内 輪   第417回

大野万紀


 先月号の「みだれめも」で、水鏡子が「生まれて初めての交通事故に遭う」と書いていたのでびっくり。梅田の例会で聞いてみると、古本屋から自転車で帰宅中に横断歩道を渡っていると右折してきた軽自動車にはねられて体が宙に浮き、古本がばらまかれたという。それでも軽い打ち身と擦り傷程度でほとんどケガはなかったそうだ。不死身か。相手の方がオロオロしていてそれが面白かったなどと言う。保険金が下りたらそれで宝くじを買おうと思っているそうだ。運がいいのか悪いのか。まあそれが水鏡子という人だ。

 このあたりは山も近いので見たことのない鳥がよくやって来るのですが、この前近所で「プーティーウィッ」と鳴いている鳥がいました(姿は見えなかった)。本当にこう聞こえる鳴き方でした。お前はヴォネガットかと言いたい。いやヴォネガットなのはぼくの耳の方か。

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
 なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします


澤村伊智『斬首の森』 光文社

 2024年4月に出た長編。リーダビリティがとても良くて半日で読み終えた。
 物語は週刊誌の編集者である小田和真が、会議室で水野鮎実(あゆみ)という女性にインタビューしているところから始まる。彼女は怪しげなカルト企業Tの人里離れた所にある合宿所で研修という名の洗脳セミナーを受けた被害者だった。
 そのセミナーは集めた人々を洗脳しカルトに取り込もうとするもので、人権を無視し、ついには死者も出るが、それは事故というよりほとんど殺人に近いものだったという。鮎実はそこから脱出し、この取材に応じてくれたたった一人の人間だった。合宿所でほとんど洗脳されかかっていた鮎実だが、突然の火事騒ぎ(どうやら放火らしい)をきっかけに、このセミナーを怪しく思っていたまだ洗脳されていない何人かと脱出したのだ。
 彼女の話によれば、いっしょに逃げたリーダー格の男性はセミナーに潜入していたジャーナリストだった。脱出者たちはどこにあるのかも不明な暗い森の中をさ迷い、小屋を見つけてそこに隠れる。
 そこで恐ろしいことが起こる。リーダーが小屋からいなくなり、首だけの死体となって発見されるのだ。さらに隠れていた小屋が崩れ、みなで出口を探して森の中をさ迷ううちに川を見つけたが、そこには登山者のものと思われる古い首のない白骨死体があった……。
 この森が斬首の森と呼ばれていることや、カルトの元になったのが戦後すぐにこの森の近くにできた新興宗教だったことなど、徐々に事実が明らかにされるが、ここまで超自然的なものははっきりと出てこず、姿の見えない敵に追われるミステリとして、ホラーよりサスペンス味が強い話になっている。
 だが後半になって、脱出者たちの間に突然これまで一人で逃げていたという女が現れる。彼女の様子はまるでカルト側のメンバーのようで、とうてい信用できない。さらに惨劇は続き、いっしょに逃げていたもう一人の女性が首を切られた死体となり、火事のとき鮎実を助けてくれた男性まで様子がおかしくなる。
 そしてついに、首のない死体の胴体がぶよぶよと動き始めるのだ……。
 物語はその後、何とびっくり、「遊星からの物体X」を思わせるSF的な展開を見せる。
 最後にはカルトの創始者である新興宗教の謎、斬首の森と呼ばれ人が入らないこの森の謎、そういったものが一気に解かれるのだが、いやあ、ミステリがホラーになり、最後はSFとなって終わった。面白かったけれどまさかこんな話になるとは思わなかったよ。


松崎有理『山手線が転生して加速器になりました。』 光文社文庫

 2024年8月に出た本。7編と付録付きの短編集だが、実際には連作短編集で一冊の長編としても読める。ガチな科学ネタとユーモア、SF的大風呂敷と、細やかで人の感情を揺さぶる情緒的な描写。科学的な部分は本格的なハードSFなのにとても読みやすく、例えばブラックホールへの突入をこんなに科学的にリアルに描きながら目で見て体で感じるような臨場感がある文章はイーガン以上かも知れないと思った。ユーモア溢れる本格SFの傑作である。

 本書の背景には2019年に実際の新型コロナよりもはるかに恐ろしい致死性のパンデミックが発生し、過密を避けるため全世界で都市が放棄され、人々は孤島や小さな集落へ分散して移り住んだという基本設定がある。それでもネットワークによるリモートでのコミュニケーションが発達したため、アバターロボットを使って実体がどこにいても活動ができる。そんな分散インフラが全世界で発達したのだ(これは巻末の「付録 作中年表」に詳しく書かれていて、ここを読むだけでも気宇壮大になって面白い)。もちろん作者の作品にはいつも登場する人工知能モラヴェックも健在だ。

 「山手線が転生して加速器になりました。」はそんな放棄された東京で、誰も利用しなくなった山手線が巨大な円形の加速器ミューオンリングコライダーに改装され、素粒子物理学の実験に使われることになる。加速器になった山手線にはAIの意識が与えられるが、新しい知識はあるものの鉄道であったころの記憶にとらわれていて、研究者たちに「ヒッグス粒子やダークマターの謎を解明って、いったい何の役に立つんですか」などと問うのだ。毎日何百万人ものお客さんを運んでいた頃の方が尊い仕事だったんじゃないかと――。そこで線形加速器である電子陽電子リニアコライダーに改装されていた中央線に説得してもらおうということになる。それでもへそを曲げる山手線に、かつて山手線を利用していたという女性研究者が話をしたことで、ようやく心が通じ納得する山手線。一方そのころ宇宙では――、というお話がはさまって、人類が知らぬ間に滅亡の危機が回避されるのだ。すごい発想のバカSFとしても面白いが、そこに環境問題や仕事への態度、科学への眼差しといったテーマが重ねられて読み応えのある物語となっている。

 「未来人観光客がいっこうにやってこない50の理由」は未来からタイムマシンでやってくる人がいるとすればいったいどこにいるのか、というスティーヴン・ホーキングのパラドックスについてオンラインでの科学解説を書いている青年、真坂(まさか)マコトが主人公。都市放棄後の世界で彼は佐渡に住み、リモートで物理の博士号をとってポスドク採用されているが収入は少なく、オンライン雑誌に記事を書いて生活を支えている。そこへ読者の少年から結局未来人が決してやってこないという証明はできないのかと聞かれる。これまで様々に過去へのタイムトラベルが難しい理由を書いてきたが物理的には絶対不可能とまではいえないのだ。少年はある行為をしたことによって未来の自分が復讐に来るのではないかと恐れていた。真坂は少年安心させるため未来人が絶対に来ない理由を考えることになり、幼なじみの女性経済学者、行方(なめかた)ユクエに相談するのだが……。物理学的にではなく経済学的に過去へのタイムトラベルの不可能性が証明できるというのが面白い。またそこで描かれる世界の姿も面白い。だがそこにももう一つの解があり、であれば彼女はいったい……いや、巻末を見ればわかるんですけどね。

 「不可能旅行社の冒険――けっして行けない場所へ、お連れします」では定年を迎えた3人の科学者、地質学者のチカ、生物学者の保谷(ほや)、宇宙物理学者の天ノ川(あまのがわ)がけっして行けない場所へのバーチャル旅行のアイデアを考えることになる。没入感抜群の新デバイスが開発され、それを使って不可能な旅を体験する魅力的な旅行プランの提案が求められているのだ。天ノ川は「さすらいの数学者」という肩書きをもつポールおじさんに協力を求める。ポールおじさんは仮想空間に忽然と現れた謎の数学者で多くの難問を解決している有名人だ。彼は数学的な特殊な構造への旅を考えるが一般人にはイメージがわかない。そこでまた仮想空間の視覚化デザインが得意なビーバーという(アバターもビーバーな)デザイナーを呼び込むことになる。せっかくなのでコンテストに応募することになり、これまで出た様々な旅行先(どれもとても魅力的だ)を検討するが、結局一般ユーザにも魅力的なブラックホールへの突入体験に決定した。だがここで実は――というチーム内の裏切りがあり、真実の曝露があって物語は暗転する。それでも物語は先へ進み、そして実現したブラックホールへの突入。初めに書いたようにこの描写がすばらしい。そしてはっとするようなそれどいて温かみのあるエンディング。傑作だ。

 「山手線が加速器に転生して一年がすぎました。」は表題作の軽い続編。あれから1年たち、ミューオンリングコライダーの山手線は今日もごきげんにぐるぐる回り、電子陽電子リニアコライダーの中央線も山手線と同様にSNSのアカウントをもらってフォロワーに実験のことや日々のあれこれを発信しているのだが、このところちょっと口数が少ない。どうやら山手線よりも微妙にフォロワー数が伸び悩んでいるのを気にしているようだ。そんな二人(?)に新たな相互フォローの依頼が来た。彼女はリサコ。軌道上に浮かぶ宇宙重力波望遠鏡である。担当者からはリサコを加えた三人のやりとりをSNSへ連続投稿したいとのことだった。ところがリサコは「宇宙のどこかでブラックホールががっつんとぶつかって重力波を出してきたら教えてあげるから、刮目して待ってなさいよ」という感じで生後一ヶ月の女の子なのにすごいエラそう。「リングさんは何ができるの」と生意気そうに聞いてくるので「ぼくら加速器はブラックホールそのものを作り出せるんですよ」と答えたら、そんな危険なことをとSNSで大炎上。その一方で中央線はリサコに恋心を抱き、しきりにアピールする。そしてそんな会話を聞いているものが宇宙にはあって……。

 「ひとりぼっちの都会人」は傑作。冒頭、廃墟の中、自然に戻りつつある東京を老人言葉の男が八本足のアバターロボットから走って逃げている。その頭上には「そでがさき。そでがさきぃ」としか声を出さない大猫がふわふわと飛ながら彼に心配そうな声をかける……。そんなどこか幻想的な描写から始まる物語は、廃墟の都庁にたった一人で住んでいる老人が今は南鳥島に暮らしている腕利きの料理人、味田村(かつては東京で有名なレストランのシェフで、老人はその常連だった)に最後の晩餐をテーマにした料理を依頼するというグルメSFである。アバターロボットを使って東京にやってきた味田村は、新宿へ向かう途中、東京から住民が退去したときに取り残された少年と出会う。彼は放棄された建物に残されていたものと廃墟の自然に自生した植物を採集して生きているのだ。味田村はそんな彼を味見役に使おうと思い(アバターには味覚がないから)連れて行くことにする。都庁に住む世捨て人は仙人とも呼ばれていた。彼こそパンデミックの時に都市撤退宣言を進言した世界的ウイルス学者だったのだ。廃墟の東京を見下ろす高層ビルの大食堂で、味田村シェフによるたった一人の客への東京の食材を使った豪華な晩餐が始まる……。実に美味しそうな料理小説、グルメ小説としても素晴らしいが、その背景にある滅びた東京の寂寥感が胸に染みる。取り残された子どもたちのエピソードといい、心に残る傑作である。

 「みんな、どこにいるんだ」はインタビュー形式で描かれたファーストコンタクトSF。だがファーストコンタクトの相手はタコだった。砂浜にタコが木の枝を使って「ワタシタチヲ タベナイデ」と書いたところから始まり、西アフリカでのタコ漁師の話、水産庁職員の話、頭足類研究者の話、そしてタコのメッセージから歌を作った女性の話、哲学者によるファーストコンタクトと知性についての話が続き、それが宇宙へとつながって最後にはセカンドコンタクトへ、そして地球生物と人類の壮大な歴史の謎(でもめちゃくちゃ軽い)が語られていくのだ。SFとしてはありがちな話にも見えるが語り口がとても面白く、しかもそのハラリと身をかわすようなヒネリ具合が絶妙である。

 「総論 経済学者の目からみた人類史」は「未来人観光客がいっこうにやってこない50の理由」に出てきたあの経済学者、行方ユクエが書いた短い論文である。どうやら人類史上最大の太陽フレアにより、地球上にあった電子データがほとんど破壊されてしまったらしい。でもその後ワームホールタイムマシンが発明され、失われた記録を過去に戻って現地で調査し直すことが可能となったという。この論文はそんなフィールドワークをもとにしたものだ。著者による経済学的人類史は人類史どころか宇宙のはじまりから書き起こされる。キーワードは「無料の昼食」つまりフリーランチ。かつて「無料の昼食は存在しない」(ノーフリーランチ)が経済の原則だった。何かを得るためには何かを差し出さなければならない(等価交換)。それが貨幣を生み、資本主義経済を生んだ。しかし致命的なパンデミックの後、再び全世界的なフリーランチの時代がやってきたのだと論文は結ばれている。参考資料も(架空もあり)多数付いていて、大笑いして読めばいいのかなるほどと納得すればいいのか良くわからないが面白く読んだ。こういうのもいいな。

 「付録 作中年表」は付録の年表だが、これだけ読んでもワクワク感が止まらず、とにかく楽しい。宇宙開闢から始まってその数百万年後にはダークマター、ダークエネルギーが意識を持ち、さらに十数億年たって宇宙養殖計画が始まり、様々な知性が進化して、やっと46億年前に地球が誕生し、途中で頭足類が異星の知性体とファーストコンタクトし……とすごい勢いで宇宙と地球の歴史が語られ、20万年前にホモサピエンスが誕生してようやくブレーキがかかり、5千年前の都市文明の誕生の次は1950年のエンリコ・フェルミの問いからフェルミパラドックスへと続く。1961年にドレイク方程式ができ、1990年にホーキングのタイムトラベルに関するパラドックスが誕生する。2004年以後は本書のできごとと現実のできごとが混在して2019年の世界パンデミックからは本書の世界線となる。22世紀には巨大太陽フレアにより電子データと貨幣経済が消滅し、その後数百年(?)のうちに超光速宇宙船は実現するわ、過去へのタイムトラベルも可能になるわの大騒ぎ。そして最後は宇宙の終焉。こういうの大好きです。

 それはともかく、ここで見えるのはやはり本書を貫くテーマが「コンタクト」であるということ。人と人、人と人でないものの新たな関係性。AIと人間のコンタクト、異星知性とのコンタクト、未来から過去へのコンタクト、アバターと生身の人間のコンタクト、失われたものと今を生きるものとのコンタクト、タコと人とのコンタクト……。
 本書を読むのがもっと早ければ去年のベストSFに選んでいたのになあ。


円城塔『ムーンシャイン』 創元日本SF叢書

 2024年7月に出た短編集。2008年から2023年に東京創元社のアンソロジーや雑誌に掲載された4編の中短篇と自作解説の著者あとがきが収録されている。

 「パリンプセストあるいは重ね書きされた八つの物語」は2008年の『虚構機関 年刊日本SF傑作選』に収録された作品だが、執筆は2006年で、著者のデビューに近い最初期の作品だといえる。既読。パリンプセストというのは、羊皮紙が貴重だった昔、書いた文字を消してはそれに上書きしていった写本のことだが、ここではタイプライターの文字送りを使わずにタイプし続けて8つの黒い■のみとなった曾祖父のノートのことだ。その8つの■には8つの物語が重ね書きされている。語り手はそれを読み解いていく。実際に読めるわけではないのでそれは必然的に思弁的なファンタジーとなる。8つの物語は「砂鯨」「涙方程式始末」「祖母祖父祖母祖父をなす四つの断章」「紐虫(ひもむし)をめぐる奇妙な性質」「断絶と一つの解題」「縞馬型をした我が父母について」「波蘭(ポーランド)あるいはアレフに関する記録」と題されている。あれ7つしかない? いや冒頭の■にはループするプログラミングコードが書かれていたのだ。

 「砂鯨」は古代の砂漠の都市が論理演算を行っていたという劉慈欣の人間コンピュータみたいな話だが、その文体は静謐でカルヴィーノの『見えない都市』を思わせる雰囲気がある。

 「涙方程式始末」はそれを見ると涙を流すという情報構造、30億の連立方程式からなる42次元空間の涙多様体の発見が、ある研究員の謎めいた死体から始まったという、まあ言って見ればSFコメディだ。

 「祖母祖父祖母祖父をなす四つの断章」はややこしい。記号(文字列)の組合せが入れ子になり自己言及し、2進法の0から3の4つの断章として、恋人たちの会話(になっていない)や善悪の哲学、そして祖父と祖母のなれそめ(?)を描くのである。

 「紐虫(ひもむし)をめぐる奇妙な性質」では紐虫という奇妙な微生物が登場する。これは面白かった。その不可解でSF的な生態がユーモラスな筆致で描かれている。不死と思われるこの生物にガンマ線を照射するとひらりと避けるのだ。光速度より早くガンマ線を察知して避けるなど物理学的にはあり得なく、その研究からある種の変分方程式が生みだされる。さらに追記としてある少年が行ったとされる実験により、紐虫が時間を越えていることが示唆される。これは普通にSFですね。

「断絶と一つの解題」では数を数えることに不可解な困難を覚えるという語り手が、曾祖父のノートに重畳された8つの物語を解読するにあたって、そこに自分から見ると父と母の2人、父方の祖父と祖母、母方の祖父と祖母の4人、そしてそれぞれの曾祖父と曾祖母という8人の曾祖父曾祖母がいて、その14人の物語が圧縮され内包されていると愚痴を述べている。でもそうなのか?

 「縞馬(しまうま)型をした我が父母について」は動物園と本屋だけがあるぼくの街の話。動物園にいるのは縞馬が2頭だけ。本屋には何語で書かれたかわからない本が並ぶ本棚が3つあるが、店主である老人に聞いてもただ牛の鳴き声のような声を上げるばかり。もう一つこの街にあるのは、いや街がその存在の上にあるのかも知れないが、ゴリアスという巨人だ(ここでは落語の頭山のような入れ子構造が当たり前に成り立っている)。そしてゴリアスはある雷雨の夜動物園の2頭の縞馬を引き裂き、そして嵐の去った後には引き裂かれ組み替えられ並び替えられた本が残される。ゴリアスとは何者なのか。そして我が父母である縞馬とは一体? 今や明確となった作者の宗教への関心がここにも現れているように思う。

 「波蘭(ポーランド)あるいはアレフに関する記録」に描かれるのはヨーロッパを越え大西洋を渡りひたすら西進するポーランド。ポーランドが西へ移動していることがわかったのは第二次大戦の終結後。21世紀にはドイツに侵入し、22世紀にはついに大西洋へ沈んでいった。23世紀に北米へ上陸したときは一人の男の姿となっていた。さらに百年後、男の家族は西海岸に達し、太平洋に没してさらに西へ向かう――。一方で数学のアレフの概念が語られ、生物の自己増殖やDNAの意味についても語られる。そこから示唆される波蘭(この漢字もここでのポーランドの運命を思わせますね)の未来は奇想を越えてSF的なワンダーへと繋がっていく。

 どの物語も円城塔らしい数理的な幻想が描かれていて、記号の組み合わせ(つまり言葉であり、数式である)が作り出す世界についての小説であり、フラクタル的で自己言及的で、すなわちメタな物語となっている。わかりやすさはなく、内容はやっぱり説明不能。数学的な、あるいはコンピュータ科学的な構造が小説世界を構成していて、その難解さはいわゆる文学的難解さともちょっと違う。時々現れる数学用語や情報科学の用語がまるで学生のバカ話のようなユーモアをそこはかとなくかもし出している。とはいえ描かれる様々なイメージは面白く、奇想に満ち、SFっぽいワンダーもある。ぼくが特に好きなのはSF味の強い紐虫とポーランドですね。

 「ムーンシャイン」は2009年に『超弦領域 年刊日本SF傑作選』に収録された作品。既読。書かれたのは2008年でもともと翌年の『超弦領域』に掲載されるというので書かれた(でも書いたのはこれとは違う作品でそれを取りやめて新たにこっちを書いたのだという)作品である。
 若いころ、ジュディス・メリルの『年刊SF傑作選5』(1973)に載っていたノーマン・ケーガン「数理飛行士」という短編を読んで衝撃を受け、すっかり魅了された。2002年のSFマガジン7月号に再録されたので読んだ方もいるだろう。かつて「シミルボン」に「SF――時空ドーナツはおいしいか? 数学SF」というエッセイを書いた(THATTAに再録あり)ので詳しくはそちらを。「ムーンシャイン」にもそんな数学的・幻想的イメージが満ち満ちている。
 以下は以前に書いた文章だが、今読んでもまるきり同じ感想なのでほぼそのまま引用することにする。

 これは傑作だ。ほとんど小説として読まれることを拒絶しながら(特に前半)、それがまた無性に面白いという奇っ怪な作品である。数学的構造のような抽象概念を直観的にとらえ、それに萌えることができるという人のみが(たぶん)この作品を理解できるのだろう。でもこの作品を「理解」なんてする必要がどこにあるのか。作中の少女が見る巨大数のシュールで幻想的なイメージだけで十分だ。
 共感覚でもって数(やその構造)を人や風景として見ることのできる少女がいて、彼女の中では数学的構造が多重化されてそのままに息づいている。その多重構造のうち、双子素数で表されるある構造が、擬人化された万能チューリングマシンを構成していて、コンピュータとして他者とコミュニケートできる、というのが本作のベースラインである。イーガンの「ワンの絨毯」みたいな、といってもいいだろうか。
 数学的構造をまるまる取り込んだまま、感情や感覚を備え、生命をもつこの少女こそが、ゲーデルの不完全性定理を越えた存在、単なるコンピュータを越えた存在となるのである。その宇宙の中で、少女は双子素数(にエンコードされた少年)と会話し、彼と別れて未知の宇宙へ旅立つ。それが恋愛なのかどうかはわからないが、結末のイメージはぞくぞくするほど美しい。
 モンスター群という数学の概念を扱った数学SFといえるものだが、むしろ素数を擬人化した萌えSFとして読むのがお勧めである。巨大数の素因数分解を直感的にできるようなサヴァン症候群といった普通のSF的なアイデアもあるのだが、専門家でなければわからないような数に関するあれこれがたっぷりと含まれていて、小説として楽しむことはほとんど不可能に近い。にもかかわらず、やっぱり面白い。この面白さもちょっと説明困難で、困ったものだ。

 「遍歴」はいきなり跳んで2017年の作品。冒頭、やたらと数式を装飾に使った喫茶店の描写が続く。そのカップや皿には「kTlog2」という文字がマークのように描かれている(この数式にひっかかった人はネットで検索してみると、これが「マクスウェルの悪魔」の情報科学版で1ビットの情報がもつエネルギーであることを知るだろう。ぼくもその昔、情報というものが物理学と直接つながることを知って大変驚いたものだ)。
 この喫茶店はどうやらある宗教団体が運営しているらしい。次の章では山口浩一という人物のごく平凡な人生がその死まで描かれる。そしてその次の章からはオープンソース教団という宗教のアイデアが提示される。教義や戒律などその宗教の文化・宗教的コードをオープンライセンスとして公開する信仰形態だ。その1つ、エルゴード教団は人間の生まれ変わりを認める宗教である。人間は誰もが死んだら生まれ変わるが、それは未来だけでなく過去に生まれ変わることもあり、それが無限に繰り返されるという。十分に長い時間がたてば、人間はあらゆる人生を繰返し経験することで均一化することになるだろう。つまり人間も熱い空気と冷たい空気を一緒にするとやがて中間の温度になるように、時間平均と空間平均が等しくなるエルゴード性を示すというわけである。ちなみにマクスウェルの悪魔はこのエルゴード性を破壊するような存在だ。
 作品は山口、山一、山二と続く生まれ変わりの系譜を描くと同時に、エルゴード教団そのものの発展と分岐を描いていく。ドラマはほとんど無く、小説というよりは解説・エッセイのような読後感である。著者の後書きにこれを書いたのは信仰について深く考え始めた時期だとあるが、ここから『コード・仏陀』につながっていくのかも知れない。

 「ローラのオリジナル」は2024年の最新の作品であり、生成AIをテーマとした小説である。一人の人間が生成AIを使って作り出した「ローラ」という名の架空の人物の膨大な量の画像がネット上に拡散している。その画像に埋め込まれていたテキストデータの断片から、語り手は製作者である「わたし」の物語を再現する。
 例によって複雑な構成の話で、語り手と、その再現したというテキストの中のわたし、さらにそのわたしの語るわたしと繰り返されていく再帰的な語りの中で、わたしの意味は曖昧になっていき、ついにはそこに読者であるわたしも含まれていく。
 ローラ(LoRA)というのは実在する画像生成AIの手法の一つで、既存の学習データの一部を自分の用意したデータで効率的に置き換えることができる。キャラクターや背景、そのスタイルなどを自分の意図に合わせて(なかなか思い通りにはならないようだが)AIに作らせることができるのだ。これは一方で(著者が後書きで言っているように)フェイク画像や著作権侵害といった生成AIが抱える深刻な問題とも関わってくる。もっともわざわざ後書きで指摘するぐらいで、この作品自体にはそのような視点はあまり含まれていない。
 むしろこの作品では一見ごく日常的な風景の中に埋め込まれた自分という存在の不思議さ、曖昧さが重要である。そもそも生成AIに限らず、画像というのは情報であって現実ではない。もちろん画像に限らず小説というテキストだってそうだ。それが作り出す反応は、それを見るものや読むものの心の中に生まれる写像なのである。生成AIの話には違いないが、これは小説やマンガやアニメの登場人物と、その読者との関係性の物語として普遍化されるだろう。
 この作品のテキストの中の、ローラを生みだした「わたし」は、そのイメージの源泉をめぐって故郷の街を訪ねる。小学生のころにわたしの絵を誉めてくれた少女、それがローラのオリジナルだ。もともとは渾沌の中から拾い上げた彼女のイメージをAIが作り出す想像上の画像から選択していったものだった。ローラが日常生活を送るその背景となる街の風景も、古びた模型店のウィンドウも、自分の記憶と想像と嗜好性がAIのエンジンを通じて作り上げたものだ。試行錯誤のわずかなパラメータの違いが生みだす微妙に異なった無数の世界。その世界にいるローラ、そしてわたし。この地方都市の描写もノスタルジックでリアルで、ぼくの好きな「地方都市小説」の一つと言っていい雰囲気がある。そう、雰囲気。気配、イメージ、生みだされる情感。それは小説というテキストが(読者である)わたしという生成AIへのプロンプトとなってニューラルネットワークの中を駆け巡り、記憶や知識といったデータと反応して生みだした一連の行列式なのである。


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