続・サンタロガ・バリア (第269回) |
この季節にエディンバラから宮城氏が帰国して近場の日帰り旅行に同行するのが恒例になりつつある。いつまで続くかは分かりませんが。
今回は岡山城と後楽園。まあ若いときはこんな近場の観光地に興味は無いから、宮城氏は初めて、当方は40年以上前の職場旅行で寄ったような気がするけれど記憶違いかも。なお、今回は同志社SF研同期OBの西尾氏も参加。
岡山駅で顔合わせして市電通りを歩いて岡山城へ。特に西尾氏と宮城氏は超久しぶりの顔合わせだったので、積もる話をしながらまず岡山城へ上がった。典型的な戦後再建タイプで、「烏城」というわりには金のシャチホコが目立ちすぎの安っぽい外観で、中は5層だけど天守閣が狭いのでエレベーターで4階まで上がるようになっている。宮城氏と姫路城に登った話は以前書いたけど、白鷺城に較べるとさすがに甚だしく見劣りがする。較べてはいけないシロモノか。意外にも天守閣から海は見えず。あと内田百閒が雅号にした「百間川」は池田藩政時代に「津田さん」が担当してつくった放水路だったと知ってフーンと思いました。
で、つぎに川を渡って後楽園に入ろうとしたら南門だったので、正門に廻って入場。年寄りは入園料200円だった。40年以上前に一度来た筈だけど、こんなに広かったっけ、というのが第一印象。広島縮景園のイメージからすると3倍以上ありそうな。と云うことでひたすら歩きました。みんな疲れていたせいか、最後は南門から出てしまい、正門ロッカーに荷物を取りに戻る始末。まあ3時間近く歩いていたんだから、年寄りは疲れて当然。でも宮城氏や西尾氏は一応まだ60代だし、脚の悪い当方に較べるとはるかに元気だ。
再び電車道を歩いて帰り、駅近くの喫茶店で6時までダベって解散。若い頃熱心に聴いていたクリムゾンやツェッペリンの話をすると、西尾氏が突然英語で歌い出すのを聴いて、昔と変わってないなあ、と思いました。
行きは「のぞみ」を使って広島岡山間が30分ちょっとだったけれど、帰りは各駅停車を使ったので広島まで1時間以上かかった。内30分くらいは各駅で通過待ち停車の時間だった。
宮城氏のイギリス土産「Glasgow 2024」(昨年グラスゴーで開催された世界SF大会プログラムブック)をパラパラしている内についたし、長い乗車時間のお陰で脚の疲れも取れて良かった。このプログラムブックの最後に、2023-24SF関係物故者一覧があって、石川喬司から始まっていた。ザーッと見ていくと豊田有恒もあるし、もちろんテリー・ビッスンやプリーストもあって、プリーストと同じ行の下の方に山本弘の名があった。
宮城氏が云うには、このSF大会では中国勢の影響力が顕著で、英語のアナウンスの後に中国語が続くらしい。そういえばこのプログラムブックの長ーいメンバース・リストの最後に中国人名だけ簡体字で印刷されていた。
ディランのライヴはいまに至るまで何回も見たという宮城氏が褒めていた、60年代前半のボブ・ディランを描いた映画『名もなき者』を広島のサロンシネマで見てきた。既に1日1回だけの上映で他の県内映画館ではほぼ終映状態。
61年頃に田舎から出て来て、入院中のウディー・ガスリー部屋を訪ねてピート・シーガーに出会い、気に入られて演奏活動を開始、ジョーン・バエズと知り合ったころに大手のコロンビア・レコードに目を掛けられてカヴァー曲ばかりデビューアルバムを作ったあたりから、65年に6作目のアルバム『追憶のハイウェイ61』までのレコーディング風景を挟んで、ニューポート・フォーク・フェスでエレキ・バンドをバックに歌って、大ブーイングを受けつつロックスターに変身するまで、ディランの有名曲をディラン役のティモシー・シャラメが見事な声帯模写で歌って見せている。
それほど思い入れはないディランだけれど、60年代の有名曲が歌われるとそれなりにナミダがちょちょ切れるわけで、有名なエピソードがそこここで再現されていて興味は尽きない作品になっている。とはいえ、あとで印象を思い返していると、これがエンターテインメント映画としてよくできてはいるけれど、ディランについて何か新発見があるとかは無かったんじゃないかという気がしてきた。
ティモシー・シャラメのなりきりディランは絶賛に値するけれど、その一方でディラン風な声と歌い方の取込は、当方みたいな一般的なファンが持つディランのイメージに合わせた演出という印象も強くある。最終的に別れてしまうディランの恋人役が、あの子役で有名だったダコタ・ファニングだったのは驚いたけれど、役柄そのものはやはり型どおりな感じが残る。
その意味でこの映画は、いわゆるディラン伝説の定型を丁寧になぞって見せた、「伝説」に忠実な作品だったのかも知れない。DVDを買って見たスコセッシの『ノー・ディレクション・ホーム』ほどの面白さは無かったかも。
帰るときに地下街に降りたら広場で中古レコードCDセールをやっていたので、ちょっとだけと覗いたら、ディランの1970作『セルフ・ポートレイト』(当時は自作曲が僅かしか収録されておらず評判が悪かった)のCDが目に入り思わず買ってしまったよ。
『SFマガジン』4月号のグラビアページで紹介された広島市現代美術館の「西島大介:キャラクターの展開図」を見に行った。なぜか奥さんや息子も行くというので息子の車で出発、山の上の美術館まで動く歩道と急勾配エスカレーターで繋がっているスーパーマーケットで下りて美術館へ。急勾配エスカレーターはいつ乗ってもコワイ。
西島大介展は「コレクション展2024-Ⅲ」というサブ展示で、メインの企画展はPERFUMEの衣装展示だったけど、パフュームに用はないので常設展料金(3人で計650円)だけ払って入館。
実際、展示に使われていたのはやや広めのひと部屋分で、入ってすぐのところに展示会のタイトルになった、「キャラクターの展開図」(2024年制作)が一枚の大きなボードに描かれている。解説リーフレットに拠れば「様々な形で作家が制作してきたキャラクターたちを年代毎に並べた図」で、この展示会が西島大介の回顧展を兼ねていることがわかる。一応漫画家がメインの作家ではあるが、イラストレーターはもちろん、DJまほうつかいの名で音楽活動とか立体物の制作とか、最近はゲームボーイなどを使ったオリジナルゲーム開発とか、その活動は多岐にわたっていることがよく分かる。
とはいえ、展示作品数はそれほど多くはなく、小1時間で見学終了。美術館の売店で新装版「世界の終わりの魔法使い」をパラパラしていたら、なぜか奥さんが6巻全部を買ってくれた。1万円超の太っ腹。勿体なくて未だ読んでません。
以上、西島大介展見学記でした。
前フリが長くなったけど、読んだ本の感想へ。
まずは、前回に間に合わなかったハヤカワSFコンテスト優秀賞受賞作のカリベユウキ『マイ・ゴーストリー・フレンド』。
ツ、ツ、ツマンネェ、というのが読んでいる最中からズーッとつきまとった感想だったけれど、『本の雑誌』の大森望の書評を読んで読み方を間違えたのかと反省した。
で、出来上がったのが以下の反省文。
戸山ハイツのそばに戸山ハイツと同じくらい大きな団地を設定したんだから、その時点でこれはバカSFならぬバカホラーというモードに入ればよかったんだろうけど、コシマキの惹句が「団地ホラー ギリシャ神話 SF大作」だったからねえ。冗談もホドホドにして欲しい・・・だから、冗談だってば。
問1 次の文章はどう解釈するのが正しいか。3つの選択肢から選べ。
「時刻は午後の十二時すぎ。窓からは真昼の陽光が射しこんでいるというこの時分に・・・」(『マイ・ゴーストリー・フレンド』p125 最終行行頭より引用)
1.単なる誤植
2.作者の勘違い
3.最近はこういう表現も午前12時/正午すぎとの意味だと了解されてスルーされる。
「3.」だとすると、前回『バベル』にかこつけた言語の書き文字の変化と発音の変化の話に、もうひとつ新しいパターンが加わったか、もしくは「一生懸命」パターンの新しい変化の初期例と云うことになるのかな。
ついでに問2も考えた。
問2 次の文章に出てくる「魔力」及び「空間の振動」に関する解説が正しいか判断せよ。 また間違っていると判断した場合はその間違いを論証せよ。
「・・・ガラス瓶が砕け散り、光速でヘカテの魔力が波動した。地下の空間すべてが振動し、やがて停止した。」(同p349 4行目途中から5行目文末までを引用)
解説:この「魔力」は「光速で・・・波動した」ので電磁波である。「電磁波」は普通「魔力」とは呼ばれないが、ここでは電磁波と同じ性質も示す「魔力」があるとされている。また、「地下の空間すべてが振動した」という表現を(空間そのものは目に映らないので)文字通り思い浮かべることは不可能だ。ただしマンガの場合は空間を仕切る枠線を振動させることによって「空間すべてが振動した」ことを現すことが出来るが、それは単に視線が激しくブレているのを表現しているだけである。この文章は「なんか分からんけどスゴいことが起こっている」ことを伝えようとした表現/無理喩といえよう。
反証の例文:「光速で・・・振動した」と表現したからと云って、それが電磁波であると断定は出来ない。光速で振動できるものは単に「無質量」であれば良く、「魔力」は当然「無質量」であるので電磁波と断定できない。また、「空間すべてが振動した」という表現は文字通りであり、「光速でヘカテの魔力が波動した」ことにより「空間すべてが振動した」のだから、文章の論理に破綻はない。それが想像出来ないのは単に想像力の貧困である。表現は情報なのだから文字通り受け取れば良いのである。
こうやって遊べるのも大森望書評のお陰です。
もう少し真面目な話をすると、「マイ・ゴーストリー・フレンド」というタイトルの暗示するものと、中身はかなり違っている感じがするので、ラフカディオ・ハーンとエリザベス・ビスランドのことをちょっとググってみた。
すると、ビスランド編の“LIFE AND LETTERS OF LAFCADIO HEARN”全2巻がGUTENBERG EBOOKになっていたので、Indexからハーンがビスランド(結婚後はWetmore)に送った手紙に似たようなフレーズがないか見たけれど、見つからなかった。
しかし宛名人不明とされる手紙(研究者によると編者のビスランドが宛名である自分の名前を憚って削除した)に「私の愛する、素敵な、幽霊のような妹へ」‘my dear, sweet, ghostly sister.’と書いている。またIndexからビスランドへの言及をたどると、知人の化学者エルウッド・ヘンドリック宛の手紙で、ハーンが長々とビスランドがどんなタイプの女性かを説明している。
その一部を紹介すれば、
「彼女の中に住むさまざまな死者は、それぞれまったく別々に、別の部屋で暮らし、別の午後に会う。それでも、たとえラドヤード・キップリングがその人物、あるいはエリザベス・ビスランドと呼ばれる幽霊集団(person-or rather that ghostly congregation of persons called Elizabeth Bisland,)-について真実を書いたとしても、狂人以外の誰がその真実を信じるだろうか?(自動翻訳)」
ハーンは日本で暮らすようになってビスランドとは一度も会わずに終わったが、日本人妻に隠すこともなくビスランドの(たぶん若き日の)写真を最後まで飾っていたという。
なお、ビスランドがハーンの「ミューズ」だったらしいことは2017年の名古屋大学での博士論文「ハーンのミューズ ―「暗号」解読の試み―」中井孝子(k11944_thesis.pdfでググれる)に詳しい。
と、ここまで書いて『マイ・ゴーストリー・フレンド』のタイトルの由来が出て来るシーン(p199)を確認したら、ビスランドがハーンの死後20年近く経ってからギリシャのハーンの故郷を訪ねたことを、彼女の旧知でハーンの友人でもあったミッチェル・マクドナルド宛に書き送った手紙と云うモノが紹介されていて、その末尾でビスランドがマクドナルドのことを「マイ・ゴーストリー・フレンド」と呼んでいたことが判明した。ウーン、わが探索のきっかけは単なる記憶違いだったのか。
しかし作中でこの手紙は1923年の後半に書かれたことになっているけれど、横浜グランドホテル社長だったマクドナルドはその年9月に関東大震災による火災で死亡している。作者はどこまで押さえていたんだろう。
ついでにギリシャ神話も怪しいので調べようかと思って、ボロアパートから藤縄謙三『ギリシャ神話の世界観』(古っ)とかポール・ヴェーヌ『ギリシャ人は神話を信じたか』とかバーナード・エヴスリン『ギリシャ神話小辞典』とか持って帰ったけれど、肝心の『神統記』を探すのを忘れて帰った。まあ、読んでるヒマも無いか。
『マイ・ゴーストリー・フレンド』に紙数を費やしたので以下は簡単に。
チョン・セラン『私たちのテラスで、終わりを迎えようとする世界に乾杯』は長いタイトルだけど、掌編集。昨年11月刊。
前々回『J・J・J三姉弟の世にも平凡な超能力』のところで書いたように、同時期に出たこの2冊を較べてこの早川書房版は似たような厚さなのに値段が高かったのでその時は敬遠した。じゃあなんで買ったのかというと、最近本屋に行ったときまた目に付いて、その時はほかに新刊がなかったから。
ここには2ページから10ページくらいの掌編が21篇収録されているので、いちいち感想を書いていられないけれど、この本の特徴はその21篇全部に著者の執筆動機や想い出などのコメントが附されていることだ。さすが作家は自作のことよく覚えているなあと感心するが、まあ、作家はウソつきなのでこのコメント自体がフィクションの可能性もないでも無い。でもチョン・セランが書くと全然嘘くさくないし、掌編もまたチョン・セランらしい感触だけど。
「雪風」シリーズも何作目なのか覚えていないけれど、神林長平『インサイト 戦闘妖精・雪風』も買ってすぐに読んでしまった。ストーリー的には前作からの続きで、最後まで読んでも、一応の事件の終わりはあるけれど、お話し的にはTo Be Continued...ということになっている。
今回も最近の「雪風」シリーズ同様会話劇の部分がほとんどだけれど、「雪風」自身が積極的に会話に加わってきたところが新しい。それにしてもこれだけ「対話篇」みたいなつくりになっても退屈しないのは、著者の意識が「対話篇」を作ることに集中していてテーマに深みが出て来ているせいだろう。「対話篇」自体が「意識のSF」みたいに読めるようになってきた。もちろん「雪風」が大空を舞うシーンがあって、そこはやはり魅力的である。早く続きが読みたいぞ。
年に何冊くらいだしているのかとその刊行ペースに驚かされる林穣治『惑星カザンの桜』は創元文庫から出た、珍しく1冊ものの現代的スペースオペラ。
ワープ航法は実現しているが、通信はまだ光速のカベがあるという時代設定。太陽系から1万光年離れた地球型惑星カザンは、以前から電波を使う文明の存在が確認されていたが、ワープ航法が可能になって最初の調査隊は現地で消息を絶ったため、追加派遣された大規模な第2次調査隊が当該星域に到着したところから始まる。
今回のテーマは、レムの『ソラリス』及び『砂漠の惑星/インヴィンシブル』に対するオマージュという感じがある。結末のつくりはレムの示した冷徹さを回避したものになっているけれど(そういえばと10年前の「ハヤカワ文庫SF総解説」を見たら、案の定『砂漠の惑星』は林穣治の担当だった)。
相変わらずエンターテインメントとシリアスなSF的テーマの組み合わせで読ませる。もちろんいつもの惜しい感じもあるけれど、これはそのコンパクトさに救われている。
なぜか地元本屋で見つからず読むのが遅くなったのが、小川一水『ツインスター・サイクロン・ランナウェイ4』。
ヒロインふたりの正体(と云うより世界の成り立ち)が明かされた前巻で終わったと思ったのに、まだ続編があったとは。それでも読んでみればタイトルの「ランナウェイ」の部分がこの巻でよりハッキリしたので、まあ読む価値はあった。というか相変わらずトントン拍子で読めてしまう。
『本の雑誌』の山岸真さん担当の新刊情報で目に付いたジャミル・ジャン・コチャイ『きみはメタルギアソリッドV:ファントムペインをプレイする』を読んでみた。
訳者解説(矢倉喬士)によれば、作者はアフガニスタン系アメリカ人だけれど、92年にパキンスタン難民キャンプで生まれ、母国を知らずにアメリカに移住、そこ教育を受けたという。でもここに集められた作品群は、親たちが住んでいたアフガニスタンの一地域と繋がった形で書かれている。作者は成長してから故地アフガニスタンを何度も訪れたとのこと。
ラノベを思わせる長いタイトルの短篇は冒頭に収められ、当方はゲームをしないので息子達が子供の頃やっていた「メタルギアソリッド」しか見たことが無いのだけれど、この第5作目の同ゲームの舞台にアフガニスタンが出てくるらしい。と云うことで語り手は表題のゲームをやっている内にディスプレイに映る故郷の町を発見、画面に入り込んでしまう・・・。奇想小説というかマジックリアリズムというか、テクニック的には現代作家のだれもが使うスタイルだけれど、やはり作者の持つアフガニスタンへの本気の入れ込み方がテクニックとしての奇想を超えた何かを読者に感じさせることに成功している。
全12編収録で、そのほとんどがクルアーンの引用やその教えに言及していて、いわゆるキリスト教的近代民主主義から醸成されたモラルとは別のモラルが感じられる。その代表的なものは「殉教」に象徴される宗教風土ということになる。
しかしこの作者は現代アメリカで教育を受けて作家となったわけで、現代文学の手法に馴染んだアメリカの作家でもあるわけだ。
その特長を遺憾なく発揮したのが、集中唯一の中篇「サルになったダリーの話」だろう。「ダリー」はアメリカの大学院博士課程で、現代アフガニスタン革命史を研究していたが、ある日サルに変身してしまう。ダリーの母親が導師(イマーム)に相談すると、不信心が原因だろうと云われる。母はダリーを連れてアフガニスタンへ行く・・・。
物語はダリーの視点と母親の視点で語られていくが、サルとなったダリーの思考とその行動に、奇想小説としてはそれほどの目新しさはないものの、アフガニスタンの風土の中では新鮮に映るし、ダリーの物語が終わって、母親のエピソードで締めくくられる結末は、英米文化の中から生まれた小説とはちょっと違った驚きを感じさせる。
と云うことで、形式的には奇想小説/マジックリアリズム系だけれど、テーマはアフガニスタンへの想いにある。これは文学ですね。
創元SF文庫最新刊のロブ・ハート『パラドクス・ホテル』は、原著が2022年作と云うからわりと新しい。作者の名前はあまりなじみがないが、解説(渡邊利通)によるとミステり・SF・ホラーにかかわらず書くエンターテインメントの作家らしい。
ということで、これはタイトル通り過去への公営時間旅行業が成立した時代に、時間旅行発着場(空港ならぬ時空港/タイムポート)からすこし離れたところにある併設ホテル「パラドクス・ホテル」を舞台にしたテンヤワンヤ物語。
視点人物は、もと時間犯罪局調査官の女性(表紙イラストからするとアフリカ系)で、時間離脱症/アンスタックに罹ったため、現在は「パラドクス・ホテル」の警備主任を任されている人物。
実用化されたとはいえ未だ不明な点が多いタイムトラベルなので、「パラドクス・ホテル」では不可解な現象が起き始めている。
その一方で政府は財政難で時間旅行業を民間に払い下げる方針を決め、折しも大雪の中、ホテルに世界でも指折りの大富豪数名と政府側の上院議員らが集まってオークションが始められようとしていた。しかしヒロインの眼には、ホテルの一室でベッドに横たわる出来たてのほやほやの死体が映っていて、それは現在ではない時間のものだった・・・。
SFミステリとしては充分に面白く、ホテル内だけで進行する密室系の話運びはエンターテインメントとして文句なし。おまけにヒロインの意識が別の時間に飛んでしまうシーンの描写と周囲の現実時間および非現実時間の人物たちとの会話は、マット・ラフ『魂に秩序を』のタイムスリップ感覚を髣髴とさせる。
こうしてみると、いまや誰も驚かなくなったささやかなタイムトラベルの切れっ端が、最新の物理学/量子論的哲学に支えられて、エンターテンメントSFの主軸となる時代になったとも云える。
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『パラドクス・ホテル』は500ページ超えだったけれど、今回読んだ中で一番長い作品は、佐々木譲『武揚伝(愛蔵版)』上・中・下。3冊で1500ページ近くある。もっとも活字が大きく、1ページが36字16行組なので、400字詰め原稿用紙換算なら約2000枚というところ。もちろん時代改変小説などではありませぬ。
以前、安部公房『榎本武揚』を読んでまったく「武揚伝」になってないと書いたけれど、さすがにこちらは真っ当な武揚伝になっている。ただし2000枚を費やして、武揚(幼名釜次郎=次男)が5才で地球儀を見るシーンから、32才で「蝦夷共和国」の「総裁」として維新政府軍に降伏するまでの半生記として終わっている。
榎本武揚の父親は伊能忠敬の測量隊にいた箱田良助で、備後福山に近い神辺(かんなべ)出身。測量隊の仕事が終わった後、旗本の榎本家に入り榎本圓兵衛を名乗った。だから江戸に生まれた釜次郎は、5才で地球儀を見て、10代で蝦夷地調査に参加して、その後西洋知識と技術の習得を目指した幕府のオランダ(当初はアメリカの予定だったが、南北戦争が勃発した)派遣留学生となり、そのオランダで仲間達とワイワイしていたまでを描いた上巻は、なかなか幸せな小説になっている。
しかし慶応3(1867)年にオランダ製軍艦「開陽丸」で横浜に30才で帰着して以降、すなわち中巻以降の武揚は常に周囲に追い込まれる形で有利な条件を失っていく。
作者は武揚の心情を丁寧に創作しながら、帰国後の幕府海軍の経緯や鳥羽・伏見の戦いから箱館戦争/五稜郭の戦いまでの3年足らずに中・下巻を費やした。
作者あとがきで三度目の正直で「(愛蔵版)」にしたというくらい手を加え続けたと書いている。当方は佐々木譲の作品を読み込んでいないので、ここまで榎本武揚に思い入れがあったとはビックリだ。小説そのものは他の佐々木譲作品と同様、京極堂ほどではないがスラスラと読める。
書き下ろしという人間六度『烙印の名はヒト』は、単行本で正味480ページの大作。とはいえ読後感はラノベ作品のそれに近く、タイトルに込められたテーマ自体はそれなりに興味深いものの、この叙述スタイルは当方にはとっつきにくくて、結構読むのが大変だった。
ヒロインをはじめとする主なキャラクターたちは、アンドロイドであることと自然人であることに極端にこだわっているように見えるが、実際ここで描かれているキャラクターたちの人間/非人間の違いは、本人らがそう口にするほど書き分けられているわけでは無い。
もっともそんな感想が生まれるのも、『マイ・ゴーストリー・フレンド』で書いたように、「そう書かれているんだから信じなさいよ」と云われれば、当方の感性が鈍いだけのことではあるかも知れない。ま、これだけ長い間SFを読んできて作り上げたSF観が変わるには相当の衝撃が必要なんだろう。
創元日本SF叢書から出た赤野工作『遊戯と臨界 赤野工作ゲームSF傑作選』は、前回の単行本デビュー作以来なんと8年ぶりの作品集。デビュー作は、未来において架空クソゲームを回顧する連作集だったけど、今回は2021~22年にWebサイト「カクヨム」に発表した作品を中心に11編を収録。内、SFアンソロジー『NOVA』に収録された「お前のこったからどうせそんなこったろうと思ったよ」と雑誌『紙魚の手帳』掲載の「これを呪いと呼ぶのなら」が再読。
それにしてもPC/ファミコン以降の「ゲーム」中毒者の世代の中から、これほど「ゲーム」限定のテーマで、「ゲーム」をしない人間である当方にも面白い作品が書けるヒトが居ること自体がオドロキである。
特に巻末の書き下ろし作品「曰く」という中篇を読み終わったときは、円城塔や神林長平と同レベルの言葉と物語の使い手じゃないかと錯覚したくらいだ。ここで語られる「ゲーム」にも、語り手や脇役である「ゲーマー」たちがオンラインで語り合っている内容についても当方はまったく知らないが、「般若心経」全文の引用から始まり、その解釈をエンターテインメントとして語るくだりなどを読んでいると、この作品で語られる内容の凄味が伝わってくるように「錯覚」させられる。
山本貴光とか岡和田晃とか「ゲーム」と関わった学術系の優秀なヒトたちの活躍は良く目にするけれど、「ゲーム」ひとすじ作家としての赤野工作はもっと評価されて良いかも。
今回最後に読み終わったのが、藤崎慎吾 相川啓太 佐藤実 之人冗悟 八島游舷 梅津高重 白川小六 村上岳 関元聡 柚木理佐『星に届ける物語 日経「星新一賞」受賞作品集』。第1回から11回までの日経「星新一賞」一般部門受賞作を集めたアンソロジー。「星新一」の名を冠しただけあって11編収録で正味250ページしかない。以前本誌で木下充矢さんがこの賞の受/入賞作を読むようにススメていたこともあって、再読の作品が多い。
解説(大澤博隆)にもあるとおり、ここに収録された作品の作者の多くは大学院などで学んだ専門知識を有していて、そのほとんどが理科系と云うこともあって、作品内のリアリズムが星新一自身のシートショートとはかけ離れているものが多い。そのこと自体はこれらの作品が現代SFとしての説得力に貢献しているのは間違いないところではあるが。
そういう意味では相川啓太「次の満月の夜には」あたりが星新一的落とし噺になっていて懐かしい。また之人冗悟「OV元年」のサタイアもオーソドックスと云える。一方、梅津高重「SING×(シンクロ)レインボー」は舞台設定が『コミケへの聖歌』を思わせるし、白川小六「森で」は人類ダメ小説の最新版になっている。人力クライマーで宇宙エレベーターの支持索を登り続ける佐藤実「ローンチ・フリー」は星新一へオマージュを捧げながらも設定及び結末がハードな作品だし、関元聡の2編「リンネウス」「楕円軌道の精霊たち」はどちらもファンタジックなハードSFだが結末は苦い。量子論的観測問題を思わせる百合モノの村上岳「繭子」や低体温症がスノーボールアースと結びついてなお「冬来たりなば春遠からじ」の希望を語る柚木理佐「冬の果実」はホッコリする。
それでも藤崎慎吾「「恐怖の谷」から「恍惚の峰」へ-その政策的応用」や八島游舷「Final Anchors」のエンターテインメント的安心感に一日の長を感じるのは読み慣れたための錯覚かも知れないな。
今回はノンフィクションを3冊。どれもすぐに読み終わってしまうタイプのものだった。
1冊目は上岡伸雄『東京大空襲を指揮した男 カーティス・ルメイ』ハヤカワ新書2月刊。タイトルは昭和20年3月に行われた「東京大空襲」に合わせて出されたことを示唆している。ハヤカワ新書を初めて読んだ。上岡伸雄は以前「興亡の世界史」シリーズの1冊を読んだこともあり、英文学が本業の人だけれど、当方が読むのはこの手のノンフィクションである。
現役時代にはカーティス・ルメイの名をよく目にしていて、呉市は昭和20年になってから6回の大規模な空襲を受けたけれど、その内の3回がB29によるもので、内2回は対象を海軍工廠に限定したいわゆる精密爆撃だった。カーティス・ルメイの悪名は残る1回、7月1日深夜0時過ぎに行われた焼夷弾による市街地焼き払いを行った空襲の発案者として知られる。もっともこの空襲は東京を含む大都市が焼き払われたあとの中小都市爆撃の一環として行われたものだ。
この辺のことは映画『この世界の片隅に』で詳しく描かれているので、いまさら云うことは無いかな。
この本のあとがきで著者は、ヴォネガットやティム・オブライエンの作品に出てくる「ベトナムを石器時代に戻してやる」という発言のもとを辿ったことでカーティス・ルメイに行き着き、日本の都市を焼き払い一般市民を無差別に何十万人も殺した張本人なのに戦後日本から勲一等旭日大綬章を授与されたという、ちょっと理解不能な人物であることに興味を持ち、この伝記を書いたという。
貧しい家庭に育ったカーティスは飛行機に憧れて、いつか飛行機乗りになることを夢見る工作の得意な少年となり苦学しながら地元大学(もちろん工学部)で軍事教程を取り、予備役将校訓練課程を終えたあと州兵をやりながら航空隊学校の入学を待った。すごい執念である。
このようなタイプの人間が軍用機、就中爆撃機に入れ込んで当時最新の大型爆撃機B17の構造を知り尽くした上でパイロットとして大活躍したのは当然とも云える。そしてルメイは爆撃機一筋でその有能さを証明し、第2次世界大戦を現役の爆撃機パイロットとして指揮官として司令官として将軍として、あらゆる爆撃の経験と工夫とを積み上げていったのだ。この男は明晰な合理性とそれに対する信念を持ち合わせ、常に先頭に立つことを恐れない人間として、航空爆撃部隊にその人ありと云う所まで来た。そして、遂にB29の時代がやって来る。B29はB17を遙かに上回る性能を持つ超大型機だったが、精密爆撃ではどうしても期待したほどの成果が上がらす、ついにドレスデン爆撃と同様の無差別爆撃に踏み切ったところ、その効果は期待以上ものがあり、ルメイは対日本攻撃の航空爆撃部隊の最高司令官として日本の都市と市民を焼き払うことにしたのだった。
著者は最後に、引退したあとのルメイをNHKが取材したテレビ番組を紹介しているけれど、そこからもルメイはいわゆる合理性と信念だけを支えにした男だったという感想が湧く。すなわち職務に忠実。最高効率の戦争をして勝った男は「核戦争でも生き残った方が勝ちだ」と云っていた。イヤハヤ。
新書の棚を眺めていて目に入ってきたのが、橋元淳一郎『光速・時空・生命 秒速30万キロから見た世界』昨年10月刊の集英社インターナショナル新書。この新顔新書も初めて読んだ。なお、この著者が先に書いた新書シリーズは、その存在に気がついていなかったので読んでない。
読んでみると、タイトル通りのテーマをいろいろな例を挙げて解説してくれているので分かりやすいように思えるけれど、今回著者の説明を読んで一番印象的だったのは、光速は「速度」じゃなくて「壁」という考え方だった。昔の映画のワープ画面、例えば『スター・ウォーズ』だと、星々の見える範囲がどんどん前方に狭まっていき、その周りは黒くなるシーンがあるけれど、あの星空と黒い周囲の境目が「光速/壁」で黒い周囲は「超光速=壁の向こう側」ということ。発想の転換という意味では「目からウロコ」ですね。
あとがきにもあるように、著者のSF愛が溢れる書きっぷりは嬉しいけれど、一般の読者にどこまで通じているのかは謎である。
ノンフィクション3冊目は加藤陽子『この国のかたちを見つめ直す』1月刊の毎日文庫。当方が買ったときには既に重版が掛かっていた。
出版社からでもわかるように、これは2010年頃から2022年ぐらいまでに毎日新聞に掲載した時評や歴史エッセイ及び書評を集めたもの。1篇は数ページなのですぐ読めてしまう。
文章は最近書かれたものが冒頭に置かれているので、コロナとオリピック開催とか著者が当事者となった日本学術会議会員推薦候補者拒否問題とかいまに尾を曳いている(けれど忘れられかけている)話題が多い。次に東北大震災に関する当時の文章と最近の文章を並べ、現代の天皇制の問題に移ったあと、本業である近代の戦争と歴史についてのエッセイを並べて、近代日本外交史のエッセイでしめた後、最後は書評集になっている。
この著者の作品はいくつか読んでいるけれど、当方にはわかりやすいスタンスで書かれているため、あまり強い感想がない。御説御尤もというところ。