続・サンタロガ・バリア  (第259回)
津田文夫


 前回J・G・バラード『太陽の帝国』が岩波書店から出ていたように書いたけれど、国書刊行会でした。ボケているのは確かで仕方が無いのだけれど、それには原因らしい点もあるので、ちょっと言い訳しておこう。
 1980年代半ばまでは英米SFの新作をそれなりにペイパーバックで読んでいたので『太陽の帝国』も当時はペイパーバックで読んだっきりだった。なのであんまり記憶が無かったのかも知れない。その頃は『ニューロマンサー』や『緑の目』もエース・スペシャルで読んでいて、黒丸さんの訳は大分後で読んだ記憶がある。
 ついでに昔の悪事を白状しておくと、パメラ・サージェントなんかは"Cloned Lives"から"The Shore of Women"まで原書("Golden Space"以降はハードカヴァー)で読んでいたけれど、これはサンリオSF文庫の編集者西村さんがKSFAの集まりに出張して来たとき、当方が"Cloned Lives"をやりますと手を挙げてしまったため、解説に必要だろうと全長編を読んだわけですね。しかし、肝心の"Cloned Lives"は当方の無能力のため、半分強訳したところでサンリオSF文庫が打ち切りになり、そのまま"Cloned Lives"は日本語で読めなくなったのでした。"Cloned Lives"は泣ける話としてはいまでも通用すると思うけれど、SFとしての「クローン」の設定はもはや時代遅れなので、日の目を見ることは無いでしょう。いまさらながら申し訳ない。

 上記のことを書いたのはやはり前回国会図書館デジタルコレクションでサンリオSF文庫が8割方ダウンロード出来ると知って以来、それがきっかけで海外SFや海外文学その他モロモロ検索するのにハマってしまったから。
 そして分かったことは例外はいっぱいあるものの、87年8月以前の翻訳書籍(雑誌は除く)で国会図書館の基準で現在絶版扱いになっているものは大抵ダウンロード出来る、ということだった(出版社や作者・翻訳者の権利関係が問題にならないのか疑問だが)。
 すなわちハヤカワ文庫の翻訳SFや海外SFノヴェルズのハードカヴァーは87年8月以前であれば大抵ダウンロードして読めるのである。ペリー・ローダンだと133巻あたり。ただし早川でも例外はいっぱいあってハヤカワ・ファンタジイ・シリーズはほぼ全冊読めるけれど、HSFSの方はほとんどリストに上がってこない(なぜか最後の『殺意の惑星』だけは文庫と両方読める)。まあ、有名どころは文庫化されているからなあ。
 創元推理文庫もやはり同じようにダウンロードできるので、デュマレスト・シリーズなんか最後の方以外は読めるし、ダーコーヴァ年代記も古澤さんが訳した『ハスターの後継者』上・下までは読めます。ちなみにゴーメンガスト3部作もダウンロード出来ます(『ポー全集』もOK)。
 あとソノラマ文庫海外SFシリーズや集英社とか立風書房など海外SFシリーズもほぼ全冊。古いところを遡れば、アメージング・ストーリーズ日本語版や元々社SFシリーズ、石泉の少年少女シリーズなどはほぼ全冊OK。岩崎書店はモノに依るようだ。
 浅倉さんや伊藤さん矢野さんなどの翻訳者名で検索すると、こんなものを訳してたのかというのもあるので検索が止められなくなる。
 文学系は白水社、河出書房新社、晶文社の60年代70年代に出ていた現代海外文学が半分以上イケるし、国書刊行会や集英社のラテンアメリカ文学も有名どころ以外は読める。でも幻想文学大系はほとんど読めない。個人的には当時全巻揃えた(けど読んでない)ベンヤミン著作集も全冊公開になっていてビックリ。中公の世界の名著やティヤール・ド・シャルダン著作集も全冊オープンされてました。
 では国内の方はと、まず東都書房を検索したら眉村卓『燃える傾斜』が公開になっていたので、眉村さんで検索したら角川文庫がほぼ全冊OK、というか「司政官」や88年以降の近作を除けば半分以上読める。それだけ絶版扱いが多いと云うことですね。
 驚いたのは眉村卓のリストに筒井康隆の第1期「NULL」があって、あわてて筒井康隆を検索したら合本版を含め「NULL」が公開されていた。ただし筒井さんの著作はほとんど未公開だったけれど、これは現役なので当然ですね。「ネオ・ヌル」の編集長だった岡本俊弥さんに伺ったら筒井さんは「NULL」を献本していたとのことで得心がいきました。
 そのほか絶版扱いならと旺文社文庫を検索したら、20冊以上ある内田百閒の著作集が大体ダウンロードできるようになっていたけれど、福武文庫はなぜかリストに上がってこない。
 そういえば前回紹介した池央耿が「第七官界彷徨」を読んだ学藝書林「文学の発見」シリーズは全冊読めるようになっていた。出帆社や牧神社それに月刊ペン社などの出版物もそれなりに読めるようになっていたなあ(『アーサー・マッケン全集』もOK)。
 物故作家の作品は同じ作品でも87年以前に出版されたものなら、現行の作品でも別会社で絶版のものがあれば読める可能性が高い。ちなみに広瀬正の場合は単品では読めないものもあるけれど、当方が以前読んだ河出書房新社版函入りソフトカヴァーの全集が読めるようになっているので無問題。
 東都書房のリストを眺めているとこんなものまで読めるのかと驚いたので、思いつく限りの出版社名で検索してみるのも一興だけれどそんなヒマはありません。
 ということでビブリオ系に興味のある方は国会図書館デジタルコレクションで遊ぶと面白いかも。

 新刊SFの方は数がこなせず今回も少なめ。

 門田充宏『ウインズテイル・テイルズ 時不知の魔女と刻印の子』は、集英社文庫で2ヶ月連続で出たサイエンス・ファンタジーの上巻。下巻は読めてないので次回まわし。
 設定やあらすじは、大森望が解説及び「本の雑誌」の新刊レビューで書いているので、印象のみ。
 前作『蒼衣の末姫』同様、内容のおもしろさに対してタイトルが取っつきにくい感じがあるように思う。読めば抜群のヤングアダルトSFなんだけれど、ラノベ風な扱いなのかな。
 あとこれは全く悪い意味ではなく、『蒼衣の末姫』のキャラクターたちが、役柄を変えて活躍しているような感じがするので、いわゆるスター・システム的な印象も強い。手塚治虫を始め、漫画家は結局絵柄としてスター・システムになってしまうが、小説だってエンターテインメントのカッコいいキャラは、大抵使い回されてその作者の作品の千両役者になる。ゼラズニイの書くヒーローたちは大抵似通ったキャラになっているけれど、それがゼラズニイの魅力でもある。その分女性キャラが影が薄いという欠点もあるけれど。
 その点この作者は基本は主人公の少年がメインで活躍するけれど、女性キャラの活躍を書くのがウマく、少年の引き立て役としても重要な役割を果たしている。
 続編を読むのも楽しみにしておこう。

 書き下ろしの表題作にやや疑問を感じた空木春宵『感傷ファンタスマゴリィ』は創元日本SF叢書から出た第2短(中)篇集。「さよならも言えない」「終景累ケ淵」が再読。「4W/Workig With Wounded Women」「ウィッチクラフト=マレフィキウム」(=には消し線あり)及び表題作が初読。
 既読の2作は、再読してもそのテーマの強さと表現意欲がバランス良く機能していると思ったけれど、表題作「感傷ファンタスマゴリィ」は過剰なルビ遣いと世紀末ヨーロッパを舞台にしたとはいえ鏡だらけの密室的な屋敷が、急転直下の結末をミステリ的な不自然さと感じられてしまったせいでやや違和感があった。
 「4W/Workig With Wounded Women」は180ページもあるノヴェラ。地上の人々と地下の人々は特殊な技術で関連付けられ、地上の人々はいかなる傷害をうけても地下の人々に転移させることで無傷で暮らしているという、なかなか納得しがたい設定のもと、地下の女性の視点で展開する物語である。が、読んでいる内に、その設定から生じる女性の怒りが読み手を引っ張っていく。こりゃなかなかスゴいことに、と思ったところでバタバタと話が折りたたまれてしまっているので、これは結末部分をもっと丁寧に作り直してちゃんとした長編にして欲しい。それにしてもこんなムチャな設定で読める話がよく創れることよ。
 「ウィッチクラフト=マレフィキウム」(=には消し線あり)は、VR空間の魔女狩りグループに参加した冴えない男が視点人物(のよう)にされている話が、VR世界での守護神的な魔女を訪ねてきた老魔女のエピソードで挟まれていて、凄惨な魔女狩りをなぞる本編がフェミニズム的な視点で裏返る形になっている。
 SFファンタジー、ホラー、ミステリ、セクシズムにフェミニズムが渾然となった作品をものにするこの作者が男性だというところが面白い。

 初短編集という池澤春菜『わたしは孤独な星のように』は、ペンネームで参加していたという「ゲンロン 大森望 SF創作講座」に提出(?)した作品を中心に7編を収めた1冊。「祖母の揺籠」「あるいは脂肪でいっぱいの海」が再読。「糸は赤い、糸は白い」も『SFのSは、ステキのS+』を読んだはずだけど、印象は初読な感じだ。
 まったくの初読である作品を見ていこう。
 「いつか土漠に雨の降る」は、アメリカ50年代SFのスタイルを髣髴とさせる1編。チリの高山にある天文台で働く若い主人公は、ちょっとしたきっかけで「セニョール」とあだ名された齧歯類の個体が稀に見る長寿であることを知り、興味を持って調べると、この山には隕石がありそこには無機生命が・・・という話。不死と不変がテーマになっているところが現代的。
 「Yours is the Earth and everything that's in it」はタイトルの意味を考えるのが面倒くさいが、話の方は21世紀半ば誰もがAIパートナーを入れてる時代に、それとは無縁の高齢者集落に住む村人よりは若い中国出身の女性が視点人物の1編。AIプロトタイピング用ということでやや楽天的だけれど、南九州方面ぽい方言が効果的に使われている。
 「世界の中心でIを叫んだワタシ」は、「あるいは脂肪でいっぱいの海」のヒロインが宇宙をも征服する続編。ヒロインは「声俑(せいゆう)」という職業らしい、って、まったくリミッターが外れた1編。
 表題作の「わたしは孤独な星のように」は、スペースコロニーを舞台に語り手が亡くなった叔母の遺言を果たしに、叔母と特別な関係にあったという女性ミュージシャンの導きで誰もいないコロニーの端っこを目指す。シリアスで暖かい結末を持つ作品。
 こうしてヴァラエティに富んだ作品群(たった7編だけど)を読んで感じるのは、作家としての池澤春菜は「強気」だなあ、ということ。この「強気」はむかし『サンリオSF文庫総解説』で西崎憲がバラードの創作態度を指して使った言葉だけれど、たぶん池澤春菜も似たようなところがあるのかも知れない。
 なお、ソフトカヴァーだけれど、ダストジャケットのデザインが凝っていて上下を本体より短くしてある。また、表紙絵は作者の偏愛するキノコが描かれ、それは冒頭の「糸は赤い、糸は白い」に繋がっている。

 日本SF作家クラブ編『地球へのSF』は、これまでハヤカワ文庫SFから出したテーマ・アンソロジー同様、22人の作家の作品を集めたオリジナルアンソロジー。小説部分は600ページ余りなので、大体30ページ前後の短篇が並んでいる。
 標題をテーマに依頼したら集まった作品が小テーマ別に分類できそうだったので分類してみました、という感じで「悠久と日常」「温暖化」「AI」などのテーマ別になっている。それぞれのテーマの下に2篇以上が分離されているが、巻末の円城塔だけ1作品で「視点」と云うテーマ分類されている。

 冒頭の新城カズマ「Rose Malade, Perle Malade」は、いきなりタイトルから背負ってるので、ググると前の方は、マーラーの交響曲第5番第4楽章アダージェットにウィリアム・ブレイクの詩「病める薔薇」を乗せて、1973年だかにバレー音楽にしたものらしい。「アダージェット」は、日本人がギター用に編曲したものをパク・キュヒが弾いていて、当方は生で聴けましたが、Youtubeを見るとマーラー音楽祭でも弾いていた。一般的には映画『ベニスに死す』の音楽として知られてる。「病める真珠」の方はググっても須賀しのぶの小説が出てくるばかりでよく分からない。
 肝心の小説の方は、なんと「淮南子」の成り立ちをSF的というかバカ話的というか、いかにももっともらしい史話として読ませるところがスゴい。
 粕谷知世「独り歩く」も話の組み合わせ方がかなりブッ飛んでいる。タイトルは国木田独歩の『武蔵野』から来ているが、コロナの時代の会社員が会社の往復だけに疲れてある日川沿いをどこまでも歩いて行くと・・・。冒頭からメガネウラなんぞが飛び交っているので、サラリーマン話がどこへ行き着くかと思ったら、なかなかのオチでした。
 以上2篇の小テーマが「悠久と日常」で新城カズマの作品の「日常」って、なんだったんだろ。単に新城カズマ作品が「悠久」で粕谷知世作品が「日常」か。

 「星新一賞」グランプリ作家という関元聡「ワタリガラスの墓標」は、温暖化が進行した近未来の南極を舞台にアラスカにルーツがある若い視点人物が、日本にルーツのある中国風な名前の年配の女性科学者の密かな企てを知る物語。初めて読む作家だけれど、「倫理的」であることも含め、非常にオーソドックスなSFらしさを備えた作品。
 琴柱遙「フラワーガール北極へ行く」は、あまりのバカっぽさに唖然とするが、読ませてしまうところがこの作者の実力なんだろう。整合性などということを考えると読めませんよ、フツーは。
 笹原千波「夏睡」は、夏は暑さを避けるため洞窟で夏眠する一族として生まれ育った女性が、現在はドーム都市(?)に住み、学生として面倒を見てくれた先生に自らの来歴を語る1篇。琴柱遙の次ぎに読むとその端正で生真面目な語りが印象的。
 津久井五月「クレオータ 時間軸上に拡張された保存則」は、いわゆる質量保存則をヘリクツ理論のクレオータで迂回した改変世界を描いた1篇。質量保存則なので、改変歴史上のニュートンとその時間軸に沿った近未来が舞台になっている。
 以上は「温暖化」という小テーマで括られている。

 八島游舷「テラリフォーミング」は株式会社デンソー 先端技術研究所原案となっていて、SFプロトタイピング作品だという。
 耐熱スーツが必要なほどなった時代に自立型AIに育てられたヒロインは、特殊な藻によってCO2固定と酸素放出による環境冷却の可能性を見出したが・・・。まあ企業には都合の悪い話が書いてあるけれど、なぜか恋愛話で終わっている。
 柴田勝家「一万年後のお楽しみ」は、グーグルマップ(とは云ってないが)のレイヤーで1万年後のシミュレーション映像が見られる『シムフューチャー』というゲームソフトの中の話。さすが作者の得意な分野で作られているだけにとても面白く読める。なおこのゲームの1万年後の地球は氷河期ということになっている。
 この2篇は「AIと」が小テーマ。

 なんか久しぶりに読むような気がする櫻木みわ「誕生日 アニヴェルセル」は、地球が温暖化した近未来の近江八幡市でアイスクリームをなめている90歳を迎えた老人の視点で幕が開き、ボトルメールという特定の宛先ではなくソフトの方で適切とされたアドレスにメールを届けるアプリによって、南フランスの田舎の9歳の少年からの誕生日メールが届くところから始まる。近江八幡は作者の地元だろうからそういう所のリアリティは強い。
 初めて読む作家長谷川京「アネクメーネ」は地図を支配するソフトという点で「一万年後・・・」と被るけれど、作品としては「ワタリガラス・・・」や「クレオータ」を思わせる1作。こちらは地磁気変動を扱っているが、亡き友人への思いがドラマを作る。
 上田早夕里「地球をめぐる祖母の回想、あるいは遺言」は、精神の独立性を謳うストレートな1篇。2020年代の世界の現況を見て、なおかつ愚行の権利は保持されるべきと考える。実存=可能性というのを思い出す。舞台はテラフォーミングを目指しているらしい火星。
 以上3篇の括りは「ヒトと」。

 小川一水「持ち出し許可」は、湿地帯に元は猛毒だった絶滅種のコウギョクガエルを探しに行った少年2人が、エゾオオカミの姿をした宇宙人に出会いコウギョクガエル絶滅宣言を迫られる話。これは昔懐かしいジュブナイルSFタイプの1作。カエルがコウギョクなのは現実にいる猛毒ガエルが黄色と青だから赤にしたのだろう(ググりました)。
 吉上亮「鮭はどこへ消えた?」はタイトル通り、居なくなったはずの最後の野生の鮭を食う話。2重3重のオチはSF的思考の賜物か。
 春暮康一「竜は災いに棲みつく」は、いかにもこの作者らしい宇宙生物を作り上げている。「その生物は液相岩石の海を潜行しながら・・・音響ビームの咆吼を繰り出している」と描写されるような「竜」を地球に運ぶ話だが、これが地球規模災害対策のためというのだから恐れ入る。
 タイトルページ裏の解説で「気候変動で乾いた大地を森が歩く」と紹介されている伊野隆之「ソイルメーカーは歩みを止めない」は、日本SF大賞新人賞受賞作もゲームのスピンオフ作品も読んでないので、初めて読む作家だったけれど、タイ在住という紹介のせいか、作品世界が登場人物名も含めて東南アジアっぽい。でもこれは別の人類が地球を受け継ぐ話だ。
 以上4篇が「生態系」で纏められていて、これはわかりやすい小テーマ。

 しかし今回大笑いしてしばらくページをめくる手が止まったのが、矢野アロウ「砂を渡る男」
 話の方はサハラ砂漠を発電所に変えようとする資本の手先として送られてきた博士の現地案内人が視点人物。その土地を守る盲目の砂の魔法使いに、物理学電磁気学に精通した博士がその魔法に対抗するため電磁気遮断絨毯を砂漠に敷いている。
 もちろん博士は魔法使いにやられてしまうが、エピローグの冒頭の一文が「かのグレッグ・レイクがステージに敷いて以来、ペルシャ絨毯には感電防止と振動カットの効果があると信じられている」ときたもんだ。これが噴かずにいらりょうか。矢野アロウはELPファンだったのか、73年生まれなのに。
 ハイ解説です。グレッグ・レイクの話によると、ステージでマイクから強烈な電気ショックを受けたことがあり(静電気か?)、絶縁のために厚いゴムシートを敷いたが、真っ黒で見栄えがしなかったので、ペルシャ絨毯をその上に敷いたら見た目がとても良くなった。以来ステージにはペルシャ絨毯を敷くことにしたそうです。解説終わり。なお、砂漠のオアシスでアコースティックギターを弾きながら「夢見るクリスマスI Believe in Father Christmas」を歌うレイクの勇姿がYoutubeで見られます。
 塩崎ツトム「安息日の主」は、いわゆる世俗権力、宗教権力、民の関係を寓話にしたサタイア。この枚数で処理されるとやや書き込み不足だけれど、権力側のキャラが憎々しく書けているのがポイント。
 この2篇は「経済」と括られている。なんか「アロウ」と「ツトム」でワンセットみたいだな。

 日高トモキチ「壷中天」は、「汎地球数理アカデミア年次総会」で「地球はやはり空洞だったのです」と16才の天才少女博士が宣言するところから始まる、架空学会ものの楽しい1篇。この作者らしいウキウキ感がある。
 林穣治「我が谷は紅なりき」は、ピンク色の空がある惑星を「現世」と呼ぶ体に機械を入れて苛酷な環境に適応した部族のリーダーが、彼らのルーツである「禁星」と呼ばれる惑星への帰還を目指す。こちらも作者の18番とも云うべき作品に仕上がっている。
 空木春宵「ハルトアンデルスの音楽」は、21世紀末に地中15キロまで掘り進め、そこにあった空間には音が響いており、それは〈地球の音/スクリーマデリカ〉と呼ばれた。この音を音響エンジニアが広めるとそこにはある現象が・・・。『感傷ファンタスマゴリィ』収録作品からは大分遠い音楽SF。因みにスクリーマデリカはイギリスのバンド、プライマル・スクリームが90年代はじめに出したサード・アルバムのタイトル。ジャケットは有名なので知ってますが、当方は聴いてません。
 管浩江「キング《博物館惑星》余話」は、タイトル通り《博物館惑星》を舞台にした1篇。この世界を舞台にしてのスピンオフ作品はもちろん安心して読める。
 以上4篇が「内と外」という括り。

 こうしてみると小テーマで括ることにそれほどの重みはないようだ。
 最後の円城塔「独我地理学」は、扉裏ページ解説によると『AIとSF』に収録の「土人形と動死体 If You were Golem, I must be a Zombie」とシリーズを成しているとのこと。フーン。こちらはエキセントリックな天才少年二人が球面と平面が同時に形として成立しているかのような話をする。いかにもこの作者らしい1篇。他の収録作と共通するテーマがないということだろうけど、地球儀と平面地図と考えれば長谷川京作品や柴田勝家作品と括れるかも。
 全22篇にコメントしていたら、えらい長くなったなあ。

 5月上旬の発売日だったのを忘れていて読むのが遅くなったのが、ジョナサン・ストラーン編『シリコンバレーのドローン海賊 人新世傑作選』。解説によると、MITプレスが年1回出しているテーマSFアンソロジー・シリーズの1冊らしい。2022年刊というから新しい。
 で、今回のお題は編者曰く「人新世におけるSF」らしく、まるで日本SF作家クラブがこの存在を知って『地球へのSF』を考えついたかのように見える。
 それはともかく、こちらは全10作プラス巻末にキム・スタンリー・ロビンソン・インタビューを収録という、わりとコンパクトな1冊。翻訳版は冒頭の作品のタイトルを総タイトルしているけれど、原題は"TOMORROW'S PARTIES: Life in the Anthropocene"で、『明日のパーティ‐人新世のライフスタイル‐』でも良かったんじゃ。なお原本収録のイラストに代えて各作品扉には加藤直之のイラストが配されている。またイラスト扉裏には(編集部)名で、簡単なストーリーの紹介と作者紹介が付されている。
 で、表題作のメグ・エリソン「シリコンバレーのドローン海賊」は、シリコンバレーで頭の良い子供たちがアマゾン風企業の配達ドローンを誤着陸させて配送品をくすねる遊びをする話。フツーな感じの作品だけれど悪くはない。
 テイド・トンプソン「エグザイル・パークのどん底暮らし」はタイトル扉裏の紹介によると、21世紀末ごろには存在していたナイジェリアの「ラゴス沖合に浮かぶプラスティックゴミでできた島、流人(エグザイル)・パーク」を舞台に、そのとの人間である視点人物がパークの知り合いに呼ばれて、殺人事件があったが見て欲しいのは「集団効果」だという・・・。これはかなり複雑なテーマで単純なSF的アイデアをオチに使っていて、ちょっと不思議な印象がある。
 ダリル・グレゴリイ「未来のある日、西部で」は高温化で環境ディストピア化した西海岸の物語。いかにもなサタイア話のつくりが好きではないが、まあ読める。
 グレッグ・イーガン「クライシス・アクターズ」は、視点人物が地球温暖化を喧伝する集団に潜入して、彼らがフェイク情報を流していると証明しようとする話。イーガンにしてはストレートなサタイアで、最近これと似た話を読んだなあと思ったら、「ウィッチクラフト=マレフィキウム」(=には消し線あり)だった。
 サラ・ゲイリー「潮のさすとき」は、大企業の海底牧場で監視業務をしている現場労働者の女性の話。なんだかブラック企業で働く海女が超高度資本主義を離脱するように読める。
 ジャスティナ・ロブソン「お月さまをきみに」は、21世紀後半にナミビア沿岸で暮らす海底の環境を保護するドローンを使う父親とヴァイキングを夢見る息子の話。なかなか良い感じの1篇。タイトルは父親に好意を持つ女性のおかげで、親子のささやかな希望が叶うところから来ている。
 陳楸帆/チェン・チウファン「菌の歌」は、国全体をカヴァーするAIネットワーク設備の導入を承諾させようとして唯一障害となっている中国辺境の村に入村した若い女性エンジニアの話。標題が村の秘密を表している。池澤春菜「Yours is the Earth and everything that's in it」をキノコで作り直したような物語だ。
 マルカ・オールダー「〈軍団 レギオン〉」はノーベル平和賞を受けた〈レギオン〉と名づけられた監視装置(作中では明確な説明はないがおそらくマイクロレベルの監視カメラ群)を開発した団体の女性に、海底にあるスタジオで高視聴率を誇るネット番組の男性司会者がインタビューする話。男性は番組前に女性に挨拶して無視されたため、番組内では懲らしめてやろうと考えるが・・・。一種のフェミニズム・サタイア。
 サード・Z・フセイン「渡し守」は、金持ちたちが不死化する社会で、庶民はポイントを稼いで上手くいけばその技術の恩恵にあずかれる。そんな世界でカースト最底辺の死体引取人が主人公の1篇。サタイアかと思ったら変な形で死後の生を楽しむ話になっている。
 トリのジェイムズ・ブラッドレー「嵐のあと」は、母を失い、父親が出ていき、母方の祖母の家に住む少女の物語。少女は祖母を嫌っており、当てにならないロクデナシの父の連絡を信じようとしている。同世代の男女グループとも上手くいかない少女はアルバイト先で新人としてきた少年を無視しながら、異常気象の高潮の中少女は少年の家に避難する・・・。ヒロインの境遇とその思考にはリアリティがあり、宙づりのまま迎える結末も安易に逃げない1篇。
 そのオーストラリア在住というジェイムズ・ブラッドレーがインタビュアーで、原書では巻頭におかれているというK・S・ロビンスンへのインタビュー「資本主義よりも科学――ロビンスンは希望が必須と考えている」が巻末を締める。
 基本的には長年環境SFを書いてきたロビンスンの視点紹介がメイン。昨年翻訳が出版されて話題となった『未来省』にもたびたび言及される。まあ、ロビンスンなので慎重な言い分が多く、過激な意見は吐かない。
 「人新世の生活」は楽じゃない、というのがよく分かる現代SFアンソロジーです。 

 ノンフィクションの方は、まず、

 その分厚さに驚いた前野ウルド浩太郎『バッタを倒すぜ アフリカで』は、もちろん前作『バッタを倒しに アフリカへ』の続編。
 今回は前作と重なる部分もありながらその部分の裏話に力を入れて、研究者としてのテーマの解説や、大学時代から現在まで何を考えどう行動範囲を広げ、視野を広げてきたかを語りつつ、その中で研究に関わる先輩同僚協力者たちのプロフィールをも取り込んでしまっている。なのでこれだけの長さになったこともうなずけるが、モーリタニアの研究所で雑用係を一手に引き受けてくれた人物ティジャニのためだけに1章を割いているので、長くしようと企んでいたことも確か。
 前作で見せた軽い話運びは今回も絶好調で、600ページを停滞させることなく読ませてしまうのはやはり文才というものであろう。自虐芸と自慢話をミックスしてこんなに面白く書けるという点で高野秀行を髣髴とさせる。
 ウルド君は40歳になってもまだ花嫁募集中とあるから、多分立候補してくれる奇特な女性も現れそうだ。

 SF作家クラブ会長の大澤さんが中心となって編集されたノンフィクションが2冊。

 大澤博隆監修・編『AIを生んだ100のSF』の方は、コロナ禍中にに「SFマガジン」に掲載されていた科学者・研究者へのインタビューを1冊に集めて新規に語りおろし、書き下ろしを加えたもの。漫画やアニメ、特撮テレビ番組や映画のSFが原点の人も多いことが判ってその点は興味深い。その意味ではSFは60年代にはすでに拡散浸透し始めていたとも云える。考えてみれば当方も自覚的SFファンになったのは60年代後半だったけれど、小学生低学年どころか幼稚園の時からSF的なるものは書籍以外のメディアですり込まれていたわけだ。

 作家になりたい人向けという日本SF作家クラブ編『SF作家はこう考える 創作の最前線をたずねて』は、当方のような読み専門の読者にはあまり用はないようだったけれど、結構面白く読めた。中でも巻末の、その名も作品も知らなかった近藤銀河という作家の「過去に描かれた未来 マイノリティの創造力とSFの創造力」に示された視点がとても興味深かった。まさに2020年代をマイノリティとして生きる若い作家が感じられるけれど、ここでもSFはやはり倫理的であることが、語り手は自覚的に語ってはいないけれど、示されている。


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