のSFは、はじめに述べたように、すごいすごいとはいえるのだが、そのすごさをいざ説明しようとなるとたちまち困難にぶつかってしまう。相手がSFファンならいい。――衣服SFなんだ、服こそ人なりで、服が人間を支配しちゃう。それで宇宙の日露戦争や、ヤクザ坊主が出てくる! ハエの惑星やラッパのついたプロントザウルスみたいな宇宙怪獣も出てくるし、おっかない女性文化人類学者がいて、宇宙船でこの文明の謎を探ろうとする。キーワードは衣裳ロボットだ。ヴァン・ヴォート的でべスター的で、ラファティやシュクリイやヴァンスの味もあって、すごくシリアスなところもナンセンスなところもあって、哲学的でマンガチックで、とにかくすごい、すごい……etc――といえば、大体ああそういうものかと雰囲気ほ伝えられる。ところがSFに慣れていない読者には、それがどうしてすごいことになるのか、ピンとこないのではないか。つまりこれは、ある程度SFに親しんだ読者を対象とし、SF特有のいいまわしや概念に読者が反応することを前提としたSFなのである。ワイドスクリーン・バロックとは、一種のサギのようなものなのかもしれない。常識的な目で見れば何の役にも立たないガラクタを、あたかも黄金のように見せてしまうのだ。そして少なくとも話を聞いている間は、それはまぎれもなく黄金なのである。SFファンとは、そういう条件づけがなされてしまった者なのだ。ベイリーは、SFファンが見たいと思っているものを目の前に見せてくれる。それが本当は何であるのか、常識の目で見直す必要はない。虚構であってもかまわない。それはファンが心から見たいと信じているものなのだから。
ベイリーは、こういうファンとSFの関係について、社会学的な考察を加えている。イギリスの代表的なSF評論誌〈ファウンデーション〉の1979年9月号で、彼はSFは一種の宗教であると論じている。そこで彼は、「SFファンの多くが、熱心なファンになるときに天啓のような認識の変化を経験していること」、「世界にはSFを理解できる者と、どうしてもできない者とがいること」、「SFの熱心なファンは、彼らこそが真の世界を認識できると心の底で思っていること」をあげている。これが事実かどうかはともかくとして、そういうSFの他から独立した体系(スキーマ)をつくり上げる基礎となっているのが、SF的観念(アイデア)というものだといっていいだろう。
ここでおもしろい考えを紹介しよう。〈サイエンス〉誌(日本版)1983年3月号に載ったダグラス・ホフスタッターのエッセイだが、モノーの『偶然と必然』にも見られる生物学的なアナロジーにより、観念が人の集団に寄生し、進化してゆくさまを考察している。観念とは感染力をもったウイルスのようなもので、その基本単位は、ちょうど遺伝子に対応する観念子(ミーム)というものだ。このミームは、何らかのシステムに入り込むことによって自己複製能力をもつ。こうしてミームはそのシステムの中で拡散、変異、淘汰を繰り返し、進化して、ある生態学的地位を獲得するのである。この考えをSFに適用するならば、SF的アイデアこそミームそのものだといえるだろう。タイムマシンや宇宙船を考えればわかるように、SFのアイデアは作者を離れて自由に生長し、子孫を増やしてゆく。読者に感染し、ファンとファンダムをつくりあげてゆく。世界中どこでも、SFファンは驚くほどよく似た姿をしているのだ。
本書には、SFのミームが充満している。すでに感染している人は文句なしに楽しめるだろう。まだかかっていない人は、どうぞ御一読願いたい。おもしろかった? それではあなたにはSFのミームに対する受容体(リセプター)があったのだ。あなたはもはや、われわれの一員となったのである。
バリントン・J・ベイリーは1937年に、バーミンガムに生まれ、子供の頃からのSFファンで、十代のはじめには早くもSFを書きはじめていた。空軍で軍務に就いた後、様々な職業を経験し、主にジュヴナイルの分野で活動するフリーランスの作家となる。五〇年代にストレートSFに復帰するが、本格的な活躍がはじまるのは、マイクル・ムアコック編集の〈ニュー・ワールズ〉誌上においてである。七〇年代に入って、彼はアメリカで長篇を発表しはじめる。ところがこれらの長篇は主としてスペース・オペラの装いをもって発表されたため、シリアスなファンの目が届かず、また純粋素朴なスペース・オペラのファンからもそっぽを向かれるという結果に終わった。しかし近年、彼の評価ほ高まる一方であり、とりわけイギリスでの評価は熱狂的とさえいえる。先に紹介した〈ファウンデーション〉誌は、彼を次のように評している。
「――バリントン・ベイリーはSF界のボルヘスである。彼のメタフィジカル・スペース・オペラは、もうひとつの宇宙における存在論を解明しようとするものだ――」
〔著作リスト〕(SFのみ)
Star Virus (1970)
Annihilation Factor (1972)
Empire of Two Worlds (1972)
Collision Course (1973)
The Fall of Chronopolis (1974) 『時間帝国の崩壊』中上守訳・久保書店
The Soul of the Robot (1974)
The Garments of Caean (1976) 本書
The Grand Wheel (1977)
The Knights of the Limits (1978) 短編集
The Seed of Evil (1979) 短編集
The Pillars of Eternity (1982)
1983年4月