内 輪   第414回

大野万紀


 3月ですね。早いもんだなあ。昔から「一月は往(い)ぬる二月は逃げる三月は去る」と言いますが、本当にそんな感じです。
 で、問題は本を読むスピードもそれに連動していて、今年はもっと読もうと思っていたのにダメだこりゃ。無理無理。津田文夫さんといい、岡本俊弥さんといい、そんなに歳は違わないのにどうしてあんなにたくさん読めるのでしょうか。
 今月はSFファン交流会と国会図書館の円城塔講演会が重なっていて、ここはリアルの円城塔講演会を優先し、岡本俊弥さん、渡辺英樹さんといっしょに行ってきました。とても面白かったです。そのレポートはこちらに

 それでは、この一月ほどで読んだ本から(読んだ順です)。
 なお、短篇集についても原則として全部の収録作について途中までのあら筋を記載しており、ネタバレには注意していますが、気になる方は作品を読み終わった後でご覧になるようお願いいたします


林譲治『知能侵蝕 4』 ハヤカワ文庫JA

 完結編。全4巻なので、林さんの近年のシリーズとしては短い方か。
 前巻では異星人オビックの地上部隊が兵庫県の山奥を拠点とし、チューバーやライノといったロボット兵器を使って、自衛隊の高齢者たちからなるMJSという部隊とローカルな戦いを続けていた。まるで異星人侵略もののSFとは思えないような展開だったが、それがどう決着するのか(以下はネタバレありです。読んでない方はご注意ください!)。

 まずはまた小惑星オシリスが舞台となる。武山たち4人の前に突然現れたアフリカ系の男女、ボカサとアナイスは、英語で意思疎通ができ、自由意志らしきものもあって山岡たちよりはるかに人間的だったが、一方で時間の概念がないなど、異常なところもあった。4人が居住モジュールを探して掘削していた通路はようやく貫通したが、そのとき山岡村が突然無人となる。
 貫通した先の重力があまり変わらないことから、武山はオシリスの内部にあるのがブラックホールではなくワームホールではないかと考える。ミリ単位のものと情報しか送れない小さなワームホール。オビックはそれを通じてミリマシンを供給し、情報を送っているのではないか。ワームホールとミリマシンがあるなら、オビックは自分をミリマシンで分解して再構築することで他の星系へ移動できるだろう。するとオシリスの中に生身のオビックがいる可能性もあるのだ。

  兵庫県の山中ではMJSとオビックの戦闘が続いていた。小坂は徳丸という元IT技術者と仲良くなり、MJSがいかにうろんな組織か聞かされる。MJSには自衛隊で上部と衝突して飛ばされた今宮のような人物もおり、上からはいっそ全滅してもかまわないと思われているようなのだ。
 それにしてもチューバーにしろライノにしろ、敵の戦術は洗練されておらず、素人のようなMJSでも個々の戦闘では十分対処できる。自衛隊の戦闘機も戦車もやってこない。土木機械や輸送車を提供している相川社長によれば、この戦闘はライノなどの残骸を確保してレアメタルなどの資源確保に使うためなのだという。オビックが高度な武器を使用しない理由は反射統制――情報伝達や行動によって敵の意思決定に影響を及ぼし、自分たちに望ましい行動をとるよう仕向けること――にあるのかも知れない。刀で首を切るという戦い方も、それで恐怖を与えて服従させるため。それはアフリカの企業支配地ではうまくいったが国家の単位では失敗している。そこで今は大規模な戦いは控えて、人間集団の行動原理を学び人間モデルを再構築して対応しようとしている段階なのではないか。

 そんなときライノがこれまでにない規模での攻撃を仕掛けてきた。ライノを破壊してもビルダーという犬のようなロボットによって復活させられる。それを何とか手製の地雷原におびきよせて爆破。MJS部隊の勝利だ。ようやく自衛隊の爆撃機も現れ、オビックが拠点としている鉱山へナパーム弾を投下する。これでオビックは撃退されたのか。
 オビックの行動を検討した仮説では、すでにオビックの本体などは絶滅しており、ワームホールを通じて増殖だけが目的の機械群がやってきただけだとする。これは宇宙人との戦争などではなく、自然災害に近いというものだ。

 再び舞台は宇宙へ。加瀬の主導する原子力宇宙船不滅号の建設計画は進む。一方オシリスではついに宮本が地球への送信に成功する。だが帰ってきた返答は、『私、修造ちゃん、あなたのゲートウェイの近くにいるわ』というものだった。
 不滅号は飛び立った。オシリスからも2隻の宇宙船が発進し、ついに戦闘が始まる。不滅号に乗った加瀬がオシリスからの通信を受け取ったのはそんな時だった。あの返信はそれが本物の宮本からのものかを確かめるメッセージだったのだ。そして加瀬らはついにオシリスに着陸するのだが……。

 ギリギリの危機を乗り越えて迎えたハッピーエンド。だがそこに加瀬の姿はない。オビックたちの謎は解かれた。それはある種もの悲しい文明の末路のありさまだった。それ自体は決してSFとして目新しいアイデアではないのだが、それをこんな具体的な物語に実装してみせたところがすごい。
 そして結末。何とまあ中二病魂炸裂の結末で、これはまあ作者が遊び心でつけ加えたボーナスステージといえるかも知れない。いや、でもこの結末はもしかしたら宇宙的な悲劇の始まりを示しているという方が正しいのかも。


八潮久道『生命活動として極めて正常』 角川書店

 2024年の4月に出た本。カクヨム出身で、本書が小説家としてのデビュー作だが、大森望さんが絶賛とか(いやそれだけじゃなくて)高い評価を受けている。7編を収録した短編集である。

 「バズーカ・セルミラ・ジャクショ」は個人の評価情報がまとめられ、評価レートが低いと取引や買い物もできなくなった世界が描かれる。主人公は突然理由もわからないまま評価レートが0になり、電車に乗ろうにも改札を通れず、コーヒーを買うこともできなくなった。銀行に金はあるのに支払認証が通らないのだ。現金での決済は今でもできるようだが、主人公は現金なんて使ったことも無いしそもそも持っていない。父親に連絡してとりあえず紙幣をもらうが、それで本当に買い物ができるのかびくびくし、買ってもお釣りをもらうということすら分からない。レーティングの窓口に問題を投げかけても個別のお問い合わせにはお答えできませんと言われるばかり。そして彼は評価レートが底辺の人々の間で生きていくことになる……。話としては近未来SFでよくあるタイプだが、面白いのはその語り口で、これこそがまさに今現代の小説だと思わせる。例えば久しぶりに会った父親がパパピッピになっていて奇抜なセーラー服を身につけ「ぱぱぴっぴ! ぽよ~」といった口調で話すとかびっくりした。さらに今の元号はイージードゥダンスだとか(これ初めは元号のことだとわからなかった)、そういうありえなさそうであるかも知れない、いやむしろありそうだと思わせる違和感溢れるリアリティが強烈だ。物語はしだいにこの世界の真実へと集約していき、きれいにまとまって終わる(ちょっときれいにまとまりすぎかも)。とても面白かった。

 「生命活動として極めて正常」は表題作だが、極めて異常な作品だった。普通の会社でPCの持ち出し申請を出そうとした社員が課長に拳銃で撃たれて死ぬ。他の社員はびっくりするがそのまま仕事を続ける。課長は社内に連絡し、遺体処理申請を出し、総務からは遺族への連絡や葬儀の打合せ、その他様々な社内手続きが淡々と進められていく。課長に申請書を出しただけの社員がなぜ射殺されたのか、理由は全くわからないが、それはあまり重要ではないようだ。決まった社内プロトコルを進めていくことの方が重要なのだ。とても真面目にシリアスに話は進む。そして課長の末路もまた。そういうものだ、と思えばそういうものだろう。でもタイトルとの関係がよくわからない。もしかしたらぼくが知らないだけで有名なネットミームのようなものがあるのかも知れない。とはいえ、ぼくの思うに、この生命活動とはきっと会社のような組織のもつ恒常性を意味しているのだろう。そういう意味でこの作品の淡々と決まった手順を推敲していくことは(内部から見ると)まさしく極めて正常なのである。

 「踊れシンデレラ」はシンデレラの物語である。ただし恐ろしくマッチョなシンデレラ。義母や義姉たちはもちろん王子もみんな普通に暴力をふるうし、野蛮な体育会系のノリで会話は「ッダア、オンメ、ダッラ、ンノローッッ!!」 「ヘッ、ッシャーセンッ!」という感じ。何かあると屋敷の周りを何周も走らせられる。そして舞踏会の日、家に残されたシンデレラの前に家電量販店の袋を持った老婆が現れてドレスとガラスの靴を渡す。ただしドレスは3時間しかもたないとのこと。お城にやってきたシンデレラは異様な静寂の中、王子とカンペキなダンスを踊るが、零時の鐘が鳴り……。闘志に燃えるシンデレラ。そして「ついてこれないやつはすぐに落とす。死ぬ気で這い上がってこい!!」と叫ぶ王子。強豪城マジやばい、というシン・デレラなお話だった。

 「老ホの姫」は老人ホームの話。ロボットなど出てくるがSF的要素は少なく、ほぼ老人ホームに暮らすじいさんたちの集団内力関係の物語である。近未来の老人ホームを扱ったSFはこれまでも秀逸なものが多い。菅浩江、小林泰三、最近では竹田人造も書いているがどれも面白かった。本作も(SF味は薄いが)その系列に属するといえる。ここでは男ばかりの集団の中で「姫」の立場にあるアイドル的な老人、78歳の優希(ゆうき)が「僕はかわいい」をモチベーションにいかに集団を思い通りにコントロールしていくかというパワーゲームを繰り広げる様が描かれる。そこに新人として入居して来た体が大きくてごつい72歳の旭(あさひ)が巻き込まれ、ゲームに関わっていくのだ。旭は優希に注目し、彼をとても気にしていることは明らかなのだが、優希のアプローチがなぜか思うように決まらない。周囲の老人たちも二人の関係に右往左往する。旭の思いはどこにあるのか……。面白かったが、実際に70を越えた老人のぼくとしてはピンと来ないところもある。かわいいが中心の話なのに、やはり体育会系の話になるからだろうか。体の衰えは描かれているが、精神的には若いころのままなのだなあ(いや、そこはわかる)。

 「手のかかるロボほど可愛い」では昔軍人として戦争に行き、負傷して義足となったおじいさんが、観光旅行でリゾート地に行くが、家族とは別行動をとって一人で戦争博物館を訪れる。そこはとても空いていて他に客はおらず、古びたAIロボットのガイドが1体つく。AIというにはお粗末なロボットでタイミングに合わせて録音された説明を流すだけ。会話も出来ない。だがおじいさんにはそれが心地よく、気安く自分の過去を語り始める。過去の戦場でのできごとを。するとロボットの様子に変化が……。わかりやすいストレートな話だが、心温まるものがある。「楽しめたんならッ! ほんでエエがねッ!!」というおじいさんの家族との関係も微笑ましい。

 「追放されるつもりでパーティに入ったのに班長が全然追放してくれない」。これはゲームでパーティを組んで魔物討伐することがゲームじゃなく、現代社会で業務というか仕事というか、パーティ(班)に入って武器や魔法で魔物と戦うことが普通になっているという話。主人公はいってみれば変な性格で、パーティから追放されるのがクセになってしまった。会社をクビになるのと同じで、追放が重なると次の班には入りにくくなる。国によっては強制的に徴募されるところもあるが、日本では任意。ただし「貢献しないと非国民」と見なされる。ハローワークで登録してパーティに入る。いったん採用されると問題があっても簡単には追放できない(まあ会社員も普通はそうですね)。県警から要請があって出動するが、主人公は無意味な攻撃をしてやられ、班長さんに治癒される。主人公は明らかに班の足を引っ張っているのだ。わざと追放されようとしていることが班長には気づかれている。使えないおっさんとしての存在感が班のバランスに役立っているのだ。その彼に新人の教育が任される。この新人がまた使えないヤツ。真面目そうに見えてウソをつく。すいませんといいながら同じ事を繰り返す。班長もこれはダメだと追放を決意し、それを主人公から伝えるように言われるのだが……。サラリーマン小説ですね。つまり日本のサラリーマンってゲームのパーティと同じようなものってことか。主人公の気持ちはもう一つわかりにくいのだが、面白かった。

 「命はダイヤより重い」は傑作。この日本では電車のダイヤを守ることが優先で、例え人身事故があっても電車に故障がなければそのままブレーキをかけずに突っ走ることになっている。事故が起こると運転席には「ダイヤは命より重い」という標語が点灯するのだ。運行は継続される。主人公は女性の運転士で、見習い時代から人身事故に遭うことが多かった。最初の時はホームにいた男性と一瞬目が合った感じがあり、思わず非常ブレーキを作動させた。次の瞬間男性は転落して電車にはねられる。運転司令から後続列車に遅延が発生しているとの連絡があり彼女は運転を再開した。彼女の指導運転士はそれをとがめず、男性が飛び降りる直前にブレーキを作動させたのはなぜかと聞き、彼女は飛び込もうとしていたのを第六感で感じたからと答える。
 人身事故を起こした運転士は会社の返玉堂という慰霊室のようなお堂に行き、そこで一人で慰霊をするのが「みたまがえしの儀」といってこの会社のしきたりとなっている。その後様々な事務手続きが待っているのだが、総務にいる彼女の同期はギャルで、彼女と仲がいい。報告書兼記録票に記載した後、彼女にいつもギャル短歌を返してくれるのだ。それから安全管理課へ行く。ここの担当者も同期だ。事故報告書を見た彼は、彼女の人身事故発生率が異常に高いことを指摘する。もちろん彼女が悪いわけではないのだが、統計的に不可解な現象だ。それからも主人公の前に次々と飛び込んだり立ち往生したりする人身事故が発生する。総務の同期もそのたびにギャル短歌を書き残す。そして事故は続き、ついにホームにいるほとんどの人と目が合った気がしたとき……。これまたある種の企業小説であり、社会や企業のルールや運用、そういったものが詳細にリアルに描かれているのにはこの前読んだ林譲治のSFとも似たものを感じた。そこになぜか異常に事故発生率が高いという、異常ではあるがそれだけ見れば極めて異常というわけではない一点を切り口にすることで、「普通」のあり方にこそ焦点を当てている。総務の同期のギャル短歌や、安全管理課の同期の統計オタクぶりも面白いし、オチもよくできている。傑作といって間違いないだろう。


池澤春菜『わたしは孤独な星のように』 早川書房

 2024年5月に出た著者の初短編集。7編が収録されているが、うち5編は大森望ゲンロンSF創作講座に柿村イサナ名義で発表されたものが元になっている。多くの作品に人間には限らない生き物の感覚が濃厚に感じられる。匂い、手触り、動き、音、光、さらには食感までも。

 「糸は赤い、糸は白い」でのそれは人間の脳に共生するキノコの胞子である。ある工場で発生し、初めは感染症かと思われていた症状がキノコの菌根菌が人間の脳に寄生したためだとわかる。それは脳内の電子インパルスを情報として受け取り、それを胞子として放出することにより、他の感染者との間で感情を伝え合うことができるのだ。感染者同士は感情を共有する共感能力(エンパシー)を得る。このため工場の従業員たちは言葉を交わさずとも互いに協調して働くことができ、生産性が向上し、従業員同士のトラブルも激減した。
 脳根菌と名付けられたこの共生菌の研究が進み、2次性徴を終えた人間は脳根菌を移植することが当たり前となった。かくて「人類と菌類の愛と平和の共存」の時代が始まった。
 主人公はまだ移植前の思春期の少女。カタログを見てどのキノコを選ぶか悩んでいる。キノコの種類にかかわらず脳根菌によるエンパシー(マイコパシー能力と呼ばれる)は可能だが、同じキノコ同士だとより深く結びつけられるというのだ。彼女は将来を考えて自分が好きなちょっと変わったキノコにするかもっと一般的なキノコにするか迷っているのだ。学校生活、友人関係、親子関係、将来への不安、そういったものが思春期の少女のキラキラした言葉と感情で描かれる。そして彼女がふとしたきっかけで交際するようになった他校の女子との関係が深まり、それが彼女の期待と不安をより膨らませる。これはやはり恋というものだろう。そんな普通の女子の瑞々しい感情と脳根菌という異生物との関係がさわやかに描かれていて、これはとても好きな作品となった。

 「祖母の揺籠」は『2084年のSF』で既読。これも傑作といっていい。ここでの生き物はクラゲであり、海棲動物たちであり、そして人類の未来であり、祖母である。そう、わたしは太平洋に浮かぶ祖母である。21世紀の終わり、温暖化で陸地が海に沈んでいったころ、まだ人間であったわたしは山奥の集落に住んでいたが、適合率数%の祖母検査に受かってしまった。何となく試しに受けた検査だが、ずるずると悪化していく地上の生活をこのまま続けても先がない。わたしは祖母になることを決めた。人類は未来のため、海底に情報を集積した図書館を作り、その保全のために海中で暮らせるよう擬鰓と呼ばれる薄い膜で全身を覆った「海の子供たち」を作り出した。一度に30万人生まれる彼らをクラゲを逆さにしたような巨大な浮遊施設の中で養育し、教育し、海底に送り出していく。それをするのが祖母だ。祖母は施設の中のカプセル容器に入って施設の脳となり、百年くらい生き続け、子供たちを育てるおばあちゃんとなるのだ。わたしは祖母になって24年。子供たちは第三世代となった。そして海底の調査に行った第一世代と第二世代の子供たちが戻ってきて潜水艇のようなものを見つけたとわたしに語る。それは……。厳しい環境と現実の中で、祖母と子供たちのやりとりには温かみがあり、寂しさとともに希望がある。満開の桜を夢見るわたしの思いは美しい。

 「あるいは脂肪でいっぱいの宇宙」も『NOVA 2023年夏号』で既読。これはどんどん過激にエスカレートしていくバカSFといっていい。バカSF大好き。主人公はどんなにダイエットしても全然痩せないという女性。3ヶ月後にリアルで女子会しようということになって、一念発起。だがどれだけ頑張っても体重は微動だにしない。匿名でSNSにアップしていたらバズり、テレビから「今話題の絶対瘦せないダイエット女子を絶対瘦せさせるガチ対決! ダイエットの神三人が本気で挑みます」という番組に出演依頼が来て、神トレーナーたちと対戦することになる。結果は主人公の圧勝(といっていいのか)。そんな日常的(?)な個人レベルのドタバタが、アメリカの研究所で調査するという話になって大きく変わる。他人には見えない「脂肪ちゃん」が彼女の前に現れるのだ。ぷよぷよの可愛い目をした脂肪ちゃん。それは脂肪の概念で、彼女を特異点として形成されたのだと言う。ここから話はとんでもなくエスカレートする。それはもう人類全体の運命に及び、宇宙にまで発展するのだ。研究所の日本アニメオタクな研究員は彼女の話を無条件に受け入れ、最新技術で解決しようとする。そして……。彼女の最後の言葉は「ダイエット? いいの、明日から頑張る!」。いや、それでいいのか?

 「いつか土漠に雨の降る」。土漠というのは土で出来た砂漠のことだそうだ。そこはチリのアタカマ砂漠。人里離れたそのアタカマ天文台に主人公のぼくと同僚の台湾人、朱沐宸(ヂユムーチエン)がいる。ふたりは電波望遠鏡をメンテするエンジニアだ。そしてもう一匹、セニョールと名付けられたビスカチャという大きなネズミみたいな生き物。ずっと昔からこの土地に棲んでいて子供も何匹かいる。その一匹がワシに襲われているのを見つけ、ぼくが大声を出すとワシはその子を地面に落としていった。潰れたその子を埋葬してやろうとしたとき、何とその子は生き返って親のところへ逃げていったのだ。残された血を分析した生物学者はその血に異常な点があると言う。だがぼくはこれは大変なことになるとそれ以上の分析を断って、悩んだ末に沐宸(ムーチエン)に相談する。二人はセニョールの巣から毛や糞を採取し。自分たちで分析した結果、そこに宇宙と関わるある構造を発見するのだ。それは近くに落ちた隕石に含まれていたもので、水を得ると展開するある種の生物的な構造。だがここ水のないアタカマ砂漠でそれが展開することはほとんどない。セニョールはたまたまそれを摂取したのだろう。そう、人類が誰も知らないまま、ファーストコンタクトはなされていたのだ。だがそれは果たしてどんな意味を持つのだろうか。不老不死と不変の停滞とは同じものなのだろうか。結末には余韻が残り、その問題意識は作者の他の作品ともつながるものである。

 「Yours is the Earth and everything that's in it」。タイトルはキップリングの詩の一節だという。乳児のころに脳にAIパートナーのインタフェースが移植され、その人と共に成長した専用のAIによって日常生活のあらゆることが支援や助言を受け、喜びや悩みを共にすることが普通になった未来。貨幣経済は衰え、経験や体験、アイデアや個人の価値(EX)を中心とする経済体制に徐々に変わっていく。それに抵抗する者もいるし、体質的に移植が合わない者もいる。もちろんこの技術以前に生まれた者はその恩恵を受けられない。主人公はそんな老人たちばかりが暮らす地方の小さな村に住んで、行政との橋渡しをしたり老人たちの相談にのったりしている女性。彼女自身もある理由によりAIパートナーの移植が遅れたため最小限の機能しか利用できていない。そんな時、この村をXR空間に再現したいという者が現れる。XRとは全感覚的な体験ができるバーチャルリアリティ空間だ。以前よりこの風変わりな村の生活を体験したいと、多数のドローンが観光目当てで飛来していたのだ。老人たちが集まって相談するが、すぐに金(というか経験値EX)が入るなら何が欲しいかといった話に脱線していきお祭り騒ぎとなる。AIパートナーがなくても人はつながることが出来る。またAIパートナーがあれば人の経験や体験を深く共感することが出来る。ここには技術と人間のある種の理想的な結びつきが描かれていて、結末で打ち上がる村の花火のように、その温かな夢が心を和ませてくれる。

 「宇宙の中心でIを叫んだワタシ」は「あるいは脂肪でいっぱいの宇宙」の続編。でもダイエットの話じゃない。わたしはあの後どうやら普通の体に戻ったようだ(いったんは宇宙全体に薄く広がって宇宙背後霊のような存在になったけれど)。今は会社勤めしながら「声俑(せいゆう)」をやっている。そしてなぜか脂肪ちゃんも健在だ。「声俑」とは声優じゃなくて、わたしが地球に戻ったときに同時に現れた人間型宇宙人、スコーニアンと会話するための声を出す人のこと。彼らには声の内容ではなく響きが意味を持つことがわかり、それぞれの意味の声質を持つ声の容れ物、声俑を集めてコミュニケーションすることになったのだ。ちなみにわたしの声質は「豆腐の角に頭ぶつけて死にやがれ」だった。なのであまり使い道はなく、特別な場合しか需要がない。そんな声俑仲間と居酒屋で愚痴ったりしている。そんなわたしにある日、スコーニアンが出資する大作映画の声俑の仕事が舞い込んできた。それはスコーニアンと宿敵の豆型宇宙人の宇宙戦争を描くアニメである。それで「豆腐」か。そして話が進んでわたしはパーティの席で生身のスコーニアンと会話したりもするのだが、そんな時、映画どころではなくなってしまった。本物の豆型宇宙人と戦争が始まったのだ。わたしはパーティで話をしたスコーニアンに懇願される。あなたの声で叫んで欲しいと。そう、わたしは宇宙の中心でIを叫ぶのだ……。えーと、悪くはないんだけど、やっぱり「あるいは脂肪でいっぱいの宇宙」ほどのインパクトはないかな。それより「声俑」の日常がなるほどという感じで面白かった。

 「わたしは孤独な星のように」は円筒形の宇宙コロニーに暮らす主人公の女性が、亡くなった叔母の形見を遺言に従ってコロニーの終端部から宇宙に放とうとする旅の物語。それはまた冒頭の「叔母が空から流れた」という一文に象徴される、資源が限られた閉鎖環境の中で死者をどう葬送するかというような、環境と人との関わり方の物語でもある。主人公のわたしは母の死後、年老いた物理学者の叔母と暮らしていたが、わたしには字が読めない(文字が意味を持たない)という障害があり、他人には厳しい叔母だったがそんなわたしに工夫して本を読む楽しさを教えてくれた。その叔母が亡くなり、遺言によりわたしは叔母の友人だったという女性とコロニーの終端部まで行って採光パネルのエアロックから形見の品を宇宙へ放つ旅をすることになる。彼女はバンドをやっているという旅慣れた女性で、内向的なわたしに色々と気を遣ってくれる。わたしの住むコロニーは人口が減ってゆっくりと衰退を迎えており、端の方はほとんど無人となって荒廃していた。わたしは彼女と二人でそんな荒れ果てた中を何日もかけて歩いて行く。そして突然、叔母がもういないこと、人が死ぬという意味を思い知らされる。ついにコロニーの終端に到達し、エアロックから叔母の形見を外の空間へ放つのだ……。文明が滅んだわけではないが、次第に衰退し荒廃していく世界。その中で生きていくそして自由へのあこがれと恐怖を抱えた主人公。孤独の中で、人と人とのつながりが温かい。この作品は結局そんな人々の関係性を描く物語なのだった。


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