みだれめも
第268回
水鏡子
年明け、パソコンに詳しい関大SF研同世代のおじいさん小笠原、荒川両氏とすこし若い堺三保の三名がうちのメールの不具合の点検にお出でくださる。三人がかりでも不具合の改善ができず、ぼくの機械音痴のせいというわけでもないということに、ある意味安堵する。
受信の方は添付ファイルも含めて支障なく受け取れるので、最終的にGmailのアドレスを新たに作り、添付ファイルつきの返信のみGmailで行なうことにする。
昨年は安物買いで済ませ過ぎたとやや反省するところがあり、今年はほんの少し高めの本にも頑張ろうと思いを新たにする。新刊も頑張って買おう。
ということで、1月の購入数191冊。購入金額42,752円。クーポン使用6,160円。
なろう本75冊。コミック42冊、だぶりエラーと買い直し17冊。
新刊が『西遊記事変』『天使たちの課外授業⑪』『本の雑誌500号』大森藤ノ2冊、、竜庭ケンジ2冊、『キダ・タローのほんまにすべて』(CD)の8点12,056円。基本は株主優待のクオカードだが、CD4180円だけはタワーレコードだったので現金払い。
高額本では清水勲の明治期の風刺漫画を集めた『漫画雑誌博物館①~⑤』(5000円)、編集に佐々木毅、鶴見俊輔、村上陽一郎他錚々たるメンバーが名を連ねた『戦後史大事典』(1100円)が双璧。香山滋『全集⑥キキモラ』(1000円)も似たような金額なのだが、先月まんだらけで2400円で違う巻を買った直後なだけにやや憮然たる気分。この最後のものを買ったのは、梅田阪神百貨店の古本市だったのだが、ここの300円均一コーナーに野坂昭如の本が大量に放出されていて都合10冊購入する。その他、小松左京『はみ出し生物学』『未来からの声』、澁澤龍彦編『変身のロマン』、復刻版『吼える密林』『まぼろし城』などを買う。
その他の面白そうなところとしてはジョン・Ⅾ・バロウ『美しい科学①②』、宮下啓三『メルヘンの履歴書』、川田順造『無文字社会の歴史』、海野弘『都市の神話学』、荒俣宏『開かずの間の冒険』など。
2000年代のweb小説については、幼年期からファミコンに親しみ、学生時代ラノベやコミック、アニメ、TRPGなどに夢中になった人間がその後も趣味を継続し、社会人生活の体験を踏まえ、青少年向けという桎梏から解き放たれた同世代の友人知人に向けた物語を紡いでいったものだったという印象がある。時代的にエヴァやブギーポップといった読書視聴体験や、「アウト」、コミケに代表される二次創作文化の薫陶を受けた、パソコンメディアへの展開として始まったのかもしれない。
後追い世代であるので、いまだによくわからないのが携帯小説とのつながりで、同時代的であるが基底文化として別系統のように思える。恋愛、ミステリ、ホラーといった方向性は、二次創作系の素材愛のようなものと縁が薄い気がする。現になろう本の年表的なものを見ても、携帯小説作品群は黙殺されることが多かった。大勢として携帯小説は女性が、なろう系は男性が主体読者であるように見えた。
もっとも最近は悪役令嬢ものなど女性層を標的にしたものが一大勢力となり、携帯小説出版元のなろう本出版や女性読者向けのレーベル立ち上げも相次ぎ、代表的サイトであった「魔法のⅰランド」の「カクヨム」への吸収など、境界はどんどん曖昧となっている。
さらに2000年代においては、「アルカディア」に集ったグループと「小説家になろう」グループとは文化的に対立していたらしいことなどもどこかで読んだ記憶があって、そのあたりもほんわかわかる気がしていたりするのだが、とにかくこの時代状況がもう少し掘り下げて理解しておきたい思いがある。
印象に自信がないのは、携帯小説、二次創作系文化、TRPG、その他ほぼ全てについての知識が基本的に守備範囲外で外から瞥見したものの寄せ集めに過ぎないことにある。
「アルカディア」型コミュニティと「小説家になろう」型コミュニティの違いとはその指向するところが村型と街型だったのかもしれないなどと思う。
村型とはいわゆるサロン型、同人誌型であり、街型とは市場、マーケット指向の方向性ということである。
もちろん村と街は連続しており、その濃淡は揺れ動いていく。「小説家になろう」も巨視的に見れば、街型より巨大な村型というべき要素が強い集団だろう。
それでも、方向性の違いは大きい。村型、同人誌型コミュニティというのは人間関係とある種の理念を共有しながら、その文化に賛同する成員を増やしていくかたちで拡大しようとするものであり、広い意味での宗教集団との類似性を持つともいえる。有名な高浜虚子の「ほととぎす」などその顕著な例であり、同じ俳句から連想される「プレバト」などもマスマーケットを舞台にした村型文化の劇場化成功例のように思える。そこでは原理的な意味合いにおいて、送り手と受け手は同格に位置づけられる。
一方の街型、マーケット型コミュニティは、原理的には、送り手側を中心とした集団を主体に文化が共有されていない受け手に向けた教導によるマスの拡大を目指す運動といえる。ここでは当然の如く、送り手と受け手の間に上下関係意識がとくに送り手側に発生する。
そんな文化集団のマーケティングな在り方を意識している送り手サイドにとって、同じジャンルに存在する権威ある村型コミュニティからの文言は苛立たしさの極みにあったのではないか、などとふと、福島正実と柴野拓実の確執の根をみつけたような気がしていたりする。
前号で紹介した一江左かさねであるのだが、『デーモンルーラー』がそうであったかどうかわからないのだが、いかにも「アルカディア」型コミュニティの典型例に思えるのだ。慣れ親しんだラノベやコミックに物語の基盤をおいて、社会人生活の鬱屈、人間関係や役所や社会に対する辛辣な愚痴をひたすらこぼし続ける様が読みごたえとして返ってくる。明らかに同世代同趣味の読み手に向けた作風で、恐るべきことにまだ完結していない。完結間際ではあるようだ。
比べると、『へっぽこ腹ぺこサラリーマンも異世界では敏腕凄腕テイマー』、『厄神つき転生のススメ 過保護な災厄神とリスタートする冒険者たち』はある意味「小説家になろう」型コミュニティの産といえる作風で(「カクヨム」だが)、毒の部分がだいぶマイルドになっている。
幅広い読者を意識するようになったということらしく、それに合わせた文章技術も上達し、『デーモンルーラー』にも反映されていっている。村型コミュニティの弱点は、同格の読み手が読み込んでくれることを前提に書かれる分、読ませる技術に欠ける面が出てくるところにある。
前号の繰り返しになるが、書籍化三冊は愚作駄作の域を出ない。ぜひwebに続きを読みに行って欲しい。