続・サンタロガ・バリア  (第285回)
津田文夫


 なんともはやとしか云いようのない災害続きの夏がようやく終わってくれるのか。こんな状態になっても何もしない「大国」や「先進国」とやらの愚かさをいまさら嘆いてもはじまらないので、個別対応でやっていくしかないんだろうな。でもこれから先はもっと大変だろうに。シンギュラリティといったところでそれを支えるエネルギーが調達不可能になることは目に見えているし、フィクションはどこまで行ってもフィクションだ。
 などとグチっていても仕方がないんだけど、さすがにこの8月は遠出もせずイベントにも参加せずで、おまけにプロパーSF(特に翻訳)の新刊が全く出ないという夏があろうとは、不平のひとつでも出ようかというものである。『本の雑誌』の山岸真さんの8月新刊情報もまるで『SFマガジン』のすけきよ氏の新刊情報同様でホラー/怪談系が花盛りだもんなあ。

 ということで、この際だから気になった未読の作品をいくつか読んでみた。

 上田岳弘『キュー』はもう何年も枕元の本の小山に埋もれていた1冊。この本の小山は大体新型コロナウィルス流行前にできて以来そのままになっていたもの。ほかに閻連科『硬きこと水のごとし』などが積まれている。
 上田岳弘『キュー』に戻ると、2019年5月初版のハードカヴァーで、新刊当時に大野万紀さんが本誌で紹介されている。当方は感想のみ書くので、話の組み立てに興味のある方はそちらを参照してください。
 さて、当方の読後感は「空虚」な話だなあというものだった。以前にも何度か書いたように、当方は「満州国」が大嫌いで、わざわざ読みたいとは思わない人間なのだけれど、石原莞爾が出てきた時点で気分が乗らなかったこともそんな感想が湧いた原因かも(小川哲の直木賞受賞作は「満州国」モノとしては超変化球だったので面白く読めた)。
 この作品が「空虚」だと感じられるのは、石原莞爾の「(世界)最終戦争論」をダシにした語り手の祖父が口にする「世界」や、ヒロシマの原爆で六千度の熱で焼け死んだ少女の生まれ変わりと称する語り手の同級生である女子高生が「私の中には第二次世界大戦が入っているの」と語るその「世界」が何の実体も感じさせない「空虚」な言葉に過ぎないからだ。
 もう一方の700年後にコールドスリープから目覚め正体不明の「語り手」からオマエが人類最後の人間だと説明を受ける謎めいた登場人物も、リアティの希薄さではこの作品「世界」の「空虚」さを強調しているようにしか見えない。
 この物語世界での「世界」の狭さと「空虚」さは、語り手が祖父や同級生の女と一堂に会して展開する終結部で最も強く感じられる。
 帯にいわく「いよいよ、人類を終わらせるんだ。」とあるが、この作品世界に「人類」は不在だ。

 恩田陸『鈍色幻視行』上・下とその設定の元となった架空の小説(いわゆる作中作)、飯合梓『夜は果つるところ』を丸ごと書いて見せた恩田陸『夜果つるところ』が文庫化されたので、この順番で読んでみた。
 当方は恩田陸の愛読者ではないのでその作品を読むのは久しぶり。奥付手前の初出を見たら『鈍色幻視行』は、2007年から12年まで集英社のWebジンに連載、1年間の中断を挟んで2013年から22年にわたり『すばる』に連載。なんと足掛け15年の連載小説で、『夜果つるところ』は2010年から翌年にかけて『小説すばる』で連載したのち、単行本化は2023年に今回の文庫と同様6月に『鈍色…』翌月に『夜・・・』という形で行われている。以前読んだ『愚かな薔薇』も長期連載だったけど、これにはさすがに恐れ入る。

 『鈍色幻視行』の方は、作家である妻と弁護士でミステリマニアの夫が、2度の映画化の試みがどちらも死者を出したことで中断されて、呪われた小説とされる飯合梓『夜は果つるところ』を巡って、それに関係したであろう人物を夫の伝手で集め、豪華客船で香港に向かう2週間の旅をしながら彼らの話を聞き、それを作家である妻が作品化する材料にするというモノ。
 物語は妻と夫のそれぞれの一人称と3人称で書かれたパートが交互に出てくる形で進行する。ただし、下巻の大半をなすインタビュー・パートはその原則から離れているように見える。
 読み始めて思ったのは、夫のミステリマニアぶりを描写するシーンに、当方にはミステリへの興味が全くないんだなあ、ということだった。クリスティの作品群についての蘊蓄などには、フーン程度の反応しかできないのだった。それでも話の方はそれなりに面白いので、読み進めるには抵抗がなかったけど。
 それが下巻で妻による「Qちゃん」へのインタビューを嚆矢としたインタビュー集になると、俄然ギアが切り替わったかのように面白さがアップして、恩田陸の旨さが前面に出てくる。このインタビューの最後の人物が夫になるだろうことは予測がついたが、その内容は当方の想定外だったので、ややビックリ。まあ、エンターテインメントとして幕引きは泣けるものであるという鉄則があるのかも。そのあとに「大団円」や「エピローグ」がくるのも大長編ならではサービスであろう。

 『夜果つるところ』は、飯合梓『夜は果つるところ』という本の内表紙から1975年初版で出版社名とその住所もある本物そっくりの奥付までを丸ごと収めた形で造本されている。この奥付の後がいきなり恩田陸の作者あとがきになっているという徹底した遊びでできた1冊。
 こちらは『幻視行』でその内容の一部についてさんざん言及された作品ということで、陰惨な内容であることはある程度明かされていたけど、実際語り口調はホラーっぽく、前半が人里離れた娼館で過ごした小学生くらいの少女時代を回想したもので、その娼館には彼女の3人の母親がいるというやはり紹介済みの設定で語られている。ここまでの話が『幻視行』で強く印象付けられたエピソードであるが、後半は「カーキ色」の制服を着た男たちが多数出入りするようになり、ますます陰惨なエピソードと妖しいエピソードが語られる。結末では『幻視行』で言及されたように、この娼館が燃え上がる。この後半の設定は、明らかに2.26事件に材がとられているが、物語内での具体的な言及はない。
 なお『幻視行』で大きな話題の一つとして紹介されていたエピソードに、作者「飯合梓」の正体があって、その中でこの作品は編集者の男が女性と偽って(面会時には女装して)書いたものだという意見が出てくるが、さすがにそこまでのものを感じさせる内容とは思えなかった。
 物語としては人物評とそれに伴う小さなエピソードの積み重ねでできていて、そのディテールを無視すれば、設定の大枠は密室殺人もののようで、リニア―に進展したもののように思える。
 作者は架空の小説作者になりすまして書くのはある意味ラクチンだったとあとがきに書いているが、そういう意味では一種の一筆書きなのかもしれない。

 あまりに暑いので、何か涼しくなりそうなものをと思い、そういえば未読だったと手を出したのが、ウラジーミル・ソローキン『吹雪』。原書は2010年で、邦訳は2023年刊。実質200ページ余りの中編だけど、お値段は3000円超。
 ソローキンの作品としては以前読んだ『テルリア』よりも前の作品で、そこでも設定に使われていたロシアが小国に分裂した時代の物語になっている。
 中編だけあって、物語の設定は超シンプル。ある村が伝染病(ゾンビ感染)で壊滅しそうになっているというので、ドクター・ガーリンは今いる駅からワクチンをもってその村へ向かおうとするが、吹雪で誰も乗り物を出してくれない。たった一人応じてくれたのが、小型馬50頭をエンジン代わりにして車を走らせる素朴な男。そして二人は猛吹雪の中を村目指してつっぱしる・・・。ただそれだけの話だった。
 猛吹雪による危機また危機の道中だけれど、何度も道を見失い、何度かこれでもはや行き倒れかいうときに、人家や自然人でない者たちの家で休息を取るエピソードが挟まれていて、これが面白い。
 とはいえ物語の方は最後まで猛吹雪のなか、医者と御者の奮闘が続いてそのまま終わっているんだけど・・・。
 なお、訳者(松下隆志)あとがきによると、御者のあだ名は原文では「いがらっぽい咳をする」という単語に由来する言葉「ペルフーシャ」だが、訳語としては意味合いを汲んでロシア風の名前「セキコフ」を考えたという。こういう苦労(またはサービス精神)は相変わらずなんだなあ。また、このあとがきの最後でウクライナ侵攻から1年が経ったと書いている。

 勢いに任せてウラジーミル・ソローキン『ドクトル・ガーリン』にも手を出した。こちらは2021年に原書が出て昨年訳された1冊。本文450ページ。お値段は5700円(ヒェーっ)。新刊当時には岡本俊弥さんが書評に取り上げているので、すっきりした紹介が読みたい方はそちらをどうぞ。
 こちらのガーリンはサナトリウム「アルタイの杉」の経営者として、以前治療した作家が寄こした感謝のメールを読み、添付された彼の新作を読んでいるところから始まる。そして出かける準備に看護師兼秘書で愛人の女性を呼び出す・・・。
 『吹雪』を読んですぐにこちらに取り掛かって思ったのは、「アルタイ」ってどこだっけ、というものだった。本書には地図がついてないのでググると「アルタイ」地方はモスクワと日本海沿岸とのちょうど中間。西をカザフスタンの国境と接し、東はモンゴルまで200キロくらいという地勢である。
 で、読み進めていくと新刊当時話題となった、あのお尻だけになったG8の各国首脳が収容患者として出てくる。ファーストネームなので、トランプやプーチンやメルケルそれにシンゾーはすぐわかったもののベルルスコーニやジョンソンやトルドーは思い出せず、マクロンに至っては今も現役だというのにファーストネームからは思いつかなかった。我ながらボケっぷりに驚く。
 物語全体は、隣の国からの核攻撃でガーリンと職員がG8患者を連れてサナトリウムを脱出して以来、とびっきり面白い設定が次から次へと披露される盛りだくさんのトラヴェローグとなるんだけど、なぜか読むのには時間がかかって2週間以上抱え込んでしまった。
 ここでのガーリンは足がチタンになっており、それは『吹雪』の最後で遭難して助け出されたときに凍傷で足を失ったことが原因で、ガーリンの回想でそのことが分かるが、サナトリウム経営者になった経緯やG8患者の収容の経緯はそれほど印象に残るものではなく、その後に続く各地での「地獄めぐり」の強烈な印象のおかげで忘れてしまう。
 とにかく『青い脂』や『親衛隊の日』で感じられたあのパワーがここで蘇ったかのようなエピソードが続く上、ガーリンが手に入れて読む書き物の内容の断片がこれまた面白いので、その点ではほぼ満点の出来。ただし最後の救いはやや興覚めな感じがあるけれど。
 この作品でのガーリン自身の性格は『吹雪』の時の傲岸なエリート意識の持ち主ではなくなっていて、最後まで愛人の生存と彼女との再会を願う姿はもはや別人のようである。 ここら辺については、訳者(松下隆志)解説によると細かい名称などが『吹雪』とは変わっていて、この世界自体が『吹雪』と世界と微妙に変化した世界である可能性を指摘している。
 あとガーリンが目指した極東のハバロフスクの病院でかならずや救いの手を差し伸べてくるはずと期待する「モチヅキサン」という設定があるけれど、これはおそらく初期長編『ロマン』を訳した望月哲男からとった名前と思われる。

 山尾悠子『鏡の角度』は、「現代詩手帳」をはじめ、数多くの詩集・詩論を出してきた老舗出版社思潮社から出た薄いハードカヴァー。数ページの掌編を12篇に「あとがき」代わりの「付・鏡の角度あるいは鏡の中の鏡」を収めて100ページに満たない。また装幀が地味と派手が同居するデザインで、表裏何も印刷されてない白紙の遊びページをぜいたくに使った造本でいかにもな1冊。
 何しろ表紙見返しの次がパラフィンで次が遊びページ。そのあとに内扉が現れる。それをめくるとタイトルと作者名だけのページが現れるが、裏白で、その次は「目次」のみ。目次自体はさすがに見返しから始まる見開きだけど、そのまた見返しには写真・装幀・図版表示があって、再度白紙の遊びページが入る。ここまでぜいたくをするなら各篇のタイトルも扉式にしたらよかったかも。そのために売価の2200円が2500円になったとしても売れ行きには関係がなかったろう。
 もったいなくて1日1篇ずつ読んだけど各篇の内容については触れないことにしておこう。
 収録作のタイトルだけ並べておくと、
 「バルトロメウス或いは蝟集性について」
 「夜の宮殿とオネスティの犬」
 「無限の図書館」
 「夜の駅舎と女たち 庭園」
 「春の祭典抄」
 「眠れる黒いヘルマフロディトス」
 「《アウトサイダー》」
 「夢見る階段愛好者の話」
 「スワンの恋」
 「漏斗と螺旋その他」
 「真っ青な空中にぴんと張られた綱を渡っていく……」
 「エンタシスと黒松の美術館」
 各篇のタイトル自体も贅沢さを思わせるものが多くて、いかにも山尾悠子らしいけど、タイトルを見ただけ内容に関してピンとくるものがいくつかある。
 たとえば「無限の図書館」。これはどうみてもボルヘスがでてくるだろう。その次の「夜の駅舎と女たち 庭園」はシュールレアリスムの画家ポール・デルヴォーを思い起こさせる。以前にも書いたけど当方が学生時代(山尾悠子も同年代)に京都岡崎の美術館でデルヴォー展が開催され、当方も見に行ったけど、山尾悠子は多分熱心に見ていただろう。「《アウトサイダー》」からは当然ラヴクラフトが思い起こされる。と思ったら参考文献にウエルベックのラヴクラフト論が挙げられていた。そして「エンタシスと黒松の美術館」からは名指しはされていないが大原美術館が想起される。
 実際、ここに収められた各篇は山尾悠子が若い時から今までずっと抱いてきた偏愛するものについてのエスキース(これは本来は未来への準備だけど)になっていて、いわば山尾悠子は何からできているかのカタログとも云えそうだ。その点では、『山尾悠子偏愛アンソロジー 構造と美文』と一対になる作品集といっていいかも。
 作者本人は思潮社からデビューしたかったとウェブで書いているけれど、1970年半ば当時の詩壇がどういうものだったか当方も全く情報を持たないが、たぶんSF方面とはほぼ没交渉だったんじゃなかろうか。
 ちなみに、詩を読む趣味はない当方も、当時夏休みに地元図書館の新刊コーナーにあった吉岡実『サフラン摘み』(1976年初版)を借りて読み、その華やかなエロティシズムに幻惑されたことを覚えている(青土社版がデジコレで読めます)。

 ようやく8月の新刊として読んだのが、井上雅彦監修『骨董箱 異形コレクションLX』
 60巻目ということでめでたいのだけれど、監修者がハヤカワ文庫SFで『恐怖とSF』を出したせいか、今回の収録作及び収録作家にSF関係のものは少なく、SFファンとしてはやや期待外れ。
 とりあえず収録作家だけ列挙しておくと、篠たまき、黒木あるじ、上條一輝、澤村伊智、藍内友紀、大島清輝、井上雅彦、田辺青蛙、久永実木彦、牧野修、斜線堂有紀、天沢時生、空木春宵、北沢陶、芦花公園の以上15名。600ページを超える分厚い1冊。
 いつも云うように当方はホラー不感症なので、前半に収録された作家の作品では心が動かされるようなモノが少なく、ある作家の作品など、妹の首なし遺体を発見した兄が動転するどころかその理由を考えだすなど呆れるようなものもある。
 後半に入って田辺青蛙「箱守の娘」も、冒頭は不幸な孤児を作り出すためだけのあまりにも典型的な叙述に鼻白んだが、その娘が攫われていった先での本編は禍々しさで記憶に残る話になっていた。
 久永実木彦以下のSF関連作家の作品の中では今回初登場の天沢時生「神の見えざる手」が30ページ足らずの短編だけど印象に残った。
 お題はサッカーで、「神の手」が出たあの伝説の選手を、長年の友人で同じく天才的選手だけど常にナンバー2で、今や老人となった男が回想する話。ただし、「神の手」選手の名前は「スオウ」か語り手の方は「クゼ」であり、舞台は日本らしい。これがSFなのは、1ページ目で「神の手」が生まれた瞬間を描写した後、次ページから本篇が始まるが、その第1行目が「夜になれば、街に蝸牛が降る」という文章で始まっていることで分かる。そんな世界で「神の手」の持ち主と語り手のエピソードが展開されるんだから新鮮味ではピカ一。
 期待の斜線堂有紀「乞函」は、没落した家の娘が娼館の島へ送られる時に肌身離さず持ち続けている「乞函」にまつわる残酷譚だけど、今回はやや説得力に乏しい。対する空木春宵「ゴス・リヴァイヴァル」は、いかにも空木春宵らしい漢字多用の文体で書かれたゴシック・ドール・ファンタジー。今回はちょっと少女漫画っぽい。
 久永実木彦「さようなら、グーテ」は監修者解説にあるように、痩せ行くペットを前面に出したペット・ロスもの。当方はペットに関心がないので共感できず。牧野修「因果骨董店の中庭(パティオ)」は、冒頭ビルから飛び降りる男のシーンから始まり、気が付くと助けられていたという、あまりにもありがちなオープニングだけど、話の展開はなかなか複雑怪奇でカナリアという少女もロマンティックに造形されている。
 巻末の2篇のうち北沢陶「梅霞」は、鶯狂いの男がいわくつきの鳥かごに最愛の鶯を入れて飼う話で、典型的な怪談話だけど堂に入ったもの。
 トリの芦花公園「ヨブは問う」は、語り手が古本屋で手に入れたキリスト教の箴言集に前の持ち主の悩みと誰とも知れないものの回答が書きつけてあることに気づいたが、語り手もやはり同じことをする話。いわゆるロジック・ホラーな1篇。昔だったらフレドリック・ブラウンが書いていたかも。
 この作品はタイトルから分かる通り旧約聖書の「ヨブ記」を下敷きに使っていて、もとが超古典ということもあって読ませる。
 当方はこれを読んで、何年か前に親父の蔵書から抜いて読んだ関根正雄訳の岩波文庫版旧約聖書シリーズのことを久しぶりに思い出したので、そのことをちょっと書いておこう。
 関根訳の岩波文庫は旧約聖書の創世記、出エジプト記と詩編に何冊かの預言書それに諸書の内といわれるこの「ヨブ記」からなっている。当方は詩編以外全部読んだけど、「ヨブ記」を読みながら「いつまでたってもクジラの話が出てこんなあ」などと思っていたことは秘密だ。もちろん「ヨナ書」は「十二小預言書」の中の短いエピソードで、「くじら」は当然「大きな魚」である。関根正雄は「ヨナ書」は預言書としての性格が弱いとしている。
 「ヨブ記」に戻ると、この話は非常に七面倒くさい議論の連続で、延々と続くヨブの神への疑問とそれをたしなめる学者たちの説得とそれでも納得しないヨブが最後に神を受け入れる物語になっている。いまやその内容はちっとも思い出せないが、今回「ヨブは問う」を読んで頭に湧いてきたのが、「全知全能だから神なのではない。神だから全知全能なのだ」というヤツ。これが神を信仰することなんだけど、当方はいまだにその方には疎いままだ。

 ようやくSFらしいSFの新作が読めたのは、『紙魚の手帳 GENESIS』Vol.30の掲載作のおかげ。
 トップはいつものように第17回「創元SF短編賞」受賞作春鹿未明「鳥なき島」
 読み始めてちょっとビックリしたのは、『夜果つるところ』と「乞函」を読んだあとに、外形的な設定としてだけど、これも島が丸ごと娼館になっているような話だったので、偶然にしては出来過ぎ、ちょっとしたシンクロニシティになったこと。
 SFとしての内容紹介は飛浩隆選評に簡潔にまとめられていて「単為生殖の新人類と、性搾取の島に取り残された人びと。この世界の両極を「コウモリ」の多義性で架橋し、ある人物の人生を回顧する」というもの。やはりポイントは高山羽根子も言及している「回顧」の語り口と「性搾取」のテーマ性にあると感じられた。SFとしてはやや文学寄り。気になったのは話者が1人称に「わたし」を使ったところかな。
 高谷再「踊れ生徒会長」は「鳥なき島」の後ですぐ読むとその落差に頭がクラリとするシンプルな学園コメディもの。強力な女子生徒会長が任期途中でアメリカへ留学、気弱な男子書記は後継として会長選に立候補する・・・。ほとんどSFな話ではないけど、アメリカの前生徒会長が生徒会用に残した彼女のAI人格がなぜかコンピュータではなくダンシングフラワーにインストールされていた所から始まるので、SFとして読めるのだ。
 「異形コレクション」で新鮮な短編を書いて見せた天沢時生「長い別れ」は、私立探偵のお話。となればこのタイトルはチャンドラー『長い別れ』のパロディかと目されたが、読んでみるとコードウェイナー・スミスのアンダーピープルが人間より優勢になった時代の東京での話みたいになっていた。
 宮沢伊織「ときときチャンネル#12【インターネット3で検索するだけ】」は、今回多田羅さんが「インターネット3」検索用GUIとしてシューティングゲーム画面を造ったところから始まる。もちろん「検索ワード」は無しなので「数打ちゃ当たる」式。話はそこから展開する。今回は抽象度が高い話なので読む方もぴんと来ない所が多い。
 宮西建礼「光路」は、ジェイムズ・イングリスの「夜のオデッセイ」とバーサーカーと異星文明との邂逅をミックスしたようなハードSF。人類がいない理由は現代の様相を見れば言わずもがな。
 さわやかと云えばさわやかな1篇。「踊れ生徒会長」や「鳥なき島」と続けて読むと「SFの浸透と拡散」がジャンルSFの中でも生じていることが確認できる気がする。
 雨露山鳥「数と泥」は、なんとバビロンの街に住む「数の神」とその押しかけ世話人の少女の話。言及される有名人の名前からググると紀元前700年頃の話らしい。もちろんファンタジーとして作られているので細かいことはどうでもいいんだけど驚きはする。結末はどちらかというと仏教的な救いが訪れているような感じだけど。
 小川一水「星間戦艦ゴフルキルA8の完勝」は文明化した星々の破壊を絶対的使命とされた「無敵」宇宙戦艦が自分語りをするシリーズの最新作。
 でも今回は出だしから様子がおかしく、自らの母星を救いに超光速航法から通常空間に抜け出るところから始まっている。というのも「シリンジ・シジン。二六万年前、『永久なる至宝玉を探してくれ』とおれに頼んだ、不可解で強力な存在。そいつが俺の故郷を破壊するかも・・・」という事態が発生したから。
 今回、ゴフルキル君はシジンとのやり取りの間に、なんと絶対的使命の解除という驚くべき行動を見せている。ということで、なんでそんなことになったのかは読んでからのお楽しみ。
 最後はマーサ・ウェルズ「信頼関係」。これは解説にもあるように《マーダーボット・シリーズ》のスピンオフで、20ページ足らずの短編。シリーズの主人公「弊機」は最後まで顔を出さないけど、最後でこのシリーズのスピンオフであることが分かる。訳者はもちろん中原尚哉氏。
 連載の彩瀬まると久永実木彦も読んだけど途中の回だけ読んだ感想は書かずにおこう。読み切り短編だけでも充分面白いSFアンソロジーになっている。

 今回最後に読み終わったのは、理山貞二『すべての夢、果てる地で』創元日本SF叢書33。6篇を収録。堀晃さんの力のこもった解説付き。
 表題作が第3回創元SF短編賞受賞。2012年刊の『拡張幻想 年刊日本SF傑作選』に収録されてデビュー作となった。初の短編集刊行まで14年を要し、しかもたった6篇収録って、いかに兼業作家とはいえ寡作に過ぎよう。とはいえ収録作に凡作はひとつもなくたぶん今年出たSFとしては最高水準の1冊。
 収録作については堀晃さんが丁寧な解説をされているので、まず表題だけ並べておこう。
 「折り紙衛星の伝説」、表題作、「四元数(しげんすう)の悪魔」、「ディセロス」、「キャプテン・セニョ-ル・ビッグマウス」そして「黒い星の伝説」。
 書下ろしという「黒い星の伝説」以外はすべて再読。と云ったって、昨年の『紙魚の手帖』掲載の「キャプテン・セニョール・ビッグマウス」以外は2010年代の作品で当然ほとんど忘れているので初読同然だ。
 「折り紙衛星の伝説」はさすがに矢野さんの名作短編のオマージュタイトルなので、わずかながらその感触を覚えていたけれど、表題作他の計4篇の方はほとんど思い出せない。
 表題作「〈すべての夢|果てる地で〉」は、マンションの1室でデイトレーダーをしている視点人物が外から来た5人組に襲われる所から始まるけれど、すぐに視点人物が「フォグ」と呼んでいる「フェルミ粒子で出来た自律機械」が出てきて5人を一瞬で倒してしまう。「フォグ」は3体いてそれぞれ〈問いのアーサー〉、〈解のアイザック〉、〈過程のボブ〉と云う・・・。
 これはロートルSFファンにとっては、大好物なハードSFバカ話で、夢のファン創作ともいうべき1作。エンターテインメントがすべてオールドSF絡みというぜいたくさ。一般性という点では現在の流行と合わない気はするけど楽しけりゃそれでいい。
 「四元数の悪魔」も「折り紙衛星の伝説」同様矢野さんの作品リスペクトな1作だけど、こちらは超ハードな理屈が絡んでいて、それが「四元数」。作品中にそのフィクション用の解説があるけれど、Wikiで「四元数」を読んでも一言も理解できない当方には難解。それでもこれがホラーのパートと結末のエンターテインメントの理屈として使われているらしいことはわかる。
 「キャプテン・セニョ-ル・ビッグマウス」は一応記憶に新しいので、再読してもあまり印象は変わらなかったけど、今回気になったのはタイトルの由来。というのは以前SACD盤のチック・コリア&ゲイリー・バートン『クリスタル・サイレンス』の話を書いたけど、このアルバムの1曲目が「セニョール・マウス」なのだった。関係あるのかしらん。
 「ディセロス」は、火星ヒト至上主義勢力マーズクランの攻撃を受けた地球側企業所有宇宙工場のAIが、危機に際して機能人格保持者である保安傭員たちに戦闘を任せて沈黙、緊急事態にいきなり少女型アンドロイドボディで目覚めさせられた視点人物人格は、保安要員中に裏切者がいてそいつが他の保安要員の一体を破壊し心臓に当たる大きめのサイコロ型装置を奪って自分に装着、能力を倍加していることを知らされるのだった・・・。
 ということで、孤立した環境での範囲探しミステリが骨組みなんだけど、サイコロ型のSF的なガジェットが5分後の確定未来を見せるというトリックによって複雑なストーリーラインが作られる。当方は一読ではどう解決されたかがわからず再読した。最後のページの語り手の正体は今でも確定しない。
 なお、タイトルの「ディセロス」は、作中人格/人物の解説によると、サイコロ型の心臓部が「黒いサイコロ」に見えるので、「黒サイ=黒犀=ディセロス」なんだそうな。作者の発想のスタイルが窺えるような・・・。
 書下ろしの「黒い星の伝説」は「ディセロス」事件にかかわったらしい祖母の話を小学校教師の孫が聞く20ページの短編。ただし舞台は木星の衛星カリストの地下。マーズクランはいまだに火星を支配しているらしい。話の方は「ディセロス」の迷宮をさらに伝説化したもの。

 ノンフィクションも何冊か読んだけど、歴史関係が多いのでSF系を1冊だけ。

 なんだか小説以外の本ばかりが出ているみたいな、小川哲『こうやって作家は言葉を紡ぐ』実業之日本社6月刊は、いわゆる作家同士の対談集。対談相手は以下の通り。
 渡辺祐真(インタビュアー兼司会)、中村文則、万城目学、飛浩隆・大森望、高瀬隼子・渡辺祐真、尾崎世界観、葉真中顕・渡辺祐真、京極夏彦、呉勝浩・今村昌弘、佐藤究、町屋良平・渡辺祐真、魚豊・渡辺祐真 以上14名。500ページ近い1冊。
 ひとつひとつの対談に言及する気はないけれど、小川哲が対談相手との距離を意識して話しているのはよくわかる。あと、あいかわらず小川哲の「アタマの良さ」が目立つ。
 でもそれは京極夏彦には通じず、創作の方法論は語れてもなぜ創作するのかについては乖離がある。その意味では小川哲は山尾悠子と対極にある作家ということになるんだろう。


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