続・サンタロガ・バリア  (第258回)
津田文夫


 もはや大型連休も関係ない身分だから家でゴロゴロしていても良かったんだけれど、やっぱり見に行こうと思って4月末日に映画「オッペンハイマー」を広島八丁座に見に行った。IMAX上映していた映画館は既に上映終了だったので、3時間あるという映画を見るには座り心地の良い八丁座が1日4回上映をいまだに続けていて、時間的にも都合が良かった。
 映画は確かに3時間あって11時から午後2時までメシ抜きで見たけれど、全くダレることなく最後まで見ていられた。ノーランという監督の作品は「インターステラー」さえ見ていなくて、どういう作風なのか知らなかったけれど、この映画を見る限りでは非常に手際の良い編集が出来てなおかつ映像的にも画面構成がうまく(ややパロディっぽい?)、セリフは英語が聞き取れないからよく分からないけれど、字幕だけからでもなかなかの切れ味が伺える。
 作劇上の大きな工夫としては、原爆開発と実験成功までの戦前戦中パート(だけでもないか)がカラー、戦後に共産主義者の疑いが掛けられて開かれた非公開の聴聞会とその疑いが掛かるように仕向けた軍人政治家の商務長官承認公聴会が白黒で描かれていて、これを一種の時間シャッフルに掛けたような順序で並べているので、ちょっとした時間SFの感覚がある。
 たまたま3月にイギリス在住の宮城氏が日本に帰ってきて、原爆ドームと平和記念資料館が見たいというので案内を兼ねて、当方も何十年かぶりにドームとリニューアルされた資料館の展示をジックリと見たのだけれど、その印象と映画「オッペンハイマー」の原爆が実感として当方の中で繋がっているかというと、1回見ただけでは映画のフィクション性が今現在の広島で見る原爆投下の事実と直接繋がっているようには見えない。原爆投下後の報告会の大歓声の中でオッペンハイマーが炭化した人体に足を踏み下ろす幻覚的な映像は、アメリカのエンターテンメント映画としては驚くほど踏み込んでいるけれど、その映画的マジック自体が事実の直接性を否定しているのかもしれない。
 この映画を見ながら、思い出したのは「アステロイド・シティ」で、まるで「オッペンハイマー」の製作を知りながら作って見せた作品じゃないのかと思ってしまった。「アステロイド・シティ」はブルーレイも買ってしまったくらい好きだが、未だ未開封だ。これは「この世界の片隅に」の新・旧の2セットも同様。

 新刊SFに食指が動かないので、昨年のベストの読み逃しのうち、相川英輔『黄金蝶を追って』を読んでみた。昨年8月刊の竹書房文庫。
 6篇を収めて240ページ余りの薄い短編集。でも収録作品はそれぞれ読みがいがあって、好印象の1冊。
 冒頭の「星は沈まない」は50ページのノヴェレット。注文ミスをアルバイトの青年がSNSの口コミで解決してしまうのを見て感心する時代遅れのコンビニの店長が、会社の方針でユビキタスAIが導入されて、おっかなびっくりAIとやりとりする話ががメインの1作。SFとしての新味はないけれど、オーソドックスなSF手法が語り口の良さと相俟って読ませる。
 「ハミング・バード」は、格安の部屋を借りたら前の借り手の「幽霊」が出たという会社員の女性の物語。ひとヒネりした軽い「幽霊」譚。これもスッキリと読ませる。
 「日曜日の翌日はいつも」は、オリンピック出場が微妙な男子大学生の水泳選手が自分以外の時間経過が停止するという特異な経験をする話。話の範囲は狭いのだけど、気にならない。
 表題作の「黄金蝶を追って」は「六十年代まではまだ魔法が残っていた」という一文で始まる。視点人物は子供時代から絵を描くことにこだわり、美術教師さえ分かっていないと自負するほどだったが、あるとき別クラスの少年が描いた蝶に衝撃を受ける・・・。「魔法のクレヨン/エンピツ」のバリーエーションには違いないが、定型をきちんと読ませる力量は大したもの。
 「シュン=カン」は、「地球から六百光年離れた開拓惑星」で囚人生活をする人物の名前。となれば鬼界ヶ島が思い浮かぶわけですが、まあそれはそれとしてというくらい、あまりにオーソドックスな昔懐かしいSF物語をなぞった1篇。
 最後の「引力」は、ノストラダムスが子供時代に流行った思い出を語りながら今は27歳の社会人の女性が主人公。ノホホンとした語り口がかえって不穏でちょっと結末の予想が付かない、と思ったらオープンエンドだった。タイトルはいろいろ引っかけてあるようだ。
 巻末には「あとがきに代えて」があって、著者解題まで付いている。「シュン=カン」が「星は沈まない」の続編と書いてあってビックリ。

 だんだん視力が落ちてきてるのがわかるので、積ん読も読んでおこうと思い、手を出したのが、J・G・バラード『女たちのやさしさ』。1996年岩波書店刊。バラードの邦訳で唯一未読の長編。そういえば文庫になってないなあ。当時で3090円(消費税3%)だったけど、今なら4950円コースか。
 云うまでもなく先に岩波から出た(国書刊行会の誤りでした)『太陽の帝国』の続編とされた1冊。訳者も同じ高橋和久。実際読んでみると、上海時代の別の面からはじめていて、今回はこの時代に何度も言及されたクラスメイトや家政婦の若い男女が、この物語の結末まで語り手であるジム(バラード)と濃厚な関係を保ち続けている。もちろん大学時代やその後の人生で新しく関係を築いた男女もいて、そのキャラクターたちも語り手と濃厚な関係を持つが、その関係性を「自伝」的に読めるかというと、先に本物の自伝である『人生の奇跡』を読んでしまってるので、その内容の大半はいつものように忘れているとは云え、やはり「物語」構成というものが優先された作品だと感じられる。
 主人公と主要な関係を持つ男性キャラクターは、上海時代は苦手だったが戦後カナダで一緒にパイロット訓練を受け生涯の友となる元クラスメイト、大学生時代にアルバイト被験者になった時の心理学者(そのアシスタントをしていた女の子が後に妻となる)で、年上の友人としてその死まで付き合ったタレント学者の2人しかいない。どちらも(語り手以上に)エキセントリックな人物(病んだ時代精神?)として描かれている。
 その一方、女性たちは転落事故で幼い子供たちを残して死んでしまう妻を始め、常に語り手に何らかの救い(セックスを通してのことが多い)をもたらす者として描かれている。そして物語前半の最後で妻を失ったエピソードが語られた後、次の章のタイトルが表題となっている。
 バラードはこの作品の中で、作家を職業にしたことは書いているが、小説に関することについては一切内容やタイトルを出していない。すなわちこの「自伝」的作品ではSFに関することは同僚作家や編集者との付き合いを含め、全く触れられていないのだ。最終章は「夢の身代金」と題されて、映画『太陽の帝国』のロケセットがシェパトン近郊に作られ、バラードもカメオ出演するシーンから始まっている(完成した作品ではカットされたらしい)が、監督と会ってもその名は記されず、プレミア・ショーのためロサンジェルスに行ったとき目にした映画の巨大看板の説明にさえ自分の名前があることに言及するけれど、映画のタイトルは出さないという徹底ぶりだ。そして上海時代のメイドだった少女が数十年ぶりに現れ、最終ページで西海岸の浜辺から太平洋に送り出された実験船が上海を目指すという幻視で幕を閉じる。
 この物語の中で、バラードは自作への言及は一切しない代わりに作品を書く元となったようなエピソードを入れている。ひとつはパイロットの友人の事故願望と事故車を並べた展示会の開催、これは『クラッシュ』や『コンクリート・アイランド』に反映され、もうひとつはパイロットを乗せたまま川の底に沈んだスピットファイアの発掘引揚げ作業の見学でこれは『夢幻会社』に繋がっている。
 とはいえ、全体的な印象は、最初に書いたように、エピソードの組立やつなぎ合わせに作為が目立ち、いかにもバラードらしいシーンに溢れた現代文学の形にはなっているものの『太陽の帝国』の衝撃を上回るような作品にはなっていない、というものだった。これが最後に読んだバラードの長編になったのはちょっと残念。でも『旱魃世界』が素晴らしかったから、まあいいか。

 新刊SFの方はというと、

 星海社から出た嵯峨景子+日本SF作家クラブ編『少女小説とSF』は、いわゆるジュヴナイル、ヤングアダルト、ラノベのレーベルで活躍し、主にSF/ファンタジー系の「少女小説」と云われる作品を書いてきた作家(新井素子はちょっと違うけど)のSF作品を集めたアンソロジー。このジャンルをほぼ読まなかったので、収録作家の多くは初めて読むか、数編読んだことがあるだけである。
 編者のまえがきによると、1980年代に出た新井素子の〈星へ行く船〉シリーズとその文体の影響力を重視し高く評価。冒頭にその新井の作品を置き、ほぼデビュー年代順に各作家の作品を並べ、どの文庫レーベルで活躍したか、代表作は何かなどの簡単なプロフィ-ルを紹介している。
 なので、冒頭に置かれたのが新井素子「この日、あたしは」。10代でデビューして40年以上にわたり保持された「あたし」文体は既に自在の域にあって、この作品でも充分に機能する。
 新井素子に続く世代として80年代にデビューした皆川ゆか「ぼくの好きな貌〔かお〕」は、地下アイドル活動をする妹を批判的な目で見る姉の視点で進む1篇。冒頭からエキセントリックな死体の状況説明で読者に「?」を抱かせる手法はなかなか。初めて読んだ作家だけれど、この作品は〈異形〉シリーズに入っていても違和感がない。
 SF界では知られた、ひかわ玲子「わたしと「わたし」」は、必ず「相方」と共に生まれる世界で一人きりで育つ少女が主人公。こちらも技巧的だけれど、SF色が濃い。ちょっと上田早夕里の名短篇を思い出した。
 〈オーラバスター〉シリーズは読んだことないけど、タイトルは昔から知っていた若木未生「ロストグリーン」は、人間じゃない人々が人間の活動をしている遠未来の物語。音楽テーマのSF。
 かなり昔に短篇を読んだような気がする津守時生「守護する者」は、かなりヒネったバディもののスペースオペラ。冒頭の戦闘シーンで家族が全滅、一人助かった少年は大男に成長したが「守護される者」として活躍する。
 90年代からコバルト文庫で活躍とのことで、その作品を初めて読む榎木洋子「あなたのお家はどこ?」は、孤独な女の子らしい設定で始まり、学校では仲間たちからいろいろに(無視も含めて)話しかけられるが、どうも何か違和感があってその正体は・・・。これは宇宙ものの学園ジュヴナイルとして仕掛けが面白い。
 読んだことはなくてもその名はよく目にする雪乃紗衣「一つ星」は、雪と氷の世界で、一人生きている少女が獲物が捕れずようやく食餌ありつこうとしたとき、やはり飢えた少年と出会う・・・。一見サバイバルものとして読めるようになっているが、結末で世界が反転する。流石の手際。
 ラノベ出身の有名作家紅玉いづき「とりかえばやのかぐや姫」はタイトル通り、男女逆転のかぐや姫物語。もちろんSFファンタジーとしてのヒネりがある。
 最後は当方も2冊読んで結構気に入った辻村七子「或る恋人達の話」は、フランス革命から未来にまで延びる時間の中で、男同士の恋人たちが時の権力により婚姻形態が変更される度に性転換をするサタイア。ちょっとしたスチームパンクが入っていて楽しく読める。
 巻末には編者による「SFと少女小説」の歴史的な概観が纏められている。
 ここに収録されている作家たちの作品には、前回述べたような不満は全く感じられない。そういえば、大野万紀さんからのメールで、前回当方が不満を書いた新刊群が『本の雑誌』の大森望新刊書評コーナーでも取り上げられていて、評価の仕方が似ているとの指摘をいただきました。それは一種の世代的なSF/ファンタジー観が共有されていると云うことなのかも知れないな。「われとともに老いよ」とはブラウニングの一節だけど、当方の「SF」はそのように消えていくのかも。
 もっとも大野万紀さんは、SFファンなんて昔からマイナーな存在だし、SFの設定が様々な小説の中で非プロパー的な使い方をされても、それはそれでいいことじゃないかと現況には肯定的らしく、人それぞれではありますが。

 新進作家を集めたSFアンソロジーや大森望のベストSFアンソロジー、また百合小説アンソロジーでいくつかの作品が既読、巻末初出を見ると基本的にSF作家と云える活動をしている坂崎かおる『嘘つき姫』は9編を収めた著者のデビュー短編集。
 再読の数編と初読の作品群を読んで思ったのは、この作家の作品からは「プロパーSF」とかいう次元と別のレベルで小説が存在していることが感知される。確かに百合系の作品が多いし、設定として既存のSFや奇想小説のスタイルを使っていはいるものの、そこで展開されるのはいわゆる「気持ち」であって、それ自体はSF的と云うよりは「文学」的な感触をもたらす。しかしその組み合わせの効果には百合/SF/文学という分かちがたい結びつきがあって、その意味ではいわゆる「文学」の範疇で評価されてもふしぎの無い作風と云える。
 帯に賛を寄せているのが、岸本佐知子、小山田浩子、斜線堂有紀というのもこの作者の立ち位置と魅力のありようを示していて、その魅力は多分読んでみないと分からない。
 ということで、個々の収録作の紹介はしないけれど、百合アンソロジーで読んで今回再読となった表題作などは、ヨーロッパを舞台に戦争で家を失った少女の母親は楽しい嘘をつくのがクセだったが、逃避行の道すがら母親が道ばたに一人でいた語り手と同年代の少女を同道させることにした。すると敵の攻撃に遭って混乱の中、母親とはぐれた語り手は、家族みたいになった少女から母親の最後を聞いて孤児となり、もう一人の少女共々孤児院の様なところで暮らすことになる・・・というプロローグから、2人の孤児院時代の出来事と別れが語られた後、後半に入って、大人になった語り手に死んだはずの母親からの手紙が届く・・・という話に移る。
 中編と云って良い長さがあって、過ぎ去った戦争とその後の時代そして大人になって苦しい生活を続ける元少女が知る真実は、まさに文学的なテーマとエンターテインメント的手法が見事に結び合わされていて、ちょっと深緑野分を思わせるが、こちらの印象は深緑より文学寄りに見える。
 SFジャンルでデビューした作者は文学を意識して書いてはいないかも知れないけれど、そこら辺がこの作者の魅力になっているのかとも思う。

 お待ちかねの林穣治『知能浸蝕2』は、侵略してきたと思われる異星人によって地球の衛星軌道に投入された小惑星に連れてこられた民間人と自衛隊員のエピソードと、日本の国立地域文化総合研究所(NIRC)のメンバー達の活躍を主軸に描かれていて、作者が得意とする自衛隊艦艇と異星人のパイプ組み合わせ型ロボットとの戦闘も含め、相変わらず楽しく読める。SFファンへのくすぐりサービスも健在。ただし異星人に関する情報は相変わらず伏せられていて、続編への期待は大だけれど、急転直下でオドロキの結末というのはさすがに止めて欲しいかな。もちろんそれでもいいんだけれど、読者としてはアンビヴァレントな欲求が生じてしまうのだ。

 翻訳SFの新刊は品切れ状態で、読んだのはケヴィン・ブロックマイヤー『いろいろな幽霊』のみ。これまでの邦訳2冊は未読。
 目次を見てなんじゃこりゃとおもったが、取りあえず読み始めると、法律事務所の戸口に若い女性の幽霊がいて、この事務所が107年前に舞踏室だったときに15歳だった娘は医者の青年に恋していたが、彼は別の娘を婚約者にしたとここで宣言した。しかし彼女がそこに現れ続けるのは、失恋の重みからではなく、舞踏室入口から逃げ出そうとしたときの動作が自分の気持ちを表すものとしてどうしても納得できなかったからだ、と説明される。起承転結がわずか2ページで語られるが、その起承転結は型どおりではない。
 その意味でここに収められた2ページで終わる100編の「幽霊」がらみの掌編はどれもリニアーな話になっていない。作者は各篇の内容に何らかの共通性を見出して11の標題のもとに6篇から13篇を括っている。例えば最初の標題が「幽霊と記憶」で6篇、最後が「幽霊と言葉と数」で10篇からなるという具合。作者はそれだけでは気が済まなかったと見えて、巻末に置かれた「主題の不完全な索引」では、100の掌編が50の主題「幽霊と○○」のもとに分類されて、一つの掌編には該当する主題が複数あるため、いくつもの主題に当てはまり、結果アチラコチラの主題に同タイトルが顔を出す。主題の中には「幽霊と○○」の○○に200文字近い文章を充てたものもあって、それに該当するものは少なく4篇しかないが、「幽霊と不運」みたいにありがちな主題には34篇ものタイトルが当てはまる。それでも満足できなかったのか、さらに作者はこの「索引」のあとに、今度は100篇のそれぞれにどういう主題が含まれているかを、1から100まで順を追って並べているのである。しかも「索引」の主題と一致してないこともあるという「不完全」さを含めてあるのだ。
 作者の企みについて穿った見方をすると、この作品に注ぎ込んだ努力の結果を読者にとことん楽しんで欲しいという作者の願望が伺えるような気がする。確かにこの100篇は何度でも楽しめるような不思議な感覚をもたらす掌編群であるのは間違いないが、だからといって読むべき本は他にもいっぱいあって、大変忙しい読者はやはり一読で通り過ぎてしまうだろうと思う。でも勝山海百合の巻末解説「霊の長居の成れの果て」はとても面白いので、「主題の不完全な索引」を頼りに再読してもいいかも。

 『SFマガジン』の掲載小説を読むことはめったにないのだけれど、今年の6月号には、仁木稔「物語の川々は大海に注ぐ」(150枚)が掲載されていたので読んでしまった。
 いやあスゴいじゃないか、というのが読んでる最中の感想。結末まで来るとすべての幻影に幕が引かれるように終わるのでちょっと寂しいけれど、仁木稔の作品としてはこれまで以上に密度が高くて、変奏されたイスラムの神(唯一神)その他の神とフィクションの存在意義という実にアブナいテーマで視点人物の囚人と審問官の会話劇が進む間、ゾクゾクした感覚が続いていた。
 読んでる最中にこれは東洋文庫的テーマだなあと思っていたら、巻末の参考書が東洋文庫だったので、笑ってしまった。いわゆるSFではないけれど、150枚ならちょっと手を加えて単行本化しても良いような気がする。
 なお、この『SFマガジン』は、宇多田ヒカルのベストアルバムが「SCIENCE FICTION]ということで、それに便乗して表紙(通常盤)にしているけれど、当方は年寄りなので、ジャズのオーネット・コールマンが1971年に録音した「サイエンス・フィクション」を引っ張り出してきて聴いてました。昔聴いたときよりも聴きやすくなっているように感じられたのは、時代がオーネットよりも先に進んだからだろうな。

 こだわりじゃない方のノンフィクションを1冊。

 池央耿『翻訳万華鏡』は親本が2013年刊で、今年1月に河出文庫になった名翻訳家の翻訳人生回顧エッセイ集。3月には読了していたけれど今回になった。なお、解説は著者と同時期に翻訳家デビューしたという高見浩が担当していて、著者は昨年10月急逝したとある。
 本編冒頭の「蒟蒻問答」は、「時はいつも若い者に味方する。だが、人間はいつまでも若くてはいられない」という一文で始まっていて、その高踏ぶりにヘヘーッと思ったけど、すぐに薄田泣菫『茶話』からの引用だとあった。あとは「蒟蒻問答」に引っかけて「翻訳問答」でサゲるというナンパ振りだったので、ひと安心。
 以下は、少年時代は家庭の事情で本を読む習慣がなかったとか、1940年生まれの少年が戦後いかにラジオに熱中し、FENの前身を聞いて英語に親しんだり、有名役者たちの朗読を通して文学に親しんだりしたか、また文庫を読むようになって、ロシア文学で米川正夫と中村白葉の翻訳の違いに気がつき、漢文の授業から井伏鱒二の『厄除け詩集』で翻訳の旨みを知り、大学の寮生となるころには鷗外に親しんでその訳業に心酔したと云うような話が続く。
 翻訳者としては、大学時代に、NHK放送博物館のアルバイトとして、いきなりイギリス政府のテレビ放送白書の翻訳を引き受け、曲がりなりにも翻訳できたことが、翻訳者になる第1歩だったらしい。しかし、そのまま翻訳者になれたわけではなく、就職氷河期で職業別電話帳をランダムに開いたところ、短編映画製作会社が並んでいたので、何社かに電話を掛けたら、そのうちの1社が雇ってくれたという。会社は10ヶ月でクビになったが、ノウハウは覚えたので、フリーランスで映像系の仕事を受けて、脚本書きと映画の字幕翻訳で糊口を凌いだが、飽き足らないのと限界を感じて、学藝書林版『現代文学の発見』シリーズが出揃った頃に活字に復帰、尾崎翠「第七官界彷徨」は忘れがたい1作となったらしい。著者よりは大分後だけれど、当方も学生時代に同書で「第七官界彷徨」読んで尾崎翠を知った。当時は出帆社版『アップルパイの午後』とかも買ったなあ。
 それはさておき、神保町の泰文堂でペイパーバック類を買って読んでいた著者は、翻訳で『渚にて』を読んで気に入ったネヴィル・シュートの『パイド・パイパー』を出す当てもなく翻訳してしまった。それが伝手で常盤新平に渡り、その推薦で角川文庫から『さすらいの旅路』のタイトルで出ることになった、1971年のことである。なお、この作品は30年後の2002年に『パイド・パイパー』のタイトルで東京創元社文庫から復刊されたという。こうして著者自ら「翻訳職人」という翻訳家池央耿が世に出たわけですね。
 あとは時代順に自らの代表的な訳書に引っかけてエッセイを紡いでいくのだけれど、当方にとって一番の興味はもちろんゼラズニイのポル・デットソン2部作。しかし、著者のSFに関する話題はなんといってもホーガン『星を継ぐ者』。まあ当然ですね。コッツウィンクル『E.T.』にも章立てがしてあって、その最後に「ゼラズニー」なんかも訳したとあるだけだった。ウーン、残念。

 スマホでニュースを見ていたら「国会図書館デジタルコレクション」でサンリオSF文庫が登録者には送信で閲覧可能になっている」とあって、ビックリしてアクセスしたらレムやアンナ・カヴァンなど一部の作品を除いて約8割の作品が閲覧可能になっていた。皆さんも国会図書館で「個人向けデジタル化資料送信サービス」登録するが吉。簡単だし。しかし著作権がサンリオから譲渡でもされたのか?(実は絶版だからという理由らしい)


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