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続・サンタロガ・バリア (第286回) |
9月に入って雨模様が続いた後は熱暑が嘘のような秋を思わせる気候になって、あの夏は何だったんだと思わせられる今日この頃。
まずは映画の話題から。
毎日が日曜日な人間なのにIMAXで見みようとシルバーウィークとやらの連休中にわざわざ電車に乗って出かけたのが、クリストファー・ノーラン監督『オデュッセイア』。予想通りすでに7割方席が埋まっていたけれど、平日ではガランとしているかもしれず、それもさみしいかと思い人の多そうな日を選んだのだった。
肝心の『オデュッセイア』は冒頭の砂浜に下半身が埋まった巨大な木馬のシーンは素晴らしかったけれど、その後は3時間にわたる原作にあったエピソードのモザイクみたいな造りにやや退屈しながらスクリーン眺めていた。IMAXは引きのシーンは素晴らしいけれど、アップのシーンは大音響が邪魔で却ってリアリティが薄くなるような気がした。
まあ、あくまでもエンターテインメント映画としてつくられているので、以前読んだ呉茂一訳の文章から伝わる格調の高さというか神話的響きはここにはない。その意味ではハリーハウゼンの特殊効果を使った『アルゴ探検隊の大冒険』の直系子孫かも。半分以上の客がトレイにポップコーンバケットと飲み物を載せていたし。
そういやナウシカー姫のエピソードはあったんだっけ、見逃したかな(ググったら省略されてました)。
ようやくエアコンのないわがステレオ部屋でも音楽が聴けるようになったので、夏前に買ったCDだけど、気に入ったものについてメモしておこう。
まずはなんといってもBRKLASSIKから出たルドルフ・ケンペ指揮ミュヘン・フィルのライヴ録音によるリヒャルト・シュトラウスの2枚組管弦楽曲集。曲目は『アルプス交響曲』『町人貴族組曲』『メタモルフォーゼン』。どれもその後シュターツカペレ・ドレスデンを振ってスタジオ録音しているけれど、ここでのケンぺの集中力はライヴならではという感じの気迫が感じられて聴き入ってしまった。録音も50年以上前の放送用録音テープからの起こしとしては細かいところまでよく聴こえる。
これまでも取り上げたことがあるアリーナ・イブラギモヴァとセドリック・ティベルキアンのコンビが、ついにベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタの録音に取り掛かった。その第1弾が1番・2番・3番と5番の2枚組SACD。ベートーヴェンの初期の作品は当方も50歳を過ぎてからその良さが身に染みるようになったけれど、ここでは3番が面白くクレーメル/アルゲリッチの7番で大笑いして以来の楽しい演奏になっていた。
あと広島市内にある行きつけの古書店のCDコーナーで見つけたゲテモノ系クラシック2枚。
1枚はフィリップ・グラスの交響曲第6番「PLUTONIAN ODE」。タイトルからアレン・ギンズバーグとわかるヒトもいるかもしれないけれど、邦訳題「死とプルトニウムの歌」全編をソプラノに歌わせた3楽章からなる1時間足らずの交響曲。演奏はこの交響曲を委嘱したブルックナー・オーケストラ・リンツで指揮は当然デニス・ラッセル・デイヴィス。2005年発売。
ケースを開けるとなぜか2枚組だったんだけれど、気にせず「ターンテーブル」に載せて聴きだしたら、いかにもフィリップ・グラスらしいリズムで始まったものの、なぜかソプラノの声が遠くから聞こえて、野太い男の声で「死とプルトニウムの歌」の朗読が始まった。
いくらゲテモノとはいえこれは交響曲の範疇を超えているよなあ、と慌ててブックレットを開けると、これはギンズバーグ本人が残した自作全編の朗読の録音なのだった。一応最後まで聴いたけど違和感が強烈。で、もう一枚の方を聴いてみたら、こちらがソプラノだけで「死とプルトニウムの歌」全編を歌っていたのであった。要はこちらが主でギンズバーグの朗読入りはオマケなのだった。アー、ビックリした。
ちなみにこのブックレットを読んで初めてフィリップ・グラスが生粋のアメリカ人作曲家だと知ったのだった。いやあ、20年以上前から時折聴いていた作曲家だったけど、てっきりヨーロッパ系だと思い込んでいた。
もう1枚はジャズ系サックス奏者ヤン・ガルバレクと中世およびルネサンス音楽の古楽を中心に現代曲も歌うアカペラ男声合唱4人組のヒリヤード・アンサンブルによる『Officium/オフィチウム』。こちらはググると1994年の発売当時にはECMレーベル最大のヒットと云われるくらいのベストセラーだったらしい。でも当方はそのころはあまりCDを買わなくなっていたのでよく知らなかった。
聴いてみると、13世紀から16世紀の主に東ヨーロッパのグレゴリオ聖歌みたいなメロデイをヒリヤード・アンサンブルが歌い、そこへガルバレクがソプラノとテナーサックスで即興(かどうかはわからないけど)で曲をつけていくというもの。確かに北欧ジャズのインプロと教会音楽とは相性がいいらしいことがよくわかる1枚。BGM的な聴き方もできそうだ。
なおググりついでに分かったのは、ヒリヤード・アンサンブルは2014年に解散していたこと。70年代から活躍してたんだから不思議ではないが、知らなかったなあ。
ロック/ポップス系の新しいものは聴いてないけど、Mobile Fidelity Sound LabのEL&P『タルカス』を無理して買ってしまった。40パー引きでも5000円以上する。SACDで買いなおすのは初めてとはいえ『タルカス』のCDはこれで4枚目。
さすがチューンナップされたSACDだけのことはあって細かいところまでよく聴こえたのだけれど、「タルカス」自体はあまり印象が変わらず。驚いたのがB面に入っていた小品集。音の印象が随分はっきりしたおかげで楽しく聴ける。しばらくはB面ばかり聴き直すことになりそうだ。
では読んだ本の感想へ。
まずは読むのを忘れていた熊谷達也『マーズ・エンジン』。光文社から6月刊。
何年か前に『孤立宇宙』の感想文を書いた覚えがあったので、大野万紀さんがつくってくれたインデックスで捜して読んだら、今回書こうとした感想とほぼ同じことが書いてあったので、どうしようかと思った。とはいえ設定は全く違う(当たり前だ)し、過去に読んできたSFのあれこれが思い浮かんでくるのは必ずしも悪いことじゃないし、タイトル通りの壮大なSF的仕掛けがちゃんと書かれているので、その点は評価できるところでしょう。「SFはSFの上につくられる」という言葉が思い浮かぶ1作。
ただしこの叙述のスタイルからはバカSF的なアイデアのビックリ感があまり強く迫ってこないのは残念。
なんだか最近高野秀行の本の文庫化が目に付くのだけど、手を出したのは彼が学生時代(7年生でフランス語専攻だって)に訳して出版したものを、今回底本を変えて原文を見直したうえで文庫化したというエマニュエル・ドンガラ『世界が生まれた朝に』。中公文庫8月刊。
帯に「アフリカ版『百年の孤独』」とあって、主人公がキャッサバ畑で働く母親が一人でいるときに産気づいて生み落とされ、それまで伝説の人物だけが持っていたという緑の目をしていたところから人かどうかが疑われるが、長老が彼を部族の一員とした所から始まる。
いかにもマジックリアリズムが応用されていそうだけど、全体的な印象はラテンアメリカのそれというよりはモダンなスタイルが感じられる。ちなみに作者はフランス領赤道アフリカ(現コンゴ共和国)生まれとのこと。
物語はその後、彼の成長と立ち位置をめぐって様々なエピソードが積み重ねられていくが、彼の強欲な叔父が部族の王になったころ白人たちが侵入して来て、最初は武力で後には植民地化で現地文化の破壊を進めた。そんな中で主人公はそれまで呪い師の力を知識によって凌駕してきた自信を壊され、白人の「力の源泉」を探ろうと都会に出る。と、ここまでが前半。
後半は20世紀半ばまでの反植民地運動へつながる物語に向かうが、いわゆるヒーロー物語ではない形で進行するので、そこらへんは作者の文学的力量を感じさせる。エピローグでは孫世代が出てくるのでほぼ1世紀近い時間が流れているようだ。
作者の設定でやや疑問だったのは主人公が最後まで識字能力に欠けていたことで、その設定でないとこの後半での主人公の立ち位置が保てないことはわかるけれど、白人の「力の源泉」を探ろうとしたのになあ、とは思った。
解説は野崎歓で、原題は「諸起源の火」という意味だけど、高野の邦題の方がずっといいとしている。確かにねえ。
数少ない翻訳SFの新刊としてハヤカワ文庫SFから出たのが、エリック・ハイセラー『同時世界 重なりあう記憶』。原題は“SIMULTANEOUS”で中原尚哉訳。作者のハイセラーは映画界のヒトでテッド・チャン原作の映画『メッセージ』の脚本を担当したとのこと。
話の方は、国家安全保障省(NSAではなくてFBI系らしい)の予測分析課エージェントがある事件の予告情報を調査すると、前世療法の治療医とその患者に突き当たり、どうやら患者は「前世」ではなく「現世」の人間に繋がっているのではという疑いが浮き上がってきた・・・。
エンターテインメントとしては訳者の腕前もあって確かに面白いんだけど、でもこれって昔ならSFじゃなくてNVで出していたようなタイプの作品だよねえ。
そういや、ダイアネティクスは「前世療法」ではなかったけど、なんとなく似た感じだったような。
SF作家たちのノンSFが3冊。
池澤春奈『光雨往来』は角川書店4月刊。短編5編を収めて200ページほどの薄い1冊。刊行時には全然視野に入っておらず、9月初旬に広島丸善で見かけて買ったけど、中身はいわゆる台湾フリークである作者の台湾愛を披露した短編集。
タイトルを並べておくと「光を飲む」「神様のお粥」「猫猫馬馬虎虎(マオマオマーマーフーフー)」「ペトリコール」「光をほどく」
冒頭の短編では、台湾旅行に出た語り手が「光を飲む」ような中国茶を出され、そこで台湾女子との出会いのキッカケができる。
「神様のお粥」は、ひとつの横町を守るだけの台湾の小さな神様が少女の願いを聞き届けるため活躍するファンタジー。掌編だけどホンワカした感触がやさしい。
「猫猫馬馬虎虎(マオマオマーマーフーフー)」は、台湾に短期留学する語り手が日本で仲良くなった台湾の女性に自室を提供されて、そこにいた猫と少しづつ仲良くなる話。所々で猫の独白が挿まれる。
「長い間日照りが続いた後の最初雨に伴う独特の香り」とタイトルの意味の引用から始まる「ペトリコール」は、デビューはしたもののライターズブロックにかかった作家が台湾で開かれたアーティスト・イン・レジデンスに参加した時に、雨の日にしか開かないという出されなかった手紙の郵便局に行き当たり、その局員からある古ぼけた手紙を渡され目を通す話。この郵便局はファンタジーだけど、手紙の内容は歴史的な事実である「台湾慰安婦」の存在を伝えるヘヴィなもの。
巻末の「光をほどく」は巻頭の「光を飲む」の続編。台湾女子と語り手の女子同士の友情とその希望を語る。
全体のタイトルが『光雨往来』となっているのは、意味的にはやや難解だけど、内容にふさわしいと感じられる。
上田早夕里『炎陽を撃て』は、戦時期中国大陸を舞台にした一連の作品の一つと考えられるが、今回は日本が敗戦した後も中国大陸に残って国共内戦の駒として国民党軍で戦闘行為を続けた日本兵部隊がいたという史実をもとに書かれた人探し冒険小説のスタイルをまとった1篇。
視点人物は陸軍の元軍曹で捕虜収容所暮らしだったが、任務終了後日本への送還を条件に、最高機密を持ったアメリカ人がチベットの方にいて彼を確保することを旧日本軍将校から持ち掛けられ、寄せ集めの日本兵と国民党軍の連絡係などからなる分隊規模(10人前後)のチームの副隊長格として参加することにした。
この最高機密を持ったアメリカ人をめぐっては、国民軍別動隊に共産軍にアメリカ軍もそれぞれ分隊から小隊(数十人規模)レベルの身柄確保(暗殺)チームが派遣されており、中国からチベットへ向かう主人公の部隊は常に戦闘に巻き込まれる状況で長いトラヴェローグが始まる。
戦後の中国大陸の政治状況を背景に緊張感あふれる長大なトラヴェローグの部分が素晴らしく、エンターテインメントとして一級の出来で面白く読めた。なお設定が設定だけに登場人物は男ばかりである。
贅沢な不満を云えば、後半ようやくアメリカ人を探し当て彼を確保し、犠牲者を出しながらも他国派遣部隊との戦闘を切り抜けた後のエピローグがややあっさりしすぎてて、インドや東パキスタンでのトラヴェローグをもう少し長く読みたかったかなあ。とはいえ参考できる資料もないだろうし、話がダレるかもしれず、やはりないものねだりだな。巻末に掲げられた核開発年表を見ると、やはりそちらのテーマを重要視している作品なのかもしれない。
ちなみにタイトルの「炎陽」は、一瞬中国の地名かと思った(違います)けど、「えんよう」で「夏の太陽」を指すらしい。
3冊目の宮内悠介『Z線上のピエタ』は9月に出た最新刊。なんだかバッハの「G線上のアリア」をもじったようなタイトルだけど、タイトルページをめくると2024年4月~6月期のウクライナの戦況地図(よく見るロシア支配地域が示されているやつ)が見開きで現れる。
話は語り手の女性がポーランドの空港に着いたところから始まる。71歳の女性の思考は常に一人息子の思い出に向かう。ウクライナ行きのバスでキーウに入る。ウクライナで戦死した息子に関する日本大使館からの報告以上の情報を求めて・・・。
彼女は息子の死にまつわる情報を求めてウクライナ語もわからないのに現地に行けば何とかなるという思い込みだけを胸に息子の情報を求めて右往左往する。そんな中、同年代の同じ境遇のウクライナ系アメリカ人女性と出会って意気投合、息子たちが戦死した場所の近くに所属部隊の関係者がいるはずと偽の運転免許を手に入れ、検問所でバレると強行突破してしまう。こうして悲嘆にくれながらも猪突猛進する婆さんコンビの冒険行が始まり、その旅路の果てに息子たちの間にあった驚愕の出来事が浮かび上がる・・・。
奥付手前の出典には、雑誌「潮」に2025年7月号から今年の6月号まで連載とあるけれど、大きな活字の緩い字組で220ページもない長中編だ。なので語り手の視点でいろいろな観察や思いが語られているけれど、ストーリー的にはほぼ一直線。
一番の疑問はなぜいま宮内悠介がこれを書くのかと思ったら、奥付の著者紹介に「1979年東京生まれ。92年までニューヨークのウクライナ人街で育つ」と書かれていた。
あと「ピエタ」はよくわかるが「Z線」て何だろうと思いググったら「ニューヨーク市地下鉄Z線」があるとのお答え。多分そっちかな。
これもSFでは全くないのだけれど、地元の本屋に平済みされて呉が舞台と紹介されていたのでパラパラしていたら、なんと奥付前ページの参考資料9冊のうち4冊半が当方が編集にかかわった呉市史関連本だったので読んでみた次第。
土門蘭『戦争と五人の女』は、朝鮮戦争が間もなく休戦協定を迎えようといる昭和28(1953)年7月頃の(呉市)朝日町で体を売る仕事に就いている日本人や朝鮮人または混血の女性5人を取り上げ、それぞれの名前をタイトルにして1人1篇の短編とした1冊。
そのタイトルは「ユウ」「クンヒ」「世津」「ジュンヒ」「ヨンジュ/英子」。ただし冒頭に名前の紹介がない女性が登場する短いプロローグがある。また朝日町は7月末に焼かれるという不穏なうわさに関して各篇で言及がある。
最初の「ユウ」は14歳で日本人「世津」の娘である。母は他の女から男にだらしないと見られているが悪い人物は取られていない。ユウがお父さんと呼ぶ人物も朝鮮人で実父(日本人だが不明)は知らない。仲のいい同級生の男の子が14歳になったので、婆(やり手婆)「ジュンヒ」の家で見てはいけないといわれている帳面を開けて、同級生の筆おろしの相手がジュンヒの娘「英子」であることを知る。ユウはまだ男を知らなかったが、同級生の筆おろしが住んだ頃、神社に行き時々そこで会う頭の弱い変なおじさんに野外で身を任せる。視点は一人称。
「クンヒ」は、いきなり男の「僕」がクンヒを抱いてその感触を味わっているところから始まる。男は30歳で人差し指がない。故郷に妻と双子の男の子がいるが、戦争から帰って初めて双子を見たときからなぜか疎外感を感じて、この街で働き家にはたまに帰るだけである。女を買うのは初めてで、婆に紹介されたのがクンヒ。若いが偏屈な女で、通ううちに彼女がレズであり相手は「英子」らしい。それでも男は通いつめ結局家を捨てる。
といった調子で、ユウの母「世津」と婆「ジュンヒ」は一人語り。最後の「ヨンジュ/英子」は冒頭に愛する人の子が産めない体であることを告白する文章が置かれて、あとは7月ひと月の日報形式になる。結末で「プロローグ」へと帰る。
『この世界の片隅に』の映画を見た人には、ヒロインの親友となったリンさんが働いていた場所「朝日遊郭」が、昭和20年7月の呉空襲で廃墟となったことはご存じだろう。
「朝日町」はその場所含む町名である。
その年10月に米軍が進駐、翌年2月頃から英連邦軍(オーストラリア・ニュージーランド、英印師団)がやってきて、3月からはGHQの出先以外は英連邦軍の主にオーストラリア軍が呉の占領業務に当たっていたため、その相手をする女性たちが朝日町に集まっていた(占領当初は日本側で公式慰安施設を用意したがGHQが止めさせている)。
この作品は朝鮮戦争が終ろうかという時期なので、当然進駐軍はおらず(27年4月日本独立、それまでに進駐(占領)軍は撤退)当時はイギリス軍中心の国連軍(英連邦朝鮮派遣軍=イギリス・カナダ・オーストラリア・ニュージーランド。当時の呼び名は「駐留軍」)の兵士が夜の朝日町や休日の呉市をカッポしていた(ちなみに当方が昨年イギリスでお世話になったオードリッジさんは休戦後に来呉)。
ということで、この短編集の中で外人相手をする時に「シンチューグン」と呼んでいるが、それは不正確で、この当時はすでに「チューリューグン」という名前が一般的だったはず。などと専門知識を披露してもバカみたいなのは、そのような現在ではわからなくなったディテールはともかく、作者は昭和28年の朝日町の住人のリアルをフィクションとしてしっかりと書き上げることに成功しているからだ。
この作品集はその内容から予想されるような一片のメロドラマ性も示さず正義感による糾弾も表にせず、それぞれの女性のエピソードがゆるぎなく語られていく。その手つきはいわゆる昔のリアリズムもしくは自然主義からも遠くにあって古めかしさが微塵もない。
参考資料を編集した当方には、先に書いたように、歴史的な視野から見た細かいミスは目に付くものの、作品としての強度にはまったく感心するほかはないのだった。
なお、作中「朝日町」は頻出するけれど「呉市」という文字はなかったように思う。
付け加えておくと、奥付の作者紹介に1985年呉市生まれで同志社大学卒、京都在住とあって、なんと30年近く間が空いた後輩だった。
あ、それからこの作品は7月刊の河出書房新社の単行本だけど、奥付前の出典に2019年に文鳥社から元本が刊行されたとある。ググると文鳥社は今年1月に廃業とのこと。
こちらは一応『本の雑誌』で山岸真さんが新刊情報でタイトルに触れているし、大森望に至ってはティプトリーを引合に出しての★4つの高評価で、読み始めてすぐ投げたのは早すぎたかと無理して最後まで読んだのが、野沢きみ『宝石の声』。
物語は語り手の女性の一人称で、スタジオルームみたいなところで宇宙人に朗読を聴かせていて、しばらくするとその宇宙人が「宝石」を吐いて去っていくというところからいきなり始まる。続いて現在大学生の女性が中学2年の頃に宇宙人がやってきたと説明が入り、宇宙人は別の銀河の母星から地球を観察し続けて、地球人がようやく宇宙人の存在を理解するようになったので、友好を求めてコンタクトしてきたとのこと。実は同レベルの知的宇宙人がいるのはこの二つの銀河にあって宇宙人の星と地球だけだったらしい。
なんで地球に来て女性の朗読を聞いて宝石を吐き出すかというと、宇宙人は同族同士の戦いの長い歴史を繰り返した挙句テレパシーを獲得。誤解の生じない平和な世界を築き上げ、そのため発声という行為も失われていたが、なぜか地球の女性の声に惹かれ、その声を聴いているうちに「宝石」を吐き出すことになったらしい。
まあ、SFですね。でも話の9割は語り手の女性の一人語りであり、彼女にとっては不幸な家庭とどうにも息苦しい町に育ち、その中で幸せな思い出を回想しつつ、高校時代にこの仕事に応募、先生方に呆れられながらも「朗読者」に選ばれたという経緯が語られる。彼女には地球全体がどうなっているのかについては関心がない、というか作者の眼中にないといえる。
読んでいると女性の現在の境遇にそれほどのストレスがあるとは思えないのだけれど、それでも彼女は常に「自分の家にいるのに、どうして私はまだ、帰りたい、と思うのだろう。ほかに帰る当てもないのに」(ティプトリー!)という念に付きまとわれていて、最後の最後までその念に突き動かされ、お似合いの恋人をおいて地球を出て行ってしまうところで話が終わる。
当方が読む気をなくしたのは、自らの生い立ちを回想する不幸語りが始まったからだけど、今回は大森望の評価を信じて今頃になって最後まで読み終えたわけだ。
これは宇宙人が出てくるのでSFといってもいいけど、基本的には語り手の女性の「念」を書き上げた文学系の作品といえるだろう。SF味という点では間宮改衣や土形亜理らよりもまだ薄い。「第20回小説現代長編新人賞受賞作」と帯にある。
SFらしいSFが出ない/読めない月が続いているけれど、その喝を潤してくれたのが、国書刊行会刊の新SF叢書オムニフィクション・シリーズの第1回配本、鯨井久志編訳ジェフ・ライマン『オムニセクシャル ジェフ・ライマン傑作集』。いや、良かったなあ。
収録作品タイトルを並べると、「バース・デイズ」、「影たちは笑う」、「オムニセクシャル」、「ポル・ポトの美しい娘」、「征服されざる国―ある一代記」、「ロザリオとゴールデンスター」、「ホーム」、「ぬくもり」、「ぼくたちが見つけたもの」の9篇を収録。
このうち「ポル・ポトの美しい娘」が古沢嘉通訳で「オムニセクシャル」と「征たれざる国―ある一代記」が中村融訳、それ以外が編者の訳になっていて、解説はもちろん編者の鯨井久志。
どの短編も素晴らしいが、当方としては昔読んだストーリーがほとんど思い出せなかったものの、ライマン自身の増補版によって中村融氏が訳し直したという「征たれざる国―ある一代記」が強く印象に残った。その点では「ポル・ポトの美しい娘」も『SFマガジン』掲載時に読んだかどうかも忘れているが、今回読めて嬉しかった。小川哲が『ゲームの王国』のアイデアを思いついたときこれらの作品は意識されていたのかなあ。
それ以外の新訳作品では、タイトル作「オムニセクシャル」が、冒頭から女はハチドリを産み男は妊娠し何かが何かを産み出すタイトル通りの「汎セックス」物語だし、「バ-ス・デイズ」も「かつて人類は、同性愛が生殖にどのような利点をもたらすのかわからずにいた」時からの変容を描いているし、「影たちは笑う」に至っては女が不可触領域を抱えた「女たちの国」に入ろうとして失敗する話だ。
ということで前半に収められた新訳の作品群は「性」に関するテーマを前面に出してSF的アイデアや幻想的なイメージや奇妙な女族の世界を描いている。
最初に取り上げた既訳のある2作の後の作品群には、ある邸宅を舞台に若き俳優時代のシェイクスピアを登場させてジョン・ディー博士の知り合いとしてティコ・ブラーエの友人2人と会話させる「ロザリオとゴールデンスター」や近未来ロンドンの荒廃した雰囲気の中で老人の帰る場所がVRテクノロジーでつくられている「ホーム」、そして母親にではなく保育ロボットに愛情を感じてしまった青年の、ちょっとテッド・チャンみたいな物語「ぬくもり」など異色な作品が並べられている。
巻末の「僕たちが見つけたもの」は、「科学的事実」は観察されればされるほどその現象の成り立つ確率が下がっていくというバカSF的なアイデアをブッ込みながら、これから田舎娘と結婚するのに逃げ出したくなった青年の物語をナイジェリアのある町を舞台に展開した1作。
実際当方のこんな紹介を読むより、編者がいつも通りの的確この上ない作品解説をつけているのでそれを読むのが一番だけど、まあそれでは作品を読む楽しみはなくなってしまうから、当方のグダグダな文章も無駄ではないかも。その点ではいつものように岡本俊弥さんのところを参照した方が安全で分かりやすいですね。
どちらにしても今回はこれがあってホッとした。
今回フィクションで最後に読み終えたのが、オキシタケヒコ『筐底のエルピス9―絶望時空―』。「あとがき」にあるように初巻から12年かけてようやくでた完結編。目出度いことである。先に読み終えた山岸真さんは今年の国内SFベストにしようとツブやいてました。
第1部に当たる凄惨な「捨環戦/廃棄未来」編から第2部はノホホンとしてアクションをこなすスタイルに変更されたものの、最後まで読んでみれば第2部も世界が「廃棄未来」と同じ運命をたどることは変わりない(=「絶望時空」)が、こちらはその未来に希望を持って覚悟する結末が素晴らしい。とはいえ相変わらず読んでて恥ずかしいところが多々あるが。
それにしてもよくここまで広げた風呂敷を畳んで見せたものだと感心する。ユイちゃんのチートにはさすがに呆れるが、それはそれとしてこのスケールでSFのアイデアを披露できたことは称賛に値するだろう。
小川一水の“天冥の標”以来の大型シリーズが出来上がったようだ。
そういえば、ここでも『宝石の声』同様、「宇宙が寂しい」ようだけど、これが21世紀のスタンダードな感じ方なのだろうか。
ノンフィクションは3冊。
「朝日町」を舞台にした小説のところで『この世界の片隅に』に触れたけど、10年前この映画を見てその衝撃に他人の感想をいろいろググっていたときに見つけたのが、細馬宏通。当時は地方の大学の先生で、バンド演奏もやっていたりしていたけど、呉を舞台にしたこの映画についてもかなり入れ込んでいた。というのも彼の父親が呉市吉浦町出身で・・・とあって、え、呉の細馬って、吉浦誓光寺の代々住職を務める家の親戚かと思い至った。
その細馬宏通『浅草十二階 塔とまなざしの近代』が文庫化されたので読んでみた。河出文庫8月刊。親本は2011年、青土社刊。
「浅草十二階」といえば、関東大震災(1923年)でぽっきり折れたレンガ建ての塔であることは誰でも知っているけれど、ここでは「浅草十二階」こと「凌雲閣」がいつどこでだれが何の目的でどのように造ったのかをはじめ、完成後の評判や客は何を見たのかや経営者側はどのような内装をして見物人をいざなったのか、などが詳細に調べられ考察されている。
しかしその叙述は学術書のそれではなく、例えば当時はやりの見世物として「パノラマ館」があったが、見世物としての「パノラマ」が一望できる景色の「パノラマ」へと語義が変貌した過程の記述などは非常に面白く、いかにも現代的な可読性を追求した書き方を目指した形になっている。また章立ても1階から12階までとシャレている。
そのほかにも、建築施工についての情報が、開業式(1890年11月11日)の式辞でお雇い外人のバルトンの設計、工事監督伊澤土工師となっているにもかかわらず、その後いろいろな説が書かれたとか、バルトンと伊澤そして浅草十二階の内部に飾られた美人写真の写真師小川一眞の3人は、当時はまだ少なかった写真趣味を通しての繋がりがあったとか、また開業当初鳴り物入りで設置されたエレベーターはどうして翌年には廃されたのかとか、トリビアも満載だ。
しかしこの本は、副題に「塔とまなざしの近代」とあるように数多くの図版を入れ込んで、「視覚文化論」と「表象文化論」にまたがる「人の視線」の有り様を「浅草十二階」を肴に語ったもので、当時の新聞記事や文学作品からの引用は当然としても、塔倒壊後にも「浅草十二階」に言及のある文章を博捜、果ては辻潤にまでたどり着くという守備範囲の広さも見せている。
なんで「浅草十二階」だったのかということも最初に動機説明があって、読み応え十分だった。
文庫版あとがきで著者は、この本が最初の著作でその後増補もしたが、いまではこの本を書いた当時と情報の取り方が全く変わってしまったので、こういう書き方はもはやできなくなった、としている。なお著者は現在早稲田大学の先生をしているらしい。
星新一『きまぐれカプセル』は、解説も書いている星マリナの編集による未収録エッセイ91篇と未収録ショートショート3篇を収めた1冊。新潮文庫。
星新一の文章を読むのも久しぶりという感じがするけれど、収録エッセイは内容による年代順に並べたということで、数えたわけではないが、印象としてはデビュー当時から70年代までに書かれたと思われるものものが多いようだ。まあショートショートの大家として確立されたのちの未収録エッセイが少ないのは当然か。
巻頭のエッセイからして「媒体名、掲載年月不明」となっていて、解説によると星新一の未収録エッセイはアンケートへの回答などを含めると400篇以上あり、それらは切り抜きのままやスクラップブックに貼られたものが多いらしいから、どうしても掲載先不明が出るということだ。
内容に関しては、これまでの星新一のイメージから極端に逸脱するものはないけれど、こういう感じだったのかと思うような文章はあちらこちらにある。SFファンとしてはやはり「文芸春秋」1970年11月号の「SF人の会合」及び「学士会報」第709号(1970年10月)掲載の「空想的交通論」と題した国際SFシンポジウムのレポートが興味深い。 それにしても新潮文庫で46冊もの作品が現役とは恐れ入るなあ。
急いで読む必要のないエッセイ集だったけど、締め切り日に読み終わってしまったのが、中野善夫『積読の流儀』。国書刊行会7月刊。書下ろしを含めエッセイ類を60篇以上収める。
SFファンダムでは「パランティア」をはじめとするファンジンで個性的な文章を書いて名をなしていたけど、その後はイギリス幻想文学の翻訳者としても一家をなしたのは大したもの。奥付の著者紹介では、日本大学教授とあって、当方は初めて本業を知った次第。
肩書はともかく、既発表のエッセイやTwitter/Xに書いた140字コントの「金魚」シリーズなどを除くと書下ろしのエッセイがほとんどで、これだけの数を書いて見せたのには感心した。
基本的な叙述スタイルは、著者が国書刊行会から出したヴァーノン・リー、イーディス・ウォートン、フィオナ・マクラウド/ウィリアム・シャープのそれぞれの単行本の解説を繋げた形で書き直したという「古い幻想小説を読むということ」の重厚さを除けば、その独特のユーモアで統一されている。
この本が古手のファンやあらかじめ著者を知っている人たち以外どれほどの人の手に取られるかはわからないが、著者は2冊目のエッセイ集を出す気満々らしい。
すでに大森望が『本の雑誌』でその面白さを称揚しているし、当方がここで「面白いよ」と云ったところで売れ行きには関係ないだろうな。