内 輪 第420回
大野万紀
先月出たエドワード・ブライアント『シナバー 辰砂都市』。ぼくが訳したわけではなく(訳者は市田泉さん)解説を書いただけなんですけど、おおむね好評なようでとても嬉しい。解説に書いたように、ぼくにとってとても思い入れの深い作品なのです。
本書についてのXでの感想の中に翻訳家の垂野創一郎さんの、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」に言及されたものがあって、まさにその通りと思いました。実は解説にもそのことを書こうと思っていたのですが、長くなりすぎるからと削ったのです。『シナバー』が出たのと同じ1976年にアルバムが発売され、翌年シングルが出たこの曲に、ブライアントと直接関係があったとは思えませんが、まさに同時代性。歌詞からも『シナバー』と同じ閉塞感に満ちた不気味で幻想的な雰囲気を感じます。退廃、倦怠、迷宮性、70年代のテーマソングの一つといっていいかも知れません。
それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします。
2024年11月刊行。主に文芸誌やアンソロジーに掲載された中短篇6編が収録されている。いずれも力のこもった幻想的な作品である。
「未(ひつじ)の木」はSF的な言葉でいえば並行世界の話ということになるだろうか。
単身赴任して離れて暮らしている自分に、夫から結婚祝いだとして贈られてきた大きな「未の木」。それは贈った人間にそっくりの花を咲かせるという木だった。確かに小さな花を咲かせ、そこから夫の形をしたものがポトリと落ちてゆっくりと動く。可愛いと思う。会社で「未の木」について聞くと、何だかエロティックなもののように口をにごされる。同様に、夫の方へも妻から「棲(ねぐら)の木」が送られてくる。こちらは妻の姿をした小さな花が咲く。互いに連絡しても通じない。スマホに返事は来ず、スタンプも未読のままだ。もう一つの世界からの贈りものなのか。急に会いたくなって二人はそれぞれの今の住居へと向かう。しかし……。
木を送ったのは一体誰なのか。結婚していた記憶は誰のものなのか。謎は謎のままだが、がらんとした喪失感とともに、ほんのりとエロティックな雰囲気のある作品だった。
「ジュヴナイル」は西崎憲さんのアンソロジー『たべるのがおそい』に収録された短い作品。
こども食堂で食事をしようと友だちに誘われた小学生のユート。そこの食事は美味しくないことで有名なのだが。そこに転校生のニワが来ているのだという。その子がいるとびっくりするようなことが起こるんだそうだ。いかにも不味そうな料理がならんだところで、転校生に頼むよと言うと、ニワは言葉を紡ぎ出す。その言葉通りに、子ども食堂は豪華なレストランに、食事も素晴らしく美味しいものに変わる。
ユートは夜中まで家に帰って来るなと親に言われており、ぶらぶらしているとニワと出会って彼の家に誘われる。そこにあった「ジュヴナイル」と題されたノートにびっしりと書いた文字をニワが読むと……。
物語によって現実を変容させる少年の話だが、その変容は結局何ものももたらさない。現実と仮想現実である物語との関係性を考えざるを得なくなる短編である。なお作者あとがきによれば、この作品は「自生の夢」の前日譚なのだそうだ。
「流下の日」では一見リベラルなユートピアに生まれ変わったかのような未来の日本が描かれる。伝統的家族観を捨て去り、夫婦別姓、同性婚、二重国籍が認められ、所得の再配分や雇用者の権利拡大、我が国に居住する外国人への最高水準の人権保障などが実現される。ただし、社会保障制度は個人ではなく家族(それは血縁によらない家族も含む)単位とされ、「三世代仲良く同居し、仕事は定時に帰り、ご飯を家族でいっしょに食べ、休みの日は大いに遊ぶ」という「なかよし家族」の社会である(ここですでに不穏な感じがするが)。
それを作り上げたのは、四〇年ずっと首相を続けている乙原朔(おんばらさく)だ。生まれは女性だが性自認は男性で、すでに百歳を超えている。この社会を支えるのが二つのテクノロジーだ。生体内コンピューティングの〈切目(きりめ)〉と生命成形技術〈塵輪(じんりん)〉である。国民はゲノムに依存しない様々な機能を体内にインストールし、アップデートを繰り返している。バングルと呼ばれるそれが個人と社会のインタフェースとなり、通貨がわりとなり、サービスやコミュニケーション、投票といった様々な場面に適用されているのだ。
物語は都会で暮らしていた主人公がその乙原首相の生まれ故郷でもある山奥の村に帰って来るところから始まる。ここには古い硬貨が流通し、様々なレガシーが残されてバングルと共存している。どこか懐かしい世界。主人公は村の知人たちと再会する中で、ここに来た自分の真の目的を知ることになる。表面上は理想的に見えるこの社会の真の姿、そして主人公たちの計画が明らかになるのだ。
物語はその現在と、村で大水害があった過去とが重なり合って描かれる。次第にわかってくるその多重性も面白いが、タイトルと呼応するだろう結末の描写が息を呑むほど美しい。ただし、この社会を築いた乙原首相がどうしてそれを目指したのか、その内面がもうひとつわかりにくかった。
「緋愁(ひしゅう)」は短めの作品だが、現実が多重化し、複数の現実が重なり合うという構造は他の作品と共通するモチーフである。
地方の土木事務所に勤める管理課長の富田は、山奥を通る県道の路肩に緋色の集団が十台ほどの車で縦列駐車し、ここ何日も占有しているとの報告を受ける。彼らは今世間を騒がせている新興宗教の信者たちだ。飛び交う毒性のある電波には多数の世界が含まれており、それが世界を多重化して固有の現実を脅かし、人間に害をなすので、電波を集める細長いものを緋色の布で巻くことによりそれを防ごうとしているのだという。あたりのカーブミラーはことごとく緋色の布で巻かれていた。
主人公は県道の占拠を止めて即刻退去するようにそこの責任者に話すが、その時脈絡もなく自分の過去の記憶がよみがえってくる。退去に合意を得て帰宅した主人公に、違和感がずっとつきまとう。目の前の現実が記憶と異なっていると……。
タイトルは目に飛び込む強烈な緋色と、それが呼び覚ます(偽りの?)郷愁とを示しているのかも知れない。
「鎭子(しずこ)」には『自生の夢』の「海の指」と同じ世界が出てくるが、「海の指」では作品内の世界として自立していたものが、こちらでは現代の東京に生きるある女性が幼いころから紡いだ幻想の世界、イマジナリーランドとして登場する。
それは灰のような霧のような、だがそれに触れたものは解体され情報圧縮され、時には異様な形に復元される、そんな奇怪な〈うみ〉に覆われた世界だ。わずかに残された島、饗津(あえず)に生き残った人々の日常には、まるで昭和の日本の田舎町のような懐かしさがある。
現実の鎭子は、幼いころの病気で子どもが産めない体となった女性。仕事で出会った男性から高級ホテルのディナーに誘われている。もしかしたらプロポーズかもとホテルまで送ってくれた母は言うが、彼女は彼と一夜を共にしたときひどいことをしてしまい、それが心に残っている。鎭子の心に浮かぶのは〈うみ〉の世界の自分である志津子。今もまた、その世界を滅ぼしてしまおうとする強い衝動にかられる。そして……。大火で地震で空襲で、何度も破壊された東京の街が、彼女の心の中で何度も破壊されたあの世界とつながっていく。
「鹽津城(しおつき)」は本書の1/3近くを占める長い中編。Facet(切子面、断面の意味)1~3の3部に分かれていて、それが並行して描かれる。3つはそれぞれ関連し、相互に関わっているが同じ時間線にはなく、並行世界のようである。共通するのは塩というキーワード。海水から塩が自然に分離してシャーベット状になったり、体内に異常に塩分濃度の高い線条が突然形成されたりすることだ。
Facet1は「志於盈(しおみつ)の町で」と題され、山陰のL県で2009年に起こった大地震によって、海を覆っていたぶ厚い鹵氷(ろひょう)が鹵(しお)津波となって日本海沿岸を襲った世界だ。発生した鹵害(ろがい)により、海岸にあった原子力発電所はぶ厚い鹵の塊(ここではそれを鹽津城と呼んでいる)に閉ざされ放射線は外部に漏れてこない。そのエネルギーは何に使われているのか。3つの世界の中では(因果律的に)一番古く、ほぼ現代にあたる。塩満(しおみつ)の町に住む渡津拓郎(わたづたくろう)は県庁を50歳で退職し、妻の巳衣子(みいこ)と二人で暮らしている。不幸な家庭に育った巳衣子とは彼女が中学生の時に出会った。物語は二人の出会いから志於盈神社で鹵落としが行われる今日までを静かに追っていくが、拓郎と巳衣子の関係にはどこか不穏なものがある。今でも彼を「先生」と呼ぶ彼女だが、まったく心ここにあらずという時もあり、夜中に一人で何かをしているようでもある。ちょっと「夕鶴」の与ひょうとつうを思わせる不思議な雰囲気がある。このFacet1がどうやら3つのストーリーのベースになっているようだ(他の2つが仮想というわけではない)。
Facet2は「鹹賊航路(かんぞくこうろ)」。2050年ごろ、今より少し先の未来の日本が舞台だが、この世界には鹵害はない。そのかわり、鹹疾(かんしつ)という難病が世界的に流行している。これは体内に塩分濃度の高い線条が突然形成されることにより、目や体の各器官が損傷したり死に至ることもある恐ろしい病気である。そんな暗い世界で、兄・村木一瀬(いちせ)と妹・村木百瀬(ももせ)の双子の兄妹が描く「鹹賊航路」というマンガが世界的に大ヒットしている。そのマンガは鹵攻(ろこう)という異変により世界中の海が鹵(しお)に覆われた世界で、鹹賊(かんぞく)と呼ばれるアウトローたちが大活躍するという冒険活劇ものだ(Facet1をもっと派手にしたような感じか)。ここでの「鹽津城」は二人のオフィスの名前である。だが「鹹賊航路」は作者二人が鹹疾に罹患したため連載が中断した。二人とも命はとりとめたが、続きを書けない。そこで編集者の天野甘音(あまのあまね)は兄妹の故郷だというL県の塩満に二人を連れて行くことにする。二人は彼女にこれまで秘密にしていたという古い新聞紙に包まれたあるものを見せる。それは「鹽絵(しおえ)」という塩で描かれた絵だった。そして三人の乗った車はいつのまにかもう一つの世界に入り込んでいく……。
Facet3は「メランジュ礁(しょう)」。地球温暖化による海面上昇と度重なる鹵攻(ろこう)により環太平洋の国々が破滅した後の、かなり未来の世界。たくさんの鹵(しお)の礁で覆われた大阪湾には生き残った人々により〈メランジュ礁〉の複合体、鹽津城(しおつき)が築かれている。〈メランジュの目〉という鹵の動きを見ることのできる特殊な目の持ち主により、鹵攻を手なづけ、人々の住める土地にしたのだ。ここに住むのは日本人だけではない。南の島々から来た人々も多い。メランジュとは地質学では複数の岩石が複雑に入り交じった地質体をさすが、ここでは様々な出自の難民たちが入り交じって結成した共同体を示している。主人公のイハイアとマナイアの父子もポリネシア人の血を引いている。人口の減少したこの世界では、男も妊娠して子どもが産めるようになった。近親婚のタブーもなくなり、今イハイアが妊娠しているのは息子であるマナイアの子だ。そして二人は〈メランジュの目〉の遺伝子をもつ継承者なのだ。だがその子が生まれた次の世代では再び鹵の力が強まり……。
最後から1つ前に「エピローグあるいはFacet4」がある。これはさらにその未来の、半ば神話的な物語だ。ここに来て3つの物語は1つの神話に収斂する。そこにあるモチーフはぼくには日本の(とりわけ出雲の)民話や神話を思い起こさせるものだった。複雑な構成だが混乱はなく、大変読み応えのある物語だった。
2024年10月に翻訳出版された本。訳者は山田和子。韓松は中国SF四天王の一人と言われているそうだが、これまで短編しか訳されていなかった。本書はその韓松の〈医院〉三部作の第一巻となる長編である。
本書は英訳版からの重訳だが、英訳者(マイケル・ベリー)の長いあとがきによれば、本国版とはかなり差異があり、それは著者が追加したり、訳者と相談しながら修正していったものだと言う。韓松は英語も堪能で、英語版には彼が英語で加筆した部分もあるということだ。その結果(英訳者が言うには)本国版に比べて中国共産党への批判が強く表に出ていると言う。確かにそのように思えるところはあり、抑圧からの自由も一つのテーマになっているとは思うが、本書はそういう社会批評的なところをはるかに超えて、生命と死に関わる根源的な思弁が繰り返され、それが中心的なテーマになっているように思えた。
はじめ、カフカ的、不条理文学的な部分が強調されていたので、ちょっと身構えて読み始めたが、ほとんどスラプスティックでグロテスクなコメディとして面白く読むことができた。とりわけ前半は、昔の筒井康隆や、モンティ・パイソンの不条理ギャグを思い浮かべるドタバタとなっている(英訳者もテリー・ギリアムの名前を挙げている)。そして後半はあっと驚く怒濤の展開に……。
本書は「プロローグ 火星の紅十字」「病気」「治療」「追記:手術」の4つの章に分かれている。
「プロローグ 火星の紅十字」は、火星に仏陀のを探しに行くミッションを担った探査船の物語。韓松は仏教徒だということで、これまで翻訳された短編でも仏教がテーマになったものがある。この「プロローグ」も独立した短編となっており、ストーリー的には本編との直接の関連はない。でもテーマとしては本書の後半とつながったものである。宇宙は仏性に満ちており、生命は最終的に仏陀へと進化する。僧侶である宇宙船〈孔雀明王〉号の司令官は火星に到達するとネズミに似たヒューマノイド・サイボーグを多数発進させ探査に当たらせた。しかし、そこで見たものは巨大な病院の廃墟。そして……。
本編でもそうだが、孔雀のイメージが重要となっていて、ぼくは手塚治虫の『火の鳥』を思い浮かべた。宇宙的な生と死のせめぎ合い。その不条理と悲劇。
本編の「病気」はごく日常的な場面から始まる。主人公である楊偉(ヤン・ウェイ)は政府機関の職員だが、副業に作詞作曲をやっている。彼はC市にある企業からテーマソングの作曲を依頼されて、この都市に出張してきたのだ。だがホテルでミネラルウォーターを飲んだあと強烈な腹痛に見舞われ、気を失ってしまう。気がつくとホテルの女性従業員二人が見守っていて、気がついた彼を無理やり救急車へ乗せて病院へと連れて行く。病気の客にずっと付き添っていくのも彼女らの仕事なのだという。本書では主人公と彼に強い影響を及ぼす彼女らのような何人かの女性がずっと彼の近くにいて大きな役割を示すことになるが、その最初の女性となるのが二人のうちの一人、シスター漿(ジアン)である。主人公の楊くんはお調子者で確固とした自分がなく、まわりに流されて意見がコロコロ変わる。なかなか感情移入しにくい人物だ。
その病院は巨大で、まるで一つの都市のようだった。外来患者用のメインエリアは広大なホールとなっていて、受付を待つ人々が長い列を作っていた。と、ここまではリアルな普通の近代的な病院のような描写だが、その後が急激に異様な世界へと入って行く。並んでいる人々の足下の床はいたるところ泥と雨水と汗と尿と痰と嘔吐物が層を成しており、空気は澱んで魚臭い。近代的な病院? まるで悪夢のような収容所だ。それをあまり異常と思わない主人公も主人公だが、楽しそうに彼を(強引に)案内していく女性たちもどこかおかしい。そして医師たち。楊は医師を尊敬しその指示に従っているのだが、彼らはみんなマッド・サイエンティストに見える。話が進むにつれて状況はさらに渾沌とし、ほとんど迷宮のようになっていく病院。長い長い待ち時間。果てしない検査と診断。彼の胃痛の原因を誰も説明してくれず、たらい回しにされる。「どこが悪いか、だって?」と医者は言う。「それは、患者が知る必要のないことだ。君の病気を診るのは病院側の仕事なのだから」と。右往左往する楊の思考自体も右往左往し、何が正しいのかわからなくなる。患者たちの行動はほとんどマンガで、笑うしかない。ますますモンティ・パイソンの不条理コメディかホラー小説の様相を呈してくる。
続く「治療」では、シスター漿(ジアン)は退場し、リトル濤(タオ)という少年が楊を導く。ようやく長い長い検査が終わり次の段階へと進むことになる。入院病棟の病室には四、五十人の患者が詰め込まれ、ゴミだらけでゴキブリやムカデが這い回っていた。ここで楊は白黛(パイ・ダイ)という若い女性患者と知り合う。彼女こそ彼をコントロールする第二の女性だ。彼女は病棟外の散歩に何度も彼を誘ってくれる。その地上には庭園があり、インド孔雀と掲示板にある巨大な空っぽの鳥の檻があった。孔雀のモチーフは本書で何度も登場する重要なものだ。それは不死鳥と結びつき、プロローグでも感じたようにぼくの中では『火の鳥』と関わってくる。超近代的でほとんどSFな検査機器や医者たちの言う未来的な世界と患者たちの存在はひどくアンバランスでまるで医者と患者という二つの世界があるようである。病棟の天辺から緑の瀑布のように流れ落ちる痰。汚辱に溢れた世界。一方で病院は街全体に広がり、都市全体、いや国家全体が病院と化しいているようだ。高層ビル群のいたるところに紅十字のマークが輝いている。医療メトロポリス。白黛は「メディカル・ニュース」という医者向けのプロパガンダを見るよう勧める。医療の時代。病気であることが常態で、人間はみな病んでいる。病んでいるのにそれを否定する人は強制的に病院へ入院させ逃げ出さないようにすることが重要であると記事にはある。彼女は「医者はどんなふうに死ぬのか」を懸命に探ろうとしている。患者は死ぬが医者は死なない。その死を見届けることが彼女の使命なのだ。楊も彼女に従って医者の死体があるかも知れないところ、死体置き場を探そうとするのだが……。
ここは遺伝子改変により、家族というものが解体された世界だ(なのかどうか実はよくわからない。ぼくが誤読しているのかも知れないが、親子関係が意味なくなっているという描写がある一方、兄弟や家族、婚姻を重視するような描写もある。後にホログラフィック宇宙論まで持ち出して全てはイリュージョンだというような話も出てくるし、あまり整合性を重視する必要はないのかも)。ある医者の目標は遺伝子を廃絶すること。結婚も意味を失っている。楊と白黛は〈相互治療〉という名のセックスをするが、楊がヘタレなのでこれは全くエロティックではない。だがその結果として二人の相互治療はうまくいき、二人は患者ではなく実習医として医者の仲間入りをする。しかしそれはほんの一瞬のことだった。死体置き場に白黛の死体があった。医者はどんなふうに死ぬのかの答え。楊は再び患者に戻った。この章をはじめ、本書ではセクシャルなイメージが随所に出てくるが、それはごく表面的な条件反射に留まり、エロスの要素には乏しい。またこの章からは楊の担当医師、ドクター・バウチの存在が大きくなってくる。彼こそ(楊にとって)病院・医者体制の中心人物なのだ。
最後の章「追記:手術」で、物語の様相が大きく変わる。楊は新たな女性患者、朱淋(ジュ・リン)と知り合う。彼女が第三のコントローラとなるのだ。楊は朱淋と庭園を散歩したり鳥籠を見たりする。彼は朱淋とも〈相互治療〉を繰り返す(でもクライマックスに達することは決してない)。彼女は医者とも〈相互治療〉をしていた。医者はついに楊の治療方針を決定する。病変部をすべて除去すると言うのだ。そんな彼に体の中から声がした。「手術を受けるわけにはいかない!」と。「僕は君の〈共生者〉だ」と声は言った。医者が末期疾患と言っているものこそ僕なんだと。驚き。この〈共生者〉が彼の次のコントローラだ。手術をしようとする医者たちの前でその声が「手術はなしだ!」と叫ぶ。手術室の前で楊は逃げ出す。同時に〈共生者〉をもつ患者たちもいっせいに逃げ出した。死体置き場に巨大な穴があった。これがシステムの穴だと〈共生者〉は言った。何とその地下には廃棄された鉱山の広大な空間があり、そこには入院病棟から逃げ出した患者が1万人以上も暮らしていた。みんな〈共生者〉をもっていた。そのリーダーは艾(アイ)村長と呼ばれる男だった。かくて追ってくる医者の軍団と逃亡者たちの追いつ追われつの戦いが始まる。武器で戦うわけではなく、医者たちは網で患者を捕まえて連れ戻そうとするのだが、行く手にはおそらく遺伝子改変で生まれた謎めいた生物がいて逃亡患者たちを襲って喰うのだった。医者たちは〈共生者〉を外国から送り込まれた新種のウィルスだと言う。それが患者の体を乗っ取って病院に反抗しようとしているのだと。朱淋もそれが正しいと言う。だが逃亡者たちの激しい抵抗にあい、医者たちは撤退していく。生き残った者たちは集まり、ひと息つく。楊は自分の〈共生者〉と話をする。
〈共生者〉は突然楊の視界を支配し、宇宙の姿を見せる。ここで話がいきなり宇宙的規模に拡大するのだ。宇宙は病んでいると〈共生者〉は言う。壮大な大宇宙の姿を楊に見せ、その病理を色々と紹介してくれる。そして宇宙は自己治療を開始した。「痛みを何とかするために、宇宙は病院へと進化した」のだ。ここで語られる宇宙論は実は宇宙のデザイナーがいるというID説のパロディともなっている。「空飛ぶスパゲッティ・モンスター教」をもじった言及もあって笑えるところだ。
地上に戻った楊は再び医者たちと対峙する。彼らは「そいつが言うことを信じてはいけない」と言い「医師だけを信じるんだ」と言う。そこには朱淋もいた。そしてまた物語は大きく転回する……。
最後のイメージ、鳥に変身する朱淋、海を覆う紅十字の大船団。それはどこへ向かっているのだろうか……。
この「追記:手術」で語られる宇宙のイメージは興味深くて面白いが、どこか既知感があった。これって何となく半村良の『妖星伝』に出てきた宇宙観と良く似ているような気がする。そして解説で立原透耶さんが書いていた「個人的には〈共生者〉が大変可愛らしいと感じている。少し生意気な口調といい、時に慌てたり狼狽えたりする様もペットのようでなかなかに愛らしい」というのに大賛成。ぼく個人としては、〈共生者〉がアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」の淫獣、キュゥべえと同一視して見えた。第二巻以後にも出てくるのかなあ(出てきてほしいなあ)。
2024年10月に出た本。訳者は金子ゆき子。グリム童話を始めとするヨーロッパの古い童話をモチーフにした7編が収録されている。一部のグリム童話を除き、ぼくはほとんど元ネタを知らないのだが、訳者あとがきにそれぞれどんな話だったか書かれている。でも作者の換骨奪胎がすさまじく、現代や未来の話に改変されているので、あまり気にしなくてもいいように思う。
「白猫の離婚」(フランスの童話「白猫」より)では裕福な男が三人の息子に課題を与え、その結果を持ち帰った中から後継者を選ぶという。本当は息子たちを家から遠ざけたかっただけなのだが。最初は小さな可愛い犬、次は見事なスーツ、最後はお前たちの伴侶を連れて帰れという。長男も次男もそれぞれ課題をこなすが、ここでは三男に焦点があたっている。子犬を探しているうち彼の車が雪の中で立ち往生してしまう。たどり着いたところは大麻栽培の温室。そこは人間のように二本足で立ち、言葉を話す猫たちの経営する大麻農場だった。彼は猫たちと暮らし、1年後に小さなナッツの中に入った子犬をもらって父親のところに戻る。同様にスーツの課題もこなし、最後には白猫を連れ帰ることになる。彼が白猫の言うとおりに白猫の首を剣で切り落とすと、白猫は美女に姿を変え、何と父親と結婚することになるのだ。三男は白猫の農場経営に携わり、裕福な男はその後妻(白猫)の首を切り落としては新たな美女との暮らしを楽しむようになる。そしてついに……。まあみんな満足したのだからこれはハッピーエンドといえるだろう。賢い白猫はセクシーで魅力的。そして農場で働いていた猫たちはみんな人間になっていたが、犬ときたらみんな相変わらず犬だったというのがとてもいい。他の作品に比べて、わりと元の話に近い筋立てになっているように思う。
「地下のプリンス・ハット」(ノルウェーの民話「太陽の東 月の西」より)は、同性愛者の男性ゲーリーが、その夫プリンス・ハットを以前の婚約者のアグネスという女に連れ去られ、彼を探して遠い地獄へと旅をする話。ストーリーの流れは元の民話に沿っているようだが、現代のアメリカからアイスランドへ、そして怪しげな案内役について地獄巡りをすることになる、その悪夢のような世界をただ彼への愛ゆえにひたすら進んでいく主人公の一途さが良い。そしてそのおぞましく幻想的な世界の描写が際立っている。アグネスは地獄の女王で、美しきプリンス・ハットはその婚約者だった。ただの人間、しかももう50過ぎのゲーリーが浮気者のプリンス・ハットを心から愛していることは後日譚の挿話からも知れる。しかしそこには報われない愛の(それでもいいのだ)悲哀と孤独が漂っている。
「白い道」(グリム童話「ブレーメンの音楽隊」より)は得体の知れない現象で破滅した未来のアメリカが舞台の話だが、孤立した各地を巡回している小劇団があり、彼らは遠くの町まで団員ではない一人の少年を連れて行くことになる。アメリカを破滅させたのは、どうやら白い道という異界の存在だ。見えたり見えなかったりするその道が現実世界に現れて人々を誘い込もうとする。迷い込むとそこには死者たちがおり、生者を八つ裂きにするのだ。それを防ぐには死体が必要で、なぜか死体があると白い道は近づかないのだ。本当の死体でなくても死体の真似をして真剣に弔っているように見えれば良いらしい。それは劇団員にはお手のものだ。彼らはブレーメンという町を訪れるが、そこはすでに白い道が現れ、町には誰もいなかった。劇団員は死者を装った団員を祭壇に祀って弔うのだが……。ホラーである。超常現象以前に劇団の中の人間関係がすでにややこしく、それが結末に響いてくる。ブレーメンの町が出て劇団と音楽隊は似ているといえるだろうが、グリム童話との関連はよくわからない。
「恐怖を知らなかった少女」(グリム童話「こわいことを知りたくて旅にでかけた男の話」より)は元の童話もよく知らないが、どう関連するかもわからない。あまり幻想的な要素はないが、非日常的な異常事態とそれに巻き込まれた人々の関係性が現代的な要素を交えて描かれている。
学会を終えて帰宅しようとした初老の学者が空港でトラブルに見舞われる。乗ろうとした便が嵐で欠航となったのだ。彼女は自宅の妻に電話し(二人は同性愛者の夫婦で、卵移植して生まれた幼い娘がいる)、帰りが遅くなると伝える。だが翌日もその翌日も飛行機は飛ばず、彼女は一人ホテルのプールで過ごす。彼女を案じる家族や知人の夢を見る。不穏な夢。妻や娘に電話するが、幼い娘のメッセージにはトイレの絵文字が羅列されている。飛行機が飛ばないのは嵐のせいだけでなく、それによって全米の航空網に乱れが生じ、乗務員が空港へ来れないからだという。何日も待たされたあげく、ようやく一機の便が飛び立てることになり、彼女もやっと飛行機に搭乗する。両側を二人の女性に挟まれた狭い座席。二人は延々と話続ける。昔の恋人や友だちのこと、幽霊のこと、怖い話。主人公は席を外してトイレに行くがそれは故障している。様々な物語、錯綜した人間関係が描かれているが、全体が非日常な不安と不穏に彩られている。ほのめかされる狼男や月や血のモチーフが何かを示しているのかも知れないが、明示されないままに終わる。
「粉砕と回復のゲーム」(グリム童話「ヘンゼルとグレーテル」より)は宇宙SF。ただし、宇宙SFだということはわかるが説明的な文章がほぼ無いに等しいので、状況は想像するしかない。ヘンゼルとグレーテルではなく、アナトとオスカーという妹と兄がいる。二人は人間のように見えるが後にそうではないとわかる。二人がいるのは〈バケツ〉と〈ホーム〉。〈ホーム〉はどうやら惑星か何かのようで〈バケツ〉は小さな宇宙船のように思える。そこには〈お手伝い(ハンドメイド)〉たちというとても強力で高性能なマシン(だと思う)たちがいて二人の世話をしてくれる。〈ホーム〉には〈吸血鬼〉たちという生物がいるが、〈お手伝い〉に粉砕されてからは従順になっている。〈ホーム〉にはたくさんの倉庫があり、様々なものが格納されている。立入禁止地区もあり、二人は全てを探査したわけではない。二人の両親はすぐに帰ると言ったまま去って行き、二人をここに置き去りにした(オスカーは今でも両親と通信しているようだ)。そして二人が好きな〈粉砕と回復〉というゲーム。〈ホーム〉をゲームボードとして行うこのゲーム、今ではアナトが圧勝しているが、内容は(説明はあるのだが)ぼくにはよく理解できない。これって面白いの? だが(ある程度の)真相が明らかとなる後半は背後に壮大な宇宙SFの広がりを想像できてとても面白い。イアン・M・バンクスのためにという献辞がついているが、ひょっとして〈カルチャー〉シリーズと関係あるのかしら。ほとんど読んでいないからわからないけど。
「貴婦人と狐」(イングランドの伝承「タム・リン」より)は比較的おとぎ話風の骨格を残している。お金持ちのエルスペス・ハニウェルの邸宅では一族が集まり盛大なクリスマスパーティが開かれている。共に11歳の少年マイケルと少女ミランダはプレゼントに夢中だが、ミランダは窓の外の庭に見知らぬ男がいるのに気づく。マイケルはこの家の跡取り息子だが、ミランダはハニウェル一族ではない。母がエルスペスのスタイリストで親友だった。その母は今タイの刑務所に入っている。庭にいた男は典型的なハニウェル一族の顔立ちをしているが着ているコートはまるで18世紀風の古めかしいものだ。ミランダが雪の庭に出て声をかけると男はフェニーと名乗るが、屋敷には入ろうとしない。彼は次の年も、その次の年もクリスマスに現れる。一族の誰に聞いてもフェニーのことは知らない。14歳になったミランダはマイケルにキスする。その次の年もフェニーは現れる。コートには狐の刺繍がある。コートの中に囚われ外に出られない狐。まるでミランダの母のように。彼はその狐を切り取ってミランダへのプレゼントとする。翌年も彼は来る。年齢は最初の時から変わらないように見える。雪の降るクリスマスにだけ訪問を許されているのだと言う。屋敷には入れない。それは規則違反になるからと。歳月が過ぎ、大人になったミランダはまたハニウェル邸の庭でフェニーと会う。彼女はフェニーにキスし留まるように言うが、彼を支配しあちらの世界に引き戻そうとする謎の貴婦人が現れる。そして……。ミランダもかっこいいが、おそらく妖精の女王だろう貴婦人に対等にもの申すエルスペス夫人のかっこいいこと。時を越えたボーイ・ミーツ・ガールのロマンチックな物語だが、珍しくハッピーエンドで終わるのが嬉しい。
「スキンダーのヴェール」(グリム童話「しらゆきべにばら」より)は中編。元の話はよく知らない。頼まれて不思議な家に一人で過ごすことになった大学院生の体験を描く物語である。彼、アンディは早く博士論文を書かないといけないのにまだ書き終えられない。ルームメートのレスターがガールフレンドを連れ込んで絶えず事に及んでいるため、気になって論文が書けないのだ。彼は元カノのハンナから頼み事の電話があったときそれを打ち明けるが、ハンナはそれはちょうどいいと言う。彼女は今スキンダーとう人の人里離れた田舎の家に留守番役として一人で住んでいるのだが、姉が事故にあって3週間ほど付き添わないといけなくなった。その間、その家で留守番代行を頼めないかと言うのだ。思う存分そこで論文を書けばいいと言う。アンディは引き受ける。ただし、ハンナが言うにはその家に住むには決まりがあって、1つはもしスキンダーの友人が裏口から現れたら何時だろうと誰であろうと中に入れてやらねばならない。相手をする必要は無く帰るまで好きにさせておけばいい。2つめは玄関にスキンダー本人が現れても絶対に中に入れてはいけないこと。また夜に霧が湧いて立ちこめることがあるがそれはスキンダーのヴェールと呼ばれていて気にする必要は無いとのことだった。そして実際、スキンダーの友人たちが現れる。ローズという女性が現れてアンディのベッドに入り、物語を語る。彼女は何日か留まって様々な物語を語って聞かせた。みな暗く悲惨なお話だった。人間だけではない。七面鳥が来た。オポッサムが来た。ローズの妹が来た。灰色熊が来た。熊もお話をする。そしてついに玄関に黒い犬を連れたスキンダー本人が現れる。アンディは丁寧に断る。スキンダーと犬を乗せた車は音も立てずに引き返していく。物語はハンナが戻り、アンディはスキンダーの家を後にし、その後の人生を歩んだことを語る。彼の採用試験の面接で1つだけおかしな現象があった。試験官たちの夢に熊が現れてアンディを採用すべきだと言ったというのだ。結末でアンディは再びあの家を訪れるのだが……。小さな物語をいくつも含む枠物語である。どれも奇妙で、不可解な話だ。そして本編もまた。リアルな現代の日常と、おとぎ話の不思議が違和感なく溶け合っている。携帯は圏外だがインターネットはあり、WiFiを自分の名前で設定している。スキンダーって本当のところ何者なんでしょうね。