続・サンタロガ・バリア  (第271回)
津田文夫


 月末に蛸井潔さんが来呉されたので、『この世界の片隅に』に出てくる主人公の嫁ぎ先、北条家のモデルになった住宅があった場所(観光としては「すずさん家(がた)」)へ御案内したのだけれど、当方はこの10年で何十回も自転車で足を運んでいるので、歩いても迷うことは無いと思って高をくくって、観光用イラスト案内図を見つつ最寄りのバス停から歩いていたら案内役の当方が迷ってしまった。
 目的の場所には市内のどこからでもたどり着けるだけの自信はあったので、最終的には目的地に案内できたのだけれど、蛸井さんには申し訳ないことでした。
 また夕方から飲み屋でダベっていたら、久しぶりということで3時間も話し込んでしまい予定時間を大幅に超過、呉駅に行ったら次の電車まで小1時間待ちという体たらく。蛸井さんには重ね重ね申し訳ないことでした。
 酔っ払ったせいか自宅に上がる短くて幅の狭い急坂(かなりの脚力が無いと電動でも上がれない)で、押す力が弱かったせいか自転車(電動は重い)ごとよろめいて脇の擁壁に当たってしまった。後で風呂に入ったら臂に擦り傷が出来てました。トシだねえ。

 当方が参加しているイマジニアンの会代表の宮本さんが面白いと云っていたので、結構話題になった『教皇選挙』を今頃になって上映し始めた地元の映画館で見てきた。
 バチカンの雰囲気がよくできていて、前半は選挙執行役の首席枢機卿の視点で進む重厚な筋運びを興味津々で見ていたのだけれど、後半になるとミステリのエンターテインメントが前面に出て来てしまうので、面白いというか面白すぎるつくりになってしまっているように感じた。
 まあ、面白い映画を作りたいという点では確かに成功していて、最初の方で教会内の床をノソノソしていたカメが最後も出てきて主人公の手で池に戻され、そして若い見習い修道女らが笑いながら中庭へ駆け出るのを彼が眺めるシーンでエンドロールに代わるのを見ると、これがいわゆる「世は並べてこともなし」という終わり方になっているのに気がつく。となると、これはスラップスティックとしてのCONCLAVEだったのかも知れない。「カメさま」はすべてをお見通しだ。

 「かつて世界を沸き立たせたSF的想像力はいつしか魅力を失い、代わりに中世の魔術やホラーが時代の想像力の源泉となった」若林惠(『朝日新聞』令和7年5月26日「文化」欄掲載「寄稿」より)。
 若林惠は元『WIRED』日本版編集長でフリー編集者、現在は黒鳥社を運営、1971年生まれ(ググった)。
 この寄稿そのものは大阪万博にこと寄せて、1939年と64年に開かれたニューヨーク万博のGMパビリオン「フーチャラマ」がもたらした「テクノロジーによる輝かしい未来のイメージ」が20世紀後半のアメリカの未来都市のイメージを決定したと始めて、それが最近アメリカで出されたリベラル派が書いた民主党の失敗を批判する書でも受け継がれていると繋ぐ。そして返す刀でそのようなテクノロジー志向は現代中国の超モダン都市で既に実現してしまったではないかと論じて、そんな未来は既に色褪せているという結論に持っていくところで綴られているのが引用部分。
 この「寄稿」に新聞社が付けたと思われる「惹句」は、この「寄稿」の結論部分からの引用だけれど、「『未来』は西からやってこない」及び「色褪せる西欧の観念、賞味期限が迫る万博」というもので、当方にはピントがずれているように思えた。本当の結論は「万博がすでにして20世紀アメリカの遺物でしかないのであれば、そこでもっとも時代遅れになっているのは「未来」という観念そのものなのかもしれない」というこの「寄稿」の末尾の一文だ。
 冒頭の引用部分はその結論へ導くための例証になっているのだけれど、最近の当方の思いによく一致したものだったので紹介した次第。
 そんな気分になってきたのも、今年になってから、海外SF、特に従来の英語圏SFの翻訳が、国書刊行会や竹書房のSF翻訳路線がほぼ終熄したことで、ほとんど読めなくなり、本家である早川及び創元もSFらしいSFの出版点数が激減しているように感じられるから。
 『SFマガジン』の4月号や6月号のBookGuideページを見ても、ペリー・ローダン以外のプロパーSFはほとんど無く、ホラーとファンタジー、もしくは奇想系で占められている。なんとなく翻訳SF冬の時代が到来しつつあるような気がするんだよねえ。杞憂じゃ無けりゃいいんだけど。もっともよく見たら日本の方もSFの文字が見えないなあ(もしかして担当のスケキヨ氏の趣味なのか)。
 やっぱり、21世紀も四半世紀過ぎていまだにプロパーSFという感覚を持つ方がおかしいのか。すでに半世紀前に「主体的読者」となった伊藤さんは、自分の好きな「SF」はSFというレッテルが貼られていないモノがほとんどだ、と云ってたし。

 本の感想に移ろう。今回はなんと云ってもこれから。

 『伊藤典夫評論集成』は、まだ800ページしか読めていないのだけど、ひとつ当方に分かったことがあるので書いておこう。
 届いてから1週間ほど床に置いて拝んでいたのだけれど、さすがに読むのが当然でしょうと、付録の筒井康隆(1970)、水鏡子の一文(1986)と加藤弘一のインタビュー(1996年)を読んでから、おもむろに重い本を開けて『宇宙塵』に掲載されたレムのベスター『破壊/分解された男』批判に対する伊藤さんの擁護論を読んだ途端、「エンターテインメント」と「文学」は何を以て分けられるかが(いまさら)ひらめいたのであった。
 加藤弘一のインタビューは、本書にも収録の『SFマガジン』1972年3月号まで連載された「宇宙製造者たち」を踏まえた上で、1996年にようやく伊藤さんの手で訳されたディレーニイ『アインシュタイン交点』発刊に会わせて行われたモノで、加藤弘一の「ほら貝」HPで以前から公開されていたモノ。当方も大分前に読んでいたけれど、今回の1962年の「宇宙塵」に発表されたベスターの完璧なエンターテインメントをレムの批判に対して擁護した一文を読むまで当方の頭には何も浮かんでこなかった。
 昔話をすると、ここに収められた「宇宙製造者たち」の『アインシュタイン交点』分析が強く記憶に残ったせいで、ゼラズニイの『ロードマークス』サンリオSF文庫版解説で『アインシュタイン交点』を引き合いに出したことは覚えている。
 『ロードマークス』は、いかにもゼラズニイらしいエンターテインメントの代表的な作品だけれど、ゼラズニイだってそれなりに文学的な象徴がはめ込まれているとの見立てをすることは可能だろうと(かなりいい加減な目論見で)踏んで、『アインシュタイン交点』を引き合いに出したと云うことですね。
 さて、話を元に戻して、62年の時点で弱冠20歳の伊藤さんがベスターのベスト・エンターテインメントを擁護していること、72年に『アインシュタイン交点』に見かけの物語とそこに込められた内実を発見したオドロキと共に主体的読者の確立を宣言したけれど、それから4半世紀のちの加藤弘一インタビューでも伊藤さんはディレーニイやディックの作品の見かけの物語がそれほど面白くないと語っていること。
 これらのことと、レムがベスターのエンターテインメントSFを「文学」ではないと否定し(別のところで)ディックを持ち上げていること、そして伊藤さんの一貫したエンターテインメントの感じ方から、当方の頭に湧いてきたのは「自分(ヒト)が何によって生きているのか」を肯定的/否定的/両面的に考察する作品が「文学的」と当方には感じられ、そんな考察は薬にもしたくない作品が同じく「エンターテインメント」に感じられる、と云うことモノだった。
 最近の例をまた引っ張り出すと、『きみはメタルギアソリッドV:ファントムペインをプレイする』が「文学」だと当方が感じたのは、作者がアフガニスタンと自らの関係を考察することで作品を成り立たせているからだとしたのは、そういう観点が当方にあるからということになる。
 これが『世界99』だと、フェミニズム/女性性と作者(自分)との関係の考察は、一端抽象化(思考実験/SF)されているため、読んでいる分には「文学的」であるとは感じられないのだけれど、作品全体としてはそのテーマで「ヒトは何によって生きているのか」を考察しているため「文学」として成り立っているように思われる、ということになる。
 ウーン、何を云っているのか自分でも怪しいが、例えばレムは「自分(ヒト)が何によって生きているのか」の考察には否定的に考えていると思える。安部公房も否定的だろう。バラードは彼が好む「美」によって生きること(他人から見ると死ぬこと)を考察していた、と考えていいんじゃなかろうか。
 その一方、ベスターに代表される面白さ抜群のSFや「京極堂」シリーズみたいな謎解きミステリには、そのような考察と縁が薄いことで、より気晴らし的に読めるモノになっているんじゃなかろうか、ということですね。
 『伊藤典夫評論集成』については、次回までに読み終わったらまた何か感想を書くでしょう。

 文庫化された村上春樹『街とその不確かな壁』上・下を読んだ。ハードカバーで読んでいたのは『1Q84』が最後で以降文庫落ちしてからしか読んでない。
 村上春樹をリアルタイムで読むようになったのは『羊をめぐる冒険』から。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』に感激したのは覚えているけれど、『ノルウェイの森』はさすがにどうかと思った。この一作というのはやはり『ねじまき鳥クロニクル』かなあ。やっぱり「深い井戸」だよねえ。
 そういう意味では、キャリア初期に書いて雑誌に発表したもののどうしても気に入らず、単行本に収録することなく40年が経ちようやく書き直すことが出来た、というあとがきを付けていることもあって、これが一種の集大成的なモノな感じはある。
 『伊藤典夫評論集成』の感想文のところで、当方は文学とエンターテインメントを分けるひとつの指標として「何によって生きるか」を表に出すか出さないかがあるとしたんだけれど、村上春樹は、タイトル自体が「何によって生きるか」を現していることを読者が読後に分かるようにしてあるという点で「文学」を書いている。
 もっとも冒頭のエピソードで「街とその壁」を具体的に説明してしまうので、ちょっとあからさますぎる気もするけれど。ということで「不確かな」がミソですね。
 いまさらストーリーに言及しても仕方ないけれど、驚いたのは4分の3ほど読んだところで、マルケスの『コレラの時代の愛』が出てきたこと。前に書いたことがあるけれど、小説/文学とは何かを知りたかったらこれを読んだら良いと当方でさえ考えるような1冊だ。以前、誰か『コロナの時代の愛』を書かないかなあと冗談で言ってみたけれど、案外村上春樹が書いたこれがそれなのかも知れない。まあ完成度ではマルケスに及ばないとは思うけれど。

 天沢時生『すべての原付の光』は、帯に「志賀と奇想とサイバーパンク」と謳われた5編を収める第1短編集。なんで「滋賀?」という疑問はともかく、5篇中3作が再読。
 初読の標題作「すべての原付の光」は、記者が生意気中坊たちにヤキを入れているヤンキーを訪ねるところから始まっているんだけれど、ヤンキーが中坊を文字通り弾にして撃ち出すというところでさすがに驚く。中空で消えた中坊たちが帰ってくるところでさらに驚かせるという2段構えでベスターの教えが今も生きているなあと感慨が湧く。
 初読のもう1作「竜頭」は、岡本俊弥さんのところの書評で知った作者インタビューを読んだお陰で、これが小田雅久仁の作風に繋がるような1篇だと感じた。
 再読の3作も面白く読めたけれど、「ラゴス生体都市」は今回読んでもすぐ内容を忘れてしまう。パラパラと読み返すと思い出すのだけれど、こんなに記憶に残らないのはなぜなんだろう。

 オキシタケヒコ『筐底のエルピス8 -我らの戦い-』は4月刊だったけれど地元では見かけず、とうとうAmazonへ発注した1冊。
5巻以降、第4巻「廃棄未来」までの壮絶なSF的設定とシリアスな展開から一転、ノホホンとしたラノベらしい楽しさに特化した物語に転換して、ひたすらボケ倒す方向で展開してきたけれど、今回はその傾向がほぼ頂点に達した1作。まあ、次巻で完結と云うことなので副題「我らの戦い」は月の裏側にいると思われる「外宇宙から到来した機械知性」との前哨戦までで終わっている。エーッと、楽しく読めますです、ハイ。

 今回は途中で読むのを止めたのが2冊もあった。

 1冊はアレックス・ホワイト『超機動音響兵器ヴァンガード』。150ページ読んで、まったく面白くならないので投げました。巨大ロボットものとジャズの掛け合わせ(第1章の章題「ジャイアント・ステップス」はジョン・コルトレーンの名盤のタイトル曲)。楽しく読めるかと期待したのが間違いだった。下手クソな巨大ロボット特撮/アニメを下敷きにした独りよがりのノヴェライズみたいだ。

 もう1冊はペン・シェパード『非在の街』。長年SFを読んできたヒトには『ヴァンガード』を投げた理由は読めばすぐ分かるだろうけど、こちらは岡本俊弥さんや牧眞司さんという読み巧者がちゃんと書評しているので、当方が投げた理由を書いておきたい。
 読み始めてまずヘンな感じがしたのが父娘関係。主人公である娘は、偉大な地図学者で公共図書館の地図部門責任者として業界に影響力のある父の影響で地図学を修め、父と同じ部署に採用されたのに、書庫で見つけた「ジャンク」と書かれた箱の古地図が本物かもしれないと言い張って父からクビを言い渡されたうえ絶縁状態になる。これはまともな同業親子の関係とも思われない。
 次にヘンなのと思ったのは、その「ジャンク箱」には古地図のほかに1930年代の給油所が書いてある道路地図があり、主人公は無価値地図だとスルーしたのに、何年も経って、父が死亡したことで久しぶりに図書館の父の部屋に入り、父の隠しファイルにその地図が保存されているのを見つけ、警察や図書館員にも知らせず持って帰ってしまい、その上で何の気なしに父の仕事の続きとしてその地図を図書館の公的資料として公開目録に登録してしまった。これがまた当方にはわざとらしく感じられた。
 決定的だったのは、次のエピソード。
 主人公がこの地図がありふれたモノであることを納得するため全国の図書館公開目録でググったら200枚以上ヒットしたが、すべて行方不明か盗難に遭っていたのに、そのことを調べようともしなかった。そしてこの地図を公開目録に登録した途端、父の居た図書館の地図部門に侵入者があり、図書館員が1名死亡。不安になった主人公は、「ジャンク箱」事件で父に対して彼女をかばい彼女と一緒にクビになったせいでやはり疎遠となったいた元恋人(そのエピソードはここで初めて出てくる)に事情を話し、調査をして貰ったらこの地図が信じられないほど高額で取引されていることが分かった。ところが2人ともその理由を調べない上に、主人公はその地図がすべての公共図書館から消えているという情報を元恋人に伝えずじまい、なおかつ主人公はその地図を個人的に持っておくことにこだわり、父のいた図書館の旧知の職員に自分のやったことを話したのに、その図書館員は彼女の行為を黙認するのである。
 ここまできてさすがにバカバカしくなったのでした。主な登場人物(父も含め)がみんな地図の専門家だというのに、コリャどういうことだ。強いて見当を付ければ、父はその給油所記載道路地図が示唆する危険性から娘を守ろうとした、というところか。
 ここから先の話はファンタジーになるらしいので、それでも気が向いたら続きを読むかも。

 口直しに読んだのがニー・ヴォ『歌う丘の聖職者』。人々から物語を聞き取って記録することが役目の聖職者と、その相棒である、人語を解し見聞きしたことを記憶するヤツガシラ(訳語は「戴勝」読めん)を主人公にした中篇ファンタジー・シリーズ第2作。前作『塩と運命の皇后』同様、「河畔の国へ」と題する1篇と標題作の中篇2編を収める。
「河畔の国へ」は、タイトル通り河畔の国への道中もの。主人公コンビがちょっとしたきっかけで同行することになった若い女性カップルと中年カップルに彼らの物語を聞きながら、武闘派のメンバーが襲い来る伝説の強盗団を退治する、というもの。
 「歌う丘の聖職者」は原題が「門前のマンモスたち」だったけれど、主人公がようやく故郷の寺院に帰り着いたら、寺院の門前に巨大な古代象が2頭居たというシーンから始まるので、原題のタイトルはそれにちなんで付けられたようだ。でも訳題の方は物語全体の意味合いから付けられたみたい。
 話の方は、は主人公らを育て指導してくれた老聖職者が亡くなり、その葬儀を行う前に、老聖職者が家庭を築いていた俗人時代の孫娘2人が、古代象と部隊をつれて老聖職者の遺体を腕ずくで出身地に持って帰ろうとするため、遺体を渡したくない寺院とトラブルが発生する。
 2篇ともオーソドックスなこぢんまりしたファンタジーのようなプロットだけれど、作者がクィアだというヴェトナム系女性作家なので、物語にはエキセントリックな表情があり、描写や感情、モラルの衝突などかなり地に着いた作りがなされていて、評判が良いのも肯かれる。
アクションは多いけれど、読後感はベッキー・チェンバーズ『ロボットとわたしの不思議な旅』と似たような感触がある。

 前回予告のマンガの感想文はまた次回まわしです。


『続・サンタロガ・バリア』インデックスへ

THATTA 445号へ戻る

トップページへ戻る