続・サンタロガ・バリア  (第281回)
津田文夫


 10年も経ってキング・クリムゾンの2015年大阪公演がCD発売されたので、地方公演(大阪2公演・高松・名古屋)セット『日本公演補完シリーズ in SHM-CD 2015年ジャパン・ツアーBOX 3 地方公演編』を大人買いしてしまった。
 この時の大阪2日目公演を見た感想はこの欄でも書いた記憶があるので、大野万紀さんが作ってくれたインデックスを頼りにその記事(332号)を読んでから、12月13日のCD2枚組を聴いてみた。
 改めて聞いているとオープニング前のオケ・チューニングノイズやアナウンスが収録されていて、3階席の一番前で身を乗り出すようにして聴いていたのを思い出す。演奏そのものの記憶は、CDの録音がクリア過ぎることもあって、同じものには聞こえないことが多い。それでもシンフォニーホールでの光景が目に浮かぶし、左隣り席の若い女の子は席の前に松葉杖を寝かせていて、女の子を見たら睨まれた記憶も蘇ってきた。
 ほかの公演はまだ聴いていない。

 ついでに最近聞いたロック系のCDの話を書いておくと、近頃は本代がかさむので、HMVの40パーセント引きでもCDは2000円以下のものを選ぶようにしていて、今年になって買ったロック系ではデーモン・アルバーン率いるゴリラズ『ザ・マウンテン』が面白かった。今年でたバリバリの新作。正確には音楽がというよりインドの神々も混じる風景の中にメンバーを埋め込んだイラスト集になっているリーフレットが好印象のもとだけど。ゴリラズのCDは初めて買ったけど、もう9枚目だったのか。余談だけど、ジャケットの表にはヒンディー語がひと綴りあるだけなので、このジャケットのタイトルは何語で書いてあるのかとググると、AIが英語で書いてあると返してくる。英米では別のジャケットなのか、ググってもこのジャケしか出てこないけど(厚さ2ミリくらいの背中にはヒンディー語の後にThe Mountainと書いてある)。

 あとアラン・パーソンズ・プロジェクトの紙ジャケ・リイシュー版も安売りしてたので、中期の『運命の切り札』(1980)と『アイ・イン・ザ・スカイ』(1982)を入手。アラン・パーソンズ・プロジェクトも当時はてっきり米国産ポップ・プログレだと思って敬遠していたけど、ググるともともとイギリス出身だった。今回聴いて音楽自体は予想通りのサウンドと歌詞だったけれど、ビックリしたのはその音場がスピーカーの外側へほぼ半球状に広がったこと。位相をいじってるんだろうけど不自然には聞こえない。今はこういう音の広げ方は珍しいのではないだろうか。

 そういや、ルシンダ・ウィリアムス “the world's gone wrong”のアルバムも買ったんだっけ。こういうタイプの音楽に興味はないんだが、アメリカがアレだからねえ。「エピタフ」や「21世紀バカ」の歌詞がいまだに有意なんだから、バカは死ななきゃ治らない。

 では読んだ本の感想へ。今回は文庫落ちばかり読んだ気がする。

 SFじゃないような気がしたけどSFっぽいだろうと思って手を出したのが、ハヤカワ文庫JA2月刊の安野貴博『松岡まどか、起業します』。2024年刊の親本(そのときは、「―AIスタートアップ戦記―」という副題があったが文庫化で改題とのこと)は読んでない。親本出版時には都知事選に立候補して落選したけど、2026年の現在は、参議院議員で政党「チームみらい」党首なんだからビックリする。
 話の方は、「内定取消って、一体どういうことですか」と、ヒロインのセリフで始まる第1行から「私――起業します」と、クビを宣言した内定会社の人事担当部長に啖呵を切るところまでわずか3ページ。そこからはその会社にインターンで配置されていた部署の女性上司に見込まれる一方、ハゲタカ並の起業投資家の融資を受けて大ピンチ・・・、ということで、あとは起業家版ハイスピード・シンデレラパターンが展開、ほぼ抵抗なく読み終えることができる。
 この設定で安野貴博らしいのは、ヒロインが中学生くらいからパソコン相手にコミュニケーションを取ろうとしていて、社会人になりかけの今は複数のAIキャラを操作、まるでAIフェアリーのウィザードみたいなテクニックの持ち主(女性元上司はそこに起業の活路を見出した)であること。
 あと物語後半で、ライフログをソースとした人格アップロード的なAIによる再現人格が登場するんだけれど、作者はちゃんと倫理的なブレーキをかけているところにSF作家としての安野貴博が感じられる。
 基本的にはSFというほどのテクノロジーの未来は描かれていないのだけれどパターン通りのエンタメとしては悪くはない。

 柞刈湯葉 『重力アルケミック』は、親本は星海社2017年刊だったけれど、3月に新潮社で文庫化された1冊。ほぼ10年ぶりの文庫化ということになる。
 『横浜駅SF』でデビューして間もなくの作品だったが当方は未読ままだった。今回文庫化に当たり「文庫版あとがき」が付されていて、これが物語の主人公自らが10年後の状況を語ったもの。
 内容についていまさら紹介するまでもないけれど、これが『横浜駅SF』同様、こちらではインフレーションを地球全体に施した(膨張する地球)上で、物語は福島や関東圏を舞台に進むところは当時の作者の発想法を感じさせる1作。
 おそらくグラヴィトンの和訳であろう「重素」が、研究しつくされたひなびた学問になっているところが面白い。まあ地球の質量と膨張の関係を考えると肝心の重力コントロールが理屈にならない恨みはあるけど。「重素」専攻の工学系大学生がそれまであまり知られていなかった空気抵抗を利用した航空技術に開眼するところも一興。

 20年ぶりに河出で文庫化されたのが、リチャード・パワーズ『囚人のジレンマ』上・下。親本は白水社で2007年の刊。訳者は柴田元幸・前山佳朱彦。刊行時の訳者あとがき及び文庫版同あとがきは柴田が担当。円城塔の短い解説(というかこの小説とパワーズに関しての円城塔の関心のありどころ)か付されている。原書はパワーズの第2作で1988年刊というから訳されるまでに約20年、文庫になるのに20年と、当方は40年前の作品を今読んだことになる。以前第1作を同じ河出文庫落ちで読んでいたので、読みたいSF新刊が途切れたこともあり、手を出した次第。
 これもいまさら内容紹介する必要はなさそうだけれど、白水社板からも20年ということで忘れられている可能性が高いし、ちょっとだけ大枠に触れておこう。
 まず、これは父親、男女女男の4人の子供と母親からなるホブソン一家の家庭小説として書かれている。解説では「基本的に三つの物語が交互に語られる形式となっている」として、パート1は時代設定が1970年代末で、子供たちは末っ子以外はすでに若者となっていて、「単純に章番号がつけられ、三人称(とはいえ4人の子供の誰かの視点)で語られ」る。次に「第二次世界大戦中のアメリカ史を基本とする」年号が章題になっている、基本的に父親の若者時代のエピソード集。ただし史実に忠実でない話が展開している。そして「『謎』のように何らかのフレーズを章題」として息子の内の「誰かが一家の暮らしを回想し、父親の過去を再構成する」パート3からなっている。
 ということで、戦時中は飛行機整備士として戦後は歴史教師となって評判を得たものの、考え方が世間と折り合わず、ついに心のコワれた親父とその子供たちの関係を中心に、作者は、家族だけの物語という狭い世界と20世紀アメリカの精神史ともいえそうな広大な視点を同時に駆動して見せている。
 タイトルは、親父が習慣としていた、その膨大な知識からひっぱりだして子供たちに問いかける「謎」のひとつ。
 なお、解説の円城塔の関心の一つは、近現代史上の人物をフィクションだからと云って作者が好きに人物造形してよいのかというもの。ここでは祖先に日本人がいた(もちろんフィクション)ことで戦意高揚アニメを日系人を大量に雇って作ろうとしたというウォルト・ディズニーがそれにあたる。

 昨年のベストに選ばれるような作品で読んでない作品として今回読んでみたのが、若島正編訳トマス・リゴッティ『悪夢工場』。岡本俊弥さんの書評も参考に、同じホラーなら『肉は美し』より内容の見当がつかない方を選んだ。
 表題は原題"The Nightmare Factory”そのままだけど、解説によると原書は自選ベスト短編集で45篇を収録。そのうち9編を訳したものが本書らしい。
 収録9編のタイトルを並べておくと「戯れ」「アリスの最後の冒険」「ヴァステイリアン」「道化師の最後の祭り」「ネセキュリアル」「魔力」「世界の底に潜む影」「ツァラル」「赤塔」となる。このうちカナタイトルは作者の造語で、内容との関連は言葉の響きぐらいしか手がかりがない。そのほかは何らかの形で内容を表す題名となっている。
 ホラーの鑑賞能力がない当方には、「戯れ」の古典的ホラー語りや「アリスの最後の冒険」の高齢となった女性童話ホラー作家の老醜がもたらす恐怖といったパターンに反応できないのだけど、作者の真剣な創作態度には感心する。
 これらに比べると「ヴァステイリアン」は「奇妙な夢を年代順に記した」読む者を狂気へいざなう書物のタイトルで、これは解説にもあるようにラヴクラフトの影響が感じられるが、面白く読める。「道化師の最後の祭り」は道化師を研究し自らも道化師を演じる研究者が先行する研究者が紹介した田舎町を訪れそこの祭に参加する話だが、これもやはりラヴクラフト風だなあと思っていたら、文末に「H・P・ラヴクラフトに捧げる」とあった。
 解説では、初期の作品からはラヴクラフトほかの古典的ホラー作家の影響が見えるが、その後は「他のどんな作家にも似ていない」独自な存在になったとしている。
 確かに「ネセスキュリアル」は語りのレベル構成はかなり凝っていて、タイトルは図書館の研究員が古文書類から見つけた無記名の手記に出てくる島の名前からとられていて、「私」という一人称で語られているが、まだ外枠があることも示されている。でも内容的にはラヴクラフト的と云えないこともない。
 「魔力」は10ページ余りの掌編。町のさびれた片隅にある廃れた映画館に入ってしまう男の話。オーソドックスな怪談タイプ。続く同じ長さの掌編「世界の底に潜む影」は、タイトルの「世界」が町はずれの畑に立つ案山子とその周囲が暗黒世界である1篇。わずかな文章で「世界」を作り出している。
 「ツァラル」は40ページ足らずを12のパートで構成した、後に廃墟となった教会の親子を中心にして語られる、一種の呪われた町もの。緊密な構成で読ませる。タイトルは書物の題名でもあり、それが示す暗黒世界でもある。
 巻末の「赤塔」は、「廃墟と化した工場は三階建てで・・・」と語り手が説明するところから始まるその廃工場「赤塔」の歴史。語りは淡々としているが、内容はかなりエキセントリックでSFファンにも楽しめる。
 全体としては、あまりホラーを読まない当方としては以前いくつか読んだラヴクラフトの作品群に似た印象がつよく、またラヴクラフト同様エンターテインメントというよりは一種の生真面目さが感じられる。
 良くも悪くもキリスト教の影の中に存在する物語群、というのがこの作品集から得た当方の感想。解説では「反出生主義」の影響が云われているけど、よくわからない。

 前回カジシンの文庫を読んだせいか、本屋の棚に梶尾真治『もののけエマノン』が刺さっていたので読んでみた。エマノン・シリーズの新刊を読むのも今世紀に入って初めてのような気がする。
 5編を収めて210ページの薄いソフトカヴァーで、巻末に『SFアドベンチャー』1979年12月号掲載「おもいでエマノン」以来の全作品リストがあって、それを見るとエマノン・シリーズは2012年以来、徳間書店総合文芸誌『読楽』(ググると現在は電子書籍版しかない)に掲載されるようになったらしい。
 ということで、超久しぶりにエマノン・シリーズの新作を読んだのだった。
 収録作は以下の通り。1篇の長さは大体40ページ程度。
 「またたきホイアン」ホイアンはヴェトナムの街。不随意タイムリーパーのヒカルの願いでホイアンに住む若者を訪ねていく話。この長さでエマノンは老齢を迎えるまでになる。
 「ありあけジーン」は語り手の男性から見たエマノンとの交流を描く。場所は特定されてないが「 石塘(いしども)」がでてくるので、ググったら熊本の話だと分かった。「ジーン」はもちろん受け継がれる遺伝子で男の家系にかかわる。
 「まどろみフォッシル」も熊本と宮崎の県境の「霧立越は九州脊梁にある」と始まるし、視点人物は熊本市内に勤める人物。山歩きが趣味だったが、いつものルートを外れ迷いエマノンに遭遇する。今回のエマノンはヒカリから頼まれた異常現象「ヒーリングスイング」を修正するためにそこにいた。「フォッシル」は山の露頭に見える化石群。
 表題作につながる「もののけジャンクション」の方は、語り手が市街地近くの低山崩岡山へ知り合いと登り、いつもとは違う道を下りるとエマノンらしき女性を見かけるが、下山途中ケルンのような石積みを崩してしまう。すると語り手の家に次々と妖怪現象が発生し始めた・・・。「崩岡山」は架空地名らしい。「もののけ」というだけあって、広島県三次市に伝わる「稲生物怪録(いのうもののけろく)」も出てくる。最後はもう一つのビッグバンが誕生する話でスケールがでかい(割にはこじんまりとしているけど)。
 トリの「さまよいサンクチュアリ」は、カズオ・イシグロの作品とちょっと似通った感じがあるクローンを主題にした1篇。カジシンらしくこちらは淡い感じで話が結ばれている。
 こうしてみるとカジシンの地元を舞台にした話とか、「フォッシル」のように趣味のキノコの話とか、ある種超ベテランらしい自在ぶり。視点は若い頃よりロマンチックな感じが後退してやや突き放した視点が窺える。とはいえやっぱりカジシン印は健在というところ。大したものです。

 ちょっと目先を変えて読んでみたのが、これまた文庫落ちの畠山丑雄『地の底の記憶』。親本は2015年で、作者のデビュー作で文藝賞受賞作とのこと。最近芥川賞を獲ったらしい。河出文庫4月の新刊。
 全く知らない作家だったけれど、オビに「架空の土地の100年を描く」とあったので、スワ『百年の孤独』に挑戦かと短絡して手を出した次第。一見それなりの厚さだけれど、よく見たら200ページしかなかった。
 架空の土地「宇津茂平(「うづもひら」と読ませる、「うづもへい」では人名だ)」は日本海側にあり、流路は短いが川幅が広くゆるやかに流れる宇津茂川の河口に広がる平野で、川に溜まる泥のせいで夏には工業廃水や家庭汚水の悪臭が漂う。その一方森林覆われた丘陵の上流は清流である・・・と、まずは土地の描写から始めていて、それなりに期待をあおる。まあ、三島由紀夫だって『潮騒』を島の説明から始めているのだから、どんな話が始まるのかは必ずしも明らかではないが。
 実際には、物語は相互に繋がった三つのパートからなり、最初に現れるのは上流の橋で川に飛び込む高学年の小学生3人、男子二人女子一人。内一人の男子が視点人物、もう一人はクラスのボス的イジメっ子で、女の子はクラスで浮いているけれど、視点人物は好意を抱いてる。もちろんイジメっ子は脇役で、カップルがメイン。
 一方、この3人の通う学校の理科教師は子供相手にアリストテレスとガリレオを持ち出して重力の蘊蓄を語るエキセントリックな先生だが、この先生の過去の話と現在とのつながりがパート2で、パート1で子供たちが川の上流にポツンと建つ一軒家を発見し、そこからはお化けの代わりに美しい等身大人形を妻と紹介する怪しい人物が出てくるが、彼は教師の過去と現在に繋がっている。
 パート3は歴史編で、日清戦争の頃この丘陵地の山に鉱脈が発見されて鉱山開発が行われ町は人口増加。子供たちがいた上流の橋も明治30年代半ばにこの鉱山へ行くためにかけられたというが、様々な問題から間もなく廃れて、明治末に閉山した。ところが、同時期にひょんなことからロシア船が近海で難破、助け出されたロシア人船長はここに住み着いて、鉱山学の知識を生かし廃鉱山の経営に乗り出すと、地元出身の政治家の娘を嫁にして幸せな人生を送るはずが、妻が早世。妻に執着する男は妻そっくりの人形を作らせたのち、酒浸りのまま死ぬ・・・。
 と、200ページの小説としてはなかなか盛沢山。特にこの話がファンタジーとして機能するのは、鉱山開発に伴って廃坑となった洞窟には「ヤツら」とも呼ばれる何かがいて、それが怪物や妖怪が出る噂の元であり、山の一軒家で男が妻とする人形は、小学校教師ともう一人別の男との学生時代に彼らと一緒だった女子学生がその後精神を病んで亡くなり、男の家にいるのはその身代わりで、もともと洞窟の中から発見されたというミステリが強力に働いているからだ。また、シベリア出兵の頃に地元出身の政治家(ロシア人の義父)が誘致して建てられ戦後廃止されたという、町で一番高い電波塔建築は教師たちの話に深く絡みついている。
 文体の面からすると、小学生たちの物語と教師と人形を妻とする男のエピソードが同レベルの冷静な語りで進行するタイプで、 結末はある種尻切れトンボだし、これがエンターテインメントではないことを示している。

 恒川光太郎『箱庭の巡礼者たち』も2月刊の文庫落ち。親本は2022年角川書店。単行本刊行時に本誌で大野万紀さんが詳しいレビューを書いておられる(415号)。奥付前ページに「文庫化にあたって加筆修正を行った」とあるけれど、これが初読な人間には違いは判りません。
 表題通り、冒頭の1篇で少年が拾った空箱の中に中世的ファンタジーに出てくる町の様子が見える設定から、各連作は一見その世界とは関係ないような世界の物語も収められているが、各篇を読み進めるうちにそれらは関連していることが分かる。ここら辺いついては大野万紀さんのレビューを読んでいただきたい。
 こういう各エピソードの独立性とつなげ方のスムーズさは、『地の底の記憶』のつくりに比べ、はるかにソフィスティケートされたものになっている。それがこの作品を心地よいエンターテインメントとして成立させているともいえる。
 読後の感想は、『地の底の記憶』と並行して読んでいたので、文体の違いに頭がにクラクラしたけれど、こちらは非常によくできた連作ファンタジイで、これぞプロの手技だなあ、というもの。満足です。

 読みたい新刊SFがないといいながら、マット・ディニマン『冒険者カールの地球ダンジョン1』はどうなんだといわれそうだけど、新刊を目にしたのち続きと一緒に2冊購入したものの、最初の10ページほど読んで投げた。岡本俊弥さんの書評での評価や『本の雑誌』大森望書評欄の「面白いよ」という紹介を見て、再挑戦したけど、70ページほどで、やはりリタイア。RPGゲームに全く興味がないので仕方がない。
 むかし関西のSFファンが集まって毎年山陰の海水浴場に行っていたころ、ある年民宿にAPPLEⅡc を持ち込んで(持ってきたのは安田均さんだったと思うけど)、ダンジョンズ&ドラゴンズのワイヤフレーム迷路を歩くデモを見て感心していたくらいの記憶しかない人間だからねえ。

 で、ようやく期待の新刊SFが創元推理文庫から出て、わずかな日数で読み終わってしまったのが、林譲治『ゲノム・トーカー』
 『地球老年期の終わり』に続く、クラーク・オマージュな第2弾。今回は人間の愚かな政治状況をできるだけやり過ごす形でストレートにクラーク的主題を現在に移し替えて見せている。
 ストーリーの枠組みは、ちょっとだけ『宇宙のランデブー』を思わせるものの、メインはやはり『2001年宇宙の旅』と『幼年期の終わり』で、エピソードが進むごとについついニヤニヤしてしまう。「ゲノム・トーカー」自体は『幼年期の終わり』のイメージだし、海の底で発見された「NUMA」が一万六千年前に発信された電波の発信源と疑われる話は、まんま「前哨」/『2001年宇宙の旅』だし。
 それにしても林譲治のこの現代SFのつくり方はひとつの発明といえる。ここまでクラークの代表的作品群を換骨奪胎して、なおかつSF中毒者の期待を裏切らないどころか手玉に取って喜ばせてくれるパワーは凄い。まあ、この作品でもメインの登場人物たちがエリート日本人すぎるとか、『幼年期』や『2001年』の最後のシーンを受け継ぐ最終章が短すぎて不満だというようなところはあるけれど。でもそれはないものねだりと云っていいかもしれない。
 とにかく楽しく読ませていただきましたです、ハイ。

 その点、読みやすいくせに楽しいかどうかさえ判断に苦しむのが早川書房最新刊としてハードカバーで出た円城塔『土人形と動死体』。2023年から今年にかけて発表した短編5篇を含む、書下ろしと合わせて15篇からなる連作短編集。各篇は20ページくらいで統一されていて、総ページは300ページ。既出作品5篇のうち3篇が既読。
 15篇はそれぞれ5篇ずつ、「第一部:Shell」「第二部:Kernel」「第三部:Root」に振り分けられていて、既出作5篇のうち3篇が第一部、2篇が第2部に収録。第三部の5篇はすべて書下ろし。
 で、当方は典型的文系SFファンなのでShell/Kernel/Rootの違いがよくわからない。
 ググったところAIの要約は―「シェルはユーザーとカーネルの仲介役(通訳)であり、コマンドを解釈してカーネルへ伝えます」―とのこと。さらに細かい説明をまとめると、シェルは、ユーザーが入力したコマンドを受け取り、それをカーネルが理解できる形式に翻訳して実行を依頼するプログラムで、カーネルはハードウェア(CPU、メモリ、ディスク)を直接管理するOSの核心部分で、ルート (最高権限)はシステムの全ての操作権限を持つ管理者ユーザー、ということらしい。
 だからといって、それぞれのパートの5篇がこれに対応しているのかについてはチンプンカンプンである。当方の感じでは、第一部が話の設定、第二部が展開、第三部が終局といった常識的な云いかえがせいぜいである。
 表面的にはこの連作世界はハイファンタジー的体裁をとっていて、第一部の5篇は表題作を除き二部三部との直接の関係はない。第二部と第三部はほぼ一連のストーリーを形成しているようで、ここでは表向き魔術が世界を作っていて、魔術でなんでもできてしまう魔王たちとか、頭を増やして時空のすべてを見通すドラゴンがいるとか、日常生活にも魔法を使うのが当たり前の人間が「人間」であり、単に魔法が使えないだけの人なのに魔法が使えないのはソウルレスであるとされ、この世界では人間扱いされていない。
 そして、そういう世界設定はおかしいのではないかとする強大な魔術師がいて、彼女はこの世界から魔法を消してしまう術を世界にかけようとしているらしいが、魔術世界の支配者たちはそれは世界危機ではないかと懸念する、というのが第二部の展開。
 で、魔法世界の危機を良しとしない魔王やドラゴンはその彼女の住む魔法に対しては難攻不落の城に攻め入ることとして、魔法に縁のないソウルレスを秘密兵器として送り込むのが、第三部終局ということになる。
 とはいえ、副題にある"If you were a Golem, I must be a Zombie"が仮定法であるように、「土人形と動死体」の表面的設定はあくまで仮想であって、特に第一部の短編群に見られるように内実は論理的アクロバットというか、当方にはなんでそうなるのかよくわからない理屈が全編を貫いているような感じが持続する。
 表面上の読みやすいファンタジーは、デビュー当時の数理的幻術を繰り出すことでその分からなさを表向きの武器にしていたことを思えば、ここでは表面上のありふれたファンタジー世界の馴れ馴れしさが難解な論理的アクロバットを読ませてしまっているようにも思える。円城塔SFもここまで来たかという印象が湧いてくる1冊。
 あと、2023年に最初の1篇である表題作をものにしたときにこの構想がすでにあったんだろうかという興味も湧いてくる。

 今回最後に読み終わったのが、今回3冊目の河出文庫、阿部登龍、空木春宵、桜庭一樹、麻耶雄高、雛倉さりえ、文月悠光、宮田眞砂、宮田愛萌『百合小説コレクション wiz2』2月刊。
 新刊時に、今回は阿部登龍と空木春宵しかいないけど、1も買って読んだし、桜庭一樹と麻耶雄高もあるしと思い買っておいたのだけど、積読になりつつあったので、読んでみた次第。
 雛倉さりえ、文月悠光、宮田眞砂、宮田愛萌の4人は当方には全く縁のない作者だけど、1990年代以降に生まれた作家たち。元アイドルグループ所属という宮田愛萌を除き百合系作品でデビューしている。
 この4人と麻耶雄高の作品は高校生以下の少女たちの物語であり、女子校での密室殺人事件を扱った麻耶雄高を除けば、表向きはどうあれ、ピュアな少女たちの恋物語である。このうち、雛倉さりえ「庭園香」が香道に取材して、ちょっとこの世離れした香道の天才少女との出会いと恋を描いて滑りの濃い雰囲気を作り出している。「女による女のためのR‐18文学賞」出身という作風があるかも。
 で、これらの作品を読んだ後、最後に空木春宵、阿部登龍、桜庭一樹と並んだ作品群は、少女たちの物語の細やかさから一転、ほとんど破壊力しかないという別世界が展開する。
 ます空木春宵「fallin' XXXX with ...」は、飛び降り自殺する女子高生が地上に激突する瞬間に、昔はカーミラと名乗っていた超絶美少女の吸血鬼に助けられ、その吸血鬼との生活を延々と回想する1篇。凝った構成で章ごとに「告白」タイムが付いていて、この語りが嘘だらけであることを印象付けるが、最大の嘘はもちろんこの物語である。
 それにしても抗うつ剤や睡眠誘導薬に中毒した寝不足の美少女吸血鬼(当然不老不死)とはねえ。
 阿部登龍「わたしが愛したファイナルガール」は、さらに破壊力が増して、近未来のアメリカで作られているスプラッタ―/スラッシャー映画のシーンから始まる。舞台はもちろんキャンプ場。いきなり若い女たちと脇役の青年たちが次々と破壊されてくシーンから始まっていて、面食らう。
 語り手はハイスクール時代に起きた大量殺人事件のサバイバーだったけど、なぜかこの映画を製作している。話の最大のポイントは映画での殺人鬼とハイスクール時代の事件の本物の殺人鬼の正体にある。ホラーには違いないが、メインは語り手の恋心。
 参考資料はもちろんコロンバイン高校事件なんだけど、それにしてもなんでこんな話なんだろうとは思う。
 トリの桜庭一樹「来世は春の泥になりますように」は、貧困と暴力の家庭に育ち愛を拒むことで身を守ることにした女性が語り手。こちらも語り手が高校時代に、その町で代々続くお殿様一族の娘でエリート美少女なお嬢様にひょんなことから気にかけられて、その関係が大学生や社会人になってからも濃く薄く延々と続いていく。最後は、作者の現在の年齢に近くなるまでになる。
 このアンソロジーの作品群に例を取ると、雛倉さりえ「庭園香」と空木春宵「fallin' XXXX with ...」を混ぜて香道と吸血鬼を抜いたようなつくりといっていい。結末はちゃんとこのアンソロジーの主流テーマに沿ったものになっているところが、桜庭一樹か。タイトルは和歌の一節から。
 それにしても空木春宵と阿部登龍のテーマのつくり方がその他の作品と違いすぎて笑えるなあ。 

 ノンフィクションは1冊

 藤岡みなみ編『超個人的時間旅行』はハヤカワ文庫JA4月新刊。タイトルから傑作短編集かと思ったら、エッセイ集に近かった。
 編者前書き「旅のご挨拶」にあるように、25人26篇(編者のが2編)を収録して、本文230ページ足らず。各篇の最後に見開きや1ページの、基本的に著者提供の写真が付してあるので、実質1篇平均8ページ足らず。
 収録されたエッセイの多くに共通するのは、記憶をどう扱うかによるタイムトラベルと云っていいようだ。極端な話、単に年を重ねていくだけでもタイムトラベルではないか、ということになるが、まあ、それはそうだ。後半のエッセイでは酒やら何やらで記憶を失うことがタイムトラベルみたいに見えるというのもよくある感想ではある。
 これらのエッセイに共通するのは、基本的にどの1篇も楽しく読めることだろう。
 ただし、小山田浩子「こことどこかをいまといつかを」は、戦前陸軍検疫所があり原爆投下後には遺体搬送先兼避難先になった広島湾の似島(にのしま)見学から、現在平和公園となった戦前及び被曝時の市街地の存在へと思考を巡らせて、いまの歴史認識が現在の平和1点張りナレーションのために重層性を失っているのではないかと告発していて重い。


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