続・サンタロガ・バリア  (第265回)
津田文夫


 久しぶりに同志社大学SF研の同時代(半世紀近く前)だったOBたちの懇親会があって日帰りで京都に行ってきた。正午着。EVE(大学祭)開催中ということでこれまた久しぶりに母校を覗いてみた。正門道路向かいに巨大オムライスが売りで当方も50年近く前に食べた「モナミ」が相変わらず営業していたのには驚いた。前回たぶん20年くらい前に来たときはその横に「わびすけ」がまだあったけれど、今回は見あたらなかった(ググったら2011年閉店とあった)。
 正門を入ると女子学生が寄ってきてコレどうぞとEVEプログラムブックを渡してくれた。キャンパス案内を見ると基本的に食い物の出店ばかりである。懇親会が3時からだったので、昼抜きにしていたけれど、女子学生が一人で焼き芋を売っていたので小さい方をもらう。400円だった。もう何十年も焼き芋を買ったことがないので高いような気もしたけれど、当方が子供の頃はまだおじさんが軽トラでやって来る焼き芋屋で買っていたからねぇ。出店を冷やかしながら、むいた皮を紙袋に落としつつ食い終わり、さて袋を棄てようかと思ったら、キャンパスのゴミ箱はすべて使用禁止、学祭時ごみステーションに行けと書いてある。どこかにあるんだろうとそのまま歩いていたら相国寺参道側の裏門にたどり着いてしまった。仕方なくプログラムの案内図を見ると正門と裏門近くの引っ込んだところの2ヶ所しかなかった。ということで校舎と校舎の間にあったごみステーションを見つけて無事棄てられたのでした。ステーションには分別指導の男子学生がいてさわやかに「ありがとうございます」と声かけをしていた。50年前とは大違いな大人しい雰囲気になっていた。
 で、正門へ引き返そうとしたら、今回の懇親会の幹事役を買って出てくれたSF研先輩OBのSさんと出くわし、もう一人の先輩OBのNさんも合流して喫茶店探し、どこも満員で(そりゃそうだ)。結局烏丸今出川交叉点のコメダに落ち着き時間まで昔話をしたのでした。
 その中でわがSF研の先輩たちがコスチューム・ショーで優勝した1974年の日本SF大会MIYACONのYouTube映像のコピープリントを見せられて、始めてMIYACONの8ミリフィルムが公開されているのを知ってビックリ。この映像は懇親会でもDVDにして持ってきていた人が居た。当方も帰宅後に確認してみたら、4年前に岡本(現高橋)ヤッシさんが投稿していたのでした。初めて見る映像だったけれど、さすがに皆さん若い。当方は75年度生なのでMIYACONは先輩たちの話しか知らない。でも今回、目の前にいるその時に出演した先輩たちの話を聞くと、もう細かいことが思い出せないと云ってました。 
 懇親会の方は2015年の創立45周年記念総会以来の顔合わせが出来て楽しく過ごしたんだけど、驚いたのは入学時1回生の当方に「津田君は林達夫を読んだらいい」とメンター役を買って出てくれた先輩のKさんが杖をついて現れたこと。どうされたのかと尋ねると脳梗塞を煩ってリハビリ中とのこと。身体が一番とおっしゃってました。
 参加者の中で65才くらいが一番若手、そのうち2人が近況報告でアイドル「推し」をしていると聞いて感心していたら、アイドルのステージの常連客は年寄りばっかりだと云っていた。ZOMさんや大森望が思い出される話だなあ。そういえば俳優になったヒトもいてNHKの朝ドラにも端役として何作品か顔出ししているとのこと。当方は高校時代以降朝ドラを見たことが無いのでよく分からないのだけれど、なかなかスゴいんではなかろうか。
 ということで、面白かったなあと思いつつ7時過ぎに京都駅についたところ、新幹線の遅延が判明。仕方ないので指定席券をパーにして予定の時間のヤツの自由席で帰りました。そういやJRは自由席を減らすんだとか。ますます使いにくくなるなあ。

 本の話に移ろう。

 てっきりまだ続きがあるだろうと思っていた林穣治『知能侵蝕 4』は完結編だった。それは作者の目論見がハードSF的なスペースオペラとしては大枠において短篇向きなアイデアだったことが影響しているようだ。
 不自然な形で地球の新しい月となった小惑星。地球に向けて発射された少数の宇宙船。切れ味の良い刀を振り回す工事用パイプで組み立てられた木偶のようなロボット。人間を解かし再構成するミリマシンと現代SFのリアリティが作品世界の、現在とそれほど変わらない現実に無理なく埋め込まれている。
 舞台も日本と小惑星とアフリカの一地方、それに小さなエピソードとして挟まれる世界各地の出来事などもスムーズに描かれる一方、主要登場人物が多すぎて視点人物もその場その場で切り替わるので、読み手としてはキャラに対する愛着が湧く前にキャラが希薄化してしまう。
 そしてこの巻で明らかにされるSFとしてのスタンダードなアイデアと、とってつけたような形での宇宙意志と化した主要キャラのエピソードは、SFファンサービスとも云えるし、バーサーカー・シリーズの基本設定で現代宇宙理論によるSFをやって見せたともいえる。楽しく読ませて貰ったけれど、なんだか狐につままれたようなSF話でもあります。そういえば以前読んだ『ダリア・ミッチェル博士の発見と異変 世界から数十億人が消えた日』(タイトルも作者も思い出せなかったので竹書房文庫でググった)も寂しい宇宙だったような気がする。

 先月久しぶり『中国の歴史』を取りあげたので、これまた久しぶりにH・P・ラヴクラフト『ラヴクラフト全集5』を読んでみた。
 この巻は「神殿」「ナイアルラトホテップ」「魔犬」「魔宴」「死体蘇生者ハーバート・ウェスト」「レッド・フックの恐怖」「魔女の家の夢」「ダニッチの怪」を収録。
 この中では「ダニッチの怪」が「ダンウィッチの怪」のタイトルで昔からなじみがあったくらいだったけれど、「レッド・フックの恐怖」は最近何かで言及されていたような、と思ったら、ヴィクター・ラヴァル『ブラック・トムのバラード』だった。
 今回は当方の感度が衰えたせいか、クトゥルー神話の様々なアイテムの出所を確認しただけで、本来の話の面白さが全然受け取れなかったのが残念。どちらかというと大瀧啓裕さんの解説の方が興味深く読めたのでした。

 中国SF四天王初の長編翻訳ということで、どんなものかと思って読み始めたのが、韓松(ハン・ソン)『無限病院』。訳者が山田和子さん一人ということで目次を見ると英訳本からの重訳らしい。これまでの英訳からの重訳中国SFは原本からの訳に較べてSFとしてやや派手な傾向があったように思うけど、山田さんの訳はどうなんだろう。
 プロローグこそ火星に仏陀を探しに行くエピソードで、ついこないだ円城塔のブッダSFを読んだので、ブッダものかと思いきや本編に入るとその話への言及はないのだった。
 基本的なストーリーは、出張先のホテルで胃痛を起こした主人公が全市まるごと病院化した都市に連れて行かれ、まるでレムの『浴槽で発見された手記』もかくやという病院都市での遍歴が語られる。本篇は、「病気」「治療」「追記:手術」の3部からなり、全体は通し番号が付いた87の短い章からなる。
 これまで読んだ数編の短篇から受けた印象で、この作者は作中の語り手が読者に親しみを感じさせるような作風ではないことは分かっていたけれど、ここでも主人公の視点で五里霧中な世界遍歴と会話を繰り返していて、いわゆるエンターテインメント型の物語としてのワクワク感などは最初から切り捨てられていて、その点でもレムを髣髴とさせる。主人公が弱気で優柔不断というところはカフカにも通じているかも。
 第3部の「追記:手術」だけは、病院や医師に反抗した患者集団の成り行きに、タイトルは忘れたけれどこの作者の血みどろ列車の短篇を思わせるアクションとスプラッタ趣味が反映されていて、ちょっと笑わせらせる。
 第1巻だけではプロローグとの繋がりがほぼ何も見えないので、次巻も読みたいことは確かだ。

 ジャンルとしてのSFが「浸透と拡散」を経て、周辺部分が爆散してエンターテインメント界に遍く行き渡っているのに、SFは相変わらず白色矮星のように燃えつきた核だけが残っているのか、というイメージももはや古めかしいのが今頃なんだろう。21世紀的な多様性のひとつであるLGBTQをSFも取り込むのは自然な流れだ。
 ということで、かどうかは知らんけど、好評だったらしい百合SFに続いてBLSFである。まあ、テーマ・アンソロジーはジャンルSF内で延々と編まれ続けてきたわけで、それがLGBTQとなってもSFとして面白ければそれでいいんだけど、SFが書きたいBLも好きという作家がどれだけいるかはまだよく分からない。
 そのBLテーマ・アンソロジーが、SFマガジン編集部『恋する星屑 BLSFアンソロジー』ということになる。SFマガジン編集部編なのは、このアンソロジーに収められた作品のほとんどが2回に亘った『SFマガジン』のBLSF特集号掲載作だったからですね。当方は読んでませんが。
 BLは基本的に性愛的感性によって書かれていると思われるが、SFが何によって書かれているかは半世紀読み続けてきても、なんとなく大枠があるようだな程度の感覚しか無い。野田元帥の云うように「SFは絵だ」と言い切ってしまえば、いかに面白い/惹きつけられる人間ドラマが展開していようとも、最後に残るのはイメージとそれがもたらす感触/印象だ。
 その点ではBLにも百合にもあまり関心が無い当方のような読者にとって、BLだからという評価軸がなく基本的にはファンタジーの評価に近いものになる。
 そういう観点では、冒頭の榎田尤利「聖域 サンクチュアリ」はBLを志向しすぎた感じが強い。これに対して小川一水「二人しかいない!」はSF的舞台での面白さ優先していていつもの小川一水である。
 コミックの高河ゆん「ナイトフォールと悪魔さん 0話」はその絵柄とコメディで楽しく読める。同じくコミックの吟鳥子「HabitableにしてCognizableな領域で」も同様。こちらはファンタジーの高河ゆんに対してSFでよく使われる時間コマ落とし効果が上手くいっている。
 おにぎり1000米「運命のセミあるいはまなざしの帝国」は、フェアリー専門の人捜し/サーチャーが語る、子供たちが成長するとセミやニンフにと呼ばれる存在になる世界でフェアリーは妊娠可能な形態をもつ。なかなか読ませる。
 竹田人造「ラブラブ☆ラフトーク」は、まあカーナビのようなユビキタスAIが発達した世界の話。しかし話は世界一の大富豪の男性に恋されたサラリーマンの話。竹田人造らしいコメディ。
 琴柱遙「風が吹く日を待っている」は妊娠を扱ったシリアスなジェンダーSF。ゲンロンSF創作講座出身とのことで、書きたいこととSFを組み合わせることに齟齬がない。
 尾上与一「テセウスを殺す」は、「攻殻」以来一般化した電脳ポリスもの。視点人物はバディを組んで捜査に当たっていたが、あるときバディが喪われ、その後釜に前のバディの恋人が入る・・・。この手の作品としては充分面白い。
 一番普通にSFっぽかったのが、吉上亮「聖歌隊」。ノドから樹を生やして「歌」を歌い、海から上ってくる敵を撃退する少年たちの物語。しかし、これが、途中からその手の名称が出てくるものの、「イーリアス」だなんて分からんよねえ。読んだ後でも分からん。
 このアンソロジーの中で一番SFから遠いのが木原音瀬「断」で、精液の死滅する音が聞こえるというだけの設定しかない。話の方もそれがきっかけで、それまで別れた妻とよりを戻そうとまで迷っている主人公が、どう見てもチャラい男にフェラの上手さにほだされて同居を許してしまうというもの。小説としては上手いけれど当方には用がない。
 樋口美沙緒「一億年先にきみがいても」は、巨大宇宙船の中にいる妊娠可能な種族のただ一人の生き残りとなった少年の物語。妊娠の問題という点ではおにぎり1000米や琴柱遙の作品と共通する。こちらは柔らかさと優しさがメイン。
 トリは、今やベストセラー作家になった一穂ミチ「BL」。当然のタイトルはそれでもアブリヴィエーションの先入観をひっくり返すために付けられている。確かに上手い作家ではある。
 解説ではオメガバースが最近のBLSFで普通の概念として使われているとか。よく分からないのでググったら、2010年代以降に流行したアメリカの映像作品が元となってファンダムで発生した言葉だった。当方の世代では知らないのも当然か。
 はてさて次のBLSFアンソロジーが出たとして読むんだろうか。まあ、読むんだろうな。

 長編を読むのはデビュー作以来となった十三不塔『ラブ・アセンション』は、軌道エレベーター内を舞台にした、1人の男性を相手に12人の参加者の女性が恋を成就させようと挑戦する、恋愛リアリティショー「ラブ・アセンション」を描いて、見事にはっちゃけて見せた1篇。
 プロローグで、まだ地上にいるときに参加者の女性の一人が海で波に手を浸したとき、地球外生命体が彼女に侵入したことが語られる。
 本編は参加者の女性たちの行動と落選者インタビュー、それに番組スタッフ側のエピソードからなる。スタッフ側の中心となる視点人物もADの若い女性でほぼ主役級である。タイトルや設定から、コリャどうかいなと、眉にツバつけながら読み進んだのだけれど、とても面白く読めたので、オススメ。
 参加者の女性たちは、ADも含めて怪物並みのパワーが与えられていて、一瞬ウルトラファイトかあ、と思ったくらい。SFとしてもアイデアの使い方が堂に入って、ちゃんと鏡さん言うところの倫理的な物語を構成しているし、語り口のなめらかさでは小川一水や宮澤伊織に一歩譲るけど、その分型破りが目立つので問題ないでしょう。

 ハヤカワ文庫JAのオリジナル・アンソロジーが続く。日本SF作家クラブ編『AIとSF2』がそれ。こちらはお馴染みの作家がほとんど。初めて読むのは、茜灯里くらい。
 冒頭から200ページ近いノヴェラになっている、長谷敏司「竜を殺す」は、昔でいえば不幸の3重奏な設定で、お涙頂戴物の典型ともいえるのに、長谷敏司はガチガチのハードな物語として作り上げてしまう。
 ライトノベルタイプのファンタジーを書く一方、生活のために塾講師をしながら、全国を動き回る仕事で家に帰る機会が少ない妻に代わり、男の子を育ててきた中年の主人公。人員整理で塾を首になり妻にどう伝えようか悩んでいると、警察が訪ねてきて、15才の息子が殺人の現行犯で逮捕されたことを知る。なおかつ、殺された男は昔の対談相手でAI技術者である男はファンタジーなんてもう人間が書く必要は無いというヤツだった。そしてその男は事業に失敗し、妻子と別れていたが、息子は殺した男の障害を持つ娘と知り合いだった・・・って、人間関係の設定だけを見ればやっぱりお涙頂戴物だなあ。
 しかし、長谷敏司は現在よりちょっと先のAI時代における人間の有り様にリアリティを与えるだけのスペキューションを被せる。
 泣ける話なので泣けてしまうが、一方でSF的考察は突きつめられてハードSF的な感触が生じる。
 なお、「竜を殺す」は主人公が書くファンタジーのテーマであるとともに、この作品のテーマでもある。
 人間六度「烙印の名はヒト 第1章 ラブ:夢看る介護肢」は、タイトルのごとく新作の第1章とのこと。〈介護肢/ケアボット〉ということで、これはどうやら廃棄されたボットのメモリ復元として構成されている。その内容からすれば廃棄も仕方ないか。
 池澤春菜「I traviati」は、扉ページ裏の著者の言葉によるとヴェルディの歌劇『椿姫La traviata/道を外れた女』を複数にしたタイトルらしい。作者は『椿姫』を朗読劇にしたものに主役として出演したので、それをもとにした1篇とのこと。テーマは舞台人もAIをインプラントして演ずるが、AIがまだ表現できない「人間らしさ」を追い求めるもの。ヒロインの強さがこの作者らしい。
 津久井五月「生前葬と予言獣」は、仰々しいタイトルと違い、AI接地問題を扱って、耐震脆弱地区の現実的な区画整理問題にAIをからませた話。土木ロボットに搭載されることになるAIの教育が明快に書かれている。
 茜灯里「幸せなアポトーシス」は、政府肝いりの『AIによるノーベル賞受賞級卓越研究の達成2050』プロジェクトの最終年にAIによる不老不死が達成されて、ノーベル賞受賞が確実視されているというプロローグから、過去の経緯に入る話。一種の死者の執念がAIに乗り移ったような話なので、新手の幽霊譚としても読めそうだ。
 揚羽はな「看取りプロトコル」は、医療用アンドロイドが看取りに関わる時代の話。ここでは以前火星の開発に関わった元リーダー格の男が、やはり火星で医療用アンドロイドを実用化した第一人者の後輩がつくった最優秀な医療用アンドロイドのリミッターを外させて自らの看取りをさせる。死にゆく人間にアンドロイドが対応するのかは、どちらかというと人間の方の問題だけれど、「倫理」はSFの本質だからそれもありだ。ここでもAI教育がテーマになる。
 超久しぶりの海猫沢めろん「月面における人間性回復運動の失敗」はこの作者らしく、最先端のAIテーマなどとは関係なく、古めかしいけれど面白い1作。月面都市のAI搭載タクシーに専属員として責任を取るためだけにいる乗務員の男が、異界の女悪魔みたな客に強引に乗り込まれ、人類の価値を問われて命がけの会話をAIを交えて続ける。
 黒石迩守「意識の繭」は、人格アップロードが残された肉体からなぜ意識が消え失せてしまうのかを説得力を持って説明して見せた力作。人格アップロードしたらなんで肉体のオリジナル人格が消滅しなければならないのかをこんなにわかりやすく書いた作品を読んだのは初めてだ。おかげで当方の人格アップロードに対するSF的な疑問もハッキリしてきた。
 この作品でも結末では『ニューロマンサー』や「ゴーレムXIV」のAIのようにアップロード人格は人間の相手をせずに宇宙に去ってしまうけれど、まずそれを支えるエネルギーはどこにあるのだろうというのが疑問の一つ、もうひとつは接地問題で、脳を素粒子レベルで解析してAIとして再構成して人格アップロードしたとして、肉体から発生した脳の機能は地球環境に特化しているので、電脳世界では効率の悪い若しくは不要な機能が一杯あるはずで、それが最適化されずにずっと維持されるのか、維持されないとしたら人格の同一性は継続するのかとか疑問が湧き出てくるばかり。どうも人格アップロードというのは『幼年期の終わり』であって、人間の物語である「倫理」/SFの向こう側に行ってしまうような気がする。
 樋口恭介「X-7329」は、どうにもイメージが湧きにくく茫洋とした描写の連続で何だコリャと思いながら読み終わったのだけれど、これはAI(Chat-GTP)に指示を与えて書かせたものという著者注が巻末にあった。ナルホドねえ。
 円城塔「魔の王が見る」は、タイトルページ裏に「NN(ニューラル・ネットワーク)が現実を強烈に生成しはじめた現状に閉口している」と著者の言葉があって、話の方はカルガモ親子が道路を渡るような光景で始まり、終わる20ページの短編だけれど、SF的な歪めぶりがスゴい1作。言葉の冗談はSFとして成立するし、電脳は人の知覚をいくらでも幻惑する。樋口恭介の1作はその見本か。そこで思ったのは、スマホに縁の無い人口は世界の何分の一なのだろうか。その人口は近い将来消え失せるのか。
 トリの塩崎ツトム「ベニィ」は、巻頭の長谷敏司作品に次ぐリアリズムの力作。
 ベニィは、2人ずつがセットになったスピゲル家6人兄弟/妹の長男セットで、長兄である自殺した英文学者サミュエルの弟であり、20世紀の作家として名を成したベンジャミン・スピゲルのこと、と作中に登場する21世紀にこのベニィの大規模言語モデル/LLMを使用した研究者は書いている。
 物語は、1950年代にサミュエルのデータが非ノイマン型NNのソースとして秘密裏に利用される可能性をめぐって、カトリック司祭で実はCIAエージェントであるベニィの弟によってアメリカのコンピュータ戦略に巻きこまれるエピソードとして展開する。
 デビュー作もそうだったけれど、1950年代アメリカを舞台に有名作家をモデルにして書いて違和感がないのはスゴいことだ。しかしそういう風にリアリズムで書けるわが国の作家たちが沢山居ることはもっとスゴいか。

 12月1日に読み終わったのが、ケリー・リンク『白猫、黒犬』。変わったタイトルだけど、目次を見ると各作品タイトルの脇に作品の発想元となったグリム童話やフランスの民話、イングランドの伝承の名前が出典のように付けられていてる。もちろん元となった話の設定を受け継いではいても、いろいろモディファイされている。。
 冒頭の「白猫の離婚」は「フランスの童話『白猫』より」となっていて、富豪の父が財産を受け継ぐ権利のある3人の息子に毎回犬とか花嫁を探してこいと条件を出すが、末っ子は人語を解する白猫を連れて帰り、父がこの猫と結婚、首を切り落とすと美女になった・・・。
 童話の方は王様と王子で、猫の首を切り落とすと人間になるらしいからモディファイはわりと分かりやすい。しかしこの作者の作品自体はとても不思議な感触を湛えていて、それは以下の作品も同様である。
 「地下のプリンス・ハット」は「ノルウェーの民話『太陽の東 月の西』より」となっていて、これも話の骨格は受け継いでいるが、元の話はシロクマと結ばれた娘が熊が実は王子であると知ったが、王子は魔女の国ヘ行きその娘と結婚しそうになったけれど、娘は王子を取り戻して結ばれるという話である。それがここでは視点人物が男性であり、「プリンス・ハット」も「王子様」なので、話の骨組みは受け継いでいるけれど、あくまでも男性カップルが誕生する話になっている。一種のBLには違いないが読み心地は不思議である。集中2番目に長い1作。
 「白い道」はグリム童話「ブレーメンの音楽隊」が下敷きのSFっぽい一話。
 この白い道はヒトを呑み込んでしまうが、死体があると近づかない正体不明の何かで、一見白い道のように見えるというもの。話は数名からなる巡回劇団が集落から集落へと動いているが、この時はある町で地元の有力者に頼まれ、少年を劇団に入れて次の町へと連れて行くことにした。しかしその途中で訪れた無人の集落では、死体がないために白い道が近づいてきた。そこで視点人物の取った行動は・・・。これってブレーメンとどれくらい重なっているのか分からない変な結末を迎える。
 「恐怖を知らなかった少女」は「グリム童話『こわいことを知りたくて旅にでかけた男の話』より」と長い脇題だけど、集中一番短い。話はタイトルと違って女性同士の家庭を築いた若くはない女性が空港で何度も飛行機が欠航しては足止めを食らう間の話と、ようやく乗れたところで左右の席の女性客から身の上話を聞かされ、着陸近くなってトイレに行こうとすると使用禁止になってる話で幕が閉じる。元の童話は何にも動じなかった男が寝ているときにバケツで水を掛けられゾッとしたという話らしい。ウーム。
 「粉砕と回復のゲーム」は、これまたグリム童話の有名な「ヘンゼルとグレーテル」が元という短い1篇。お菓子の家と魔女のイメージ何に変換されたのかというと・・・。
 しかしこの話は宇宙SFとして書かれたかなり抽象的なスペースオペラ。登場人物は「アナト」という名のたぶん女の子(途中で分かるけどスターシップだ)。彼女を愛するオスカーという名のたぶん男の子(アンドロイドなのかなあ)の二人だけ、ほかに「お手伝い」と「吸血鬼」がいる。最後に「イアン・バンクスに」という献辞が記されているので、スペースオペラには違いないだろう。
 「貴婦人と狐」はイングランドの伝承「タム・リン」が元になってるという。「タム・リン」といえば、マキリップの『冬の薔薇』の解説にあったし、サンディ・デニーも歌っていたけれど、うろ覚えなんだよなあ。
 こちらは富豪のハニウェル家のクリスマスでその跡取りの男の子と遊ぶ、ハニウェル家の女主人のお気に入りという女の子が、屋敷の外から中を窺う昔風の服装をした若いハニウェル家の者らしい青年を見かける。あとはクリスマス毎に現れる青年と女の子のコマ落としストーリー。ヤングといえばヤングか。
 巻末は集中一番長い「スキンダーのヴェール」。元はグリム童話「しらゆきべにばら」とのこと。元となる話はグリム童話が多い。
 修士論文の仕上げに悩む主人公。おなじ境遇のルームメイトが、そいつとセックスしている間は幽霊が見えなくなるという女を連れ込んで、のべつ幕なしにセックスしている。そこへ女友達から久しぶりに連絡があり、その女友達が管理人を兼ねて住んでいる家を留守にするから代わりに住んでくれと言われ、同居人のカップルの車に送られてインターネット圏外のド田舎にある家に入る。女友達の云うことには裏口から来る者はヒト以外も含めて入れてやれ、正面から来る者はたとえ家主のスキンダーでさえ入れてはいけないという・・・。
 ここまで読んで、ようやくこれが再読であることに気がついたのだった。しかし、いつものことだけれど、どのアンソロジーで読んだかまったく思い出せなくて、ググったら牧眞司さんの「今週はこれを読め」が引っかかる。『穏やかな死者たち シャーリイ・ジャクスン・トリビュート』に収録、牧眞司さんは集中一の傑作とこの作品を推していた。確かにねえ。
 ということで、元の童話民話伝承の知識が無くても十二分に面白いケリー・リンクの短編集。いい作家です。

 ノンフィクションは1冊。

 なかなか本格的SF評論に手が出ないんだけれど、ちょっと気になったので、海老原豊『ディストピアSF論 人新世のユートピアを求めて』を読んでみた。先に出したという『ポストヒューマン宣言』は読んでない。
 裏表紙側腰巻に章立てがあり、「はじめに 欲望されるディストピア」「第1章 古典的ディストピア-三部作から二一世紀ディストピアへ」「第2章 監視ディストピア-スマート化された身体のアイデンティティ」「第3章 人口調整ディストピアと例外社会」「第4章 災害ディストピアとニーズの分配」「第5章 労働解放ディストピアの製造コスト」「おわりに 支配と抵抗の脱構築」となっている。
 「はじめに」でディストピアの5類型を設定した章立てであることが語られている。それぞれの章で言及される作品は、当方が読んだことのある古典的なもの以外にも思想書はもちろん、映画やアニメなどの映像作品もいろいろあって、作品紹介とテーマの取り出しについては非常に明快な処理がされている。
 ただ読みながら思ったのは、著者自らも認めているように、これはSFを扱った評論であり、決して何らかの現実/政治的な提言をするつもりはないと表明しているところに、著者の生真面目さのなせる窮屈さが現れている。
 著者は「おわりに」で「評論は、・・・創作だと思っている」といっているので、その意味ではもう少し羽目をハズしてもいいんじゃないでしょうか。昔巽孝之さんは「読むことのサイエンス・フィクション」を標榜していたし。

 今年は、年賀状を出しませんが、みなさまは良いお年をお迎えください。


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