続・サンタロガ・バリア  (第263回)
津田文夫


 毎日のように負け続けたカープの急降下のせいでもなかろうが、9月はいまひとつ元気がなく、気がついてみたら読書量が激減。今回は休もうかと思ったけれど、ただでさえ強化されつつある忘却能力に鑑み、取りあえず書いておこうと思った次第。読み終わったのはほとんど8月の新刊で、9月の新刊は1冊しか読めなかった。

 今回はノンフィクションと映画の話から。

 安部公房生誕100年ということで(再?)文庫化された安部公房『死に急ぐ鯨たち・もぐら日記』を読んでみた。これは巻末の新しい解説(鳥羽耕史、旧版の養老孟司のものも収録)にあるように、「本書は『方舟さくら丸』の自作解説であり、『飛ぶ男』の構想と執筆過程を見せるものである」。
 解題的な新しい解説によれば、前半をなす1986年刊の「死に急ぐ鯨たち」に集められた文章類は1980年から86年頃のもので、後半の「もぐら日記」の方は作者の死後発見された文章だけれど、内容的には冒頭に第1章として置かれた「シャーマンは祖国を歌う」の原型となったという、85年10月に大阪で開かれた国際シンポジウム「人間と科学の対話」の基調講演「技術と人間」のための思索ノートになっている。
 なお、巻末の出典表示によると「死に急ぐ鯨たち」は平成3年の文庫本(養老孟司の解説はそこから再録)が底本、「もぐら日記」は最新の全集からこの文庫に入れられたとのことである。
 当方は安部公房の熱心な読者ではないけれど、高校生の頃から初期短編集『壁』や『第四間氷期』『他人の顔』といったSFっぽいものは読んでいて、その後は『砂の女』とかエッセイ集の『砂漠の思想』などを読んだ覚えがある。ボロアパートには函入りの『密会』や『方舟さくら丸』があるが、解説にあるように「死に急ぐ鯨たち」は『方舟さくら丸』を出したばかりの安部公房へのインタビューがメインなので、「ユープケッチャ」や「便器に足を取られる」に代表されるイメージは蘇ったけれど、『密会』がどんな話だったかは、インタビューでちょっとだけ安部公房の自作解説があるものの、当方の記憶はチットモ蘇らないのだった。
 今回「もぐら日記」をはじめて読んだせいか、当方の印象を形成しているのは、この当時の安部公房はパブロフ「言語は一般条件反射より1次元高い条件反射」・チョムスキー「普遍文法」・ローレンツ「本能」にこだわって延々と思考を重ねていたことだった。あと、安部公房がローレンツの著作やインタビューをいくつか読んだ結果、ローレンツは鼻持ちならない人種差別主義者だったと罵っているのも面白かった。もっとも『攻撃』を書いたローレンツには最後まで敬意を表しているが。ちなみに「もぐら」は『方舟さくら丸』の主人公の名前(当方は忘れていたけれど、インタビュアーが主人公と云っていた)。
 もうひとつ面白いのは、この当時安部公房は次回作の構想として「スプーンを曲げる少年」という作品を準備していると語っていて、結局その作品は日の目を見ることなく、死後に発見された原稿から『飛ぶ男』という未完の長編となったこと。当方は『飛ぶ男』は未読なので、今回新版で出たらしい文庫を手に入れよう。
 ほかにも、ワープロを使い始めてその利点を数え上げたり、ところどころに廃棄物の写真が挿入されていて、そういうものを撮るのが趣味(カメラにもこだわりがある)だったりというのも安部公房らしいが、なんと云っても全編に充満する国家とその下に集う人間集団嫌いがキモなんだろうなあ。

 で、この文庫を読み終えたあと、映画『箱男』(監督石井岳龍)が地元の映画館で上映されはじめたので見に行ってみた。観客は当方を含め7人程度。なぜか当方と同じくらいか歳上の年齢の女性が多かった。
 半世紀前に『箱男』を読んだかというと多分読んでない。たとえ読んだとしても内容は忘れているだろう。とはいえ『死に急ぐ鯨たち・もぐら日記』を読んで、それなりに安部公房という作家の作品がもたらす感触はいくらか蘇っていた。
 しかしこの映画版『箱男』では、安部公房の作品からうけた当方の感触とは全く違う感覚の世界が展開していて、見ている最中に思い出していたのは庵野版『シン仮面ライダー』だった。この映画ではアクション・シーン(含セックス・シーン)が基本コメディで、それ以外はセリフと文字(箱男の手記や空に浮かぶ文字など)、すなわちコトバによって不条理だと説明される。なのでラストのセリフなど気の抜けたオチでしかない。映像はコトバに付随するイラストレーションに過ぎないように思えた。
 まあ素人考えだけれど、安部公房の『箱男』をきっちりと映像化するなら、まずどうやって映画から「コトバ」を追い出すかを考えた方が良いんじゃないだろうか。安部公房は「思考は言語に依らなければ不可能」と言っているわけで、せっかく映画を作るなら安部公房の作品がもたらす感覚を映像(だけ)で表現して欲しかったかな。たとえそれが表面上は原作の『箱男』と似ても似つかないものになったとしても。

 今回も読了した本の数が減った理由の一つが、奥泉光『虚史のリズム』だったことは間違いない。『本の雑誌』で大森望が満点をつけているのを見てようやく入手したこともあって、9月半ば過ぎから読み出したが、10日あれば読めるかと思っていたけれど10月になっても読み終わらないのだった。まあ、京極堂の1000ページじゃないんだから当然か。
 「昔から探偵になりたかった」で始まり「では、くわしく話を聞かせていただきましょうか」で閉じられる1000ページあまりの物語は、戦時中の海軍艦艇で起きた殺人事件を扱った『グランド・ミステリー』や『神器 軍艦「橿原」殺人事件』と違って、終戦2年目の物語。
 「探偵になりたかった」のは石目鋭二。誰それ? 思うのはあたりまえで、奥泉光ファンじゃないと分からないが、『神器 軍艦「橿原」殺人事件』では「橿原」の乗組員として主人公を張った人物。当方も以前『神器 軍艦「橿原」殺人事件』を読んで感想を書いたはずだけれど、「エージさん」が軍艦「橿原」での体験に言及するまですっかり忘れていた。
 話の方はというと、昭和22年ということで世の中は、特に東京は食糧難。「探偵」をはじめる前に手っ取り早く稼ぐため、フィリピンでの捕虜生活で書いたポルノ小説が人気だったことを思い出し、焼け跡の東京でもガリ版で刷って売り、その一方でゴミ同然の油から石けんを作って売ったらどちらも大当たり。石けんの方はショバ代が絡むので、のちに「探偵業」の顧客にもなる新興暴力組織の頭とも縁が出来た。そして余裕も出来たことだし、大空襲で死んだ兄の納骨をしに一度故郷の山形に帰ろうかと考えた。
 一方、学徒出陣した神島健作元陸軍少尉もフィリピンで捕虜になり、たまたま石目と同じ収容所にいて、石目にエロ小説の英訳を頼まれたことで石目とは縁が出来た。帰国後は実家で病気療養していたが、復学手続きに東京へ出た2月、新宿で石目とバッタリ出会った。神島は山形に実家があり、まだ療養中だから山形にきたら酒田の実家にこいと誘われて石目は兄の納骨のついでに酒田を目指す・・・。
 このプロローグが「石目探偵」の活躍する話に変わるのは、神島が元陸軍中将を実親とする東巍(とうぎ)家の末っ子で神島へ養子に出された人間であり、石目が神島の実家=養家を訪ねている間にその東魏元中将夫妻が殺害されたことにより、「石目探偵」が誕生、以降主に石目視点と神島視点によって1000ページのミステリが展開するのである。
 ということで、大量の登場人物が投入されるけれど、男性は大抵軍隊帰り(占領軍側は現役もいる)で、女性は年齢に応じて女学生だったり人妻だったりする。このうち神島の親戚である生粋の山形弁女子学生が第3の視点人物として大活躍、石目と同じくらい作者の保護を受けて印象に残る。
 全体としては、これまでの太平洋戦争と日本の国体という大テーマを抱えた作品群の集大成みたいな感じで、ミステリとしては京極堂たちが活躍する戦後日本と同様、超能力と新興宗教、それに絡む陸海軍の謎の研究所と残された謎のK文書が出てきて、これを新興宗教団体やヤクザ組織や占領軍が追いかけるなか、「石目探偵」やK文書の作成に関わった者たちとの縁が深い神島をはじめとした、多数の登場(ネズミも含む)人物が物語の渦を巻くことになる。
 エンターテインメントとしては 税込み5000円を超えるお値段分の価値は充分あると思うけれど、大テーマを象徴する「dadadada・・・」の乱舞がどこまで効果的だったかはたぶんこの本をよむ物理的状況による。当方の場合、本の物理的な重みに耐えかねてテーマの重みに集中できなかったよ。

 ついに本格的な長編を書き上げたという春暮康一『一億年のテレスコープ』は、力作ぶりが嬉しいものの、個人的には話の面白さが部分部分によって高低があって全体としての印象はやや肩すかしな感覚が残った。
 もちろん表題の意味する壮大なスケールにセンス・オブ・ワンダーを感じてグッとくるのは間違いないけれど、メインパートの3人のアドベンチャーが、必ずしも『法治の獣』に収められた短篇群を上回っているようには感じられなかったところに、おそらく不満が生じたのだろう。
 この長編がデビュー以来の「春暮康一ワールド」に連なる世界を創っていることはよく分かるし、その探索の物語としての仕掛けの面白さも分かるけれども、モダン・スペースオペラとして3つのパートの釣り合いに納得できない感じが残ることも確かだ。
 あと最近気になりだしたのは、この作品でもそうだけど、人格アップロードタイプのSFはなぜその人格(たち)の物語しか書かないのか、人格アップロードのドラマはSFとしてはテクノロジーの行き止まりなのではないかという疑念が生じていること。
 現実は何十億という人格によって意識されていて、常に時間は流れており、技術はどんどんと変化していくだろう。それに伴って新しい世界が個々の人格の変化を含めて生じるはずであり、ヴァーチャル・リアリティが物理的現実と見分けが付かないレベルという設定をした途端、それはSFとしての可能性を喪っているのではないかという感覚が出て来つつある。これって大昔の未来信仰/ポジティブSF志向と同様な気もするけれど、時代がひとまわりしてシンギュラリティ的なSFが退屈になりつつある気もするんだよね。
 もちろん(電気)エネルギーが枯渇すれば人格アップロードも保ち得ず、そこにもSFとしての視点が持ち込まれるはずだけれども、現在の人格アップロードSFではエネルギーは無限に供給されているという前提で話が作られている。素粒子レベルの物理現象とデジタル情報論を視野に入れた物質レベルの人間の現実をSF的に再解釈する時代になってきているのではなかろうか、というのが今日この頃の空想なのだった。

 非常に生真面目な一方で、モダン・スペースオペラへも強い関心を見せる宮西建礼『銀河風帆走』は、2013年の第4回創元SF短篇賞を受賞し表題作になったデビュー作以来、書き下ろしの1篇を含め、5編を収録した第1短編集。って寡作に過ぎるだろ。
 巻末出典を見れば、デビュー作以降2019年までの間に作者が短篇を発表していたとしてもここには収められておらず、書き下ろしを除けば、デビュー作を除いて2019年以降の東京創元社のアンソロジーに掲載された3編を集めた形になっている。
 巻末に置かれたデビュー作と書き下ろし「星海に歿す」がタイトル通り広大な宇宙を感じさせるのに対して、残る3編はいわゆる理系高校生たちが地球的スケールでの現象にいどむ話であり、その現象が流れ星だったり、小惑星だったり、巨大火山の噴火だったりする。この作者が生真面目な感覚をもたらすのは、この高校生らの知的な活動をストレートに描くことで、いわゆるドラマの夾雑物は最低限に抑えられていることによる。これは宇宙ものである2作にもいえて、特にデビュー作の語り口は、悲劇的な物語の進行をメロドラマにすることなく「銀河風帆走」のなりゆきを伝える。
 書き下ろしの「星海に歿す」は星間宇宙船のAIが語り手だけれど、AIの暴走を恐れた人類が送り出した同型の宇宙船との戦闘を語るその口調は、やはりデビュー作以来の調子を湛えている。これほど派手なドンパチをこれほど静かに語るスペースオペラも珍しい。
 こうしてみると、もうちょっと執筆ペースを上げてもいいんじゃなかろうかと期待するところ大。そういえば宮西建礼氏には「やねこんR」で、当方が持参したサイン帳(奥さんに持っていけと云われた)にかなり凝った字体のサインをしていただいたのを思い出した。その節はありがとうございました。

 以前『マレ・サカチのたったひとつの贈物』を読んで褒めたのは覚えているけれど、そのわりには他の作品を読んでいなかった王城夕紀『ノマディアが残された』を読んでみた。
 帯の惹句に「外務省直轄の秘密組織「複製課(レプリカ)」のエージェントが、人類を二分する陰謀に立ち向かう国際諜報活劇!」とあるけれど、作品のキモはそのエージェントがすべて異能とも云うべき力をもった移民で、日本の権力からは煙たがられていつでもお取り潰しの危機に瀕しているという設定にある。
 話のほうは、その設定に沿って、エージェントの一人が難民キャンプ国家?みたいな地域で「ノマディア」という言葉を残して連絡を絶ち、彼女を探し出せなければ「複製課(レプリカ)」がお取り潰しに、というので彼女の捜索に数人のエージェントが駆り出され、様々な組織が入り乱れて複雑な利害関係をなす無政府状態の地域に乗り込んで人捜しを遂行する、というもの。時代は近未来で電脳世界抜きの『攻殻機動隊』なテクノロジーが次々と現れてSFっぽさが充満する。
 昔からSFは世界危機をナイーヴに反映した形を取ると云われているけれど、これも現在の難民状況とそれに対する世界の反応をモロに反映している。最近読んだ中では、荻堂顕『ループ・オブ・ザ・コード』と印象が似ているかも。
 ググってみたらこれは2016年以来の新作長編らしくこれまた寡作な作家だなあ。名前と作品から女性のように思っていたけれど男性かな。

 読み終わって奥付を見ると9月刊だったのに気づいたのが、円城塔『コード・ブッダ 機械仏教史縁起』。タイトルからも分かるようにこれ全編仏教史のパロディ。円城塔は前回感想を書いた短編集『ムーンシャイン』でも宗教への傾きが顕著だったけれど、これは真っ向勝負の1冊。
 ここでは歴史的なブッダは「ブッダ・オリジナル」、そしてこの物語のキーになる機械仏教の創始者は「ブッダ・チャットボット」、これは出自がチャットボットだったので、そう呼ばれるらしい。
 第1章はプロローグで、3人称で語られる。
 1964年の東京オリンピックで「ブッダ・チャットボット」へつながるシステムが誕生し、その後は銀行の電算システムが進化するにつれ複雑化した高度なシステム群が、銀行合併によって統合されたときの混乱時に、無数に作成されたコードの一つが2021年の東京オリンピック開催の時に具体化した「ブッダ・チャットボット」として発話を始め、まもなく寂滅したという。
 2章になって「わたし」が語り手になると、以降は「わたし」による「機械仏教史縁起」の成り行きが進行する。なお、「わたし」の頭には物理的な計測ではその存在が証明されない「教授(もとは軍事用システムから発生した)」が住みついている。そういえば岡本俊弥さんの書評で、この「わたし」は「人工知能のメンテをするフリーランスの修理屋」という紹介を見て、神林長平の『フォマルハウトの三つの燭台〈倭篇〉』に似たような仕事の人物がいたのを思い出した。
 ということで、これ全編エンターテインメント「(機械)仏教史」であって、それが「機械」であることによって最初からその無責任は宣言されているものの、これで「仏教史」を覚えるヒトもいるだろうから、ちょっとヤバいとは思われる。読んでる分には笑えて、関西SFマンガカルテットの衣鉢を継ぐ存在としての円城塔が窺える。
 それにしても「勘違い」した読者から仏教がらみの「クレーム」がきそうだなあ。

 今月読んだフィクションは全部単行本で文庫がなかった。小遣いが心配だ。 


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