続・サンタロガ・バリア (第273回) |
あまり行く気は無かったのだけど、超久しぶりにKさんが広島から出てくるので一緒にどうかとクラシック好きの仲間から連絡があり、広島交響楽団地元公演を聴いて、そのあとKさんを交えて軽く飲んだ。
コンサートの方は、指揮が1970年代から長年(18年間)N響のコンマスだった徳永二男(つぎお)。プログラムは、前半がベートーヴェンの「エグモント」序曲にヴァイオリン協奏曲、後半がシューベルトの「未完成」というもの。ソロは郷古廉(ごうこすなお)。ソリストのことは知らなかったけれど、昨年からN響の第一コンマスとのこと。93年生まれということで若い。
前半のベートーヴェンは気合いが入っていてなかなか。特に新旧N響のコンマスで聴くヴァイオリン協奏曲はリキが入っていて、ソリストが渋い演奏に徹していた。これで疲れたのか、後半の「未完成」はかなり流した感じの演奏に聞こえた。まあ、指揮者がトランプと同い年なので無理は利かないことはよく分かる。
(追記:実演の3日後にYouTubeでこの日の演奏が公開されていたので見てみたけれど、前半のベートーヴェンの基本的な印象は変わらず、「未完成」はYouTubeで見ると「流した感じ」はあまりないがやや緩めではある)
Kさんと当方が一番よく会っていたのは当方が30代前半の頃で、当時Kさんは「ぎょうせい」という官公庁を相手にした書籍の外販出版社の営業マンだった。口八丁で話が面白くクラシックも好きなので、広島でコンサートがあったときには演奏会後に一緒に呑んだりしていた。
その頃、何を思ったかKさんは当時出たばかりのドゥルーズ/デリダ『アンチ・オイディプス』のハードカバーを持ってきて、「読め」と渡された。タダでくれたか1000円ぐらいで買ったか忘れたけれど、取りあえず読んでみた。当然チンプンカンプン、「器官なき身体」なんじゃそりゃ、と思ったモノでした(いまググると、それは「女性」性であり、詰まるところ「卵」だと解説されていた)。
コンサート後にお目にかかった現在のKさんは白髪に髯を生やした77歳のジイサンで、さすがに40年近く前の精悍さはなくなっていたけれど、飲み屋で話を始めると相変わらずガンガンと話す。昔と違うのは「物忘れ」で「固有名詞」が出てこなくなって立て板に水がストップするようになったこと。「麒麟も老ゆれば・・・」ですね。
もっともサービス精神は相変わらずで、コレ読んだからと岩波新書の小宮正安『ベートーヴェン《第九》の世界』をくれたり、手土産と称して「最高にウマい」クロワッサンをくれたり、営業魂は永遠です。
当方も読み終わったばかりの飯田一史『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか』をあげてしまった。
ということで、飯田一史『町の本屋はいかにしてつぶれてきたか 知られざる戦後書店抗争史』は手元にないのだけれど、内容に関しては本人のnoteを始め、インタビュー記事や書評もネットでいっぱい上がってるので、目にした人も多かろう。
当方の感想は、こりゃ経営学の博士論文みたいだなあ、というものであった。最後のまとめをレジュメとして頭へ持ってきて、出典をすべて抜いて巻末にまとめてしまえば、内容的には論文になる。先行研究論文のまとめがないのは、学会誌がないせいもあるし、こういう風な視点で論文指導する先生もいないわけで、こんな話を読めるものにするには、基本的に面白がりの精神が必要だということだろう。
あと印象に残ったことを一つだけ。戦後占領政策が終了してのちに本格化した公取委の介入が、毎回「オマエラなあ」と書店小売組合を脅す神様の声になっているところが笑えます(笑い事じゃなかったんだが)。
ノンフィクションから始めたので、こちらも一応ノンフィクションかも、というのが、宮内悠介『作家の黒歴史 デビュー前の日記たち』。3月に出た本。最近、広島丸善で見て手に取った。
基本的にはデビュー前のブログ系日記なので、完全非公開でもないけれど、読んでいた人間は一桁二桁だったらしい。15年以上前の自分の感想であっても、客観的に見るのは難しいだろうと思うが、宮内悠介はいかにも作家らしいコメントを付けている。それは技術と主観のコントロールだと云うことになるんだけど、読んでいる当方には、基本的に昔も今も真面目すぎるところがあると感じられる。その真面目さの過剰が宮内悠介の作家性なのかも知れないな。
以前、鳥類が恐竜のなれの果てだという話を読んで面白かった川上和人『鳥類学は、あなたのお役に立てますか?』が文庫化され目についたので、この著者の本を久しぶりに手に取った。親本は2021年刊、文庫化にあたり親本未収録エッセイを増補。
これまで当方が読んだ新潮文庫デビュー作以降2冊が文庫化されているけれど、そちらは読んでない。
今回は、本業である小笠原諸島をはじめとする太平洋側の島々の鳥類を含む生態調査が主な話題で、著者の具体的な調査行動が分かりやすく(ムリヤリ面白く)書かれている。確かにこんな話を大真面目に報告書スタイルで書かれたら、一般読者は付いてこないだろう。
「バッタ」のウルド浩太郎やこの著者のようにマイナーな生態学的調査を無類のエンタテインメントとして仕上げられるようになったことはいいことだ。
それにしてもこの著者は、引き合いに出すアメリカンなエンタテインメント映画や日本のアニメをよく覚えていることよ。やはり「好き」が一番モノをいう。
フィクションへ移ろう。
岡本俊弥さんの書評を読んで買ってはみたものの、読むのが遅くなった森下一仁『エルギスキへの旅』は4月刊。発行元は大分県大分市のプターク書房と云うところ。岡本さん情報では復刊リクエストが成功して出版されたらしい。
1991年から94年まで『SFマガジン』連載ということだけれど、世界が破滅した「大騒乱」から8年後、少年は父に連れられてロシアの少数民族が多く住む日本海側の町「エルギスキ」へ赴く。父は行方不明になった母に会えるかもという期待があったようだが、そこで少年は同年代の2人の少女に出会い、その一人の誘いである装置の実験台になってしまう。その結果少年にはシャーマンの素質があるといわれる。
その後の各エピソードで少年は青年へとクロニクル風に成長していくが、少女たちや成長した彼女たちが示す不思議な道標に従い、主人公は心ならずもシャーマンへの道に深入りしていく・・・。
文章そのものは主人公視点の森下一仁文体で書かれており、それ自体は読んでいて気持ちが良いのだけれど、ストーリー運びは疑問が多く、ロシアの少数民族が伝えるシャーマンになることが主筋のような構成は納得しがたい。巻頭の宏大なロシア東部の河の名前を入れた地図も主人公の目指した場所が遠いことは分かるが、話を明らかにする役に立っているとも思えない。見ている分には楽しいんだけど。
ということで、単行本化に進まなかった理由がなんとなく分かるような気がする作品ではあった。
オラフ・ステープルドン『シリウス』がちくま文庫になったので読んでみた。新訳かと思ったら中村能三のままだった。
SF全集のステープルドン篇も昔も買ったし、ハヤカワ文庫版もあるんだけれど、なぜか読んだ記憶が無い。しかし読み始めると既読感があるのは、多分何回も内容紹介文を読んだせいだろう。あと矢野徹さんの訳だと思っていたことも(そりゃ『オッド・ジョン』だ)。
解説がヤマサキマリというのが意外だったけれど、これがフランケンシュタイン・バリエーションであることはちゃんと指摘している。
改めてステープルドンの晩年(1944年刊で作者は50年没)の作として見てみると、以前にも書いたように、第1次世界大戦の衝撃がヨーロッパの知識人の希望を打ち砕くことになった上、なお第2次世界大戦に突入というさらなる衝撃に、ステープルドンが出した答えがこの作品だったとは云えるだろう。
ここでは人類が地球上で生じさせている戦争という大状況は、一種不可知なものとして描かれ、ほとんど考察されてない代わりに、人間族という生物種への絶望が色濃くにじみ出ている。その一方で、全体としては、人間である語り手によってシリウスの一生が語られる枠物語という形式を取ってはいるけれど、語り手による戦争への言及はローカルなモノに止まっている。
中村能三(よしみ)の訳はいま読んでも違和感はないけれど、これは編集側である程度文体調整を行ったようなことが巻末に断り書きとしてある。
むかし浅倉さんが、ジャック・ヴァンス『冒険の惑星』の翻訳を打診されたとき難しいので断ったら、「ノウゾーさんのところへ行っちゃって」ということを書いておられたので、中村能三は「ノウゾウ」と読むんだとばかり思っていたSFファンは多かったのではなかろうか。
あまり読む気は無かったけれど読んでしまったのが、法条遙『ノンブル・シャッフル』。今年映画化された『リライト』も最初のだけ読んで後は読まなかった。
大野万紀さんが作ってくれた作品名インデックスを見て、以前に当方が書いた『リライト』の感想文では、この作品がタイムループを使ったホラーだとしていたが、今回は同じくタイムループ系の密室モノにもかかわらず、スラップスティック・コメディの徹した1作だった。
この作者の時間ものへのこだわりと、ある意味「自分勝手な精緻な論理」によって構成された今回の物語は、有名なお伽話の主役または準主役が現実へ抜け出て、お伽話の本には空白のページしかないという設定で、しかもそのお伽話から抜け出た人物たちは首相にまで会ってしまい、国は編集者を集めて彼らを元通り本に戻るようしろと秘書官を現場に送り出した・・・。
作品構成としては至れり尽くせりで、最後のページでタイトルの『ノンブル・シャッフル』の解題までして見せていて、その徹底ぶりには感心する。
ふたたび『リライト』の当方の感想から引用すると「思いついたアイデアをとことん追い詰めた作者の力ワザは認める」というのはこの作品にも当てはまる。
なお、この作品と並行して読んでいた宮澤伊織『ウは宇宙ヤバイのウ! 2』の文体とゴッチャになりそうな錯覚を覚えた。当方の老化が進んでいる証拠であろう。
その宮澤伊織『ウは宇宙ヤバイのウ! 2 天の光りはすべて詐欺』は、物語が始まるや否や、またもや「世界線混交」技が使われて、地球は知性ある動物たちのものとなって、人間は使役動物か駆除対象になっていた・・・。ということで、今回も宿敵の陰謀に四苦八苦しながらヒロインコンビとその取り巻きによる冒険が展開する。
女子高生の姿の宇宙エージェントのククリ及び最強宇宙船ヌル香の今回の話は、ヌル香がいろいろな女性姿形の有象無象にキスしてはエネルギーを吸い取るパターンがそこら中に出てきて、ククリが自分とヌル香の関係を見直すまでという大筋が用意されているのだけれど、そういうモノに興味の無いジイサンとしては、SFホラ噺としてのガジェット説明を読むのが楽しいと云うことになる。
ここでも「自分勝手な精緻な論理」というものが、当方にとっての作品の面白さを保証してくれている。描き方自体はいわゆるラノベでも、そこにSFを見ることに違いは無いということか。そこら辺が法条遙と似た印象をもたらしている。法条遙の百合ぶりは分かりにくいが。
まったく聞いたこともない新人のデビュー短編集である灰谷魚『レモネードに彗星』は、大手KADOKAWAから出たこともあり、行きつけの本屋で買えた1冊。帯の「円城塔賞受賞作収録」という謳い文句を見て、なんじゃそりゃと思った次第。それは「第9回カクヨムWeb小説コンテスト短編小説部門の特別賞」であると岡本俊弥さんの書評で分かったけど(なお本書巻末の出典では「カクヨムWeb小説短編賞2023」〔短編小説部門〕円城塔賞受賞という表記)。
収録作は短編7編。基本的にnoteに掲載したモノでやや長めの書き下ろし「新しい孤独の様式」以外は短い作品が多く、230ページしかない。個々の短篇の紹介は岡本さんや『本の雑誌』の大森望書評で充分なされているので、当方は簡単な感想のみ書いておこう。
この本の表題ともなった受賞作のタイトル及びその内容からも連想されるように、この短編集の読後感は「生搾りレモンスカッシュ」で、たぶん当方が感じている「リアル」とその作品から想像される作者が感じている「リアル」にはかなり「ズレ」があるようだけれど、文章に抵抗感がないのであっという間に読み終えることが出来る。ただし、あとで個々の作品内容が思い出せるとはまったく思えないが。
なお、冒頭に「序文、あるいは未来都市の火災」と題する見開き2ページの文章があって、これ自体が収録された短篇群の持つ雰囲気をよく現している。
お久しぶりの長編ということで楽しみにしていたアレステア・レナルズ『反転領域』はこれまでと違って400ページのコンパクトな1作。
読み始めると、ノルウェー沿岸を北へ向かう帆船「デメテル」の船医の一人称で、新たな名声と金になる発見を企む男によって組織された冒険航海が語られていた。作者(中原尚哉訳)の上手さもあって、面白く読めるが、この作者がこんな話を大真面目に書いているわけはなく、よくできた海洋探検モノのパスティーシュだと思って読んでいた。と、謎の海域で発見された巨大建造物に近づいて以前の探検船「エウロパ」の残骸を発見、そして主人公の乗った探検船も同様に憂き目に遭って、同船している博学の女貴族から「今回はこんな死に方をして・・・」とナゾな言葉を聞きながら語り手は死んでしまう。で、次の章にはまた船医の一人称で始まり、今度はホーン岬から太平洋沿岸を北上、同じ冒険航海中だが今度はスクリュー船だった・・・。
『反転領域』というタイトルからはプリーストの有名作が思い出されるけれど、作中で探検隊の一員である数学(球体の反転)に熱中する青年に、インヴァージョン/逆転とエロージョン/反転の説明をさせているので、どうやらそちらがSFとしてのメインアイデアらしいと見当された。
しかし、話の方は典型的なリブート物語で、当初は帆船の名前だった「エウロパ」と「デメテル」が船から飛行船になり最後は宇宙船にまで進化する。「エウロパ」はもちろん木星の衛星にちなみ「デメテル」は小惑星に付けられたケレスのギリシャ名とのこと(ググった)。そして語り手は「真の現実」を強制的に認識させられて、本来の探検物語は大団円を迎える・・・。
リブートされる物語はその原因が明らかになってしまうと、(記憶が薄れない限り)再読が難しいという意味で、作者はエンタテインメントに徹しているけれど、SF的にはいろいろと面白いネタが仕込まれていて、やはり現代のAIと人間の意識について考えさせてくれる。
読みたい新刊SFが途切れたので話題のパーシヴァル・エヴェレット『ジェイムズ』を読んでみた。
まったく予備知識なしに読み始めたので、これが『ハックルベリー・フィンの冒険』の2次創作(メタフィクション)だとはトム・ソーヤーとハックが出てきて何コレ?と思うまで大分時間が掛かった。黒人奴隷の話だと云うんでもしかしたらコルソン・ホワイトヘッド『地下鉄道』みたいな話かもと、という思い込みが先にあったようだ(「地下鉄道」への言及は後半に少しだけある)。
何度も書いているように当方は児童文学を読まずに13歳になったので、トム・ソーヤーとハックルベリー・フィンには何の思い入れもない。しかし、この小説はリーダビリティ抜群(訳者は木原善彦)な数ページの短章を続けることで、あっという間に読めてしまうのだった。
元の話が元の話なので黒人奴隷ジム/ジェイムズの一人称は、すでに原作に馴染んだ読者だったらそれなりの感慨があったかも知れないが、それがない当方の感想としては「大人向き」の残酷なリアリティには必ずしも切迫感が感じられないというものだった。それは、原作の持ち味と思われるエンターテインメント性と本作のジェットコースター的文体によって、内容が書き割り化しているように感じられたということでもある。
関係ないけど、パーシヴァル・エヴェレットってSF作家のハウスネームっぽい響きですね。
何と半世紀前の話題作だったエドワード・ブライアント『シナバー 辰砂都市』が翻訳された(市田泉訳)。
この作品は当方が大学に入ってKSFAに参加した頃、CINNABARは表紙にブルーを背景にしてホワイトで街が描かれたペイパーバックが新刊として、大阪旭屋とか京都丸善などの洋書売り場にならんでいた。タイトルの「シナバー」を辞書で調べたら「辰砂」で「朱」の素だとあって、なぜに「ホワイトとブルー」なのか首をかしげた覚えがある。
解説の大野万紀さんも書いているけれど、連作短編集としては、最初の方にならんだ短篇に舞台設定の説明がないので、ちょっと取っつきが悪いかも知れない。その点、同じく大野万紀さんが云うように「ヘイズとヘテロ型女性」から読んで、世界設定が分かった上で読む方が戸惑いは少ないかも。それにしてもこの短篇はタイトルが地味すぎ。
セックスに関して非常におおらかな文化が設定されているのはヴァーリイ同様で、ヴァーリイに較べると、テーマとしての重みはヴァーリイ同様にあるものの、描き方としては深みがないようだ。
半世紀前にディッシュがLDGグループの一員としてブライアントをやり玉にあげていたのは、ホラー作家としての特性が前面に出てくる前のブライアントやジョージ・R・R・マーティンらの初期作品から感じられる「ナイーブさ」を若い世代の「甘え」だとディッシュが捉えていたからだったとも思える。でも当時の大学生だった当方にはその「ナイーブさ」が魅力だったのだ。それは当時の男子SFファンが24年組やその周辺及び三原順や倉田江美といった少女漫画に熱中していたことにも繋がる感性だったのだろう。
そういう意味では若い世代の感想が気になるところではある。
解説の最後に載せられた邦訳リストを見ると、ホラー関連アンソロジーなどに掲載されたブライアントの作品はほとんど読んでいないなあ。ブライアントもマーティンもホラー以前の作品が好きだったんだ。
ようやく西島大介“世界の終わりの魔法使い 完全版”全6巻の感想文を書けるような気になってきた。
以前河出書新社から2巻の『恋におちた悪魔』だけが刊行されて、これは買って読んだはずだけれど、面白かったという以外はほぼ記憶の彼方になっていた。それがこの春に広島現代美術館の1室で西島大介の仕事を一覧する展示会を見に行ったとき、6巻となって総額1万円超えになっていたのを発見、感慨深そうに見ていたら奥さんがセット買いしてくれたことは以前に書いた。
もう長い間マンガを読まないでいるので、マンガを読む気力が失われていたのだけれど、しばらく飾り物にしていた6冊を、頭から読み始めて6巻目まで読んだ感想は、「話が見えん」というものだった。作者が10年以上という時間を使って組み立てた魔法と科学の物語のロジックは、作者が読者サービスとして新たに各巻に付けた登場キャラによる解説座談会と物語設定の基本である架空年代記「魔法星団史」の年表を読んでも、どうもスッキリしなかった。
そこで暫く時間をおいてから、解説や年表で言及される時間順序に沿った全6巻の読み直しをして、ようやく話の主題が頭に入ってきた。すなわち新3部作の第1作とされる第4巻『小さな王子様』は全体のプロローグで、そのまま第5巻『巨神と星への旅』に続き、一転して旧3部作の第2巻『恋におちた悪魔』から第1巻『すべての始まり』へもどると新3部作最終巻第6巻『孤独な戦い』へ飛んで旧3部作の最終巻で全体の大団円の第3巻『影の子どもたち』で閉じられる。
全体を貫くテーマは、魔法星団と科学星「地球」がいつとも知れない時代から戦いを繰り広げている宇宙で、「世界の終わりの魔法使い」であり「世界破壊者」でもある「悪魔」の女の子「サン・フェアリー・アン」が地球から魔法星団にきた若き天才科学者「ムギ」に出会い2度と会えなかったが、その後「ムギ」の名を持つ孫の少年との恋が成就する(しかし「ムギ」は消える)、というもの。
もちろん全体は、複数の主要登場人物(人じゃないものも含む)が、いろいろなサブエピソードを担って複雑に積み重なり、関係の網を紡いでいる。それらのサブエピソードの主要テーマは、「思い出」から魔法で作られる「影」の存在がもたらす「切なさ」だろう。
一度この世界の全体像が見えてくると個々のエピソードの積み重ねがいろいろなバリエーションを呼び起こして圧倒されるような気分になる。まあ、1万円超の買物だけど、その金が惜しくないだけの見返りは十二分にあるだろう。
なお、オマケでもらえた、京都のホテルで原画展を開いたときに作られた30ページの冊子「世界の終わりの魔法使い7」『さまよえる双子(仮)』第1章は、「アン」と「ムギ」の間に生まれた双子(男女それぞれ親そっくりだけど、「ムギ」は魔法なんて大嫌いだったのに男の子は魔法を使い、女の子は大魔法使いだった「アン」とは逆に魔法を使わない)が、亡びた魔法星団の中心惑星に2人だけで暮らしているというもの。新章はどうやら「さびしい世界」からの回復を示唆しているようだ。