大野万紀「シミルボン」掲載記事 「ブックレビュー」

物理学と数学を独自に発見する異星人たちの一生懸命さに感動!

『白熱光』
グレッグ・イーガン


 グレッグ・イーガンの長編は、その短編に比べても難解だと言われる(短編についてはこちらを参照)。その理由にはいくつかあって、まずは最新の物理学や数学の知識が、単なるイメージではなく、真正面から描かれていること。それがストーリーと密接にからんでいるので、きちんと理解しようと思うとそれなりの勉強が必要なのだ。もちろん小説を楽しむのにそこまでする必要はなくて、雰囲気を味わえたら、それで全然かまわないのだけれど。
 もうひとつは、これは現代SF全体の特徴でもあるのだが、シンギュラリティとか、ポストヒューマンとか、今の人間とはかけ離れた人間観が前提となっていること。人格のコピーだとか、人工知性との融合だとか、事実上の不死を獲得していたり、自意識やアイデンティティというものがとても不確かなものになっていたり、そういうのが当たり前となった未来を描くのだ。こんな設定も、今ではゲームやアニメで普通に扱われるようになって、さほど違和感はなくなっているのかも知れないが。

 『白熱光』は、そんなイーガンの「難解さ」が両方とも強烈に現れている長編なのだが、実際に読んでみると意外に読みやすいので驚くかも知れない。それは、ぶっ飛んだアイデアやロジックに重きを置くのではなく、登場人物(まあ人物じゃないのだが)たちのストレートな知識欲、探求と発見の物語に重点があるからだろう。それはわれわれにも、素直に理解できるものだ。
 だから、イーガンの小説にしてはごく大人しい印象を受ける。テーマ的な驚きやひねりは少なく、異質性や意識の問題にも踏み込まない。異星人もポストヒューマンも現代人のメンタリティですんなりと理解できる。このあたり、最近のSFでよくある割り切りでもある。それよりイーガンは、科学と数学の普遍性を描くのに全力を投入している(暗黒数学は出てこないよ)。この徹底さこそがイーガンであり、本書を傑作にしているものなのだ。

 奇数章、偶数章で二つのストーリーがそれぞれ展開する、二種類の探求と発見の物語。

 奇数章はSFファンであればおなじみの、遠未来の電脳世界に生きるポストヒューマンのお話だ。知識欲のままに、銀河中心へと向い、異星人を発見しようとする探求のストーリーである。彼らはもはや人間ではなく、あり方としてはポストヒューマンだが、その意識は現代人、特に好奇心に満ち、ちょっとおせっかいな「進んだ」「高等遊民」な主人公たちである。これはこれで刺激的であり、とても面白い。

 だが本書のメインは何といっても偶数章の、異星人による物理学と数学の発見物語にある。
 岩の中の空洞に暮らす、昆虫のような異星人たち。〈スプリンター〉と呼ばれるその世界は、周囲を〈白熱光〉という光の海に囲まれ、その光は岩を通り抜けて内部にも入り込む。〈白熱光〉からの〈風〉は空洞やトンネルの中を吹き渡り、この世界に豊かさをもたらしている。
 この世界がいったいどういうものなのか、異星人たちの視点で描かれるのでなかなかわからないのだが、ちょっとだけネタバレすると、〈白熱光〉とはブラックホールを回る降着円盤のことで、〈スプリンター〉はブラックホールを巡る天体なのである。だから、この世界の住人には宇宙は見えず、天文学も発達しようがない。
 そんな中で、主人公の女性、農場で働くロイは、ザックという老人とともに、「重さ」や「動き」といった現象に興味をもち、観察し、数値化し、仮説を立てては実験・検証していく。こうして彼らはほんの一世代くらいのうちに、ニュートン力学から一般相対性理論までを発見していくのだ。そしてそれが後半で、この世界の運命と大きく関わっていく。

 といえば、イーガンの最新長編である〈直交〉三部作(『クロックワーク・ロケット』『エターナル・フレイム』『アロウズ・オブ・タイム』)ととてもよく似た構造をもっていることがわかるだろう。異星人の社会活動や価値観に重点が置かれていることも同様である。しかし〈直交〉三部作ではこの世界とは物理法則自体が異なる宇宙を扱っているのに対し、『白熱光』はあくまでわれわれの宇宙の話であり、物理法則も数学もわれわれのものと同じなのだ。

 ロイたちは、紙も鉛筆もないので、数式は使わず、テンプレートという物理的な装置を作って、それで方程式の計算を行っている。算盤というか、アナログコンピューター的なものだろう。けれども、ここはニュートンの運動方程式を発見しているのだ、とか、フーコーの振り子だ、微分法の発見だとか、彼らといっしょになってわくわくしながら読めるのだ。困難な中で科学を発見していく彼らの姿は、本当に感動的である。
 このあたり、相対性理論が関わり出すとちょっと難しくなるのだが、少なくともニュートン力学の範囲では、とりわけ理系をめざす高校生諸君には、いい練習問題になるだろう。これを普通の数式に置き換えて計算したり、グラフを書いてみればいい。そうすれば彼らが何をやっているのかがよくわかる。

 異星人は六本ないし八本足の昆虫型。だから具体的なイメージを想像するには注意が必要だ。うっかり変なのを想像してしまうと、読むのがつらくなるよ。小川一水さんはエジプトのスカラベでイメージしたそうだ。なるほど、丸っこくて可愛らしいフンコロガシ型ならちょうどいいかもね。

(17年2月)


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