みだれめも 第261回

水鏡子


○近況(6月)

 6月頭は毎年恒例の青心社・関大SF研OBによる浜松旅行。コロナ禍での中断はあったが、ほぼ40年くらい継続している。現地在住の初村氏が永年幹事を務めていて、今年は花博に行く。
 滞在するホテルの近くに小ぶりのブックオフがあり、昨年初めて訪れたところ単行本サイズのなろう本が110円というすばらしい価格で並んでいて感動した。文庫本220円、単行本370円というここの値上げに怒っている昨今、不安一杯で覗いてみたら、今年も昨年同様だったので、嬉々として買い漁る。この値段だと持っているかどうか曖昧なものもとりあえず買えてしまう。3冊ダブった。
 この月は株主総会シーズンでお土産や懇親会目当てでうろうろする。行きたかったところはいくつかあったのだが、日時が重なるのとコロナ禍以降お土産廃止が激増し結局2社に止まった。総会のWeb配信が本格化したことも公平性の観点から土産廃止を加速させているようだ。あと、質疑応答が会社役員に向けてというより、自らの所属する団体についてのWeb配信を通じた広宣活動を目論む発言が目立った。ひとのふんどしでタダで数千人規模の視聴者に声を届けることができるというわけである。鬱陶しくなって途中退席する。

 6月の購入数188冊。購入金額29,603円。クーポン使用6,600円。
 web小説59冊。コミック71冊。だぶりエラーと買い直し23冊。新刊本はSFマガジン8月号、昭和39年の俺たち7月号、『絶景本棚③』、長山靖生『SF少女漫画全史』、樽見京一郎『オルクセン王国史②』、『りゅうおうのおしごと⑲』、6冊8,976円。他にP・ジェリ・クラーク『精霊を統べる者』、神戸文藝ラボ『アンカーキル創刊号』を頂いた。多謝。

 長山靖生『SF少女マンガ全史』は昭和の時代を中心とした博覧強記の著者らしい力作だが、リアルタイムの読書歴としての10年の世代差は厳然としてあり、俯瞰図に微妙な差異がある。参考文献に、初めてのちゃんとした少女漫画家論として話題になった『花咲く乙女たちのキンピラゴボウ』が入っていないのも意外だったりする。ぼくの場合小学生のころ図書館通いの途上の本屋でマガジン、サンデー、キングなどの立ち読みのついでにフレンド、マーガレットを読むという習慣を毎週繰り返していたものの、少女漫画はあくまでついでに過ぎなかった。その後SFファンダムに顔出しするようになった大学時代、かれらがほとんどSFの話をしないで少女漫画の話ばかりしていることに衝撃を受けて少女漫画を本格的に視野に入れるようになる。ただしその時代というのはりぼんの全盛期で、萩尾竹宮大島の御三家の一つ前の時代だった。米沢『戦後少女漫画史』が違和感なく読めたのも著者が同年代でリアルタイムに読書体験が重なっていたせいかもしれないと『SF少女マンガ全史』を読みながら再確認をした次第。
 あと、読み比べて思ったのは想定読者がちがうのではないかということ。米沢本は氏の著書の中でも最初期のものであり、挙げた著者や作品の大半について心当たりのある読み手に向けたものである。自分と同じ位置にある対象読者に対しての自らの言葉に依った物事の整理と意見陳述である。一方の長山本は、基本的に外部に向けた啓蒙本の性格がある。一般客に対して、自分の仲間と同格の共通了解を前提とした文章を組み上げるわけにはいかない。まあ、当時必死にリアルタイムで読んだ人間たちが還暦を迎える時代となっている以上、しかたのないことではあるのだが。

 コミック71冊中、37冊は『ハンターハンター』。全巻繰り返し読んでいた作品だがこの月買う。売値8000円。内クーポン4000円を使用する。
 その他の主な収穫は、
 ジョン・Ⅾ・バロウ『宇宙論大全』(800円)、金子光晴『樹懶』(300円)、八杉龍一編訳『ダーヴィニズム論集』(160円)、窪徳忠『道教の神々』(160円)など。

 なろう本(web小説という言い方は肌に合わないのでこの言い方に戻した)は読み応えのあるものが揃った。

樽見京一郎『オルクセン王国史 野蛮なオークの国は、如何にして平和なエルフの国を焼き払うに至ったか』(サーガフォレスト)
小鳥屋エム『小鳥ライダーは都会で暮らしたい』(ツギクルブックス)
じゃがバター『プライベートダンジョン』(ツギクルブックス)
かずなしのなめ『異世界の落ちこぼれに、超未来の人工知能が転生したとする 結果、超絶科学が魔術世界のすべてを凌駕する』(ドラゴンノベルス)
島田征一『クロゥレン家の次男坊』(TOブックス)
うめー『不遇皇子は天才錬金術師~皇帝なんて柄じゃないので弟妹を可愛がりたい~』(TOブックス)

 この数年、なろう本の新作が小説的に水準を上げてきている気がしている。読みだした当初、ジャンルの性格も作品の骨格も、なんとなく五〇年代SFに似た親和性を感じたこともあり、時系列的モデルとしてSFの歴史を引き比べながら脳内俯瞰図を作成してきた。当時のSF作家が何十巻にも及ぶ長い話を一二年単位で仕上げる技法に特化したらこういうものになったのかもしれないと思ったりしたのかもしれない。もちろん今思いついた後付けである。
 ただ同時に五〇年代SFは、今の目線で見ると総体としての古さ稚拙さの枠が文化的に存在していたのだと思う。ライバーもバドリスもコーンブルースも、スタージョンすらそんな枠の内にいた。
 なろう本への感想も、似たようなところにあった。だめなものも優れたものも、伸長や退行を推し進めつつも、そんな古さ稚拙さの枠のなかでの動きに思えた。
 もちろん半世紀以上も前の、五〇年代SFより、リテラシーレベルは進歩している。それでも文化的、あるいは共同体的意味でのある種の枠組みは、過剰なまでに参照可能な情報量と読み手を通じた反応の速度に付随してしっかり根付いているのだと思う。
 ただそうした中で、あたらしく本になった作品に小説としての在り方に違いが出てきている気がするのだ。いうならば五〇年代SFから六〇年代ぽい方向に。意味不明だろうなあ。と書いてる本人自体が思う。

 ということで、今回取り上げた6作。ここまで書いてきてなんなのだが、むしろ伝統的作品ばかりである。小説の出来はもちろんよろしい。
 小鳥屋エムとじゃがバターはそれぞれ『魔法使いで引きこもり?/魔法使いと愉快な仲間たち』、『異世界に転移したら山の中だった。反動で強さよりも快適さを選びました。』という代表作が延々と続けられている。どちらも全然終わらない。

 小鳥屋エム『小鳥ライダーは都会で暮らしたい』は代表作と同じタイプ。親に愛情込めたスパルタ教育を受け、自覚なしの常人離れした能力を持つ主人公が、鳥に騎乗し、街や貴族の間で頭角を現していく。

 じゃがバター『プライベートダンジョン』は代表作と異なる現代ダンジョンもの。ただしこちらも常人離れの能力でスローライフを目指しつつ友人知人を巻き込んでいくところ、内容は似たようなものと言っていい。

 樽見京一郎『オルクセン王国史 野蛮なオークの国は、如何にして平和なエルフの国を焼き払うに至ったか』は、まあ、タイトル通りの戦記ものなのだが、書籍化第1巻は同族同士が喰らいあうオークの種族が、主人公である王一代でいかにして文化国家を作り上げ、周囲の人間国家と国交を成しているかの成り立ちをひたすら書き綴る。書籍2巻目は、戦争とは兵站がすべてであると、ひたすら戦争の準備を書き綴る。バトルもラブも、道行きも、食事もなんにもない。webでの続きも準備万端の上でのひたすらの戦争シーンしかない。ちなみに剣と魔法でなく銃と魔法である。Webであらかじめ書かれたものでなければ出版は不可能だったと思われる構成である。大陸の地理的地政学的状況があまりに西欧近代に準え過ぎて少し鼻白んだ部分もあるが、それも結末で解消される。Web版は完結しているが、その後の戦後編が同量の長さで続いている。


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