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続・サンタロガ・バリア (第287回) |
最近のサイバー攻撃で日本の総人口以上の個人情報が流失したというニュースを横目で見ながら、日本はそんなに防壁が甘いのかなどと思っていたら、当方のスマホにも今年名古屋地方に転勤になった息子名義のビデオ通話がかかってきていた。
朝早くだったらしく、当方は寝ていたのだけど、妻が息子からビデオ通話があったけどアンタのスマホだったからほおっておいたとのこと。
スマホを見てみると確かに息子の名前(ローマ字綴り)でビデオ通話の呼び出し画面がある。しかし、当方はケータイからスマホ時代の今に至るまで、ビデオ通話の呼び出しを受けたことは一度もなかったのである(何しろ登録されていない番号からの電話には出ないし、第一スマホを手元に置く習慣がないので、わずかな知り合いからの電話やメールに返信するだけ)。
この珍しい出来事に画面を興味深く眺めていると、受信先表示欄の当方の番号に(+81)があるのに気づいて、これはいわゆる詐欺電話だと判明。初めてわがスマホにかかってきた記念すべきビデオ通話第1号は詐欺電話だったのであった。トホホ(念のため履歴を見たら着信記録自体が残ってなかった)。
てな話題しかないので、読んだ本の感想に移ろう。
テリー・ビッスン『数字は嘘をつかない〈万能中国人ウィルスン・ウー〉シリーズ短編集』竹書房文庫10月刊は、訳者中村融さんのキモ入りともいえる短編集だけど、中編3篇しかなく、わずか200ページほどの1冊。本屋の棚で見ると背表紙がほとんど目立たない。
以前この3篇を収めていた『ふたりジャネット』は既読なのですべて再読だけど、20年以上たっていて、大雑把な設定以外は当然忘れていた。そのおかげで今回もビッスンの田舎趣味と強引なヘリクツ、それにもちろんウィルスン・ウーが語り手にキテレツな方法で送ってくる手書きのデタラメな高等数学的方程式には笑わせられてしまい満足。
中村さんのあとがきを読むとビッスンの晩年の様子が哀れを誘う。コニー・ウィリスとの漫才が思い浮かぶなあ。
読みたい翻訳SFがないので手を出したのが、マーガレット・アトウッド『獄中シェイクスピア劇団』集英社文庫9月刊。親本は同社から2020年刊。
訳者の鴻巣友季子の解説によると、これはイギリスの出版社が企画したシェイクスピアの戯曲を「語りなおし」するシリーズの1冊とのことで、アトウッドが担当したのは、最後の作品だといわれる喜劇『テンペスト』。
アトウッドが作り上げたのは、有能なアシスタントと思っていた奴の陰謀のためシェイクスピア劇を演じる劇場の芸術監督の座を追われたベテラン演出家が、ヒョンなことから刑務所の軽犯罪囚人たちに演劇を教えることになり、最終的に『テンペスト』を演じることで、獄中演劇を視察に来たいまや文化官僚にまで出世した元アシスタントたちに復讐を遂げるという物語。
このベテラン演出家の陥った状況とその復讐劇が、演出家自身がプロスペロー役をして囚人たちと演じる『テンペスト』によって、二重写しにテンペストをなぞった形になっている。
ちょっと話がトントン拍子に思えはするけど、泣かせる設定を含めてアトウッドの技の冴えは味わえる。
なお、当方のようなシェイクスピアをまともに読んだことのない読者のために、巻末に長めの『テンペスト』ストーリーが付いている。
今回も、SF作家としてまたはそれに近い形でデビューした作家たちのノンSFが3冊。
このところノンフィクションばかり出していたけど、ようやく小説が出た小川哲『オルロージュ』は、単行本で500ページもある大長編。講談社刊。
目次を見ると序章終章を含め全39章すべてに人物名が振ってあり、それらは繰り返されるものもあり1回だけの場合もあるけれど、人名の総数は15名に及ぶ。繰り返される人名は、例えば、序章の「倉敷秀斗」と終章の「若松佳比佐」は最多で6回出てくるが、その他の人物は4回から1回出てくる。しかも「倉敷秀斗」は出番が前半に集中していて後半は1回のみ。「若松佳比佐」の方は逆である。このバランスは4回出てくる人物名でも同様の偏りがある。
この物語をひとことで要約すれば「起業モノ」ということになり、基本的な設定は安野貴博『松岡まどか、起業します』と同じであるが、たくらみとしてはかなり違う。
読んでみてびっくりするのは物語を動かす原動力となった人物は目次に無く、目次の人物たちの視点で語られることによって、「彼女」の人物像が変化していくようにできている。
序章が「倉敷秀斗」なのは、彼がコンクリートの中でも光合成する細菌の研究者で、「彼女」とは中学校の同級生だったが、10年ぶりに連絡があり、いまはベンチャー企業投資会社の若手社員となっている「彼女」から、秀斗の研究に目を付けたので起業してはどうかと持ち掛けられるところが出発点になったからである。
以降はこのベンチャー企業の栄枯盛衰(=「彼女」の経営判断の結果)が各人物の視点で語られていくわけだけど、主眼はあくまで「彼女」が何者なのかに置かれている。そして終章「若松佳比佐」は業界紙のジャーナリストとしての視点で「彼女」が何者だったのかを振り返る。
冒頭ですぐわかるように「彼女」が秀斗と起業した会社名が本書のタイトルで、これは2人が会って起業を決心した時にいた店の名前である。
「オルロージュ」が「時計」のフランス語であることは早くに明かされており、この長編が「時計」をタイトルとしているのは、その名を持つベンチャー企業の盛衰を描いているからともいえるが、当然この作者がそれだけのためにこのタイトルを付けたわけではないだろうという想像も働く。すなわち時計の精密さと人為的に作られる時間が反映されていることは多分に考えられる。
そして読後感を反芻してみれば、ここでの登場人物は誰も時間を経てその性格が変化したという印象がなく、ただ彼らの目に映る「彼女」の人物像だけが時間の経過とともに変化し続けていたように思われる。
そういえば『SFマガジン』12月号に掲載された『筺底のエルピス』書評の冒頭で円城塔が「登場人物が増えるに従い、進行が遅くなっていくのは、小説の宿命」と書いていたけど、本書の中で時間の流れが感じられないのはそのせいかも。
2冊目は坂崎かおる『青を売る』。祥伝社刊。
帯の内容紹介によると、「通信制高校の生徒が企画した偽物の修学旅行。参加者は三人の男と一人の女〈ハル〉。彼女の失踪が終わりの見えない旅の始まりとなった。」とあり、これは確かに第1章「夏(1)」の設定を説明しているけれど、第2章「春」で早くもそれがフィクションだったと明かされている。
この1、2章の題名からもわかる通り、全9章は第8章以外「春夏秋冬」の一文字からなり、くりかえし出る「夏」は(4)まで、「冬」は(2)まである。そしてこれらは第8章が「遥」のごとく人名の一部を表している。
物語そのものは、「偽物の修学旅行」と「ホントにあった修学旅行」を巡ってその後を生きた参加者たち(目次での説明のように、彼らの名前にはすべて「春夏秋冬」の漢字や音にちなむ字が降られている。また参加していないという者もいる)のそれぞれの視点からの報告だけど、それらの内容は目次となった季節名とその章の語り手の名前にズレがあるように、ぴたりと重なりあうことなく、相互に食い違う現実の物語としてつくられている。連作短編ではあるけれど、一貫した説明は全くつけられていない。
一見ミステリアスな普通小説に見えるノンSFの物語とはいえる。が、全体としては非常に歪んでいて不気味である。「群盲象を撫でる(ワープロは変換拒否)」の象さえいない。何を撫でているのか。
3冊目は、タイトル作が第79回推理作家協会賞短編部門受賞作という松樹凛『ぼくらが夕闇を埋めた場所』。相互に関連を持つ中編4編を収めた1冊。双葉社刊。
ということで、これは明らかにミステリジャンルの短編集だけど、ミステリとして「謎」が解けているかというと、ちょっと違う。全体として男女二人の中高生が主要登場人物のドラマになっているが、不在の女子を巡って男女二人が対峙するエピソードたちは、当方のようなミステリを読まない読者にはかなりの違和感を感じさせる。
書下ろしという巻末の「私たちのエンドロール」では、男女は職業持ちの大人となっていて、男は作家になり「ぼくらが夕闇を埋めた場所」という作品を書いて評価を高め、女は週刊誌の記者となって、ふたたび昔と同じような関係で動き出す。そして作家はその作品のファンだという男に、その内容は現実にあった事件を踏襲しており、オマエは事件の関係者ではないのかと問い詰められる一幕を挟んで、作家は日常に戻る。が、誰が誰を殺したかの謎は最後まで宙に浮いている。
ここでの松樹凛のナレーションはそのSF作品に比べると非常になめらかで、内容はともかく読む上での抵抗は全くない。
それにしてもこの3冊には共通した「不気味さ」を感じるなあ。
岡本俊弥さんが書評に取り上げていたのを見て、読むのを忘れていたことに気がついたのが、アミタヴ・ゴーシュ『銃ノ島』。KADOKAWA刊。
この作家の作品は『カルカッタ染色体』を読んだだけだけど、面白かった印象は今でもあるので、『銃ノ島』も面白いだろうという期待はあった。
第1部「銃商人」の冒頭に、インドのベンガル州の首都コルカタの南側からバングラデシュとの国境地帯までを描いた地図が置かれていて、その海岸地方には多くの川が描かれているが、その中で海辺の低地らしい「シュンドルボン」という地区が強調されている。
巻末の訳者(岩堀兼一郎)解説によれば、作者は1956年カルカッタ(コルカタ)生まれということなので、作者の経歴をなぞったような同郷生まれの主人公を登場させ、故郷を題材にしたフィクションを書くのは自然なのかもしれない。
しかし、ベンガルが主な舞台になっているのは前半のみで、後半となる第2部はイタリアのヴェネツィアに舞台が移り、こちらは冒頭にヴェネツィアの地図が置かれ、ユダヤ人地区が強調されている。
そして、必ずしも自らの強い意志というわけでもないのに、この二つの地図の場所で動き回るのが、ニューヨークで稀覯本のディーラーと営む主人公。
ということで、前半は里帰りした主人公が大叔母から聞いた不思議な伝説の寺院を、惚れた彼女の勧めがあったという他人指向な理由で訪れ、そこにいたシャイな少年から「銃商人」と「蛇の女神」の呪いの話を聞くうちに、主人公がそのタブーに触れてしまう。
しかし、調べるうちに「銃商人」の話には実際の歴史の痕跡がありそうだと気づいた主人公は、以前アメリカの大学でマイナーな人文分野の博士号を取ったものの就職先に困っていた時にお世話になり、いまだに付き合いのある有名なイタリア人老女性歴史学者にそのことを伝えると、ヴェネツィアのユダヤ人地区に家がある彼女から、その伝説を解くためには彼女の故郷であるヴェネツィアを訪ねろといわれ、イタリアへ飛んでいく・・・。
この主人公の主体性のなさが、物語を面白く進めるための設定であることは分かるが、実際物語の方が面白いので、ベンガルの「銃商人」の呪いの言い伝えが「ヴェネツィア」の歴史と名前そのものに結びついて、『銃ノ島』というタイトルの意味が判明するときの驚きは、この物語の最大の贈り物だろう。
最後は地中海に繰り出した船上に主要登場人物が揃い、幻想的な光景の大団円を迎えるけど、やはり『銃ノ島』の謎が解けるアクロバット的ロジックが一番印象に残る。この「銃商人」の伝説と「ヴェネツィア」を結びつけたロジックそのものがフィクションだったとしても、面白さに変わりはないと思う(ググるのは無し)。
小説には関係ないけど、ヴェネツィアでも現場労働(店の売り子とか)はベンガル人とかインド・パキスタン系が多いらしい。昨年のロンドンでも思ったけど、白人はどこで働いているんだろう。
今回読んだ中で一番の難物が、キジ・ジョンスン『アパートメント暮らし動物寓話集その他の物語』創元海外SF叢書23。
収録作を並べておくと、「ツール使いの擬態者」、「カマキリの妻」、「東部テキサスの蝶」、「五人のスフィンクスと五十六の答」、「ラタトスク」、「コヨーテ、死者の国を作りだす」、「ヒキガエル屋敷の幽霊」、冠タイトル〈アパートメント暮らしの伝承選集〉の下に「動物寓話集」、「まじない集」、「アルファベット順夢占い集」の3篇、「ノアのワタリガラス」、「カラス、人間式のなぞなぞとほとつのジョークを試みる」、「ハッピーエンドは特権」の13篇。
このうち巻末の「ハッピーエンドは特権」が60ページの中編なので、本文280ページの短編集としては、残りの12篇で220ページ。ということ1篇平均20ページ足らずの短い作品がほとんど。
個々の作品の内容については巻末の訳者(三角和代)解説に詳しいけれど、ここはいつものように岡本俊弥さんの書評にお任せ。
とはいえ、この短編集の全体的なテーマを掲げているように思える巻頭作「ツール使いの擬態者」についてすこし説明をつけてみよう。
この作品では、タイトルページ裏いっぱいに、コウイカの足を模した裾の切れ込みと全体がイカ模様のワンピースを着た幼い女の子の白黒写真が印刷されている。少女は頭の上に両手を伸ばし、イカのヒレがその頭の上まで伸び、2本の触腕が女の子の服の前にあるウクレレを弾こうとしている。(正直、この写真はリアルなイラストに女の子の顔写真を貼ったように見えるけど)
物語はその写真の観察から始まり、それがコウイカと合体していることを述べた後、次の(行空け)段落では「可能性をあげてみよう」と云いながら、タコのライフサイクルの説明になり、タコの雌は多数の卵を産むがそのほとんどは死に、成長するのは少数だと書いた後、「つまり、写真にいるのは彼女のいちばん大胆な娘だ」と言い切って第2段落を終える。
そして次の段落の冒頭で「彼女たちはツール使いの擬態者で(中略)ほかの生き物の形状を装う」として、(行空けなしの)行替え(3ページ1行目)で示されるのが「ツール使いの擬態者。人間の女になる者がいても、ふしぎではない」と宣言。読者にタイトルの説明とこの短編集を読むためのヒントを与えている。
この作品はたった9ページだけど、行空け段落ごとのエピソードは「ツール使いの擬態者」がどのような「擬態」をしているかを写真の少女に結びつけながら、そのバリエーション(タコ関連が多い)になっている。
そして最後の段落で再び写真の考察に戻り、「この写真は作り物である」と常識的な結論を云うものの、この少女は「あなたが自分の目で見たことがなく、(中略)触れたことのないほかのものと同じようにリアルだ」とする。
この作品集の難度の高さは、当方が児童文学に縁がないせいもあるが、作者の実験精神による作品群に対し、当方の頭がついていけてないところに原因がありそうだ。
なお、巻末の「ハッピーエンドは特権」(これが原書のタイトル)は児童文学をなぞったとても面白いメタフィクション。
あと、訳者あとがきの作品解説でちょっと触れているけれど、この訳書の底本には先に単行本として出版された長中編『猫の街から世界を夢見る』が収録されているという。
小松左京『虚無回廊』がハルキ文庫から1冊本が出たので、4半世紀ぶりに読んでみた。
読んでみると、記憶にあったのは人間時代のヒデオ・エンドウの物語である序章までで、“SS”に着いてからの「AE」である「HE」とその「VP」アシスタントたちの冒険は、ほとんど覚えていなかった。なお、「VP」に「アスカ」というのがいるけど、男性キャラなのは当時「チャゲアス」が一般的だったからかな。
それにしてもこの探査行の基本設定は、キッカケは違うにしても『プロジェクト・ヘイル・メアリー』と同じだし、本格SFとしての様々なアイデアは抜群で、集大成の一方でその後に別の作家によって発展していくものが多く見受けられる。
また、“SS”内に来た宇宙知性たちによって“SS”が何なのかを議論する最終章「森林」は、残念ながら今となっては退屈だけど、劉慈欣『三体』三部作の『黒暗森林』がこの章のタイトル「森林」に対するアンチテーゼになっていることも間違いないだろう、というか『三体』自体が小松左京の影響下に書かれていることは、本人も認めているところだ。
「女性」の描き方もすでに時代遅れになったとはいえ、SFとしてのこの作品の巨大さは、小松左京が描いた最後のモニュメントとしていまだにその魅力を失っていない。
「AE(人工実存)」は「実存的問い/私とは何か」を捨象した形になっているけれど、解説で瀬名秀明が書いているように、書かれなかった続編では、「序章」でアポリアのまま残された女性性を象徴するアンジェラもまた進化した「AE」となって“SS”に到着し、「HE」との邂逅を果たすことで、つぎなる段階の「AE」へと変化すると思われる。瀬名は小松左京の原点であるダンテの『神聖喜劇』をヒントに、それを「神」ではなく「愛」としていて、当方もそうだろうなとは思う。ただし、この『虚無回廊』の書き方では、そこまで行きつくにはまだ倍の枚数が必要とも考えられる。
腰巻の円城塔の惹句「デキるAIはみんな読んでる」・・・確かにねえ。
立て続けに韓国女性作家のSF作品が出ているけど、最初に読み終わったのが、キム・チョヨプ『それでもふたり、ひとつの貝殻』早川書房刊。7篇を収めた短編集。
裏表紙見返しの作者紹介に漢字名が「金草葉」と書いてあって、けっこう長い間この作家の本を読んできているのに漢字名を意識したのはこれが初めてだ。
巻頭の「スブダニのサマーバカンス」は、先輩への手紙という形で進行する1篇。
語り手の女性が急いで海外に出たため、人工皮膚の屑が散らばる部屋の片づけを先輩に頼み、そこから本題に移る。人工培養臓器製造会社をやめて、人工皮膚を扱う「肌管理サロン」に就職した語り手は、店長が扱いかねる客「スブダニ」に出会った・・・。
ということで、これは「スブダニ」に関するエピソードの報告になっていて、その要求は金属の肌を移植してして錆びることだったという。ではなぜそんなことになったかという「スブダニ」の物語がメインストーリーをなし、最後に金属の肌をした彼は「サマーバカンス」に行く。非常によくできた仕上がりで何の不満もない。
底本のタイトル作「両面の貝殻」は、2つの人格を持っているタイプの女性が、この惑星には専門医がいないのでよその星へ行けという医師の忠告に逆らって、単人格化手術を依頼するところから始まる。舞台は宇宙だけど、生まれた時から同性の2重人格もつ人間が異星の海での潜水撮影を通して片割れとの融和に至る物語。
舞台はスペースオペラっぽいが、心の動きを追うところがこの作家らしいところ。
次の「振動鳥と手紙」は、「こんにちは、わたしの自我たち、みんな元気にしてる?」と始まり、次に「わたしは今、楕円銀河系の外縁からこの観察データ残している」というこちらもスペースオペラ風。まあ「手紙」には違いない。
語り手は有機体内にいて、あるとき漂流船の調査に出向いたら、中を埋め尽くしていたのが地さな羽を震わせ絶え間なく体を震わせる「振動鳥」だった・・・。
語り手はその鳥の振動が意味する謎を追っていき、様々な仮説が提出されるが、最後は再び「手紙」であることが判明し、その内容をもって話が閉じられる。これもよくできている。
「塩水の周波数」は、高い周波数で声を出す小さなクジラのうわさについて、周囲のクジラやイルカと話をしながらクジラたちから「シュウハスウって何」と訊かれる変わり者「イルカ」の一人称で始まる1篇。だが、話はすぐに高齢で亡くなった祖母に関するエピソードを語る、ソウルでの仕事をやめて生まれ故郷の蔚山に帰った孫娘の一人称に切り替わる。
孫娘は故郷の蔚山も祖母の分からない話も嫌いだったが、祖母が施設で亡くなる直前に起きた祖母をめぐる出来ごとをキッカケに祖母について調べはじめる・・・。
ということで、これは孫娘が「ロボット・イルカ」と結びつく物語になるわけだけれど、結末は冒頭の「ロボット・イルカ」の一人称からは想像できない着地点と云える。
あとがきで作者は、自分は蔚山出身だが故郷は好きでなかった。しかしこの作品を書くことで故郷が少し好きになったと書いている。その思いがこの作品の構成に反映しているようだ。
「静けさと喧騒」は、世界でも唯一とされる個人経営(公営が普通)の「声の記録館」を訪ねた女性の視点で、自らの体験を踏まえて、中年の女性館長に取材を進めていく話になっている。女性は世界中の人が「物の声」を聴くようになったころの録音の専門家である館長の体験を聞き出し、自らの幼い時の「物の声」にまつわる特異な経験を館長にぶつける・・・。
実際の物語は、「物には声がある」と始まり、すでにそういう時代は過ぎ去り、「わたしたちは・・・もう聞こえなくなった声を懐かしむ」ようになったのだという結論が前置きになっている1篇。
「甘く生暖かい哀しみ」も、語り手の女性が狷介な性格の女性養蜂家を訪ねてインタビューする話。
しかしこちらは「静けさと喧騒」に比べSF的な設定がこの世界の存在を支えているという点で、SFファンには分かりやすい作品になっている。このSF的設定はイーガン『順列都市』に出てきた延々とイスを作り続ける男のエピソードを彷彿とさせる。
テーマ自体はすでにありふれたものであっても、この作家のスタイルで書かれた作品は不満を感じさせない。
トリの「雨雲を追って」もタイトルからは内容を想像できない話になっている。
物語は、視点人物の女性が「現実に存在しないものを作りあげてその説明を考える」という超マイナーなボードゲームを通じて知り合った女性の名義で、その女性の葬儀案内が部屋にあることに気づくところから始まる。イタズラと思って捨ててもいつの間にか新しい案内状が届き、よく見ると前と日時が違っていたりする。不思議に思った女性は最初に指定された日時に合わせ開催場所へ行くと、そこはガランとした1室で、早めに着いたせいか誰もいなかった・・・ここまでがプロローグ。
しばらくするとその場所へ、死んだ彼女と深い縁があったという若い女性と、直接は知らなかったが死んだ彼女のおかげで自分が企画したゲームが日の目を見たというゲーム会社の中年男性が登場。この二人によって、死んだ彼女をめぐって〈別世界〉からやってきたといわれる不思議なアイテムの存在が明らかにされ、その謎は彼女についての回想と結びつく形で語られ、これが本編をなす。
なお、タイトルはゲーム制作者の男性に届いた亡くなった女性からのメールのハンドルネーム「雨雲」に由来する。
この短編集に収録された作品の出典はバラバラでしかも文芸誌がほとんどない。そして掲載先のテーマに合わせて書かれていると思われるにもかかわらず、表面的なテーマは違っても、この作者の一貫した想いが伝わって来る。
そういう意味でキム・チョヨプは、サラ・ピンスカー同様、そのSF的な作品が同時に文学的であることの隙間を見せない作家だという気がする。
今回のノンフィクションはSFとは無関係だけど印象に残ったのでメモしておこう。
1冊目は小杉泰『クルアーンの世界 語りかけるイスラーム』講談社学術文庫9月刊。親本は2009年刊の岩波書店「書物誕生 あたらしい古典入門」シリーズの1冊。
なんでこんなものを読んだかというと、最近、聖書の「旧約」と「新約」の「約」ってってなんだっけと思い、ググったら「旧約」の「約」は神とモーセ一族との「約」で明らかだけど、「新約」の「約」は「約」という意味が「旧約」とは違うモノ(「主イエス・キリスト」を受け入れることが「約」なのか)だったことに、今更ながらビックリ。
ちなみにGoogleに訊くと次のような答えが返ってきた。
旧約と新約における「約」の違い
• 旧約聖書(ベリース): 主にモーセを仲介とした律法の遵守による神との関係・契約を指します。
• 新約聖書(ギリシア語:ディアテーケー): ギリシア語訳(セプトゥアギンタ)でベリースを訳す際に使われた言葉であり、イエス・キリストの流した血によって成立する「新しい契約」を指します(※「ディアテーケー」には「遺言」の意味も含まれます)。
ということらしい。そりゃ違うのも当然。
てなわけで、イスラムについては無知同然のまま中東の状況なんぞに関心を持つことがなんだか気持ち悪くなってきたので読んでみた。
まず「クルアーン/コーラン」という言葉自体が「声に出して読むもの」を意味しているので、「翻訳したものはクルアーンではない」が当たり前の話だと分かって、確かに入門書だと得心。「イスラーム」が「帰依」を意味して「帰依者」が「ムスリム」と、なるほどね。
ムハンマドについても、孤児になった後は親族に育てられ金持ちの女と結婚したことで生活は安定したが、40歳のムハンマドが洞窟で瞑想していると、天使が現れ「神の言葉だからコレを読め」と示されたところ、ムハンマドは文盲だったので読めない。それで天使の言葉を復唱して覚え「最後の預言者」になったという。
その大天使は「ジブリール」で、旧約聖書のガブリエルと同じ。ガブリエルは「神のことばを伝える天使」であった、とWIKIにある。
といういことで、旧新の聖書の有名な登場人物とクルアーンに出てくる預言者たちはほぼ重なっていて、例えば「アブラハム」は「イブラヒーム」になったとか、また聖母マリアも「マリヤム」という名で出てくるとか、まさに砂漠の宗教が、本書第2部第3章のタイトルにもなっている「アブラハム的世界」を背景に生まれ出たことを説明してくれている。
また、イスラム教とキリスト教は布教を使命とする「世界宗教」だが、ユダヤ教は布教をせず「ローカル宗教」にとどまった、という話も興味深かった。
イスラム教の基本のキは、ググればWIKI等で調べられるが、年寄りはやはり本で読んだ方がいいなあ。知識の重層性も味わえるし。
もう1冊は、武田惇志・伊藤亜衣『ある行旅死亡人の物語』毎日文庫10月刊。親本は2022年毎日新聞社刊。原型は同年2月の「NEWS47」配信記事とのこと。
親本刊行時にかなり話題になった本で、どうやら広島本らしいと書評で知ったものの、ベストセラーだったし、とりあえずスルーした。
読んでみると、武田記者が大阪の古いアパートで孤独死した女性の官報情報に興味を持つところから始まり、市役所を通して女性の名は「タナカチヅコ」と教えられ、相続管理人の弁護士まで紹介されてしまう。弁護士情報では、孤独死した女性は右手の指4本がなくこれは労災であろうとのことだったが、ほかにアパートに4000万円を超える現金を残していたことが判明。この時点で武田記者が一年後輩で同郷のよしみで仲のいい女性記者の伊藤に話を振ると即ノリで共同取材することになった。弁護士からの情報の再調査やアパートの検分の末、重要な手がかりとなったのが、故人が大事にしていたという印鑑にある名前「沖宗」だった・・・。
「沖宗」という名前を見て当方は、この苗字なら瀬戸内海の島出身かと見当して読んでたら、記者の方も「沖宗」姓家系図を調査・公表しているブログを発見、そのHPの運営者は広島県東部の府中市にいて、彼から、なんと現在は呉市になっている倉橋島倉橋町に「沖宗」姓のルーツとなった家があったとの情報を得る。記者たちがそこからさらにいろいろな「沖宗」さんをたどって話を聞く内に行き当たったのが、広島市在住の「沖宗」さんだった。ヒロシマと云えば「原爆」だなあと思いながら記者たちのヒロシマでの取材が始まる。ここまでが第1部。
第2部は、その後広島市の「沖宗」さんから親族に「沖宗千鶴子」がいたと連絡が入り、身元が判明したところから始まる。広島市の「沖宗」さんの調査が進むと4人姉妹の次女だった「千鶴子」の妹が80歳で存命していることが分かり、彼女の話から4人姉妹の母親は、これまたなんと現在は呉市となった川尻町小用出身と判明。記者たちは呉市中心部から車で小1時間の川尻町小用で「千鶴子」を知る人物に行き当たるのだった。
ちなみに、すでに20年近くも前の話であるが、当方は現役時代呉市史編纂を担当していたので、川尻町との合併条件として『川尻町史』の発刊が項目に上がっていたため、結局4巻からなる『川尻町史』を編纂するために何度も川尻町に通った。「小用」というところは川尻町の東端の海岸エリアの集落で、川尻町のなかではちょっと変わった性格を持つ土地だった。この本でも言及されているが、小用の子供は川尻町中心部の学校ではなく東隣の他村の学校に通っていて「千鶴子」もその一人だった。
閑話休題。
広島市での取材を続ける中で、戦時中の国民学校時代から戦後の中学校までの同級生に行き当たり、彼女の話によると「千鶴子」は、戸籍に広島市宇品生まれとあるように、原爆直前まで宇品の学校に通っていたが、学童疎開により母方の実家がある川尻小用に引っ越したという。
こうして当方の関心を引くところだけをつなげて紹介していても、「千鶴子」をめぐるその他の謎はいっぱいあることは明らかで、最初に「タナカチヅコ」というように「田中」姓を名乗る男がいたことは確かだ。それらしい男の写真は何枚も残っているのだが、この男のことはあらゆる記録から実在した痕跡が消えていて、最後まで謎のままだったりする。指を失った労災事故は調査ができたが、その後「労災補償」を断った理由は不明、現金の出所も不明(コツコツ貯めたかもという可能性は示される)。
本文250ページほどの1冊だったけど、当方にとっては印象深い1冊であった。ちなみに伊藤記者は親本出版の翌年に思うところあって退職したとのこと。書いた本人たちが一番深い内的体験をしたというのもよくわかる話になっている。